礼拝音声
聖書朗読:ヤコブ 4:1-12
説教題:神の敵とならないために
導入)
ヤコブはこれまで、依怙贔屓、悪い発言等について注意を与えてきました。ここでは、戦いや争いの問題を扱っています。ヤコブがどのような流れで注意を与えて戒めているのかを確認してみます。
本論)
1節 戦いというのは戦争状態を表す語です。争いは、個人間の論争を表します。ヤコブはそういう事柄の原因は欲望だと指摘します。この世に属する物事を得ようとする欲望です。当時は、快楽への欲求などを「あなたがたのからだの中で戦う」と表現したそうです。
2節 人殺しをするというショッキングな表現が出て来ます。殺人は死刑になるのが通例ですから、この手紙を受け取ったユダヤ人クリスチャンたちが人殺しをしていたとは考えられません。実際には圧力をかけたりいじめたりすることを指して表現したものと思われます。1ヨハネ3:15では、兄弟を憎む者は人殺しであるという表現が有ります。そのような霊的原則に従って表現したものと思われます。
3節 神は日常生活の必要は求めれば満たしてくださるというのが私達の信仰です。ですから、願っても与えられないのは、その領域を超えた願いだからであって、それが、悪い動機で願うことだと指摘しています。快楽のために使おうとして、という所で用いられている動詞は、浪費するという意味のあるものが使われています。不適切な使い方であることが示唆されています。
4節 ヤコブはここから彼らがどのような霊的に間違った状態に在るかを説明しています。貞操がない状態だと言っています。旧約聖書では、姦淫の民というような表現になるものです。神に仕えると言いながら、同時に異教の神を求めて偶像礼拝をするという、霊的に二股をかけている状態だからです。ここでは、ユダヤ人クリスチャンは偶像礼拝をしていたわけではありませんが、この世の自慢や快楽を友とする心が有りました。そのことが、結果的に神を憎んでいることになるという自覚が彼らには無かったのです。
私達はどうでしょうか。時々、そういうことを自問する必要が有ります。
5節 続いてヤコブは読者の意識を神の愛に向けようとします。ヤコブは聖書のことばと言っていますが、直接の引用はしていません。しかし、その内容は、出エジプト 34:14、ゼカリヤ 1:14 の内容と一致しています。神は私達をとても愛しているということです。それは形ばかりのことばではありません。
6節 更にヤコブは神の恵みの偉大さに目を向けさせようとします。神は豊かな恵みをくださるのですから、この世のちっぽけで短い期間しか続かない快楽よりもはるかに素晴らしいのです。その恵みを受けるためには、へりくだることです。しかし、もしその戒めに従わないならば、神が敵となるというのです。神があなたと戦われるということが含意されている語が用いられています。それは賢い生き方ではありません。神の敵になって得することは一つも無いのです。
7節-10節 へりくだるというのは、具体的にはどういうことかがここから示されます。
1)神に従いなさい
神の権威と支配の元に身を置くことです。軍事用語にも用いられる語で、服従することを意味します。
2)悪魔に立ち向かう
そうすることによって、この世に属する情熱や欲望が遠ざかります。直接的な対決が必要と思われる場面でも、イエス・キリストの御名によって退けと命じることができます。
3)神に近づく
近くに行く、合流するという意味の言葉です。私達は信仰告白をし、洗礼と聖霊の証印によって、イエス・キリストの体なる教会に建て上げられいます。更に、聖書を読み、祈ることによって神に近づき続けるのです。
4)悔い改める
罪ある人たち、二心の人とヤコブは呼びかけています。書簡は教会で朗読されるものでしたが、こんな表現をされて会衆はびっくりしたことでしょう。罪ある人というのは、神の承認を得るに足りない人です。二心というのは、関心が分かれている、分裂している意味が有ります。神とこの世の両方に心が分裂しているからです。洗い清めるというのは、そのような霊的な汚れを取り除くことです。指摘されてきた間違った心の状態と行いを離れなさいと命じているのです。
9節の伝えようとしていることは、次のように言えるでしょう。もし彼らが本当にこれまでしてきた行いの本質とその結末を理解し、それまでの彼らの笑いや喜びの源がこの世であったと気付き神の敵となっていることを理解したならば、苦しみ、悲しみ、泣くはずだということです。
5)主の御前にへりくだる
へりくだるというのは、身を低くするという意味合いが有ります。具体的には、自らの霊的な状態の至らなさを認めて告白することなどが挙げられます。7節の神に従うことも思い浮かぶ内容です。その結果は、主があなたがたを高くしてくださるということです。
イエスが、へりくだって人の形を取って来られ、受難を経てよみがえり、永遠の栄光に引き上げられたように、私達が主の前にへりくだるならば、私達も今から永久に神の国の栄光に浴することができるのです。
11節―12節 ここで取り上げている戦いと争いは、彼らの間違った願望に基づいて語られる悪いことばが原因になっていました。先にヤコブが示した例は、人を見下したようなことば、人の不幸を願うようなことばでした。ここでは、悪口を取り上げています。
ここでヤコブは、ユダヤ人が敏感な律法に絡めて説明を進めます。律法には、神がユダヤ人を愛していること、互いに愛し合うように命じていることが書かれています。(申命記 33:3 レビ記 19:18 参照)ですから、教会の仲間の悪口を言うのは、律法と神を敬っていないことになります。もし仲間を裁いて悪く言うならば、その人は、互いに愛し合うように命じている律法まで裁いていることになります。しかし、真に裁くことのできる権威を持っているのは神だけです。
教会の中で規律を守るために裁かなければならない場面は有ります。その時は、聖書の基準と規定に基づいて裁き、神の律法を遵守するのです。自分の基準で裁いて悪口を言うのは、自分を神の位置に置くことになります。ですから、神の前にへりくだるように命じられているのです。
まとめ)
本日の朗読箇所には、神の敵とならないために私達が自問しなければならないことが四つ示されていると思われます。
1)私は貞操がない状態ではないか
もし、私達が間違った動機、間違った願望を持ち、この世の喜びを求めるなら、教会の中に争いをもたらすことになります。その時には、神の友とこの世の友の両方を求めて貞操がない状態になっていることになります。
2)私は神の偉大な愛と恵みを認識しているか
神は、従う者に永遠の愛と恵みを与えてくださる方です。神は私達を救うためにイエス・キリストを与えてくださいました。神の国の約束は、見せかけだけのものではありません。その偉大な愛と恵みに比肩し得るものは何もないのです。
3)私はどうしたら神の恵みに与れるか理解しているか
私達は悔い改めて、神のやり方に従わなければなりません。自分が間違っていた部分に気付いた時、祈りの中で自分の反省の思いを告白するのです。また、その行いや思いを離れようとするのです。必要ならば、イエス・キリストに御名によって悪魔に退くように命じるのです。また、その取り組みには、悪魔に対抗して信仰の告白をし、神の戒めに従う宣言をすることも含まれます。
4)私は神の座につこうとしていないか
神だ唯一律法を与え、裁く権限を持っている方です。私達にはその権限はありません。私達が主にある兄弟姉妹の悪口を言うならば、私達は神に与えらえた愛の律法を破っているのです。それは、神の律法の上に自分を置き、神のように振る舞おうとしていることになります。そのような恐れ多いことから身を引かなければなりません。