聖書箇所:エペソ2章1節~10節
説教題:恵のみ
導入)
パウロはここで、恵について説明をしようとしています。その指し示すところは、恵のみ、
言い換えれば、業によるのではないということになります。この聖書箇所から、三つのことに
目を留めます。
1)救にいたる道・方法
2)救いにいたらない道・方法
3)私たちの生きるべき道・方法
本論)
1)救いにいたる道・方法
8節には、救われたという記述が有ります。救われるとはどういうことでしょうか。何から
救われるのでしょうか。最近のニュースで、自閉症の少年が行方不明になって、四日後に森の
中から発見されたというものが有りました。少年の救出の報に触れて、私たちには喜びが有り
ました。
では、私たちは何から救われたのでしょうか。2章のはじめに、それが示されています。罪
と罪科の中の死、この世の流れに従った歩み、この世の支配者・サタンに従った歩み、肉の欲
に従った歩み、神のみ怒り等からです。このような歩みをしていた人たちが、5節以降を見る
と、天の所にすわらされたと書いてあります。
この変化がどのようにもたらされたかは、4節の「しかし、あわれみ豊かな神は」という部
分に見いだされます。神が介入してくださったのです。私たちの神は「あわれみ豊かな神」な
のです。人間はあわれみを請われても拒絶することがあるかもしれません。しかし、神は、悔
い改めてその罪を告白する者にはだれにでもあわれみを示してくださるのです。
どうして、神はそうしてくださるのでしょうか。5節にあるように、ただ恵により、恵のみ
によってなのです。その恵によって、私たちは死者の中からよみがえらされる者となりました。
どうして、神の介入が有ったのでしょうか。霊の死から私たちをよみがえらせることは、神に
よってしかできないからです。わたしたちに代わって、それができる存在がしてくださらなけ
ればなりません。だから神がキリストのうちに私たちを生けるものとしてくださいました。そ
して、キリストともに、天の所にすわる者としてくださいました。その目的は7節に示されて
います。のちに来る世に神の恵みを豊かに示すためだというのです。
この恵とは何でしょうか。恵は私たちの功徳によるのではありません。私たちの功績なしに
神様が与えてくださるご好意が恵なのです。それはプレゼントなのです。そのことは8節に示
されています。「恵のゆえに信仰によって救われたのです。」「神からの賜物です。」と書か
れています。救いにいたる道・方法は、悔い改めて、神のあわれみ、恵というプレゼントをい
ただくことです。
2)救いにいたらない道・方法
9節には、行いによるのではありません、と書いてあります。それは、だれも誇ることのな
いためだとも書いてあります。そうです。私たちは行いによっては救われないのです。多くの
宗教は何かをして徳を積むと救われると教えたりします。しかし、神は、行いによるのではな
いと言われます。行いを奨励する言葉は多くあります。最善を尽くせ。戒めを守れ。施せ。他
人に親切にしなさい。それらは悪くはありませんが、行いであって、救いの道ではありません。
神から見れば、私たちの最善など少しも神の良さの水準には達しません。だから、救いは行い
によるのではないと神は言われるのです。
宗教改革者、マルチン・ルターは、ウィッテンバーグで95箇条の論題を教会の門に貼りまし
た。ルターは人の行いや業が人間と神の関係を正しいものにすることが決してないことを理解
していたのです。わたしたちは、救いを得るためにお金を払うとか業を行うなどということは
できないのです。神の恵みのみによって救われるのです。それが神の恵みなのです。
3)私たちの生きるべき道・方法
私たちはどのように神の恵みに応答して生きるべきでしょうか。10節に答えが有ります。神
が備えられた良い業をすることによってです。神の作品と書いてありますが、どういうことで
しょうか。F.F.ブルースは、「私たちは神の芸術作品であり、神の傑作である。」と説明して
います。イエス・キリストにあって罪の中に死んでいた私たちが生きたものに変えられたこと
で、私たちは神の傑作になるのです。
私たちは二重に創造された存在です。まず、神は私たちを物質的・肉体的に傑作として創造
されました。そして、今度は、霊的に神の子としてイエス・キリストを通して創造してくださ
ったのです。ですから、第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
と書いてあります。ですから、クリスチャンは神の二重の創造を経た神の傑作なのです。
おわかりになりましたでしょうか。イエスを救い主として信じたら、あなたは神の傑作とな
るのです。私たちの中に神様の業が進行しています。ですから、自分のことを見下げたりしな
いでください。キリストにあって、私たちは計り知れない価値を持っているのです。私たちは
イエス・キリストにある自信を持たなければなりません。それは私たちが誇って得意になると
いうことではありません。それは、神の恵みに応答した良い業につながるものでなければなり
ません。他人を思いやる。人々を助ける。もてなしの心を示す。いろいろ考えられます。クリ
スチャンは何世代にもわたって孤児院や病院を建てるなどの良い業をしてきました。そういう
良い業が、私たちが神の傑作であることの印なのです。
良い業は私たちが救われたことの結果です。それはイエス・キリストによる救いから出てく
るものです。また、神の恵みから出てくるものです。良い業によって救われたのではなく、救
われた結果、神の傑作として良い業をもって応答するのです。
まとめ)
私たちは人間の業によって救われるのではありません。私たちはイエス・キリストへの信仰
を通して神の恵みによって救われるのです。それは神から贈り物なのです。私たちが自力で手
に入れるものではありません。私たちは救いの結果として良い業をする神の傑作です。
ジョン・ニュートンという人がいました。母親は信仰深い人でしたが、ジョンが幼い時に亡
くなりました。父親は再婚しましたが、彼を顧みませんでした。彼は問題児になっていきまし
た。大人になると、奴隷売買でお金を稼ぎました。しかし、神の恵みにより信仰を持つように
なりました。そして、奴隷制度を廃止することを提唱するようになり、また説教者になりまし
た。これが、神の傑作の有り様です。
私たちは神の恵みのみによって救われました。
(説教音声は有りません。)
説教題:恵のみ
導入)
パウロはここで、恵について説明をしようとしています。その指し示すところは、恵のみ、
言い換えれば、業によるのではないということになります。この聖書箇所から、三つのことに
目を留めます。
1)救にいたる道・方法
2)救いにいたらない道・方法
3)私たちの生きるべき道・方法
本論)
1)救いにいたる道・方法
8節には、救われたという記述が有ります。救われるとはどういうことでしょうか。何から
救われるのでしょうか。最近のニュースで、自閉症の少年が行方不明になって、四日後に森の
中から発見されたというものが有りました。少年の救出の報に触れて、私たちには喜びが有り
ました。
では、私たちは何から救われたのでしょうか。2章のはじめに、それが示されています。罪
と罪科の中の死、この世の流れに従った歩み、この世の支配者・サタンに従った歩み、肉の欲
に従った歩み、神のみ怒り等からです。このような歩みをしていた人たちが、5節以降を見る
と、天の所にすわらされたと書いてあります。
この変化がどのようにもたらされたかは、4節の「しかし、あわれみ豊かな神は」という部
分に見いだされます。神が介入してくださったのです。私たちの神は「あわれみ豊かな神」な
のです。人間はあわれみを請われても拒絶することがあるかもしれません。しかし、神は、悔
い改めてその罪を告白する者にはだれにでもあわれみを示してくださるのです。
どうして、神はそうしてくださるのでしょうか。5節にあるように、ただ恵により、恵のみ
によってなのです。その恵によって、私たちは死者の中からよみがえらされる者となりました。
どうして、神の介入が有ったのでしょうか。霊の死から私たちをよみがえらせることは、神に
よってしかできないからです。わたしたちに代わって、それができる存在がしてくださらなけ
ればなりません。だから神がキリストのうちに私たちを生けるものとしてくださいました。そ
して、キリストともに、天の所にすわる者としてくださいました。その目的は7節に示されて
います。のちに来る世に神の恵みを豊かに示すためだというのです。
この恵とは何でしょうか。恵は私たちの功徳によるのではありません。私たちの功績なしに
神様が与えてくださるご好意が恵なのです。それはプレゼントなのです。そのことは8節に示
されています。「恵のゆえに信仰によって救われたのです。」「神からの賜物です。」と書か
れています。救いにいたる道・方法は、悔い改めて、神のあわれみ、恵というプレゼントをい
ただくことです。
2)救いにいたらない道・方法
9節には、行いによるのではありません、と書いてあります。それは、だれも誇ることのな
いためだとも書いてあります。そうです。私たちは行いによっては救われないのです。多くの
宗教は何かをして徳を積むと救われると教えたりします。しかし、神は、行いによるのではな
いと言われます。行いを奨励する言葉は多くあります。最善を尽くせ。戒めを守れ。施せ。他
人に親切にしなさい。それらは悪くはありませんが、行いであって、救いの道ではありません。
神から見れば、私たちの最善など少しも神の良さの水準には達しません。だから、救いは行い
によるのではないと神は言われるのです。
宗教改革者、マルチン・ルターは、ウィッテンバーグで95箇条の論題を教会の門に貼りまし
た。ルターは人の行いや業が人間と神の関係を正しいものにすることが決してないことを理解
していたのです。わたしたちは、救いを得るためにお金を払うとか業を行うなどということは
できないのです。神の恵みのみによって救われるのです。それが神の恵みなのです。
3)私たちの生きるべき道・方法
私たちはどのように神の恵みに応答して生きるべきでしょうか。10節に答えが有ります。神
が備えられた良い業をすることによってです。神の作品と書いてありますが、どういうことで
しょうか。F.F.ブルースは、「私たちは神の芸術作品であり、神の傑作である。」と説明して
います。イエス・キリストにあって罪の中に死んでいた私たちが生きたものに変えられたこと
で、私たちは神の傑作になるのです。
私たちは二重に創造された存在です。まず、神は私たちを物質的・肉体的に傑作として創造
されました。そして、今度は、霊的に神の子としてイエス・キリストを通して創造してくださ
ったのです。ですから、第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
と書いてあります。ですから、クリスチャンは神の二重の創造を経た神の傑作なのです。
おわかりになりましたでしょうか。イエスを救い主として信じたら、あなたは神の傑作とな
るのです。私たちの中に神様の業が進行しています。ですから、自分のことを見下げたりしな
いでください。キリストにあって、私たちは計り知れない価値を持っているのです。私たちは
イエス・キリストにある自信を持たなければなりません。それは私たちが誇って得意になると
いうことではありません。それは、神の恵みに応答した良い業につながるものでなければなり
ません。他人を思いやる。人々を助ける。もてなしの心を示す。いろいろ考えられます。クリ
スチャンは何世代にもわたって孤児院や病院を建てるなどの良い業をしてきました。そういう
良い業が、私たちが神の傑作であることの印なのです。
良い業は私たちが救われたことの結果です。それはイエス・キリストによる救いから出てく
るものです。また、神の恵みから出てくるものです。良い業によって救われたのではなく、救
われた結果、神の傑作として良い業をもって応答するのです。
まとめ)
私たちは人間の業によって救われるのではありません。私たちはイエス・キリストへの信仰
を通して神の恵みによって救われるのです。それは神から贈り物なのです。私たちが自力で手
に入れるものではありません。私たちは救いの結果として良い業をする神の傑作です。
ジョン・ニュートンという人がいました。母親は信仰深い人でしたが、ジョンが幼い時に亡
くなりました。父親は再婚しましたが、彼を顧みませんでした。彼は問題児になっていきまし
た。大人になると、奴隷売買でお金を稼ぎました。しかし、神の恵みにより信仰を持つように
なりました。そして、奴隷制度を廃止することを提唱するようになり、また説教者になりまし
た。これが、神の傑作の有り様です。
私たちは神の恵みのみによって救われました。
(説教音声は有りません。)