パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

パース日本語キリスト教会概要

2024-04-21 19:11:15 | 日記
*教会概要は常にトップに表示されます。活動報告は、スクロールしてご覧ください。*




パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。

所在地 101 Kimberley Street West Leederville 6007 WA

集会
日曜礼拝    午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)

聖書研究会   火曜日午後1時より(現在休止中です。ブログに研究ノートを掲載します。)
プレイグループ 木曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)

*集会開催の有無、その他のお問い合わせは左サイドバーのメッセージフォームをご利用ください。

関連サイト等
Henderson Memorial Presbyterian Church
Facebook


2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。

2015年10月森本実牧師が就任しました。

献金でご支援いただければ幸いです。
Westpac
BSB 036-048
Account Number 318 792
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2024年4月21日

2024-04-21 19:08:35 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書朗読:ヤコブ 4:1-12
説教題:神の敵とならないために

導入)
 ヤコブはこれまで、依怙贔屓、悪い発言等について注意を与えてきました。ここでは、戦いや争いの問題を扱っています。ヤコブがどのような流れで注意を与えて戒めているのかを確認してみます。

本論)
1節 戦いというのは戦争状態を表す語です。争いは、個人間の論争を表します。ヤコブはそういう事柄の原因は欲望だと指摘します。この世に属する物事を得ようとする欲望です。当時は、快楽への欲求などを「あなたがたのからだの中で戦う」と表現したそうです。
2節 人殺しをするというショッキングな表現が出て来ます。殺人は死刑になるのが通例ですから、この手紙を受け取ったユダヤ人クリスチャンたちが人殺しをしていたとは考えられません。実際には圧力をかけたりいじめたりすることを指して表現したものと思われます。1ヨハネ3:15では、兄弟を憎む者は人殺しであるという表現が有ります。そのような霊的原則に従って表現したものと思われます。
3節 神は日常生活の必要は求めれば満たしてくださるというのが私達の信仰です。ですから、願っても与えられないのは、その領域を超えた願いだからであって、それが、悪い動機で願うことだと指摘しています。快楽のために使おうとして、という所で用いられている動詞は、浪費するという意味のあるものが使われています。不適切な使い方であることが示唆されています。
4節 ヤコブはここから彼らがどのような霊的に間違った状態に在るかを説明しています。貞操がない状態だと言っています。旧約聖書では、姦淫の民というような表現になるものです。神に仕えると言いながら、同時に異教の神を求めて偶像礼拝をするという、霊的に二股をかけている状態だからです。ここでは、ユダヤ人クリスチャンは偶像礼拝をしていたわけではありませんが、この世の自慢や快楽を友とする心が有りました。そのことが、結果的に神を憎んでいることになるという自覚が彼らには無かったのです。
  私達はどうでしょうか。時々、そういうことを自問する必要が有ります。
5節 続いてヤコブは読者の意識を神の愛に向けようとします。ヤコブは聖書のことばと言っていますが、直接の引用はしていません。しかし、その内容は、出エジプト 34:14、ゼカリヤ 1:14 の内容と一致しています。神は私達をとても愛しているということです。それは形ばかりのことばではありません。
6節 更にヤコブは神の恵みの偉大さに目を向けさせようとします。神は豊かな恵みをくださるのですから、この世のちっぽけで短い期間しか続かない快楽よりもはるかに素晴らしいのです。その恵みを受けるためには、へりくだることです。しかし、もしその戒めに従わないならば、神が敵となるというのです。神があなたと戦われるということが含意されている語が用いられています。それは賢い生き方ではありません。神の敵になって得することは一つも無いのです。
7節-10節 へりくだるというのは、具体的にはどういうことかがここから示されます。
1)神に従いなさい
  神の権威と支配の元に身を置くことです。軍事用語にも用いられる語で、服従することを意味します。
2)悪魔に立ち向かう
  そうすることによって、この世に属する情熱や欲望が遠ざかります。直接的な対決が必要と思われる場面でも、イエス・キリストの御名によって退けと命じることができます。
3)神に近づく
  近くに行く、合流するという意味の言葉です。私達は信仰告白をし、洗礼と聖霊の証印によって、イエス・キリストの体なる教会に建て上げられいます。更に、聖書を読み、祈ることによって神に近づき続けるのです。
4)悔い改める
  罪ある人たち、二心の人とヤコブは呼びかけています。書簡は教会で朗読されるものでしたが、こんな表現をされて会衆はびっくりしたことでしょう。罪ある人というのは、神の承認を得るに足りない人です。二心というのは、関心が分かれている、分裂している意味が有ります。神とこの世の両方に心が分裂しているからです。洗い清めるというのは、そのような霊的な汚れを取り除くことです。指摘されてきた間違った心の状態と行いを離れなさいと命じているのです。
  9節の伝えようとしていることは、次のように言えるでしょう。もし彼らが本当にこれまでしてきた行いの本質とその結末を理解し、それまでの彼らの笑いや喜びの源がこの世であったと気付き神の敵となっていることを理解したならば、苦しみ、悲しみ、泣くはずだということです。
5)主の御前にへりくだる
  へりくだるというのは、身を低くするという意味合いが有ります。具体的には、自らの霊的な状態の至らなさを認めて告白することなどが挙げられます。7節の神に従うことも思い浮かぶ内容です。その結果は、主があなたがたを高くしてくださるということです。
  イエスが、へりくだって人の形を取って来られ、受難を経てよみがえり、永遠の栄光に引き上げられたように、私達が主の前にへりくだるならば、私達も今から永久に神の国の栄光に浴することができるのです。
11節―12節 ここで取り上げている戦いと争いは、彼らの間違った願望に基づいて語られる悪いことばが原因になっていました。先にヤコブが示した例は、人を見下したようなことば、人の不幸を願うようなことばでした。ここでは、悪口を取り上げています。
  ここでヤコブは、ユダヤ人が敏感な律法に絡めて説明を進めます。律法には、神がユダヤ人を愛していること、互いに愛し合うように命じていることが書かれています。(申命記 33:3 レビ記 19:18 参照)ですから、教会の仲間の悪口を言うのは、律法と神を敬っていないことになります。もし仲間を裁いて悪く言うならば、その人は、互いに愛し合うように命じている律法まで裁いていることになります。しかし、真に裁くことのできる権威を持っているのは神だけです。
  教会の中で規律を守るために裁かなければならない場面は有ります。その時は、聖書の基準と規定に基づいて裁き、神の律法を遵守するのです。自分の基準で裁いて悪口を言うのは、自分を神の位置に置くことになります。ですから、神の前にへりくだるように命じられているのです。


まとめ)
 本日の朗読箇所には、神の敵とならないために私達が自問しなければならないことが四つ示されていると思われます。

1)私は貞操がない状態ではないか
  もし、私達が間違った動機、間違った願望を持ち、この世の喜びを求めるなら、教会の中に争いをもたらすことになります。その時には、神の友とこの世の友の両方を求めて貞操がない状態になっていることになります。

2)私は神の偉大な愛と恵みを認識しているか
  神は、従う者に永遠の愛と恵みを与えてくださる方です。神は私達を救うためにイエス・キリストを与えてくださいました。神の国の約束は、見せかけだけのものではありません。その偉大な愛と恵みに比肩し得るものは何もないのです。

3)私はどうしたら神の恵みに与れるか理解しているか
  私達は悔い改めて、神のやり方に従わなければなりません。自分が間違っていた部分に気付いた時、祈りの中で自分の反省の思いを告白するのです。また、その行いや思いを離れようとするのです。必要ならば、イエス・キリストに御名によって悪魔に退くように命じるのです。また、その取り組みには、悪魔に対抗して信仰の告白をし、神の戒めに従う宣言をすることも含まれます。

4)私は神の座につこうとしていないか
  神だ唯一律法を与え、裁く権限を持っている方です。私達にはその権限はありません。私達が主にある兄弟姉妹の悪口を言うならば、私達は神に与えらえた愛の律法を破っているのです。それは、神の律法の上に自分を置き、神のように振る舞おうとしていることになります。そのような恐れ多いことから身を引かなければなりません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2024年4月14日

2024-04-14 21:03:06 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヤコブ 3:1-12
説教題:あなたの舌は建てるのか壊すのか

導入)
 以前確認した通り、ヤコブの手紙は離散したユダヤ人クリスチャンに向けて書かれています。迫害に耐えるように勧め、また、信仰に相応しい行いが伴うように勧めが続きました。三章では突然内容が変わるような印象になりますが、信仰に相応しい行いをするようにという勧めの続きと考えることができます。

本論)
1節 突然気軽に教師にならないようにという警告になります。ユダヤ人の社会においては、人々の注目を集めたくてラビ、律法の教師になりたがる人達がいたということです。それで、中にはクリスチャンになってもそのような考えをする人がいたのだと推測されます。これは不純な動機です。適切な資質のある人物がそのような役職につくべきです。また、その責任は重いので、間違いを犯せば、より厳しい非難を受け、罰せられるのは当然です。
2節 特に注意を払うべきことは、どんな発言をするかということなのがわかります。一方で、舌を抑制できる人は、体全体、言ってみれば、生き方全体をよく治めることができるという指摘がされています。
3節―4節 ヤコブは比較的小さい物がより大きなものを制御できることを例示します。それは、舌が持つ問題を示すためでした。舌は大きな問題を引き起こすことが有り得るので、制御することが必須なのです。
5節 舌は様々な問題を引き起こすことが考えられますが、ここでヤコブが注目しているのは、誇ることでした。この語は、言葉や行動で自分が勝っていることを示そうとすることを意味します。しかし、神は私達が神に信頼して遜って生きることを望んでいらっしゃいます。見栄を張ったりするのはクリスチャンの生き方とは言えません。そんな態度では、仲間のクリスチャンを見下した言動になったり、知識をひけらかしているうちに間違った教理を持ち込むことも有り得ます。そうすると、教会には問題が起こり、分裂につながったりするでしょう。
6節 そういわけで、言葉を介して示される人間の邪悪な精神は、神への反抗に起源が有ると考えることができ、そのような状態のままでは、地獄の火で焼かれる日が来てしまうというわけです。
7節―8節 人類は多くの動物を飼いならしてきました。サーカスの猛獣使いや水族館で見るイルカショーなどが思い浮かぶでしょう。しかし、舌を制御するのは難しいことがあるのです。生まれた時から罪の性質を内側に持っている人間が、どうして死の毒とも表現される結果をもたらすことのある舌、悪い言葉を制御することができるでしょうか。それは、悔い改めて神に拠り頼み、聖霊の導きをいただき、神のみ言葉を学ぶしか方法は有りません。
。顔を火打石のようにするという表現が有りす。火打石は大変固い石だと考えられていて、強い意思と決意を示しています。
9節―11節 ここでヤコブは教会の中で観察されたと思われる状況を取り上げます。教会の中で、クリスチャンが、神を賛美するのに、同時に他のクリスチャンをのろうようなこと言うというのです。それは極端な例かもしれません。のろいと訳された語の雰囲気は、人々に悪いことが起きるように願うというものです。
 そこで、ヤコブは、パレスチナ地方に住んでいたことのあるユダヤ人クリスチャンが身近に感じられる例を持ち出します。パレスチナでは、井戸を掘ると塩水が出て来ることが有りました。それが苦い水です。死海が有る地域ですから、そういうことが有ってもおかしくないのです。塩水を飲むことは、体に害が有ります。そんな井戸は役に立たずに見捨てられるでしょう。水脈は一つですから、一つの井戸から真水と塩水が出ることは有り得ません。
 泉は心を象徴していると考えられます。クリスチャンの心はイエス・キリストにつながっていなければなりません。そのことによって、語る言葉は仲間のクリスチャンを潤し、力づけるものでなければなりません。
12節 ここでは、いちじく、オリーブ、ぶどうというパレスチナや地中海地方の農産物が例話に用いられています。例話のように、いちじくの実を期待して近づいたらオリーブの実が生っていたとしたらどうでしょうか。期待した用途に用いることができずに、がっかりすることになるでしょう。ここでは、言葉が嘘であったり偽善であったりする時のことを示していると考えられます。しかし、私達は聖霊と聖書の言葉に導かれて真っすぐな言葉をかたらなければなりません。(エペソ4:25 参照)


まとめ)
 教師になること自体は悪いことではありません。へブル5:12 によれば、私達は信仰を持って長くなれば、成熟して教師になることは自然であることが示されています。成熟しているかどうかが問題なのです。仲間のクリスチャンを建て上げ、教会を建て上げる言葉を用いているかどうかが判断基準になります。すくなくとも、私達は、教会、他の人たち、ひいては自分自身を壊すような人間になってはいけません。もし人に害を与えるような発言をする人がいれば、その人は、行いの伴わない信仰者であると言えます。
 ここで、壊す舌、建てる舌を考えてみます。

1)壊す舌
  誇り、自分を他人より勝っていると見栄を張るものです。また、他人に悪いことが起こるように願うようなことを言う舌です。そんな人の言葉は、他人を傷つけ、自分をも破壊し、教会を破壊することになります。そのような舌を持っているならば、その人は霊的に未成熟です。そのような態度は、神に拠り頼んでおらず、罪に属します。自分の言葉を時々吟味してください。壊す舌の言葉を使っているのではないかと思った時は、悔い改め、神に信頼することを告白するのです。

2)建てる舌
  仲間であるクリスチャンと教会を建てる言葉を語る舌です。それは、聖霊と福音の言葉から来るものです。そのような言葉は、仲間を励ますことができます。
 4節の記述は示唆に富んでいると思います。小さな舌に例えられた船の舵は、適切に制御されれば、大きな船を正しい航路に乗せることができます。同様に、舌を制御することができるならば、舵が船を強い風の中でも思い通りに動かせるように、大きな利益につながるのです。強い風は、激情もしくは困難の隠喩とも考えられます。私達の理想的な状態は、互いに励まし合い、特を高め合う言葉で語り合えることです。(1テサロニケ5:11参照)

3)舌は神を知る知識で養われなければならない
  エペソ5:19では、私達が聖書の言葉で語り合うことが勧められています。聖書の言葉が私達の語彙でなければなりません。私達の行動の動機は、神を尊び、神に栄光を帰することでなければなりません。一つの考え方は、9節に表わされていたと思います。悪い例として、私達が神の似姿に創造された人をのろうことが述べられています。崇めるべき神の似姿に創造された存在をのろうならば、神に対してのろいの言葉をはいているのと同じことにならないでしょうか。神を敬う心からは、そのような言葉は出てこないはずです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2024年4月7日

2024-04-07 21:16:57 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:イザヤ 50:1-11
説教題:真の明りを求めよ

導入)
50章は、バビロンに捕囚となった南ユダ王国の人々への神のメッセージとなっています。神に不平を言っている彼らへの神からの答えになっている部分が有ります。また、神はイザヤを通して彼らに警告も発しています。また、この章にはメシア預言が含まれていることが重要な要素となっています。どのような神のメッセージになっているのかを確認してみましょう。

本論)
1節 神はユダヤの人たちに、彼らが経験している困難の責任は彼らにあるのだと答えています。神は非難されるべき方ではありません。
 離婚状が出て来ます。神がユダヤの国家を離縁して民を捕囚に追いやったのではないということです。
 債務者という表現もでてきます。当時、借金が返せない場合は、債権者は債務者の子供を売ってお金を回収する権利がありました。しかし、神はユダヤの人たちを捕囚に売り飛ばしたのではないということです。
 神は、エルサレムの破壊とユダヤ人のバビロン捕囚は、ユダヤ人に責任が有ると言っているのです。
2節-3節 ユダヤ人に責任があるというのは、彼らが正しく神に応答しなかったからだということです。神が来た時というのは、実際には預言者が遣わされて、神の御心を伝えた時と考えられます。また、神は、出エジプトの時に神が奇跡の業をもって彼らを助けたことを思い出させることによって、神の能力を問題にすることはできないことを示しています。
4節―5節 イザヤは神に任命された預言者であるという自覚がありました。イザヤの使命は、疲れた者たちを神の言葉で力づけることでした。イザヤは朝毎に、言い換えれば、毎日神の言葉を聞いていました。耳を開くということが4節と5節に繰り返し出て来ます。神に仕えている自覚の故に、神に逆らうことなく、また難しい使命からも背を向けることをしませんでした。
6節 神から遣わされたイザヤに対しする人々の酷い扱いが示されています。背中を叩かれた、もしくは鞭打たれた様子が書かれています。背中を打たれるのは刑罰の形体です。また、箴言には愚か者が背中を打たれる記述が有ります。髭を抜くのは、中近東では大変な侮辱でした。頬叩いたり唾をかけるのは、律法を守らず、義務を果たさない者がされることでした。勿論イザヤはそんな人物ではなかったのですが、人々は神に従わず、神の預言者であるイザヤに酷い扱いをしたのです。
7節―9節 そんな扱いを受けたイザヤの態度が示されています。主なる神という表現は、アドナイ・ヤーウェーとなっていて、神を表すことができる言葉が二つ用いられています。真の神がいてくださることを強調しています。修辞疑問文と考えられる「だれが」「どんな者が」という問いかけが三つ出て来ます。彼らは反抗的なユダヤの民のことですが、神の前には何でもないということです。彼らが神の前に何の力もないことが強調されています。彼らの行く末は、9節の最後に示されているように、滅びだということです。そのような者たちに卑しめられても、イザヤは少しも恥じる必要がなかったのです。顔を火打石のようにするという表現が有りす。火打石は大変固い石だと考えられていて、強い意思と決意を示しています。
10節―11節 預言者イザヤから人々への勧めと警告が述べられています。もし神を畏れる者がいるのであれば、主の御名に信頼し拠り頼めと勧めています。暗やみの中というのは、捕囚の苦しい生活と考えられます。光を持たないというのは、希望も彼らを正しい道に導く霊的な洞察もないことと考えられます。彼らは、神の契約によって、神に帰るならば、まだ恵みの約束の当事者なのです。
 一方で、神に従わない者たちへの警告も述べられています。よびかけられている人々が自ら火をともしているとされています。火と訳された語には、火花というような意味もあり、長続きしない火ということになります。彼らは神の光によって歩もうとせず、自分勝手に用意した明りに従って生きようとしていることになり、神に反逆しているのです。そのような者たちに、神の手が与えるのは、苦しみのうちに伏し倒れることだとイザヤは伝えているのです。

この、イザヤの受けた仕打ちと彼の覚悟及び、自分で火をともして生きようとする民の対比は、丁度、イエスの受難と覚悟及び自己義認によって意固地に生きるパリサイ人たちとの対比にもなっています。ヨハネ8:12では、イエスが世の光であると言っています。もし、イエス・キリストの光を受け取るならば、その人は救われるのです。しかし、自分で考えたやり方という明りで生きようとする者は、神の手によって倒されるのです。パリサイ人たちは、この預言の通りに、エルサレム崩壊の時に滅ぼされました。

まとめ)
 イザヤ50章が私たちに伝えていることをいくつか確認してみます。

1)真の光を求めなさい
  イエスは世の光であり、真の光である方です。イエスに拠り頼み従順しましょう。全能の神である主が、あなたを助け、祝福してくださいます。イエス不在の世界は霊的な暗闇なのです。神の招待を受け入れ、イエス・キリストの光にの中に入ってください。
2)主に聞きなさい
  預言者イザヤもイエス・キリストも、日々父なる神に聞いていました。イエスの弟子たちはイエスの教えを傾聴していました。ベタニヤのマリアは、イエスの教えを熱心に聴いていたことで、良い方を選んだと言われています。神の言葉が私たちを、そして、疲れた者を励ますのです。疲れた者と訳された語は、単数形です。疲れた者一人一人を神は心にかけていてくださるのです。
3)信仰に堅く立ちなさい
  イエス・キリストへの信仰のゆえに、人々に卑しめられても落胆しないと心に決めることです。全能の神が助け、義としてくださるからです。神に優る存在はありません。その神が助けてくださるのです。それだけではなく、イエス・キリストが私たちの罪の負債を代わりに払ってくださったのです。ですから、イエスの光に拠り頼み、自分の知恵や方法に拠り頼む生き方に帰らないようにしなければなりません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活の主日礼拝 2024年3月31日

2024-04-02 23:29:35 | 日曜礼拝
合同礼拝(バイリンガル)でした。礼拝音声はありません。

聖書箇所:ヨハネ11:25
説教題:わたしはよみがえりです。いのちです。
    (なぜイエスの復活は私たちにとって重要なのか)
    1)復活はメシア預言の成就の証明となるから
    2)復活は目撃者をイエスに従う確信を与えるから
    3)復活はイエスが全能の神であることを示すから
    4)復活は私たちのに歌いの復活を保証するから
    5)復活はクリスチャンとして困難に耐える希望を与えるから
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする