パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年8月25日 Chris Siriweera 師

2019-08-26 21:03:32 | 日曜礼拝
聖書箇所:エペソ2章1節~10節
説教題:恵のみ

導入)
 パウロはここで、恵について説明をしようとしています。その指し示すところは、恵のみ、
言い換えれば、業によるのではないということになります。この聖書箇所から、三つのことに
目を留めます。
1)救にいたる道・方法
2)救いにいたらない道・方法
3)私たちの生きるべき道・方法

本論)
 
1)救いにいたる道・方法
 8節には、救われたという記述が有ります。救われるとはどういうことでしょうか。何から
救われるのでしょうか。最近のニュースで、自閉症の少年が行方不明になって、四日後に森の
中から発見されたというものが有りました。少年の救出の報に触れて、私たちには喜びが有り
ました。
 では、私たちは何から救われたのでしょうか。2章のはじめに、それが示されています。罪
と罪科の中の死、この世の流れに従った歩み、この世の支配者・サタンに従った歩み、肉の欲
に従った歩み、神のみ怒り等からです。このような歩みをしていた人たちが、5節以降を見る
と、天の所にすわらされたと書いてあります。
 この変化がどのようにもたらされたかは、4節の「しかし、あわれみ豊かな神は」という部
分に見いだされます。神が介入してくださったのです。私たちの神は「あわれみ豊かな神」な
のです。人間はあわれみを請われても拒絶することがあるかもしれません。しかし、神は、悔
い改めてその罪を告白する者にはだれにでもあわれみを示してくださるのです。
 どうして、神はそうしてくださるのでしょうか。5節にあるように、ただ恵により、恵のみ
によってなのです。その恵によって、私たちは死者の中からよみがえらされる者となりました。
どうして、神の介入が有ったのでしょうか。霊の死から私たちをよみがえらせることは、神に
よってしかできないからです。わたしたちに代わって、それができる存在がしてくださらなけ
ればなりません。だから神がキリストのうちに私たちを生けるものとしてくださいました。そ
して、キリストともに、天の所にすわる者としてくださいました。その目的は7節に示されて
います。のちに来る世に神の恵みを豊かに示すためだというのです。
 この恵とは何でしょうか。恵は私たちの功徳によるのではありません。私たちの功績なしに
神様が与えてくださるご好意が恵なのです。それはプレゼントなのです。そのことは8節に示
されています。「恵のゆえに信仰によって救われたのです。」「神からの賜物です。」と書か
れています。救いにいたる道・方法は、悔い改めて、神のあわれみ、恵というプレゼントをい
ただくことです。

2)救いにいたらない道・方法
 9節には、行いによるのではありません、と書いてあります。それは、だれも誇ることのな
いためだとも書いてあります。そうです。私たちは行いによっては救われないのです。多くの
宗教は何かをして徳を積むと救われると教えたりします。しかし、神は、行いによるのではな
いと言われます。行いを奨励する言葉は多くあります。最善を尽くせ。戒めを守れ。施せ。他
人に親切にしなさい。それらは悪くはありませんが、行いであって、救いの道ではありません。
神から見れば、私たちの最善など少しも神の良さの水準には達しません。だから、救いは行い
によるのではないと神は言われるのです。
 宗教改革者、マルチン・ルターは、ウィッテンバーグで95箇条の論題を教会の門に貼りまし
た。ルターは人の行いや業が人間と神の関係を正しいものにすることが決してないことを理解
していたのです。わたしたちは、救いを得るためにお金を払うとか業を行うなどということは
できないのです。神の恵みのみによって救われるのです。それが神の恵みなのです。

3)私たちの生きるべき道・方法
 私たちはどのように神の恵みに応答して生きるべきでしょうか。10節に答えが有ります。神
が備えられた良い業をすることによってです。神の作品と書いてありますが、どういうことで
しょうか。F.F.ブルースは、「私たちは神の芸術作品であり、神の傑作である。」と説明して
います。イエス・キリストにあって罪の中に死んでいた私たちが生きたものに変えられたこと
で、私たちは神の傑作になるのです。
 私たちは二重に創造された存在です。まず、神は私たちを物質的・肉体的に傑作として創造
されました。そして、今度は、霊的に神の子としてイエス・キリストを通して創造してくださ
ったのです。ですから、第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
と書いてあります。ですから、クリスチャンは神の二重の創造を経た神の傑作なのです。
 おわかりになりましたでしょうか。イエスを救い主として信じたら、あなたは神の傑作とな
るのです。私たちの中に神様の業が進行しています。ですから、自分のことを見下げたりしな
いでください。キリストにあって、私たちは計り知れない価値を持っているのです。私たちは
イエス・キリストにある自信を持たなければなりません。それは私たちが誇って得意になると
いうことではありません。それは、神の恵みに応答した良い業につながるものでなければなり
ません。他人を思いやる。人々を助ける。もてなしの心を示す。いろいろ考えられます。クリ
スチャンは何世代にもわたって孤児院や病院を建てるなどの良い業をしてきました。そういう
良い業が、私たちが神の傑作であることの印なのです。
 良い業は私たちが救われたことの結果です。それはイエス・キリストによる救いから出てく
るものです。また、神の恵みから出てくるものです。良い業によって救われたのではなく、救
われた結果、神の傑作として良い業をもって応答するのです。

まとめ)
 私たちは人間の業によって救われるのではありません。私たちはイエス・キリストへの信仰
を通して神の恵みによって救われるのです。それは神から贈り物なのです。私たちが自力で手
に入れるものではありません。私たちは救いの結果として良い業をする神の傑作です。
 ジョン・ニュートンという人がいました。母親は信仰深い人でしたが、ジョンが幼い時に亡
くなりました。父親は再婚しましたが、彼を顧みませんでした。彼は問題児になっていきまし
た。大人になると、奴隷売買でお金を稼ぎました。しかし、神の恵みにより信仰を持つように
なりました。そして、奴隷制度を廃止することを提唱するようになり、また説教者になりまし
た。これが、神の傑作の有り様です。
 私たちは神の恵みのみによって救われました。

(説教音声は有りません。)
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日曜礼拝 2019年8月18日

2019-08-20 23:50:43 | 日曜礼拝
聖書箇所:マタイ9章27節~34節
説教題:盲人と聾唖者の癒し


導入)
 この聖書箇所でも、二つのエピソードが併記されていますが、それは、同じ家で起きたこと
であるからだと考えられます。また、これが対になって示している事柄や原則が有ると考えら
れます。それが何であるかを確認してみましょう。

本論)
 イエスがある家に向かって行くと、二人の盲人が「ダビデの子」という称号でイエスを呼び
ます。この称号は旧約聖書に起源が有ります。例えば詩編18章50節には、「油そそがれた者、
ダビデとそのすえに、」という表現があります。前半はキリストを表すことができる表現です。
後半はダビデのすえとも理解できるもので、しかも、すえ、子孫を表す語は単数形なのです。
彼らはイエスをメシア、キリスト、救い主として呼んだことになります。憐れんでくださいと
いう願いの内容は、目を癒してくださいということです。イエスはその信仰を確かめる質問を
され、彼らは信じることを告白しました。その告白に基づいて、イエスも「あなたがたの信仰
のとおりになれ。」と言われました。彼らは正しい認識と信仰を持っていたことになります。
 イエスが「だれにも知られないように」と警告したのは、そういう噂によってイエスをすぐ
にでも王にしようとする人たちが出てくるのを防ぐためであったのではないかと考えられます。
しかし、目が癒された二人の喜びと興奮のせいで、彼らは黙っていられなかったのだと思われ
ます。
 二人が出ていくと、今度は悪霊の影響が有って話ができない人が連れてこられました。イエ
スは神の権威によってこの悪霊を追い出し、その人は話すことができるようになりました。
 ここで人々が言ったことに注目する必要が有ります。「こんなことは、イスラエルでいまだ
かつて見たことがない」というのです。聖書を注意深く読むと、奇跡を行ったモーセ、エリヤ、
エリシャのような偉大な預言者も、盲人を癒したりした記録が無いことがわかります。イエス
の弟子たちが行った奇跡の業にもそれは含まれていないのです。また、イエスの行った癒しの
奇跡の中では、盲目の癒しが一番多いのです。
 このことが、イエスが旧約聖書に預言されているメシア、救い主であることの証明になるの
です。(イザヤ29章18節、35章5節、42章18節参照)イザヤ29章18節には、「その日、耳の聞
こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。」という
預言が有ります。この預言には口がきけない人の記述が無いではないかと思われたかもしれま
せんが、耳が聞こえないという表現は口がきけないのと同じ語が使われています。手話や読唇
術などが発達していなかったので、耳が聞こえなければその結果口もきけないということにな
ったからです。ですから、この聖書箇所の記述は確かにイザヤの預言の成就だと考えることが
できます。
 しかし、ここで問題が起きます。旧約聖書をよく知っているはずのパリサイ人たちが、この
ような明らかな預言の成就にも関わらず、イエスを受け入れなかったのです。彼らにはどんな
問題が有ったのでしょうか。この疑問から始めて、まとめをしてみたいと思います。

まとめ)
1)神の国に生きるためには霊の目が開かれなければならない
  盲人と聾唖者の癒しは神の国の到来の現れでした。しかし、その奇跡が起きる前に、彼ら
 の霊の目が開かれていなければなりませんでした。彼らは霊の目が開かれてイエスに対する
 正しい信仰が有ったのです。しかし、パリサイ人たちはそうではありませんでした。旧約聖
 書の知識は有りましたが、霊の目が開かれていなかったために、イエスを受け入れることが
 できませんでした。そればかりか、イエスを憎んでさえいました。
  私たちの適用はどうなるでしょうか。私たちは神様に継続的に霊の目を開いてくださるよ
 うに祈ることが必要です。詩編119編18節には、「「私の目を開いてください。私があな
 たのみおしえのうりにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」という祈りが記
 されています。霊の目が開かれて、神の御計画や御心がわかるようにと願っています。また、
 パウロはエペソ1章18節で、エペソの教会の人々の心の目が開かれて、神にある望み、神の
 力の偉大さを知ることができるようにと祈っています。私たちも、自分たちの霊の目が開か
 れて、神に関するあらゆる知識と理解力が与えられるように祈る必要が有ります。

2)イエスは旧約聖書に預言された真の救い主である
  イザヤの預言もイエスにあって成就しました。イエスだけが目が見えず、耳が聞こえない
 者の癒しの奇跡を行った存在です。私たちの霊の目が開かれれば、このことをも受け入れる
 ことができ、イエスへの信仰を持つことができるのです。そのような信仰がこの盲人と聾唖
 者に癒しをもたらしました。また、そのような信仰が人生を違ったものにしていくのです。
 私たちにはそのような信仰が有るでしょうか。そのような信仰告白を毎日しているでしょう
 か。イエスが私の救い主ですと、自分に語り掛けているでしょうか。そのような告白が生活
 の中でささげる礼拝となり、また、信仰を強固なものにしていくのです。

3)イエスへの信仰が救いに導く
  直前のエピソードでも、イエスは22節で、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と
 言われました。直すと訳された語は、救うという意味も有る言葉です。29節でも、信仰によ
 って目が開かれたことが記されています。
  私たちの信仰とはどのような信仰でしょうか。ヨハネによる福音書から確認してみましょ
 う。6章29節には、「あなたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と
 書かれています。イエスを信じると、神のわざをしたことになるとは、なんと幸いなことで
 しょうか。信じた者については、5章24節に、「わたしのことを聞いて、わたしを遣わした
 方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から命に移っているの
 です。」と記されています。それが救われるということです。更にイエスは、15章15節で、
 弟子たちに天の父なる神の救いの計画を知らせたので、彼らを友と呼ぶと言っています。そ
 のような関係に私たちも信仰を通して導き入れられ、天国に国籍を持つ者となったのです。



説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
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日曜礼拝 2019年8月11日

2019-08-11 21:15:27 | 日曜礼拝
聖書箇所:マタイ9章18節~26節
説教題:死んだ少女と病気の女

導入)
 本日の箇所は二つのエピソードが併記されています。この二つには共通の原則が見出される
と考えられます。

本論
 二つのエピソードの始まりには、「見よ」という言葉が有ります。注目するべき点だという
ことですが、旧約聖書の預言書では、終わりの日に起きることを示す時にも出てきます。それ
は、キリストが来られて以降のことを表します。マタイは福音書をユダヤ人のために書いたと
言われています。ですから、このような書き方で、読者に旧約聖書の預言の成就としてのキリ
ストに注目してもらいたいという気持ちが有ったようです。

 先ず、病気の女性の方から説明いたします。20節の記述から、この女性は子宮筋腫もしくは
子宮内膜症を患っていたのではないかと思われます。12年もそれが続いたというのです。痛み
も有ったでしょうし、律法ではそれは祭儀的穢れと考えられていましたから、それは惨めな思
いをしたでしょうし、本当に癒されたいと考えていたことでしょう。
 ここで彼女はどうしてイエスの着物のふさに触ったのでしょうか。着物のふさの背景は、民
数記15章37節~40節に出てきます。神の民の印として、着物の四隅にふさをつけるようにとい
う神の命令が書かれています。後にユダヤ人はそのふさを人の本質が宿る、もしくは象徴する
ものと考えました。それでパリサイ人は着物のふさを大きく凝ったものにして、自分の信心深
さを人にアピールしていました。また、マタイ14章36節では、人々がイエスの着物のふさに触
れさせてもらいたいと願い、触った人はみな癒されたという記述が有ります。
 このエピソードは、ユダヤ人には旧約最後の預言者マラキの記述を想起させたかもしれませ
ん。マラキ4章1節、2節には、「その日」が来ると有りますから、キリストが来るときのこ
とだと考えられます。あまり用いられませんが、「義の太陽」は救い主の肩書と考えられます。
そして、救い主の翼、力、加護には「癒し」が有るというのです。それは、先に示した14章の
内容にも合致するわけです。
 この女性はその成就として癒されました。そしてイエスは「あなたの信仰があなたを直した
のだ。」と宣言されました。公に宣言されたのは、その大事な原則を示すためであり、同時に
その女性が律法上の穢れを免れたのだということを周囲に知らせるためでもありました。

 会堂管理者に目を向けてみます。会堂管理者の仕事は、会堂に保管されている旧約聖書の巻
物を管理し、安息日の礼拝の朗読者や説教者を決めることでした。ユダヤ人の社会においては
割合地位が高かったと言えます。しかし、彼は謙遜に跪いてイエスにお願いをしています。こ
の跪く動作を表す語には、礼拝するという意味も有りますから、彼は信仰をもってイエスの元
に来たと考えられます。イエスは彼の家に行くことにしましたが、弟子も宇うついていったと
いう記述がわざわざ残されています。使徒行伝1章21節、22節には、使徒の条件がイエスの生
涯の目撃者であることが記されていますから、そういう部分を記録しておこうとしたのかもし
れません。その途中で彼が長血の女の癒しを目撃したことは、大きな励ましになったと思われ
ます。
 23節、24節の記述は、会堂管理者の娘が確実に死んだことを示しています。笛を吹く者たち
がいたということは、葬儀の用意を始めたということだと理解できるからです。また、イエス
が少女は死んだのではないと言った時、人々がイエスをあざ笑ったことからもそれはわかりま
す。
 信仰の無い者が共にいることをイエスは拒まれたのでしょうか、そういう人たちに出て行く
ように命じると、イエスは家に入りました。会堂管理者は、イエスに手を置いてくださるよう
にと願いましたが、イエスは少女の手を取ったと書いてあります。イエスには別のお考えが有
ったのかもしれません。ここで、もう一度マタイがユダヤ人に対して福音書を書いたというこ
とから考えられていることをご紹介します。手を「取る」というその動作は、ユダヤ的には、
捕獲する、制御するというような意味合いが有るということです。この時少女の中に確実に死
が有りました。イエスはそれを制御された方だということになります。イエスが信じる者に永
遠の命を与えられることの象徴的行為と言えます。また、少女の「起き上がった」という動作
を表す語は、よみがえりにも用いられている語です。イエスは、私たちを永遠の命への復活に
導いてくださる方です。

まとめ)
1)キリストへの信仰が私たちを救う
  直したと訳された語は、救うという意味も有ります。イエスに対する信仰が病を治したば
 かりでなく、魂の救いまでもたらすのです。長血の女にはその信仰が有り、また、会堂管理
 者にもその信仰が有りました。

2)キリストへの信仰はキリストの生と死をつかさどる権威を信じる
  会堂管理者は、キリストが既に死んだ娘に命を与える権威を持つ方であることを信じて  
 ました。実際にイエスが娘の死をも管理、制御する権威を持った神でした。イエスは命の
 主です。

3)キリストへの信仰が私たちを神の国に導き入れる
  私たちが生活のあらゆる事柄においてイエスに信頼する時、私たちは神の国に生きる者
 なのです。その国は永遠の王国です。永遠の存在する神がその国の王だからです。その永
 遠の命がイエスへの信仰によって与えられることは、ヨハネ5章24節にも約束されていま
 す。


本日は合同礼拝でした。説教音声は有りません。 
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日曜礼拝 2019年8月4日

2019-08-04 21:44:23 | 日曜礼拝
聖書箇所:ヨブ16章18節~22節
説教題:天には私の証人がいる

導入)
 ヨブは旧約聖書の中で比較的よく知られた人物ではないかと思います。彼はサタンに打たれ
ます。そればかりか、三人の友人に罪深い人物であるかのように責められました。彼は潔白を
主張し続け、ついに神が介入することになります。神はヨブが神の摂理を理解しない発言をし
たことを責めはしましたが、彼の神に対する正しい信仰の姿勢を評価されました。(42章8節
参照)そういうヨブの態度が、この聖書箇所からもうかがえます。

本論)
18節-多くの翻訳はこの節を16章の最後の段落に入れています。ヨブは一貫して自分の潔白を
訴えていますから、この部分は、「もし私が潔白でないのなら」という仮定を前提にしたもの
と考えられます。もし潔白でないなら死刑でも構わないし、祈りが神に拒絶されても構わない
と言っていることになります。しかし、もっと大事なのは、続く節に示されている、ヨブが神
を信頼し続けているということにあります。

19節-ヨブはここで、類似表現の繰り返しによる強調表現を使っています。保証と訳された語
は、証人という意味も有り、高いところは天と同じことになります。全知の神ヨブのすべてを
知っており、証人になってくださるという強い信仰を示しています。

20節-彼の友人は彼を責め続けました。しかし、ヨブはそういう友人に打ち砕かれることなく
神に向かい、神にその涙も不平もすべて打ち明けました。彼には神からの回答が有るという確
信が有りました。

21節-この節の表現には興味深いものが有ります。「その方」が誰なのかは直前の「神」と理
解されます。すると、神が神に人のためのとりなしをするという関係になっています。どうし
てそのようなことが有り得るのでしょうか。その答えが次の表現に見いだされます。そこには
「人の子」という表現が用いられています。メシアにも用いられる称号です。すなわちイエス
キリストだと考えられるのです。すると先の謎かけのような表現に意味がはっきりしてきます。
三位一体の第二格であるイエスが第一格である天の父なる神にとりなしをするということにな
ります。イエスは永遠の大祭司として信じる者のためにとりなしをしてくださっています。ヨ
ブにそこまでの理解は無かったでしょうけれども、彼の状況がきちんと神に聞き上げられると
いう神に対する信仰が有りました。そのゆえにヨブは神の前に義とされたと考えられます。

22節-ここでヨブは自分に目を向けているように見えます。帰らぬ旅路という表現は死を意味
しています。彼は死が近いように思っていたのかもしれません。彼は何を言おうとしたのでし
ょうか。死ぬ前に神が自分の潔白を証明してくださればという期待かもしれません。あるいは
死ねば神の御前で潔白がはっきり証明されるという期待かもしれません。いずれにしても、こ
こでもヨブが神に信頼していることが表現されていると考えられます。私たちも帰らぬ旅路に
出ることが定められています。しかし、神に信頼する者には、神の正しい裁きととりなしによ
り、天の国を継ぐ希望と慰めに満ちています。それが私たちの報酬でもあるのです。

まとめ)
1)私たちをご存知で、私たちのためにとりなしてくださるイエス・キリストを信頼する
  イエスは創造者であり全知の神です。私たちがイエスを信じたことをイエスが証言してく
 ださるのです。イエスは私たちをイエスの友としてとりなしいてくださいます。ヨハネ15章
 15節でイエスは弟子たちを友と呼んでいます。それは、救いの計画をすべて伝えたからです。
 困難な中にあっても、イエスに信頼し、揺るがない歩みをすることです。

2)思いのすべてを人にではなく神に祈りの内に打ち明ける
  ヨブは友人から慰めを受けることはできませんでした。人間は誤解して間違った糾弾をす
 ることもあります。20節のヨブの告白のように、私たちも涙ばかりでなく、すべての思いを
 神に注ぎ出して祈るのです。ヨブと三人の友人との対話は三度にわたって展開されました。
 そこには神に対する訴えも含まれていました。つまり、ヨブは諦めずに十分に祈り切ったと
 考えることもできます。私たちもそのように絶えず祈り続けるのです。

3)神に保証された永遠の命に慰めを見出す
  私たちの国籍は天にあります。私たちはイエスと共に天国の栄光の共同相続人です。神は
 イエスへの信仰のゆえに確実に私たちを迎え入れてくださるのです。私たちは公正な裁きを
 受け、また報酬を得るのです。その慰めを神は黙示録21章3節-5節で約束され、それが信
 じるべきものであり、真実であると宣言されています。ヨブも困難に取り囲まれていても、
 神のもとにある慰めを求めていました。イエスへの信仰が私たちの永遠の命を保証するので
 す。
 
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