聖書箇所:エペソ4章17節~24節
説教題:新しい人を着る
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)
導入)
パウロの勧めは4章1節から始まっています。(10月27日の記事参照)彼はキリストにある一
致についての長い説明を重ね、ようやく17節から召しに相応しい歩みについての次の勧めを始め
ます。この部分におけるパウロの要点は24節の、新しい人を着るというに有ります。そうするた
めにはどうしたら良いのかを確認して行きます。
本論) -新しい人を着るためには-
1)異邦人のような歩みをしない
パウロの勧告はかなり強いものです。言明するばかりでなく、厳かに勧めるとまで言ってい
ます。何故でしょうか。エペソの教会のクリスチャンの中に異邦人のような歩みをしていた人
たちがいたということかもしれません。異邦人というのは、ここではキリストへの信仰を持っ
ていない人たちと考えて良いでしょう。パウロは彼らに、「あなたたちはキリストへの信仰を
告白していますが、まるでキリストへの信仰の無い人のように歩んでいるではありませんか。」
と呼び掛けているのかもしれません。
パウロはそれから、その異邦人のような歩みがどんなものかを示しています。その有様は私
たちには関係ないように思えるかもしれません。しかし、私たちも注意深くパウロの勧告を考
える必要が有ります。18節の重要な点は、「神のいのちから遠くはなれている」ということで
す。
この考えはエデンの園にまで遡るものです。エデンの園の真ん中には、いのちの木と善悪を
知る木が生えていました。いのちの木は神のいのちを象徴しています。異邦人たちは神のいの
ちから離れているというのです。言い換えると、彼らは善悪を知る木にしがみついているとい
うことです。それはどんなことでしょうか。
真の意味で善悪を判断することは神に属しています。私たちの基準で物事や人々を判断する
ことは、自分が自分の人生の神であると宣言していることになります。それでは、自分のプラ
イドや自信に従って生きていることになります。すると、物事が自分の基準に反する方向に動
くとプライドが傷ついたり自信を失ったりします。
一方、私たちはいのちの木の法則に従って生きなければなりません。私たちはイエス・キリ
ストを通して神と再び結び合わされたのです。私たちはキリストから来る義と聖さを着せられ
たのです。ですから、私たちは判断を神に委ねなければならないのです。神に主導権を委ねな
いことは、18節に書かれている生き方になるのです。善悪を判断して決めつけることは、私た
ちの仕事ではないのです。
さて、パウロはクリスチャンに対して勧告しているのですが、19節はどのように彼らに関わ
りが有るのでしょうか。私たちがこのように勧告を受ければ、それは私たちには関係無いと感
じるだろうと思います。この節は性的不道徳について述べているように読めます。聖書では、
姦淫は偶像礼拝に関連付けられます。もし、私たちが神以外のものに信頼したりすることは、
霊的な姦淫を犯していることになります。この理解と、ギリシャ語辞典の定義を参考にして、
19節をよりクリスチャン向けに訳を試みると、次のように言えると思います。「霊的に鈍感に
なり、彼らは意思と聖霊によって制御されていない欲求に身を委ねて、その結果、貪欲に、あ
らゆる不純な動機のほしいままに行動しています。」そのような状態では、彼らはキリストに
いただいた義を忘れた生き方をしていることになります。彼らは、神に判断を委ねるかわりに
自己尊厳や彼らの生活の主導権を貪欲に追及していることになるのです。彼らの生き方は、善
悪を知る木の法則による生き方ということになります。彼らはイエス・キリストによる義とい
う神のいのちに基づいた生き方に立ち返る必要が有ります。私たちはどうでしょうか。
2)キリストを知り、キリストを学ぶ
キリストを知り、キリストを学ぶということには二つの面が有ります。私たちは継続的にこ
れらに取り組まなければなりません。
一つは先に確認した通り、18節と19節に示されている古い生き方を脱ぎ捨てることです。パ
ウロは22節で古い生き方を「欺く欲求によって滅びて行く古い人」と再定義しています。エデ
ンの園で蛇がアダムとエバを欺いたように、自尊心や人生 の主導権への欲求が私たちを欺き、
自分を善人で正しく感じるようにする満足感や達成感という偽りの約束を私たちに与えるので
す。
二つ目は、心の霊において新しくされることです。される、ということは受動態です。神の
言葉と聖霊が私たちのためにそれをなされるのです。しかし、私たちも従順しなければなりま
せん。ですから、私たちは聖書を読み続け、聖霊の導きを祈り続けるのです。また、同時に神
の義と聖にかたどり造られるのです。一体どうしたら私たちが神にかたどり造られる、神のよ
うになることができるのでしょうか。それも私たち自身ではすることができません。私たちは
イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。そうすると、恵によって神の
義と聖が私たちに与えられるのです。私たちはキリストにすべてを明け渡さなければなりませ
ん。自尊心やプライドという誘惑が私たちを煽り立てる時、祈りのうちにそれを神の手に委ね
るのです。このようにして、私たちは継続的に神への信頼を告白するのです。
イエスご自身がぶどう酒と皮袋の例話を語られた時に、同様の原則について教えておられま
す。もし私たちが、自己義認の古いぶどう酒を抱えていれば、その結果、奢ったり怒ったりし
ます。そういう現れが古い皮袋です。私たちが、神の義、神のいのちの法則という新しいぶど
う酒を抱えているならば、その結果である、従順と私たちの中に有る神の国という現れが新し
い皮袋です。
20節の学ぶと訳された語は、知るとも訳される語で、知識を増し加える、情報を与えられる、
実践によって学ぶ、習慣を身に着けるという語感が有ります。そのように、私たちは時間をか
けて思い巡らしキリストが私たちにしてくださったことを学んでいくのです。私たちはキリス
トへの信仰を実践し、それを人生の習慣としていかなければなりません。キリストが公生涯に
おいてお示しになったように、私たちも完全に神に信頼しなければなりません。
説教題:新しい人を着る
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)
導入)
パウロの勧めは4章1節から始まっています。(10月27日の記事参照)彼はキリストにある一
致についての長い説明を重ね、ようやく17節から召しに相応しい歩みについての次の勧めを始め
ます。この部分におけるパウロの要点は24節の、新しい人を着るというに有ります。そうするた
めにはどうしたら良いのかを確認して行きます。
本論) -新しい人を着るためには-
1)異邦人のような歩みをしない
パウロの勧告はかなり強いものです。言明するばかりでなく、厳かに勧めるとまで言ってい
ます。何故でしょうか。エペソの教会のクリスチャンの中に異邦人のような歩みをしていた人
たちがいたということかもしれません。異邦人というのは、ここではキリストへの信仰を持っ
ていない人たちと考えて良いでしょう。パウロは彼らに、「あなたたちはキリストへの信仰を
告白していますが、まるでキリストへの信仰の無い人のように歩んでいるではありませんか。」
と呼び掛けているのかもしれません。
パウロはそれから、その異邦人のような歩みがどんなものかを示しています。その有様は私
たちには関係ないように思えるかもしれません。しかし、私たちも注意深くパウロの勧告を考
える必要が有ります。18節の重要な点は、「神のいのちから遠くはなれている」ということで
す。
この考えはエデンの園にまで遡るものです。エデンの園の真ん中には、いのちの木と善悪を
知る木が生えていました。いのちの木は神のいのちを象徴しています。異邦人たちは神のいの
ちから離れているというのです。言い換えると、彼らは善悪を知る木にしがみついているとい
うことです。それはどんなことでしょうか。
真の意味で善悪を判断することは神に属しています。私たちの基準で物事や人々を判断する
ことは、自分が自分の人生の神であると宣言していることになります。それでは、自分のプラ
イドや自信に従って生きていることになります。すると、物事が自分の基準に反する方向に動
くとプライドが傷ついたり自信を失ったりします。
一方、私たちはいのちの木の法則に従って生きなければなりません。私たちはイエス・キリ
ストを通して神と再び結び合わされたのです。私たちはキリストから来る義と聖さを着せられ
たのです。ですから、私たちは判断を神に委ねなければならないのです。神に主導権を委ねな
いことは、18節に書かれている生き方になるのです。善悪を判断して決めつけることは、私た
ちの仕事ではないのです。
さて、パウロはクリスチャンに対して勧告しているのですが、19節はどのように彼らに関わ
りが有るのでしょうか。私たちがこのように勧告を受ければ、それは私たちには関係無いと感
じるだろうと思います。この節は性的不道徳について述べているように読めます。聖書では、
姦淫は偶像礼拝に関連付けられます。もし、私たちが神以外のものに信頼したりすることは、
霊的な姦淫を犯していることになります。この理解と、ギリシャ語辞典の定義を参考にして、
19節をよりクリスチャン向けに訳を試みると、次のように言えると思います。「霊的に鈍感に
なり、彼らは意思と聖霊によって制御されていない欲求に身を委ねて、その結果、貪欲に、あ
らゆる不純な動機のほしいままに行動しています。」そのような状態では、彼らはキリストに
いただいた義を忘れた生き方をしていることになります。彼らは、神に判断を委ねるかわりに
自己尊厳や彼らの生活の主導権を貪欲に追及していることになるのです。彼らの生き方は、善
悪を知る木の法則による生き方ということになります。彼らはイエス・キリストによる義とい
う神のいのちに基づいた生き方に立ち返る必要が有ります。私たちはどうでしょうか。
2)キリストを知り、キリストを学ぶ
キリストを知り、キリストを学ぶということには二つの面が有ります。私たちは継続的にこ
れらに取り組まなければなりません。
一つは先に確認した通り、18節と19節に示されている古い生き方を脱ぎ捨てることです。パ
ウロは22節で古い生き方を「欺く欲求によって滅びて行く古い人」と再定義しています。エデ
ンの園で蛇がアダムとエバを欺いたように、自尊心や人生 の主導権への欲求が私たちを欺き、
自分を善人で正しく感じるようにする満足感や達成感という偽りの約束を私たちに与えるので
す。
二つ目は、心の霊において新しくされることです。される、ということは受動態です。神の
言葉と聖霊が私たちのためにそれをなされるのです。しかし、私たちも従順しなければなりま
せん。ですから、私たちは聖書を読み続け、聖霊の導きを祈り続けるのです。また、同時に神
の義と聖にかたどり造られるのです。一体どうしたら私たちが神にかたどり造られる、神のよ
うになることができるのでしょうか。それも私たち自身ではすることができません。私たちは
イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。そうすると、恵によって神の
義と聖が私たちに与えられるのです。私たちはキリストにすべてを明け渡さなければなりませ
ん。自尊心やプライドという誘惑が私たちを煽り立てる時、祈りのうちにそれを神の手に委ね
るのです。このようにして、私たちは継続的に神への信頼を告白するのです。
イエスご自身がぶどう酒と皮袋の例話を語られた時に、同様の原則について教えておられま
す。もし私たちが、自己義認の古いぶどう酒を抱えていれば、その結果、奢ったり怒ったりし
ます。そういう現れが古い皮袋です。私たちが、神の義、神のいのちの法則という新しいぶど
う酒を抱えているならば、その結果である、従順と私たちの中に有る神の国という現れが新し
い皮袋です。
20節の学ぶと訳された語は、知るとも訳される語で、知識を増し加える、情報を与えられる、
実践によって学ぶ、習慣を身に着けるという語感が有ります。そのように、私たちは時間をか
けて思い巡らしキリストが私たちにしてくださったことを学んでいくのです。私たちはキリス
トへの信仰を実践し、それを人生の習慣としていかなければなりません。キリストが公生涯に
おいてお示しになったように、私たちも完全に神に信頼しなければなりません。