聖書箇所:ルカ5章17節~26節
説教題:驚くべきこと
導入)
最後の26節で、人々は「驚くべきことを見た。」と言っています。この驚くべきことという語は
期待や予想を超える出来事という意味が有り、見慣れないこと、奇妙なことというニュアンスに訳
されている場合も有ります。その内容をよく考えてみましょう。
本論)
先ず、このエピソードの設定です。イエスは人々を教え、また病を癒していました。その周りに
は二種類の人々がいました。当然、イエスの教えを聞き、また癒しを求めてきた人々がいました。
そして、そこにはパリサイ人や律法学者たちもいました。17節を見れば、あちこちから集まって来
ていたことがわかります。彼らは、イエスのあら捜しをして、訴えたり教えさせなくすることを目
的としていました。ルカは彼らが座っていたと書いています。当時は教師は座って教え、人々は立
って聞くのが習慣でした。彼らは、私たちも教師だぞという態度で座っていたことになります。
そこに、男たちが中風の人を床板に乗せてやって来ました。中風というのは、脳梗塞等のために
体が自由に動かせなくなっているものと考えられます。男たちはイエスに彼を癒していただこうと
考えてきたのですが、その場所に多くの人々が集まっていたので、イエスの前まで行くことができ
ませんでした。そこで、彼らは別の方法でイエスに近づこうと考えました。
先ず彼らは家の屋上にあがりました。ユダヤの家は屋根が平らで柵や壁で囲まれていて、家の外
にある階段から上がることができるようになっていました。そこに物を置いたり、暑い夜にはそこ
で寝たりしたということです。祈るために使うこともあったそうです。
次に彼らは中風の人を床に寝かせたまま下すことができるだけの大きな穴を屋根に開けました。
ルカは屋根の瓦をはがしたと書いていますが、これは、ルカが福音書を異邦人に向けて書いたため
に、ローマの家であるかのように描写したのだと思われます。実際のユダヤの家の屋根は、枝等の
材料を差し渡して、泥で塗り固めたものでした。ですから、穴を開けるのも修復するのも、比較的
簡単であったと思われます。
中風の人を見て、イエスは、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言いました。これは驚く
べきことでした。それは、イエスが罪の問題を指摘したからではありません。当時のユダヤ人たち
は病気は罪と関連が有ると思っていたのですから。驚くべきことは、イエスが罪の赦しを宣言した
ことにありました。ですから、パリサイ人たちも21節に書いてあるように考えたわけです。罪を赦
すことができるのは神だけであるのに、神のように振舞っているイエスは神を冒涜しているという
わけです。
そこでイエスはパリサイ人たちに質問を投げかけます。もし皆さんがその質問に答えるとしたら
どうお答えになるでしょうか。実は、これはどちらも難しいということを示すものなのです。神だ
けがそのような言葉を実際に発することができるのです。ですから、イエスはその両方を言うこと
ができたのです。
イエスは、そのことをはっきり宣言してから中風の人を癒しました。イエスは神を表すタイトル
である「人の子」という表現をご自身に対して使いました。イエスの言おうとしたことは、次の様
に表現できると思います。「パリサイ人たちよ、私は本当に人の罪を赦す権威の有る神なのだ。証
明して見せよう。あなた方は神への冒涜は死に値する罪だと思っているだろう。それならば、私が
命じてこの人が癒されたらどうなるのですか?神はそのような力を罪人には与えないでしょう。だ
から、この人が癒されたら、私は罪人ではなく神ということになるだろう。私を信じなさい。」そ
して、中風の人は癒され、イエスが神であることが証明され、人々は神をたたえました。
さて、何がこのように神の栄光を表す要因になったのでしょうか。それは、中風の人を連れてき
た男たちではないでしょうか。彼らは主人公のようではないかもしれませんが、彼らが中風の人を
イエスの元に連れてきたことによって神の栄光が現れたと言えます。それでは、何が彼らに行動を
起こさせたのでしょうか。一つは、彼らがイエスが癒すことのできる方だと信じていたということ
です。もう一つは、彼らが中風の人を愛していたということです。その愛は、イエスの元に行くの
が難しい時でも諦めずに屋根に穴を開けてでも彼をイエスの前に連れて行くという愛でした。
このことは、愛の章と言われるコリント人への第一の手紙13章2節の後半を思い起こさせます。
(該当箇所をご参照ください)ある聖書学者は、パウロがこの部分を書いた時には、自分がパリサ
イ人として活動していた時代の自分を思いながら書いたのではないかと述べています。「山を動か
すほどの信仰」という表現が出てきます。当時、旧約聖書の難解な箇所の説明ができたり、聖書を
通して人生の難しい問題の解決を示すことができる人を、「山を動かす人」と呼んだそうです。イ
エスの周りに座っていたパリサイ人達は、自分たちを「山を動かす人」だと思っていたかもしれま
せん。しかし、彼らには愛は有りませんでした。それとは反対に、男たちが愛に基づいて行動を起
こした時、中風の人の罪が赦され、癒されただけでなく、イエスが神であることを証明し、神に栄
光を帰する結果になったのです。このようにして、人々は、神の権威、力、栄光という「驚くべき
こと」を見ることになったのです。
結論)
1)驚くべきことは、私たちがイエスを信じる時に私たちにもたらされる
a.イエスは神であり救い主であるから、私たちの罪は赦される。
罪は神との断絶です。アダムを通して全人類は神を拒絶して堕落しました。ですから、神だ
けが正当に私たちを赦すことができる方なのです。
例えば、太郎さんが次郎さんに悪いことをしたとします。この太郎さんの悪行を赦すことが
できるのは、当事者である次郎さんだけです。三郎さんが来て勝手に太郎さんを赦すと言って
も全く意味が有りません。だから私たちも神であるイエスに赦しを求めて救っていただくので
す。
b.罪に起因する私たちの問題は解決され、癒される
罪の結果は永遠の滅びです。罪責感や死への恐れが私たちを深く悩ませることもあり得ます。
私たちがイエスを信じる時、私たちは神に守っていただける神の子ども、神の民になるのです。
神の恵みと平安が私たちを導きます。私たちはイエスによる義を着せられている故に、神の目
に完璧な存在として見ていただけるのです。
2)驚くべきことは、私たちが愛に基づいて行動する時に私たちにもたらされる
a.私たちの愛が人々を救いに導くことがある
20節では、イエスが男たちの信仰を見て、と書いてあります。中風の人の信仰を見たのでは
ありませんでした。勿論、中風の人にもそういう信仰は有ったかもしれませんし、無かったと
しても、この出来事を通して信仰を持ったと考えることはできます。しかし、男たちがその信
仰と愛をもって行動を起こさなかなったならば、中風の男は赦され、癒され、救われることは
無かったでしょう。彼らの愛がこの人をイエスに導いたのです。同様に、私たちも人々をイエ
スに導くために用いられるように願い、行動し、祈りたいものです。
b.私たちの愛は人をイエスに導くまで諦めない思いを後押しする
私たちの山、問題は、祈りを通して神に動かしていただく必要が有ります。私たちは神が私
たちが予想したり期待したりする形で祈りに答えてくださるかどうかは知りません。しかし、
聖書は私たちに互いに愛し合うことを求め、また祈り続けることを求めています。
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説教題:驚くべきこと
導入)
最後の26節で、人々は「驚くべきことを見た。」と言っています。この驚くべきことという語は
期待や予想を超える出来事という意味が有り、見慣れないこと、奇妙なことというニュアンスに訳
されている場合も有ります。その内容をよく考えてみましょう。
本論)
先ず、このエピソードの設定です。イエスは人々を教え、また病を癒していました。その周りに
は二種類の人々がいました。当然、イエスの教えを聞き、また癒しを求めてきた人々がいました。
そして、そこにはパリサイ人や律法学者たちもいました。17節を見れば、あちこちから集まって来
ていたことがわかります。彼らは、イエスのあら捜しをして、訴えたり教えさせなくすることを目
的としていました。ルカは彼らが座っていたと書いています。当時は教師は座って教え、人々は立
って聞くのが習慣でした。彼らは、私たちも教師だぞという態度で座っていたことになります。
そこに、男たちが中風の人を床板に乗せてやって来ました。中風というのは、脳梗塞等のために
体が自由に動かせなくなっているものと考えられます。男たちはイエスに彼を癒していただこうと
考えてきたのですが、その場所に多くの人々が集まっていたので、イエスの前まで行くことができ
ませんでした。そこで、彼らは別の方法でイエスに近づこうと考えました。
先ず彼らは家の屋上にあがりました。ユダヤの家は屋根が平らで柵や壁で囲まれていて、家の外
にある階段から上がることができるようになっていました。そこに物を置いたり、暑い夜にはそこ
で寝たりしたということです。祈るために使うこともあったそうです。
次に彼らは中風の人を床に寝かせたまま下すことができるだけの大きな穴を屋根に開けました。
ルカは屋根の瓦をはがしたと書いていますが、これは、ルカが福音書を異邦人に向けて書いたため
に、ローマの家であるかのように描写したのだと思われます。実際のユダヤの家の屋根は、枝等の
材料を差し渡して、泥で塗り固めたものでした。ですから、穴を開けるのも修復するのも、比較的
簡単であったと思われます。
中風の人を見て、イエスは、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言いました。これは驚く
べきことでした。それは、イエスが罪の問題を指摘したからではありません。当時のユダヤ人たち
は病気は罪と関連が有ると思っていたのですから。驚くべきことは、イエスが罪の赦しを宣言した
ことにありました。ですから、パリサイ人たちも21節に書いてあるように考えたわけです。罪を赦
すことができるのは神だけであるのに、神のように振舞っているイエスは神を冒涜しているという
わけです。
そこでイエスはパリサイ人たちに質問を投げかけます。もし皆さんがその質問に答えるとしたら
どうお答えになるでしょうか。実は、これはどちらも難しいということを示すものなのです。神だ
けがそのような言葉を実際に発することができるのです。ですから、イエスはその両方を言うこと
ができたのです。
イエスは、そのことをはっきり宣言してから中風の人を癒しました。イエスは神を表すタイトル
である「人の子」という表現をご自身に対して使いました。イエスの言おうとしたことは、次の様
に表現できると思います。「パリサイ人たちよ、私は本当に人の罪を赦す権威の有る神なのだ。証
明して見せよう。あなた方は神への冒涜は死に値する罪だと思っているだろう。それならば、私が
命じてこの人が癒されたらどうなるのですか?神はそのような力を罪人には与えないでしょう。だ
から、この人が癒されたら、私は罪人ではなく神ということになるだろう。私を信じなさい。」そ
して、中風の人は癒され、イエスが神であることが証明され、人々は神をたたえました。
さて、何がこのように神の栄光を表す要因になったのでしょうか。それは、中風の人を連れてき
た男たちではないでしょうか。彼らは主人公のようではないかもしれませんが、彼らが中風の人を
イエスの元に連れてきたことによって神の栄光が現れたと言えます。それでは、何が彼らに行動を
起こさせたのでしょうか。一つは、彼らがイエスが癒すことのできる方だと信じていたということ
です。もう一つは、彼らが中風の人を愛していたということです。その愛は、イエスの元に行くの
が難しい時でも諦めずに屋根に穴を開けてでも彼をイエスの前に連れて行くという愛でした。
このことは、愛の章と言われるコリント人への第一の手紙13章2節の後半を思い起こさせます。
(該当箇所をご参照ください)ある聖書学者は、パウロがこの部分を書いた時には、自分がパリサ
イ人として活動していた時代の自分を思いながら書いたのではないかと述べています。「山を動か
すほどの信仰」という表現が出てきます。当時、旧約聖書の難解な箇所の説明ができたり、聖書を
通して人生の難しい問題の解決を示すことができる人を、「山を動かす人」と呼んだそうです。イ
エスの周りに座っていたパリサイ人達は、自分たちを「山を動かす人」だと思っていたかもしれま
せん。しかし、彼らには愛は有りませんでした。それとは反対に、男たちが愛に基づいて行動を起
こした時、中風の人の罪が赦され、癒されただけでなく、イエスが神であることを証明し、神に栄
光を帰する結果になったのです。このようにして、人々は、神の権威、力、栄光という「驚くべき
こと」を見ることになったのです。
結論)
1)驚くべきことは、私たちがイエスを信じる時に私たちにもたらされる
a.イエスは神であり救い主であるから、私たちの罪は赦される。
罪は神との断絶です。アダムを通して全人類は神を拒絶して堕落しました。ですから、神だ
けが正当に私たちを赦すことができる方なのです。
例えば、太郎さんが次郎さんに悪いことをしたとします。この太郎さんの悪行を赦すことが
できるのは、当事者である次郎さんだけです。三郎さんが来て勝手に太郎さんを赦すと言って
も全く意味が有りません。だから私たちも神であるイエスに赦しを求めて救っていただくので
す。
b.罪に起因する私たちの問題は解決され、癒される
罪の結果は永遠の滅びです。罪責感や死への恐れが私たちを深く悩ませることもあり得ます。
私たちがイエスを信じる時、私たちは神に守っていただける神の子ども、神の民になるのです。
神の恵みと平安が私たちを導きます。私たちはイエスによる義を着せられている故に、神の目
に完璧な存在として見ていただけるのです。
2)驚くべきことは、私たちが愛に基づいて行動する時に私たちにもたらされる
a.私たちの愛が人々を救いに導くことがある
20節では、イエスが男たちの信仰を見て、と書いてあります。中風の人の信仰を見たのでは
ありませんでした。勿論、中風の人にもそういう信仰は有ったかもしれませんし、無かったと
しても、この出来事を通して信仰を持ったと考えることはできます。しかし、男たちがその信
仰と愛をもって行動を起こさなかなったならば、中風の男は赦され、癒され、救われることは
無かったでしょう。彼らの愛がこの人をイエスに導いたのです。同様に、私たちも人々をイエ
スに導くために用いられるように願い、行動し、祈りたいものです。
b.私たちの愛は人をイエスに導くまで諦めない思いを後押しする
私たちの山、問題は、祈りを通して神に動かしていただく必要が有ります。私たちは神が私
たちが予想したり期待したりする形で祈りに答えてくださるかどうかは知りません。しかし、
聖書は私たちに互いに愛し合うことを求め、また祈り続けることを求めています。
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