パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝(合同礼拝) 2021年8月29日

2021-08-30 23:25:58 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ
バイリンガル礼拝になっています。(コードy^fdE3@Uが必用です)

聖書朗読:ヨハネ3:16 - 21
説教題:ニコデモとサマリヤの女

概要)
有名な聖書箇所であるヨハネ3章16節が含まれる箇所を挟むようにして、ニコデモとサマリヤの女の話が前後に配置されています。ヨハネは意図的にそのような配置にしたと考えられます。それによって、イエスが、信じる者には様々な状況の人にでも永遠の命を与えること、十字架の贖いが必要なこと、聖霊の働きの恵が天の御国に入るために必要なっことを強調しています。

いろいろ感じる所の有る聖書箇所であると思いますが、今回の礼拝のためには、次の三点を確認してみたいと思います。

1)イエスは様々な状況の人々に神の国の福音を届けたいと思っておられる
2)イエスは、人々が永遠の命を得るために、イエスを信じる者になることを願っておられる
3)イエスの証人である私たちは、失望せずに、聖霊が人々に働くことを期待して待つ
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日曜礼拝 2021年8月22日

2021-08-22 22:08:29 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:1サムエル 1:1 - 20
説教題:ハンナの祈り

導入)
 サムエルは士師の時代に生まれました。士師サムソンと同年代の人ということで、年表を見ると、二人とも紀元前1154年とされているものも有ります。士師記の最後には、人々は自分の目に正しいと思えることをしていた、としるされています。そのような、霊的に不確かな時代にも、神様の御手は伸ばされていました。

本論)
1節 サムエルの父、エルカナが紹介されています。エフライム人ということですが、地名は、レビ人への割り当ての放牧地を指しています。後にサムエルはレビ人にしか許されていない犠牲の捧げものをする記述が有りますので、レビ人の家系であることは確かです。
2節 エルカナには二人の妻がいました。重婚は奨励はされていませんでしたが、子供が生まれないともう一人の妻を迎えることは容認されていました。ですから、ハンナが一人目、ペニンナが二人目の妻であるということがわかります。
3節 エルカナは神に忠実な人物で、毎年、神殿の有ったシロに、礼拝をしに出かけていました。当時はシロに神の神殿が有ったからです。おそらく、家族での食事を伴う過ぎ越しの祭りのことではないかと考えられます。
4節、5節 エルカナは、過ぎ越しの食事の時には、ハンナに特別の分け前を与えていたということです。肉の量が倍だったとか、より高級な部位を与えた等の説が有ります。それは、特別なお客様であるという認識を示す時にもされた作法でした。エルカナに愛されてはいましたが、神は彼女の胎を閉じておられたということです。
6節、7節 神を敬うエルカナの家庭の中にも、罪の性質が現れてくる部分が有りました。私たちは、もう一人の妻、ペニンナの仕打ちをよく理解する必要が有ります。「彼女を憎む」と訳されていますが、英語の聖書ではライバルとも訳されています。その語は、苦悩、不幸の源、艱難、災難、激しい苦痛等を表すものです。いらだたせるという部分の原文の構造は、「彼女を怒らせるような方法で彼女を怒らせる」というような、強調の表現になっています。もしかすると、それは5年とか7年とか、かなり長い期間に渡ったことと考えられます。それが、祭りであり祝いの時である過ぎ越しの時に頂点に達するのでした。そのあまりの苦痛と悲しみのために、ハンナは過ぎ越しの食事ができないほどでした。
8節 エルカナは神を敬う人物であり、ハンナの問題は子供が生まれないことに関係が有るということは察知していたようでありますが、実際に家庭内で何が起きているかがわかっていなかったのではないかと思います。当時は、男性の部屋と女性の部屋が別々であったりしたこともその理由であったかもしれません。
9節、10節 それが何年目の過ぎ越しであったかはわかりません。ハンナの苦悩はとうとう耐えきえれない程になりました。食事の後、彼女は神殿に祈りに出かけました。シロの神殿の前には、祈りのための広場が有りました。大祭司エリが、神殿の柱の所に座っていたのは、そこで、人々の相談を受けたり審判をしたりしたからです。ハンナの心は痛んでいたという表現は、怒りや苦悩の叫びを含意する語です。彼女の選択は正しいものでした。神の元に来たのですから。
11節 祈りの内に導かれて、彼女は誓願を立てます。神が息子を与えてくださるならば、その子一生涯レビ人として神に仕える者として捧げますというのです。(シロの神殿で仕える祭司を念頭に置いたのだと想像されます。)
12節-14節 ハンナを見て、大祭司エリは、彼女が酔っていると判断しました。過ぎ越しの食事で葡萄酒を飲むのは普通のことでしたから、それで酔ってしまう女性もいたのです。神への祈りの場所で酔っているのは相応しくありませんから、「酔いをさましなさい。」と声をかけたのです。
15節、16節 心外なことを言われたわけですが、ハンナは丁寧に応答して状況を説明します。苦悩のあまり過ぎ越しの食事が喉を通らなかったのですから、彼女が酔っていたはずがありません。彼女がしていたことは、「心を注ぎだす」ということでした。心、思い、怒り、自己をほとばしり出させるという意味が有ります。彼女は心の内に有るすべての悩みを注ぎだしたということになります。
17節、18節 状況を理解したエリは、ハンナを祝福しました。神が全てを司っているという信仰によって、彼女は長年の心の重荷を神の前に降ろし、誓願を主の手に委ねきったのです。ですから、彼女の顔は、もはや以前のようではなかったと記されています。
19節、20節 いつものように、彼らは翌日礼拝をすると、帰路につきました。その後もペニンナの意地悪は続いたかもしれませんが、ハンナの心は揺るがされなかったのではないかと思います。神は祈りに答えて息子を与えられました。ここで、私たちは神が全てのことを司っておられることをもう一度覚えておく必要が有ります。ハンナの胎を閉じていたのは神でした。そのことが、ペニンナとの難しい関係につながりました。そして、そのことが、彼女を熱心な祈りと誓願に導きました。このようなできごとを通して、神はサムエルという重要な働きをした預言者を神の民にあたえられました。苦しみの中で注ぎだされた祈りと誓願が、神の栄光のために用いられることが有り得るのです。

まとめ)
ハンナの祈りを通して確認できることは何でしょうか。今回は次の三つを挙げておきたいと思います。

1)全てのことは神を愛する者のために相働いて益となる
  受け入れ難い出来事が、神の御計画の一部であることが有り得るのです。私たちには、それがはっきりはわかりません。神を敬う家庭でも悪いことが為されていることが有ります。そのようなことが、私たちの家庭や教会でも起こることが有るかもしれません。それでも、神の摂理の中で生かされているということを信じなかえればなりません。そのような信仰に立って、神は、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝することを願っていらっしゃいます。

2)祈りの内に私たちの思いの全てを神に注ぎだす
  主に、主の前で、主の前に、という表現が繰り返されています。彼女が注ぎだしたのは、怒り、苛立ち苦悩の叫びでした。私たちはそうすることができるのです。神は耳を傾け、受け入れてくださる方です。神は全知ですが、私たちに祈ることを求めておられます。私たちが積極的に私たちの重荷を主の前に降ろす時、神がご自身の栄光のために、私たちに最善のことを為してくださるという確信に導かれるのです。

3)神は私たちの誓願を神の栄光のために用いることができる
  ハンナの誓願は個人的なものでした。神はその誓願をご自身の栄光のために用いられました。私たちは、神が私たちの人生に対して持っておられるご計画の詳細を知ることはできません。しかし、私たちの誓願を通して、神の恵みを受ける可能性は有るのです。すべての祈りが神の御心にかなうとは限らないことを、私たちは知っています。しかし、恵のこのような面を一切無視するべきではありません。
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日曜礼拝 2021年8月15日

2021-08-16 22:26:11 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ15:1 - 20
説教題:真の問題に目を留めよ

導入)
 直前の14章では、イエスが5つのパンと2匹の魚で五千人を養う奇跡が行われました。このため、無理にでもイエスを王にしようとする人たちが出ました。この動きにパリサイ人たちは警戒心を強めた様子です。今回は、わざわざ首都のエルサレムからおそらく位が高いであろうと思われるパリサイ人たちが、イエスのメシアとして相応しくないとする材料を求めてやって来たようです。

本論)
 彼らがした追求は、イエスの弟子たちが先祖たちの言い伝えに従って、食前に手を洗っていないということでした。先祖たちの言い伝え、もしくは長老の言い伝えというのは、律法を守るにあたっての手引きのようなもので、元来は口伝でした。しかし、それは行き過ぎたところが有りました。手を洗うというのは、出エジプト記30:19等に出て来る、祭司が勤めをする前に手足を洗うという命令を、過度に一般化したものと考えられます。神はそのような命令はしていませんでした。
 イエスは回答する代わりに、別の質問をパリサイ人たちにしました。ここで取り上げたのは、十戒の中の第五戒、「父と母を敬え」でした。これを守らない者は死ななければならないと書かれている程の強い戒でした。この戒めは、両親が老齢になって肉体的にも経済的にも援助が必要になったら、子供たちが援助しなさいということが含まれていました。しかし、長老の言い伝えでは、両親の援助に用いられるはずの財産は、神への捧げものにしましたと言えば、援助をしなくても良いということになっていました。両親への援助を拒む言い訳を与えていたことになります。ですから、イエスは、人間の考えた言い伝えのために、神の戒めを廃棄していると、逆にパリサイ人たちを責めています。そして、神を敬うことを教えながら、実際にはそれを破ることを進めている彼らのことを偽善者と呼んだのです。イエスが引用したのは預言者イザヤの言葉ですが、パリサイ人たちの様子を如実に表したものでした。
 それ以上の対話は無かったのでしょう。イエスは、群衆にを呼び寄せて話し始められました。その要点は、「聞いて悟りなさい」ということでした。動詞の時制は、継続的動作を表すものですから、「継続的に聞き、悟続けなさい」と理解できるものになっています。私たちは、継続的に神の言葉である聖書に耳を傾け、継続的にその内容を理解しようとしなければならないのです。この注意を与えた後で、イエスは、パリサイ人たちが守っている長老の言い伝えの間違いを説明されました。パリサイ人たちは、汚れは自分たちの外側に有ると考えていました。だから、それを洗い落として、内側に入ってこないようにしようとしたのです。しかし、霊的な現実に目を留めれば、人には、罪から出て来る汚れを内側に存在しているのです。パリサイ人たちもまだ側にいて、この言葉を聞いていたと思われます。
 12節に、「そのとき」と書かれています。直後に続いてという理解ができるようですが、多分、個人的家などに入ってからのことであると考えられます。そこで、弟子たちがイエスに、「パリサイ人たちが腹を立てたのをご存知ですか。」と言いました。わざわざエルサレムから来たのに、パリサイ人たちは公衆の面前で偽善者と呼ばれたりした上に、イエスに言い返すこともできなかったのですから、相当立腹していたと思われます。弟子たちは、そのせいで自分たちに危害が及ぶのではないかと恐れていたのかもしれません。もしかしたら、イエスが上手に彼らをなだめてくれないかという期待も持っていたかもしれません。しかし、イエスの回答は、「放っておきなさい」というものでした。それは、弟子たちには神の守りが有るということと、パリサイ人たちは神に選ばれておらず、裁きの時に滅びるからだという理由によるものでした。パリサイ人たちに弁解しても、福音を伝えても、彼らは理解しないということも表しているようです。ましてや、彼らの教えに従って行こうものなら、同様に滅びに向かってしまうということになったでしょう。パリサイ人たちは、盲人にたとえられることは決して有りませんでした。律法に通じていて、頭脳明晰であると考えられていたからです。ですから、弟子たちは驚いたかもしれません。
 ここで、ペテロがたとえの解き明かしを願います。たとえは、11節に出て来た内容のことです。17節、18節で、イエスはより詳しい説明をされています。真の汚れ・問題は人の内側に有るのだということを、19節では例を挙げて述べられました。殺人は創世記の4章という、早い時期に記録されています。創世記6章では、既に地は暴虐に満ちていたと書かれています。ギリシャ語の旧約聖書でこの暴虐という部分に用いられている語は、不道徳、不法、邪悪、不公正をも表すものになっています。19節に挙げられた例は、全て、人類の堕落の直後から私たちの内側に有ったのです。しかも、これらは複数形で表されています。あらゆる種類の、という語感になっているのです。そういう罪の性質が私たちを汚すのですが、パリサイ人たちはそこには目を向けませんでした。そして、イエスを殺すことを画策するようになっていくのでした。

まとめ)
 私たちは、真の問題に目を留めなければなりません。それは、私たちの内側に有る罪の性質です。どのように対処していかなければならにのでしょうか。

1)神の言葉だけに従う
  長老の言い伝えは、神の教えを守るために考えれました。しかし、それは幼稚な人間的な教えでした。その結果、むしろ神の掟を破ることになっていました。私たちも、人間的な知恵である自己啓発書などではなく、神の言葉である聖書の言葉だけに従って行くことが大事です。

2)神の言葉を聞き続け、理解しようとし続ける
  イエスは群衆に継続的に「聞いて悟りなさい」と言われました。私たちもこのご命令に従わなければなりません。1ペテロ2:1 - 2を読んでみてください。ペテロがこの部分を書いた時、マタイ15章のエピソードを念頭に置いていたのではないかと思われる内容の一致が有るではありませんか。ですから、私たちも、聖書を熱心に読み続けましょう。わからない所が有りましたら、牧師に尋ねる、信頼できる註解書を探してみるなどのことをするのです。そのようしにして、私たちも継続体に聞いて悟るようにするのです。

3)真の解決を見出す(真の汚れの洗いを知る)
  真の問題は、私たちの内側に有る罪の性質です。では、真の解決は何でしょうか。罪というのは、創造主である神を認識しないで生きることです。真の解決は、その断絶を修復されるために来られた、救い主イエス・キリストを信じることです。私たちが悔い改めて行き方を変える時、イエスの義が私たちに着せられるのです。神の霊が与えられて、19節に述べられているような罪の所業を避けたいと思う心が与えられるのです。それが、真の汚れの洗いということです。後にイエスは26章で、聖餐式の制定をされる時、罪を赦すために流す契約の血だと言われました。弟子のヨハネは、第一ヨハネ1:9で、悔い改めるならば、神が罪を赦して、悪からきよめてくださると記しています。このような真の解決に至った時、その人は新しく造られたた者だとパウロは宣言しています。(2コリント5:17参照)それが、私たちの宣言になるのです。
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