パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年11月24日

2019-11-24 16:29:01 | 日曜礼拝
聖書箇所:エペソ4章17節~24節
説教題:新しい人を着る
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
 パウロの勧めは4章1節から始まっています。(10月27日の記事参照)彼はキリストにある一
致についての長い説明を重ね、ようやく17節から召しに相応しい歩みについての次の勧めを始め
ます。この部分におけるパウロの要点は24節の、新しい人を着るというに有ります。そうするた
めにはどうしたら良いのかを確認して行きます。

本論) -新しい人を着るためには-
1)異邦人のような歩みをしない
  パウロの勧告はかなり強いものです。言明するばかりでなく、厳かに勧めるとまで言ってい
 ます。何故でしょうか。エペソの教会のクリスチャンの中に異邦人のような歩みをしていた人
 たちがいたということかもしれません。異邦人というのは、ここではキリストへの信仰を持っ
 ていない人たちと考えて良いでしょう。パウロは彼らに、「あなたたちはキリストへの信仰を
 告白していますが、まるでキリストへの信仰の無い人のように歩んでいるではありませんか。」
 と呼び掛けているのかもしれません。
  パウロはそれから、その異邦人のような歩みがどんなものかを示しています。その有様は私
 たちには関係ないように思えるかもしれません。しかし、私たちも注意深くパウロの勧告を考
 える必要が有ります。18節の重要な点は、「神のいのちから遠くはなれている」ということで
 す。
  この考えはエデンの園にまで遡るものです。エデンの園の真ん中には、いのちの木と善悪を
 知る木が生えていました。いのちの木は神のいのちを象徴しています。異邦人たちは神のいの
 ちから離れているというのです。言い換えると、彼らは善悪を知る木にしがみついているとい
 うことです。それはどんなことでしょうか。
  真の意味で善悪を判断することは神に属しています。私たちの基準で物事や人々を判断する
 ことは、自分が自分の人生の神であると宣言していることになります。それでは、自分のプラ
 イドや自信に従って生きていることになります。すると、物事が自分の基準に反する方向に動
 くとプライドが傷ついたり自信を失ったりします。
  一方、私たちはいのちの木の法則に従って生きなければなりません。私たちはイエス・キリ
 ストを通して神と再び結び合わされたのです。私たちはキリストから来る義と聖さを着せられ
 たのです。ですから、私たちは判断を神に委ねなければならないのです。神に主導権を委ねな
 いことは、18節に書かれている生き方になるのです。善悪を判断して決めつけることは、私た
 ちの仕事ではないのです。
  さて、パウロはクリスチャンに対して勧告しているのですが、19節はどのように彼らに関わ
 りが有るのでしょうか。私たちがこのように勧告を受ければ、それは私たちには関係無いと感
 じるだろうと思います。この節は性的不道徳について述べているように読めます。聖書では、
 姦淫は偶像礼拝に関連付けられます。もし、私たちが神以外のものに信頼したりすることは、
 霊的な姦淫を犯していることになります。この理解と、ギリシャ語辞典の定義を参考にして、
 19節をよりクリスチャン向けに訳を試みると、次のように言えると思います。「霊的に鈍感に
 なり、彼らは意思と聖霊によって制御されていない欲求に身を委ねて、その結果、貪欲に、あ
 らゆる不純な動機のほしいままに行動しています。」そのような状態では、彼らはキリストに
 いただいた義を忘れた生き方をしていることになります。彼らは、神に判断を委ねるかわりに
 自己尊厳や彼らの生活の主導権を貪欲に追及していることになるのです。彼らの生き方は、善
 悪を知る木の法則による生き方ということになります。彼らはイエス・キリストによる義とい
 う神のいのちに基づいた生き方に立ち返る必要が有ります。私たちはどうでしょうか。

2)キリストを知り、キリストを学ぶ
  キリストを知り、キリストを学ぶということには二つの面が有ります。私たちは継続的にこ
 れらに取り組まなければなりません。
  一つは先に確認した通り、18節と19節に示されている古い生き方を脱ぎ捨てることです。パ
 ウロは22節で古い生き方を「欺く欲求によって滅びて行く古い人」と再定義しています。エデ
 ンの園で蛇がアダムとエバを欺いたように、自尊心や人生 の主導権への欲求が私たちを欺き、
 自分を善人で正しく感じるようにする満足感や達成感という偽りの約束を私たちに与えるので
 す。
  二つ目は、心の霊において新しくされることです。される、ということは受動態です。神の
 言葉と聖霊が私たちのためにそれをなされるのです。しかし、私たちも従順しなければなりま
 せん。ですから、私たちは聖書を読み続け、聖霊の導きを祈り続けるのです。また、同時に神
 の義と聖にかたどり造られるのです。一体どうしたら私たちが神にかたどり造られる、神のよ
 うになることができるのでしょうか。それも私たち自身ではすることができません。私たちは
 イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。そうすると、恵によって神の
 義と聖が私たちに与えられるのです。私たちはキリストにすべてを明け渡さなければなりませ
 ん。自尊心やプライドという誘惑が私たちを煽り立てる時、祈りのうちにそれを神の手に委ね
 るのです。このようにして、私たちは継続的に神への信頼を告白するのです。
  イエスご自身がぶどう酒と皮袋の例話を語られた時に、同様の原則について教えておられま
 す。もし私たちが、自己義認の古いぶどう酒を抱えていれば、その結果、奢ったり怒ったりし
 ます。そういう現れが古い皮袋です。私たちが、神の義、神のいのちの法則という新しいぶど
 う酒を抱えているならば、その結果である、従順と私たちの中に有る神の国という現れが新し
 い皮袋です。
  20節の学ぶと訳された語は、知るとも訳される語で、知識を増し加える、情報を与えられる、
 実践によって学ぶ、習慣を身に着けるという語感が有ります。そのように、私たちは時間をか
 けて思い巡らしキリストが私たちにしてくださったことを学んでいくのです。私たちはキリス
 トへの信仰を実践し、それを人生の習慣としていかなければなりません。キリストが公生涯に
 おいてお示しになったように、私たちも完全に神に信頼しなければなりません。
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日曜礼拝 2019年11月17日

2019-11-17 21:58:28 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ21章20節~28節
説教題:贖いが近づいたから
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
 この箇所は、5節から始まる神殿をめぐるイエスの教えの続きです。ここでも、エルサレム崩
壊とこの世の終わりについて述べられています。20節から24節までがエルサレム崩壊、25節から
28節までがこの世の終わりについてです。

本論)
 エルサレムは実際に西暦70年にタイタスに率いられたローマ軍に包囲され、陥落しました。多
くのユダヤ人がエルサレムの神殿に逃げ込んだそうです。神殿に入れば守られると考えたのだと
思われます。しかし、神殿は崩壊し、多くの人が命を落としました。一方、クリスチャンは、こ
のイエスの言葉を信じ、守ったので、近くの山々に逃げて命を保ったということです。神殿、も
しくは建物に信頼した人々は命を失い、イエスの言葉を守ったクリスチャン達は命を保ったとい
うことに、霊的な原則を見ることができます。
 22節、23節の記述から、このエルサレム崩壊は神の裁きであったことがわかります。それは、
1列王記9章6節、7節等の預言の成就と考えられます。イエスもこのような警告を何度かして
おられます。(19章43節、44節参照)人々が罪のうちに留まり続けるならば、神の慈悲や忍耐は
いつまでも続くものではないのです。この歴史的事実は、私たちにも最後には神の裁きの時が来
ることを示しています。私たちも悔い改めて救われている必要があるのです。

 25節からの世の終わりの記述には、私たちの想像を超えることが起きることを予感させます。
そのようなことは起こりえないだろうと思うかもしれません。それでも大地震のニュースを聞く
とその被害の大きさに驚かされます。人々が何年、何十年もかけて家を建て、産業を興し、町を
作っても、ほんの短い時間でそれが破壊されてしまうのです。そして、それよりも遥かに大きな
災害が起きるかもしれないのです。人々は不安になり、いろいろ心配するでしょう。
 27節から、イエスは再臨について語ります。イエスが最初にこの世に来られた時は、謙って
赤子の形をとって来られました。しかし、再臨の時には栄光に包まれてやって来られるのです。
雲に乗って来られる表現が有ります。聖書においては、雲は神の栄光の象徴でもあります。モー
セがユダヤ人を率いて荒野を進む時、雲の柱が彼らを導きました。モーセが十戒を刻んだ石の板
を受け取った時、シナイ山の上には厚い雲がかかっていました。新約聖書では、雲はイエスに関
わっています。山の上でモーセとエリヤがイエスに現れた後彼らが姿を消す前に彼らは雲におお
われました。イエスが天に昇られる時、雲に包まれました。そして、イエスが再臨する時には、
同じように雲に乗って来られると天使が弟子たちに告げました。
 雲がイエスの栄光に関わるということですが、イエスの栄光を軽く考えてはいけません。へブ
ル12章21節では、神の栄光にモーセが恐れおののいたことが示されています。黙示録ではイエス
の栄光が天の都を照らすので、太陽も明かりも必要が無いと書かれています。しかし、その時に
私たちは恐れる必要はありません。イエスとも顔と顔を合わせることができるのです。

 世の終わりが来ることを知って、私たちはどのような態度でいるべきでしょうか。それは、28
節にイエスが述べておられます。体をまっすぐにし、頭を上に上げなさいと言われています。心
を強くして、固く立っていなければならないのです。私たちは失望したり困惑したりしてはいけ
ないのです。それは、私たちの贖いが近づいているからだと言うのです。
 私たちは既にイエスの贖いの恵みをいただいていますが、世の終わりに次いでその贖いの最終
的な完成を見るのです。その時に私たちが期待することは何でしょうか。私たちは罪の影響から
完全に開放されます。悲しみや病、死を味わうことがなくなります。イエスの似姿によみがえら
され、栄光の体をいただくのです。私たちはイエスにあって永遠の命の希望を持っているのです。
世の終わりが近いと聞くと、人々は恐れ、心配するでしょう。しかし、私たちはイエスにある希
望を持って、固く立つのです。

まとめ)
1)イエスの言葉を信頼して従う
  直前の教えでは、私たちは偽預言者に騙されてはいけないと言われました。恐れや不安が有
 ると、平安を求めて偽の教えにも騙されてしまうことがあるのです。しかし、必要なイエスの
 言葉はすべて聖書に書いてあります。新しい教えは必要ありません。私たちは証をします。ま
 た、難しい状況にあっても忍耐する必要があります。そんな中でも、イエスの言われた約束、 
 髪の一筋も失われることはないということを信頼していくのです。そして、心を騒がせないで
 固く立つのです。

2)イエスに会う希望で心を満たす
  ある人にとってはイエスに出会うことは破滅であり恐怖であるかもしれません。私たちにと
 ってはそれは希望であり喜びです。だから、私たちはからだをまっすぐにし、頭を上に上げる
 ことができるのです。心を強く持ちましょう。イエスの栄光のことを考えるのです。私たちが
 イエスと共に相続する天国の栄光を自分に思い起こさせるのです。その時の様子は黙示録21章
 3節から5節に記されています。神の約束は信頼でき、真実なのです。
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日曜礼拝 2019年11月10日

2019-11-10 20:25:19 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ21章5節~19節
説教題:世の終わりの心構え
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
 宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあるのことに感嘆の声を上げている人たち(マルコ、ルカ
は弟子と記録しています)がいました。画像検索をすると、金ぴかなイメージ図が見つかります。
ここで言われている「石」とはおそらく神殿に立ち並ぶ白い大理石の円柱のことです。また「奉
納物」は何を差しているか分かりませんが、当時の神殿にはヘロデ大王が寄贈した純金製のぶど
うの木のオブジェが飾られていたと言われています。それは一つの房だけで人間の背丈ほどもあ
ったそうですから、きっと人々の心を引き付けたことでしょう。ユダヤ人は神殿に来るたびに、
これらのものを見、誇りに思い、また、心のよりどころとしていたのではないでしょうか。それ
なのに、イエス様が「石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が来る」と言われたので、
彼らには衝撃的だったことでしょう。しかし、考えてみれば、イエス様は何も変なことは言って
いません。形あるものは崩れ、どんなに立派な建造物でも、時間が経てば壊れるのです。その当
たり前のことに衝撃を受けたのは、それだけ彼らが神殿を心の拠り所にしていたからでしょう。
私たちもこの世の豊かさ、また人間の英知とそれが作り出したシステムに寄りかかっていたりし
ます。ですからそれがなくなる日が来ると言われると、慌ててしまったりすることがあるでしょ
う。イエスはこの後の33節では「この天地は滅びます。」とまで言われます。私たちは果たし
て、その日への備えができているでしょうか。
 
本論)
 イエス様が語っている内容を見ると、確かに弟子たちに対して語っていることが判ります。イ
エス様の教えるこの世の終わりに向けた心構えはどういうものでしょうか。三つのポイントで確
認してみたいと思います。

1)私たちは惑わされないようにする
  8節以降に様々なことが語られています。自称メシヤが現れる。戦争や暴動の噂を聞く。ま
 た民族や国同士の対立、大地震、疫病や飢饉、等々。私たちはこれらを今 日の様々な出来事
 に当てはめて、だから世の終わりは近い、と慌てるかもしれません。世界には、自らを救い主
 と主張して凶悪事件を起こした教祖が何人かいました。戦争はあちこちで起こっています。国
 同士の対立ということで言えば、米中貿易戦争、イスラエルと周辺諸国の緊張関係が思い浮か
 びます。また日本ばかりでなく、各地に大震災が起きています。しかしイエス様は何と言われ
 たでしょうか。イエス様のポイントは、これらは「初めに必ず起こること」であるということ
 です。だからまだすぐには終わりは来ないのです。
  神が天地を創造された時、それははなはだ良かったと創世記に書かれています。しかし人間
 の罪によって、人間の上に罪の呪いが臨み始めたばかりか、この世界にも罪の呪いが臨み始め
 ました。パウロは、被造物もうめいているという表現をしています。33節に「この天地は滅び
 ます」と言われている通り、この世界は壊れて行く方向に進みます。しかし、ただ壊れるとい
 うのではなく、新しい天と新しい地が与えられるのです。しかし、その前にいろいろなことが
 必ず起こるのです。そのことを心に留める私たちは、慌てない、誰かの後について行かない、
 そして恐がらないのです。私たちは落ち着いて、その日に向けての準備をして行けば良いので
 す。

2)私たちはあかしをする
  12節を見ると、あなたがたは会堂や牢に引かれて行き、王や総督たちの前に引き出される、
 と言われています。また16節では家族や肉親からも裏切られ、中には殺される者もある、17節
 にはみなの者に憎まれる、とあります。私たちとしては、こんな状況に置かれて証しをするな
 んて、到底無理と思います。しかし素晴らしい約束があります。13節 から15節に「それはあな
 たがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明す るかは、あらかじめ考えないこと
 に、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと
 知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」とあります。王や総督の前に引き出されることは
 大変なことです。次の瞬間には殺されるかも知れない。また信じない人たちに囲まれ、信仰を
 否定しないと生きていけないような圧力を感じるかもしれません。しかしその時は、あなたが
 たがあかしをする機会となるのです。イエス様は「あかししなさい」と単に命じておられるの
 ではありません。イエス様が共にいて、あかしができるように導いてくださるのです。
  これはもちろん、説教や何かのお話の準備をしなくても良いと言っている御言葉ではありま
 せん。神学校の説教演習の授業で、ある学生が、聖霊が助けてくださると言ってメモさえ持た
 ないで説教壇に立ったそうです。しかし、話がうまくつながりません。本人は焦りだし、聞い
 ている方にも最悪の時間となったということです。
  もちろん私たちは、できる準備はするのです。1ペテロ 3 章 15 節は「あなたが たのうちに
 ある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用 意をしていなさい。」
 と命じています。しかし、危急の際、反対者たちに囲まれてどこにも助けがないと思われる時、
 私たちはそこでこの主の約束に拠り頼むことが許されています。14 節の「それで、どう弁明す
 るかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。」とは、人間的な心配はいらない
 という意味でしょう。孤立無援の状況でも、主が共にいて、話すべき言葉と知恵を与えてくださ
 る。これは信じる者にとって大きな励ましです。私たちは非常な困難の中でも、この主に目を上
 げて、そこで与えてくださる主の助けと導きに生きるようにと召されているのです。
  私たちは弟子たちが経験したような大変な困難な中であかしすることはないかもしれませんが
 あかしできる私たちであるように備えるのです。

3)私たちは忍耐する
  イエス様は反対者が反論もできず、反証もできない言葉と知恵を与えてくださいますが、それ
 で相手が感動し、認めてくれるとはまれでしょう。むしろ続く節には、両親、兄弟、親族、友人
 たちに裏切られ、中には殺される者もある、と言われています。また、わたしの名のために皆の
 者に憎まれる、とあります。しかしそんな状況でも、素晴らしい約束が私たちに与えられていま
 す。18節に「しかし、あなたがたの髪 の毛の一筋も失われることはありません。」とあります。
 これは一見、16節、17節と矛盾しているように見えます。殺される可能性があると言われたのに
 髪の毛一筋も失われないとはどういうことでしょうか。
  この18節は、霊的な意味で言われていることは明らかです。イエス様は「からだを殺しても、
 たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」とも言われました。たとえ人が私の体
 を殺しても、神が私の魂を守ってくださいます。また天に備えられている私の祝福や報酬は失わ
 れません。さらに私たちの「からだ」も、究極的な意味で守られています。やがて私たちは復活
 して、イエス様と同じ栄光の体を頂きます。ですから、主に信頼する者からは、髪の毛一筋も失
 われないというお言葉は確かに真実なのです。この約束をしっかり心に抱く時に、忍耐の歩みへ
 と導かれます。
  この忍耐とは、人間的な我慢とか頑張りのことではありません。それは信仰から生み出されて
 来る忍耐です。パウロがⅠテサロニケ1章3節で、「望みの忍耐」という言葉を使っていますよう
 に、人は望みを持つ時に忍耐できるのです。ここでも同じです。どんな困難の中にあっても、主
 が私を守り支えていて下さる。この私からは髪の毛一筋も失われることがない。この約束を喜び、
 信じる時に、私たちはあらゆる状況の中で忍耐する歩みへと導かれるのです。またその忍耐の歩
 みをもって、私たちの信仰を現わすように導かれているのです。この御言葉を心に深く留める時、
 私たちはあらゆる混乱の中で恐れることなく立つことができるようになります。また共にいてく
 ださる主により頼んで、今があかしをする機会であるという務めに励むように整えられていきま
 す。そして自分の命が脅かされる状況を前にしても、忍耐をもってなお進んで行くという歩みが
 できるのです。
  忍耐を表す語は新約聖書中に33回出てきますそのうち4回はクリスチャンが互いに愛し合う上
 での忍耐ですが、残りの29回は、信仰を守るための忍耐です。そらは、約束のもの、すなわち、
 天国の栄光を相続する希望を得るための忍耐です。私たちには忍耐する理由と希望があるのです。


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日曜礼拝 2019年11月3日

2019-11-03 15:33:32 | 日曜礼拝
聖書箇所:二歴代誌 15章1節~19節
説教題:安息を与えられた

導入)
 ユダ王国の歴代の王の評価は、ダビデと心が一つであったかどうかが基準になっています。それ
は、主を求め、主を慕う姿勢です。アサ王に預言を伝えたアザルヤの名は「主は助け」という意味
が有ります。このアサ王の治世の10年目あたりでは、国家の平安が失われていたようです。そこで
主の霊がアザルヤに臨み、「主の助け」の言葉が与えられました。
 
本論)
 問題点は、2節で推測できそうです。「もしあなたがたがこの方を捨て去るなら」と書いてあり
ます。アサ王のユダ王国も、神を捨ててはいないのですが、中途半端な状態だったことがうかがえ
ます。その結果平安もなく恐慌が有ったということが5節に記されています。「出て行く者にも入
って来る者にも」」という部分はヘブル語的慣用句で、最初から最後までというニュアンスが有り
ひいては、全てのことに平安が無かったと考えられます。
 そういう彼らに語られたメッセージは、もし主を求めるなら、主が御力を表して勝利を得るとい
うことでした。神から離れて平安を失い、神に立ち返って平安を取り戻すのは、士師記以降繰り返
されるパターンです。私たちの信仰生活においてもそういうことが繰り返されているのではないで
しょうか。例えば、意味を考えずに機械的に奉仕をして、主を求めることが疎かになり、不安や恐
れに悩まされるようなことがあるかもしれません。その状態では、個人もしくは教会に主から来る
平安や力が欠けてしまうのです。

 アザルヤの預言を通して問題点を指摘されたアサ王は、その治世の15年に人々を呼び寄せて契約
結んだ様子が9、10節に有ります。北に隣接するイスラエル王国にも呼び掛けたのでしょう。彼ら
が神のメッセージに応答した結果、主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられました。彼らが
したことは、心を尽くし、祈りを尽くして主を求めることでした。
 彼らの信仰復興につながった彼らの態度をもう少し掘り下げて確認してみます。「心を尽くして」
という表現は、意思・知性を働かせてということです。また、「慕い求めて」という表現は、渇望
するような心情・感性を持って求めることになります。この両面を持って彼らは熱心に主を求め、
主を愛したのだということになります。これがダビデの霊性ということができるでしょう。ダビデ
の詩編では、彼は感情豊かに神を賛美しまたは嘆いて訴えます。しかし、その結論は理性的に神を
認め、信仰と信頼を宣言しています。この姿勢に倣って、私たちも感性と理性の両方を持って神を
求め、神に信頼していくのです。その時に、私たちにも安息が与えられるのです。感情が騒いでも
確信に立つ霊的な力が与えられます。

まとめ)
この聖書箇所では、安息はどのようにして与えらえたのでしょうか。

1)不安、恐れ、苦しみの時にこそ神を求める
  5節、6節にはアサ王の改革の前に、民の状況が悪かったことが示されています。そこにアザ
 ルヤが遣わされます。人々はその預言を受け入れて、神を求めることによって安息を得ました。
 どんな不安や苦しみからもすっかり解放されているということはなかなか有りません。でも、私
 たちには求めることのできる主がいらっしゃるのです。ためらわず、時を移さず、いつも主を求
 めましょう。

2)自らを鼓舞し、互いに励まし合い、祈り続ける
  7節にこのことが示されています。「強くあって欲しい」という表現は、カナンに入る直前の
 イスラエル人やヨシュアに語られたのと同じ言葉です。アザルヤは「あなたがたこそ」と複数形
 で呼び掛けていますから、互いにそうすることも含まれていると考えてもよいのではないでしょ
 うか。また、「力を落としてはならない」という表現の原義は、「手を弱めてはならない」とい
 うものです。祈りを象徴する表現としても用いられます。ですから、祈りを止めてはいけないの
 です。主に願い求め、また、とりなしをして祈り続けるのです。

3)知性と感性を働かせて主を愛し、主を求める
  私たちは洗礼において誓いを立てた時の心構えを時々思い出すと良いと思います。知性を働か
 せて、心を尽くして信仰の決意をしたのではなかったでしょうか。また、感性によって、主の助
 け、救い、愛を喜び、その愛と恵に応答して主の民に加えられたのではなかったでしょうか。
  ダビデの祈りに見るように、感性を通しても主に訴え、また知性を通して神を選び、神への信
 頼を告白し続けるのです。




 
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