礼拝ビデオ
聖書箇所:1サムエル 1:1 - 20
説教題:ハンナの祈り
導入)
サムエルは士師の時代に生まれました。士師サムソンと同年代の人ということで、年表を見ると、二人とも紀元前1154年とされているものも有ります。士師記の最後には、人々は自分の目に正しいと思えることをしていた、としるされています。そのような、霊的に不確かな時代にも、神様の御手は伸ばされていました。
本論)
1節 サムエルの父、エルカナが紹介されています。エフライム人ということですが、地名は、レビ人への割り当ての放牧地を指しています。後にサムエルはレビ人にしか許されていない犠牲の捧げものをする記述が有りますので、レビ人の家系であることは確かです。
2節 エルカナには二人の妻がいました。重婚は奨励はされていませんでしたが、子供が生まれないともう一人の妻を迎えることは容認されていました。ですから、ハンナが一人目、ペニンナが二人目の妻であるということがわかります。
3節 エルカナは神に忠実な人物で、毎年、神殿の有ったシロに、礼拝をしに出かけていました。当時はシロに神の神殿が有ったからです。おそらく、家族での食事を伴う過ぎ越しの祭りのことではないかと考えられます。
4節、5節 エルカナは、過ぎ越しの食事の時には、ハンナに特別の分け前を与えていたということです。肉の量が倍だったとか、より高級な部位を与えた等の説が有ります。それは、特別なお客様であるという認識を示す時にもされた作法でした。エルカナに愛されてはいましたが、神は彼女の胎を閉じておられたということです。
6節、7節 神を敬うエルカナの家庭の中にも、罪の性質が現れてくる部分が有りました。私たちは、もう一人の妻、ペニンナの仕打ちをよく理解する必要が有ります。「彼女を憎む」と訳されていますが、英語の聖書ではライバルとも訳されています。その語は、苦悩、不幸の源、艱難、災難、激しい苦痛等を表すものです。いらだたせるという部分の原文の構造は、「彼女を怒らせるような方法で彼女を怒らせる」というような、強調の表現になっています。もしかすると、それは5年とか7年とか、かなり長い期間に渡ったことと考えられます。それが、祭りであり祝いの時である過ぎ越しの時に頂点に達するのでした。そのあまりの苦痛と悲しみのために、ハンナは過ぎ越しの食事ができないほどでした。
8節 エルカナは神を敬う人物であり、ハンナの問題は子供が生まれないことに関係が有るということは察知していたようでありますが、実際に家庭内で何が起きているかがわかっていなかったのではないかと思います。当時は、男性の部屋と女性の部屋が別々であったりしたこともその理由であったかもしれません。
9節、10節 それが何年目の過ぎ越しであったかはわかりません。ハンナの苦悩はとうとう耐えきえれない程になりました。食事の後、彼女は神殿に祈りに出かけました。シロの神殿の前には、祈りのための広場が有りました。大祭司エリが、神殿の柱の所に座っていたのは、そこで、人々の相談を受けたり審判をしたりしたからです。ハンナの心は痛んでいたという表現は、怒りや苦悩の叫びを含意する語です。彼女の選択は正しいものでした。神の元に来たのですから。
11節 祈りの内に導かれて、彼女は誓願を立てます。神が息子を与えてくださるならば、その子一生涯レビ人として神に仕える者として捧げますというのです。(シロの神殿で仕える祭司を念頭に置いたのだと想像されます。)
12節-14節 ハンナを見て、大祭司エリは、彼女が酔っていると判断しました。過ぎ越しの食事で葡萄酒を飲むのは普通のことでしたから、それで酔ってしまう女性もいたのです。神への祈りの場所で酔っているのは相応しくありませんから、「酔いをさましなさい。」と声をかけたのです。
15節、16節 心外なことを言われたわけですが、ハンナは丁寧に応答して状況を説明します。苦悩のあまり過ぎ越しの食事が喉を通らなかったのですから、彼女が酔っていたはずがありません。彼女がしていたことは、「心を注ぎだす」ということでした。心、思い、怒り、自己をほとばしり出させるという意味が有ります。彼女は心の内に有るすべての悩みを注ぎだしたということになります。
17節、18節 状況を理解したエリは、ハンナを祝福しました。神が全てを司っているという信仰によって、彼女は長年の心の重荷を神の前に降ろし、誓願を主の手に委ねきったのです。ですから、彼女の顔は、もはや以前のようではなかったと記されています。
19節、20節 いつものように、彼らは翌日礼拝をすると、帰路につきました。その後もペニンナの意地悪は続いたかもしれませんが、ハンナの心は揺るがされなかったのではないかと思います。神は祈りに答えて息子を与えられました。ここで、私たちは神が全てのことを司っておられることをもう一度覚えておく必要が有ります。ハンナの胎を閉じていたのは神でした。そのことが、ペニンナとの難しい関係につながりました。そして、そのことが、彼女を熱心な祈りと誓願に導きました。このようなできごとを通して、神はサムエルという重要な働きをした預言者を神の民にあたえられました。苦しみの中で注ぎだされた祈りと誓願が、神の栄光のために用いられることが有り得るのです。
まとめ)
ハンナの祈りを通して確認できることは何でしょうか。今回は次の三つを挙げておきたいと思います。
1)全てのことは神を愛する者のために相働いて益となる
受け入れ難い出来事が、神の御計画の一部であることが有り得るのです。私たちには、それがはっきりはわかりません。神を敬う家庭でも悪いことが為されていることが有ります。そのようなことが、私たちの家庭や教会でも起こることが有るかもしれません。それでも、神の摂理の中で生かされているということを信じなかえればなりません。そのような信仰に立って、神は、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝することを願っていらっしゃいます。
2)祈りの内に私たちの思いの全てを神に注ぎだす
主に、主の前で、主の前に、という表現が繰り返されています。彼女が注ぎだしたのは、怒り、苛立ち苦悩の叫びでした。私たちはそうすることができるのです。神は耳を傾け、受け入れてくださる方です。神は全知ですが、私たちに祈ることを求めておられます。私たちが積極的に私たちの重荷を主の前に降ろす時、神がご自身の栄光のために、私たちに最善のことを為してくださるという確信に導かれるのです。
3)神は私たちの誓願を神の栄光のために用いることができる
ハンナの誓願は個人的なものでした。神はその誓願をご自身の栄光のために用いられました。私たちは、神が私たちの人生に対して持っておられるご計画の詳細を知ることはできません。しかし、私たちの誓願を通して、神の恵みを受ける可能性は有るのです。すべての祈りが神の御心にかなうとは限らないことを、私たちは知っています。しかし、恵のこのような面を一切無視するべきではありません。