パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2021年1月24日

2021-01-25 00:42:34 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:詩編50編
説教題:あなたの誓いをいと高き方に果たせ

導入)
  この詩編にはアサフによるという但し書きが有ります。アサフはダビデが任命した聖歌隊の指揮者たちの一人です。他に11編の詩編が残されています。彼は、1歴代誌25章2節では、預言者とされています。詩編50編は、明らかに神の言葉を伝える預言になっています。アサフを通して神は民を叱り、道を整えるように呼び掛けています。(23節)他の訳では、道を真っすぐにせよ、そうすれば、神の救いを示そうという表現になっています。この表現は、バプテスマのヨハネの到来を預言するイザヤ40章3節とも共鳴しています。私たちの道を整え、私たちの誓いを果たすために知るべきことを確認してみましょう。

本論)
1)私たちに契約をくださった神を知ること
  5節で神は、神と契約を結んだ民を招集しています。私たちが契約を結ぶ時には、契約の相手がどのような人かをよく確認しなければなりません。ここにおいては、神が契約の相手です。この神は、創造者であり、主の主であり、全能の王です。加えて、繰り返し示されていることは、神は義なる審判者であるということです。(4節、6節参照)
  5節には、どのように神との契約がなされたかも示されています。「いけにえにより」契約を結んだのです。一例を挙げると、神はアブラムがいけにえの動物を用意させて、そのいけにえを受け入れられた後で、契約を結んでいます。(創世記15章参照)私たちにとって更に重要なことは、私たちと神の契約は、イエス・キリストといういけにえを通して結ばれたということです。(ヘブル10章10節参照)このイエスが、最後の審判の時には私たちの審判なのです。私たちに罪の赦免を告げ、永遠の命を宣言してくださるのです。神は恵と愛に溢れる素晴らしいお方です。

2)契約の精神を知ること
  神は民と結んだ契約に誠実な方です。その代わりに、神は私たちにも誠実であって欲しいのです。(申命記6章5節、10章12-13節参照)心を尽くして神を愛することを求めておられます。この詩編の7節、8節では、神が民に「あなたを戒めよう」と責めています。責められる理由は、いけにえを捧げないからではありません。彼らは常にいけにえを捧げて、礼拝をしてはいました。しかし、彼らの心構えは正しくありませんでした。彼らは形式主義、偽善に陥っていたのです。外見的には忠実に礼拝していましたが、誠実な思いを持っていませんでした。その結果、彼らは神がどのような方であるかを忘れていました。それで、9節から13節にかけて、神はご自身がどのような存在かを示しておられます。神は創造者で自足的存在です。人に養ってもらう必要は有りません。神が民を責めるのは、いけにえを捧げないからではなく、礼拝の心を持たずにいけにえを捧げているからです。主イエス・キリストも、サマリヤの女に、神は霊とまことをもって礼拝する者を求めておられると言われました。(ヨハネ4章23節、24節参照)
  神は更に悪い状態の人たちに目を向けます。神は彼らを「悪者」と呼んでいます。彼らには、礼拝の心が欠けているばかりではなく、神の戒めを憎んでいました。(17節)彼らが神のおきてや契約について語ることが有るとしたら、それは場を牛耳ったり言い訳をしたりするためだけでした。(16節)彼らの罪の様子は二つ指摘されています。一つ目は、神は彼らと同じような存在だと思っていました。(21節)彼らがするような悪行に神が怒られることはないとたかをくくっていました。もう一つは、彼らは神を忘れているということでした。(22節)忘れると訳された語は、無視する、気配りすることを止めるという意味が有ります。それは、神が求める、先に確認した申命記6章5節の態度に反するものでした。私たちは、日常生活において、祈ること、賛美の歌を歌うこと、信仰の告白をすること、聖書を用務ことなど、あらゆる方法で神とのつながりを持たなければなりません。

3)契約の実践を知ること
  神は民にするべきことを示しました。(14節、15節)その基本原則は、「あなたの誓いをいと高き方に果たせ」ということです。彼らの誓いとは何でしょうか。私たちの誓いは何でしょうか。それは神を愛し、その教えを守ることです。新約ではイエスが弟子たちにそれを伝え、それを宣教命令に明示しています。(ヨハネ15章10節、マタイ28章20節参照)神の教えを守ることは、彼らが神と契約を結んだ時に誓ったことです。私たちもそう誓ったのです。そうであれば、14節、15節に示された、神に感謝をささげ、苦難の日に神を呼び求めるのは、当然の帰結です。私たちは神と契約を結び、誓いを立てたのですから、そうすることができますし、そうしなければならないのです。それが、新約聖書においても神に感謝と願いを祈りのうちに表わすことが繰り返し奨励されている理由です。(たとえばピリピ4章6節、7節)この奨励、命令に従う時、私たちは神への愛と信頼を示しているのです。それが、私たちが信仰を持った時に神に立てた誓いを果たす方法なのです。感謝をささげ、願いをささげるために神の名を呼ぶことは、私たちの特権であり、同時に義務なのです。

まとめ)
私たちの誓いを神に果たすために知っていなければならないことを再確認しましょう。

1)私たちに契約をくださった神を知ること
  神は創造主で、私たちに対する愛と慈悲に満ちています。同時に、神は義なる審判者です。神は私たちを最後の審判の時に裁かれます。私たちは、その偉大な神と契約を結びました。神の御性質のすべてに敬意と愛を持ちましょう。

2)契約の精神を知ること
  私たちは礼拝の心を持っていなければなりません。いつも神を訪ね求める心をもつのです。毎瞬毎瞬を神をたたえる機会としながら、心から神を求めるのです。可能な限り、様々な方法を通して神を尊び、栄光を帰するのです。

3)契約の実践を知ること
  感謝と願いの祈りを絶えず神にささげることが求められていることを、私たちは繰り返し聞かされてきました。それを実践に移すのです。私たちは神に感謝をささげること、困難な時に神の名を呼び求めることが、私たちの特権であり、義務であることを心に留めて、意識的にそうしなければなりません。
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日曜礼拝 2021年1月17日

2021-01-18 11:40:27 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ13章24節ー43節
説教題:毒麦のたとえ

導入)
  今回の聖書箇所は、直前の種まきの例話に似ている部分が有ります。今回の聖書箇所も、毒麦の例話で始まり、弟子の質問に答えたイエスによるその例話の説明で終わります。中間には、なぜイエスが例話で話すのかの説明が挿入されています。そういう部分が、前の例話の部分の構成と同じになっているのです。また、今回も種まきに関係する例話になっています。違いは、中間の説明の前に二つの例話が添えられていることです。マタイがここで伝えようとしていることを探ってみましょう。

本論)
  この例話を確認するためには、毒麦がどんなものかを理解しなければなりません。この麦を食べてしまうと、眩暈と激しい吐き気がするということです。麦と近い品種で、その生育サイクルも麦と同じです。しかも、その外見も麦とよく似ているのです。また、麦と毒麦の根は互いに絡み合うので、麦畑からこれを取り除くは難しいのです。この二つの麦が区別しやすくなるのは、実が実時です。毒麦の穂の出方は麦と異なっており、色が濃いのです。ですから、例話の中で、主人が収穫の時まで待とうというのは十分理に適った判断なわけです。
  イエスはこの後にからし種の例話とパン種の例話を加えられますが、ここに、どうしてイエスが例話で語られるのかの説明が再度示されています。今回は、詩編78編2節が引用されて、その預言が成就したと述べられています。預言が成就したということは、イエスは旧約聖書に預言されたメシア、救い主だということです。その口が語ることは、「昔からの謎」です。それは、イエスの降誕と福音のメッセージです。それは世の始めから計画されていましたが、イエスが公生涯を始めて宣教を始めるまでは隠されており、謎だったのです。
  弟子たちがここで再びたとえの説明を求めます。彼らは聞く耳を持つ者の態度を示したのです。彼らはたとえが理解できなかったのですが、神の国を知識を探し求める熱意が有ったのです。イエスはそこで毒麦のたとえの説明をします。直前の種まきのたとえでは、良い地に落ちた種は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶとまとめられています。その実っていく麦の間に、サタンが来て毒麦、すなわち悪魔の子をまいていくのです。38節では、畑は世界のことと説明されていますが、毒麦は良い麦の間にまかれていますから、教会にも毒麦がまかれたと考えることが可能です。また、25節では、敵は人々が眠っている毒麦をまきました。つまり、ことは人が気づかないうちに行われるということです。天使たちは早いくちからそれを認識できるのかもしれませんが、私たちにはわからないことです。しかし、それは構わないのです。世の終わりが来る時、神が判断を下し、天使たちが毒麦を集めて火の燃える炉に入れます。しかし、神の国の子は栄光をを与えらるのです。

まとめ)
  一度毒麦のたとえと解説の間に配置された二つのたとえに目を向けておきましょう。この二つのたとえの解釈は、二通り有ります。一つは、神の国はからし種の木のように、または、パン種の入ったパン粉のように大きくなって行くという理解です。それは、神の国は、という主語で始まっているからです。もう一つは、毒麦のたとえとの関連であること、及び、鳥やパン種というシンボルが、聖書の中では悪魔や悪い教えを表すことから、神に敵対する勢力も大きくなるという理解です。どちらの理解にも共通していることは、毒麦が人の気づかないうちにまかれたのと同様に、からし種もパン種もその存在は目につかないということです。からし種は大変小さいものの代表であり、まかれてもどこに有るか気づけないようなものです。練られたばかりのパン粉を見ても、どれにイーストのようなパン種が入っているかはわかりません。からし種もパン種も、時間が経ってからその存在が明らかになるのです。信仰者の集まりは傍目に明らかですから、私は毒麦の様子の話であると考える方が辻褄が合うように思います。しかし、世の終わりが来れば、天使には容易に毒麦を見分けて彼らを集めることができるのです。

この箇所全体を通して確認できることは何でしょうか。

1)私たちはイエスのことばを聞き続け、神の国を求め続けなければならない
  預言の成就はイエスが真のメシアであることを証明しています。そのイエスが、旧約時代の聖徒たちに隠されていた、神の国と救いの福音を語られました。イエスの教え、神の言葉とその意味を、弟子たちがしたように、探し求め、神の国を求め続けなければなりません。

2)神は世の終わりに悪い者のこどもたちを区別し、裁く
  もし教会の中の人が明らかにキリストの教えに反することをしたり教えたりすれば、聖書に示されている規範に従って裁かなければなりません。しかし、毒麦、悪い者の子たちは、私たちには識別できないのです。彼らを取り除くのは私たちの仕事ではありません。最後日には彼らの実で天使たちは彼らを識別します。彼らは世の終わりに私たちの中から取り除かれ、裁かれるのです。

3)私たちはイエスの言葉を聞き続けることによって、栄光から栄光へと成長する
  種まきのたとえでも、毒麦のたとえでも、良い種の成長は保証されています。イエスは、再び、「聞く耳のある者は聞きなさい」という警告でこの箇所を締めくくっています。私たちも、弟子たちがしたように、イエスの教えを聞き続けなければなりません。世の終わりが来ると、神は私たちを正しい者たちとしてくださり、神の民、神の羊として集めてくださるのです。私たちは天のみ国で太陽のように輝くのです。
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日曜礼拝 2021年1月10日

2021-01-10 21:02:53 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ13章1節ー23節
説教題:見ている目、聞いている耳の幸い

導入)
   最初に今日の朗読箇所の構成を確認してみましょう。1節から9節まで、イエスが群衆に種まきの例話を語ります。次に10節から17節で、どうしてイエスは例話で人々を教えるのかという弟子たちの質問へのイエスの回答が述べられます。18節から23節では、再び種まきの例話に焦点が戻り、イエスによる解説が述べられます。すると、イエスへの質問と回答を真ん中に配置して、両側を種まきの例話がはさむ、サンドイッチ構造になっています。
   多くの場合は、神の言葉なるイエスが自ら解説をしたので、種まきの例話の意味に注目して学ぼうとします。しかし、このサンドイッチ構造においては、真中に配置されている部分にも重要な役割が有り、意図的にそこに配置されているのです。それが、イエスの伝えようとしたことの中心的な内容になります。今回は、主にその部分から御心を求めていきたいと思います。

本論)

10節 例話にあたる語は複数形で示されています。ですから、どうして普段から例話で教えるのかという質問と考えられます。その質問だと、弟子たちは例話を理解しているかのような印象になります。しかし、ルカ8章を見ると、弟子たちも理解できていなくて、種まきの例話の説明を求めています。
11節 イエスのここで二種類の人がいることを示していることになります。一つのグループの人たちは、天の国の奥義の知識を知ることが許される人たちと、そうでない人たちです。奥義と訳された語は、以前はわからなかったこと、啓示されていなかったことで、現在は啓示され、明らかになったことを示す語です。それは、イエス・キリストに関する知識であり、福音の知識のことです。イエスの弟子たちは、その詳細を教えられ、知らされることが許されている人たちでした。
12節 ここで「持っている者」というのは、イエスを知り、福音を知っている者です。また、それを知ろうとする気持ちの有る人たちです。さらに与えられるというのは、神の国の福音の知識と理解へ導かれることです。それを持っていない者は、ここではパリサイ人たちを含む群衆ということになります。彼らが「持っているもの」は、アブラハムの契約やモーセの律法です。しかし、彼らがイエス・キリストを拒絶するならば、彼らが持っていると思っている契約も律法も意味をなさなくなってしまうのです。
13節 どうして例話で教えるのかの説明が出て来ます。それは、イエスの福音のメッセージに心を開かない人たちがいるからです。彼らはたとえ詳細に福音の説明がなされても、イエスを信じ福音を受け入れることはないのです。心の開かれている人たちなら、弟子たちと同じように、解説を求めに行きます。そのようにして、見る目が有り、聞く耳の有る人たちがはっきりしてくるからです。
14節、15節 続いて、イエスは、聞く耳を持たない人たちが出ることさえイザヤの預言の成就であると言われました。すべての人がイエスと福音を受け入れるわけではないことも預言されていたのです。この預言の成就は、イエスがイザヤが預言したメシアであることをも意味していました。
16節 弟子たちはイエスの例話を理解できませんでしたが、イエスのところにその解説を求めてやってきました。その姿勢が、見ている目が有り、聞く耳が有るというふうに表現されています。その姿勢が有ることが幸いなのです。彼らには、イエスに対する信仰が有り、神の国に関係の有る例話を理解したいという熱心さが有りました。他の箇所で、イエスは、神の国について、求めなさい、探しなさい、叩きなさいと奨励しています。正に弟子たちはそれを実践したのです。
17節 どうして幸いなのかというと、彼らは旧約の聖徒や預言者が見たい、聞きたいと熱望したことを見聞きしているからだというのです。(創世記49章18節、イザヤ25章9節参照)彼らはメシアであるイエス・キリストを目撃したのです。私たちもその特権に与っていることを知らなくてはいけません。私たちはイエスと顔を合わせることはできませんが、イエス・キリストと福音の知識を持っているのです。
18節 「ですから」という理由の接続詞で始まります。弟子たちには神の国の奥義を捜し求めて聞く心構えが有りました。その結果、イエスは種まきの例話の解説をしてくださるというのです。種は神の国の福音のことですから、誰にとっても同じ内容になります。しかし、それがどのように育つかは一人一人の心構えで変わってくるのです。この例話に出てくるように、私たちに対してもサタンやこの世が神の国の成長拡大を妨げようとするかもしれません。それでも、私たちに神の国の奥義を理解しようとする熱意が有るならば、私たちの霊的な生活は豊かになって行くのです。

まとめ)
   イエスは16節で、弟子たちの目は見ており、耳は聞いているから幸いだと言われました。見ている目、聞いている耳の幸いはなんでしょうか。ここでは次の三つを挙げたいと思います。

1)神の国の奥義の知識が与えられていること(11節)
   1節では大群衆がイエスの話を聞きに来たことが示されています。しかし、神の国の奥義は、全ての人に開かれているのではありませんでした。恵によって、神に選ばれて、私たちもその奥義を与えられる者となりました。イエス・キリストの福音と救いの詳細を聞き、受け入れることができた幸いです。

2)神の国の奥義を知ろうとする熱意が霊的な豊かさに導くこと(12節)
   奥義を知りたいと思う心も神からの賜物です。私たちは、旧約の聖徒や預言者たちが切に見聞きしたいと思ったことの全容を知ることができるようにされた特権に感謝しなければなりません。そして、イエスと福音の知識をもっと得たいと思う熱意が、更に聖書と聖霊の働きを通して、神との親密な関係を増し加えていくのです。

3)自然な帰結として霊的に豊かな実を結ぶこと(23節)
   たとえ私たちに様々な困難や妨害が有っても、私たちが真に見る目、聞く耳と形容される神の国を尋ね求める心構えが有るならば、私たちは実を結ぶのです。それは、霊的な成長であったり、神の国を広げることにつながる証や宣教を含む実践であったりします。その実が百倍、六十倍、三十倍のいずれであるかは、私たちが心配することではありません。それは神の導きと恵に委ねるものです。注解によりますと、イスラエルでは、麦などの穀物は、通常まいた種の三十倍の実を結び、土壌や気候条件が良い年には六十倍、百倍の実を結ぶことが有るということでした。そのような条件は神が支配しておられることであり、また、自然の結果でもあるわけです。神に委ね、時が来れば、その結果がわかるのです。

これらの幸いを持っていることを、イエスは弟子たちへの励ましとして語られたのだと思われます。
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日曜礼拝 2021年1月3日

2021-01-03 18:48:14 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:エレミヤ9章23節-26節
説教題:ただこれを誇れ

導入)
   エレミヤは、ヨシア王の治世に預言を始め、ユダ王国の霊的没落を目撃し、バビロン捕囚も経験した人物です。エレミヤ書を読むと、ユダの人々がいかに高慢で自信家で頑固であったかがうかがえます。彼らはエレミヤの悔い改めの呼び掛けに耳を傾けませんでした。彼らは神の下す罰としての災いの預言も無視しました。(9章11節参照)本日の聖書箇所でも、ユダと周辺の国々への神の罰の宣言が含まれています。同時に、私たちが学ぶべき原則が示されています。これを確認していきましょう。

本論)
   23節 ここで神は人々に誇ることを禁じておられます。それは、ユダの人々が驕り高ぶっていたからです。その高慢の故に、彼らはエレミヤのような神の使者にも言い逆らっていました。彼らは、自分たちが有能であり、物事は自分たちで支配できると思っていました。神はここで三種類の誇りを取り上げています。

1)知恵への誇り
   知恵と訳された語は、戦争における戦略に長けていること、統治、運営上の知恵を指す言葉です。言い換えれば、彼らは政治力を誇っていたと言えます。神が他国によってユダ王国を罰してエルサレムを滅ぼすと預言したのですが、彼らは単に政治的な面にだけ目を留めたようです。おそらく、彼らは、敵国と上手な交渉ができると思ったのでしょう。もしくは、別の強国と同盟を結ぶことでしのぐことができると考えたのかもしれません。神は、そのようなことは効果が無いと警告をしていると考えられます。

2)軍事力への誇り
   強さと訳された語は、戦闘において強いこと、勇敢であることを指す語です。ユダにどれだけ戦闘に長けた兵士がいたか、どれだけの軍馬や武器が有ったかはわかりません。しかし、彼らは、その軍備は敵と対峙するのに十分であると考えたようです。彼らは神ご自身が滅亡をもたらすのだということに注意を払いませんでした。言い換えれば、彼らは神の計画にさえ挑戦し、それを変えることができると考えたということになります。如何に彼らが反抗的で罪深い態度であったかがわかります。

3)富への誇り
   ユダ王国がどれだけ富んでいたかはわかりません。フェニキアなどの通商の盛んな国との交易がうまく行っていたりしたのかもしれません。あるいは、農業が向上して、農産物の収穫高が増加していたのかもしれません。それによって、敵国をなだめるだけの十分な貢物を納めることができると考えたのかもしれません。それらの富は、神の恵であるということを、彼らは忘れていました。神がすべての良い物の源です。神が味方でないならば、彼らの政治力、戦力、富は、彼らを助ける力にはならないのでした。

24節 ここで神は、正しく誇るべき事柄を示します。                
   一つ目は、悟りを得て神を知っていることを誇るべきだということです。悟りを得るという動詞も、神が目的語で、理解するという意味が有ります。神を理解し、知っていることが誇るべきことなのです。理解するという語は、気配りをして注意を払って理解を得る、会得するという意味が有ります。また、知るという語は、経験によって知っている、親密な関係で知っているという意味が有ります。そのような在り方で私たちは神を理解し、知る者でなければなりません。ユダの人々にはそれが有りませんでした。
   二つ目に神の理解の中身が的確でなければならないということです。ここでは三つの中心的な神の御性質が取り上げられています。一つ目は、「恵をもたらす神」ということです。恵は旧約聖書では神の性質、善を表すために頻繁に用いられている語です。それは、恵によって民に与えられた契約や救いにもつながっているのです。また、神がその契約を誠実に守られる方だということにもつながっています。神は信頼できるお方なのです。二つ目は、「公義を行われる神」ということです。公義という語は、審判という意味も有ります。神が唯一本当の善と悪を判断できる方です。善悪を知る木の実を食べたアダムとエバの子孫は、いつでも善悪の判断を下したがりますが、それは、神の座に着こうとすることです。私たちは、神が正しく裁いてくださり、公義を行われるのだということを信頼して、主に委ねて歩まなければなりません。三つ目は、「正義を行う神」ということです。これは、神の救いの計画につながります。神の正義は、悔い改めて神に従わない者に罰を下します。また、神の正義は、聞き従う者に報酬を与えます。私たちは、神を理解し、イエス・キリストへの信仰によって与えられる神の義を理解し、受け入れました。(ヨハネ5章24節)イエス・キリストは正義そのもののお方です。24節の最後には、神がこれらの性質が人々に理解されることを喜ぶのだということが記されています。神は、民がその原則や理解に従って生きることを喜ばれるのです。

   25節、26節 この部分については、簡単にまとめたいと思います。日々の行いや神に仕えることは、真摯な姿勢でなされなければならないということです。そうでなければ、外面的な割礼を受けいているユダヤ人も、割礼を受けていない諸国の民と変わらないというのです。ですから、25節では、割礼を受けている者を罰すると述べられており、26節では、心に割礼を受けていないからだと締めくくられているのです。

まとめ)
   この箇所から、次の三つの要点が確認できると思います。

1)自分の(肉の)力を誇らない
   どんなに私たちが有能であっても、私たちはいつかは朽ち果てる存在です。私たちの知恵は、神からみれば愚かさにしかすぎません。神の前には、私たちの能力や富は何の役にも立ちません。私たちは物事を支配してはいません。神だけが物事を完全に支配できる方です。霊的に現実的な考え方、判断をしましょう。

2)神を理解し、知っていることを誇る
   私たちは心がけて神に目を留めなければなりません。私たちは、祈りのうちに、聖書を読むことを通し、また、日々の生活の中で信仰の告白をすることで、親密さを増し加えて行きながら神を理解していかなければなりません。

3)恵をもたらし、公義と正義を行われる神を誇る
   この原則は、新約聖書では、ガラテヤ6章14節に出て来ます。その実践は、神の約束と誠実さに信頼して希望を置くことになります。私たちは、そこに神の救いと天の報酬を見出すのです。神は聞き従う者に常によくしてくださるお方です。

この新年の始まりに、今年も自分の能力を誇らず、神とその良い業を誇って生きて行くのだという決心をしていただきたいと思います。
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