パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年5月26日

2019-05-26 20:13:51 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ5章17節~26節
説教題:驚くべきこと

導入)
 最後の26節で、人々は「驚くべきことを見た。」と言っています。この驚くべきことという語は
期待や予想を超える出来事という意味が有り、見慣れないこと、奇妙なことというニュアンスに訳
されている場合も有ります。その内容をよく考えてみましょう。

本論)
 先ず、このエピソードの設定です。イエスは人々を教え、また病を癒していました。その周りに
は二種類の人々がいました。当然、イエスの教えを聞き、また癒しを求めてきた人々がいました。
そして、そこにはパリサイ人や律法学者たちもいました。17節を見れば、あちこちから集まって来
ていたことがわかります。彼らは、イエスのあら捜しをして、訴えたり教えさせなくすることを目
的としていました。ルカは彼らが座っていたと書いています。当時は教師は座って教え、人々は立
って聞くのが習慣でした。彼らは、私たちも教師だぞという態度で座っていたことになります。
 そこに、男たちが中風の人を床板に乗せてやって来ました。中風というのは、脳梗塞等のために
体が自由に動かせなくなっているものと考えられます。男たちはイエスに彼を癒していただこうと
考えてきたのですが、その場所に多くの人々が集まっていたので、イエスの前まで行くことができ
ませんでした。そこで、彼らは別の方法でイエスに近づこうと考えました。
 先ず彼らは家の屋上にあがりました。ユダヤの家は屋根が平らで柵や壁で囲まれていて、家の外
にある階段から上がることができるようになっていました。そこに物を置いたり、暑い夜にはそこ
で寝たりしたということです。祈るために使うこともあったそうです。
 次に彼らは中風の人を床に寝かせたまま下すことができるだけの大きな穴を屋根に開けました。
ルカは屋根の瓦をはがしたと書いていますが、これは、ルカが福音書を異邦人に向けて書いたため
に、ローマの家であるかのように描写したのだと思われます。実際のユダヤの家の屋根は、枝等の
材料を差し渡して、泥で塗り固めたものでした。ですから、穴を開けるのも修復するのも、比較的
簡単であったと思われます。
 中風の人を見て、イエスは、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言いました。これは驚く
べきことでした。それは、イエスが罪の問題を指摘したからではありません。当時のユダヤ人たち
は病気は罪と関連が有ると思っていたのですから。驚くべきことは、イエスが罪の赦しを宣言した
ことにありました。ですから、パリサイ人たちも21節に書いてあるように考えたわけです。罪を赦
すことができるのは神だけであるのに、神のように振舞っているイエスは神を冒涜しているという
わけです。
 そこでイエスはパリサイ人たちに質問を投げかけます。もし皆さんがその質問に答えるとしたら
どうお答えになるでしょうか。実は、これはどちらも難しいということを示すものなのです。神だ
けがそのような言葉を実際に発することができるのです。ですから、イエスはその両方を言うこと
ができたのです。
 イエスは、そのことをはっきり宣言してから中風の人を癒しました。イエスは神を表すタイトル
である「人の子」という表現をご自身に対して使いました。イエスの言おうとしたことは、次の様
に表現できると思います。「パリサイ人たちよ、私は本当に人の罪を赦す権威の有る神なのだ。証
明して見せよう。あなた方は神への冒涜は死に値する罪だと思っているだろう。それならば、私が
命じてこの人が癒されたらどうなるのですか?神はそのような力を罪人には与えないでしょう。だ
から、この人が癒されたら、私は罪人ではなく神ということになるだろう。私を信じなさい。」そ
して、中風の人は癒され、イエスが神であることが証明され、人々は神をたたえました。
 
 さて、何がこのように神の栄光を表す要因になったのでしょうか。それは、中風の人を連れてき
た男たちではないでしょうか。彼らは主人公のようではないかもしれませんが、彼らが中風の人を
イエスの元に連れてきたことによって神の栄光が現れたと言えます。それでは、何が彼らに行動を
起こさせたのでしょうか。一つは、彼らがイエスが癒すことのできる方だと信じていたということ
です。もう一つは、彼らが中風の人を愛していたということです。その愛は、イエスの元に行くの
が難しい時でも諦めずに屋根に穴を開けてでも彼をイエスの前に連れて行くという愛でした。
 このことは、愛の章と言われるコリント人への第一の手紙13章2節の後半を思い起こさせます。
(該当箇所をご参照ください)ある聖書学者は、パウロがこの部分を書いた時には、自分がパリサ
イ人として活動していた時代の自分を思いながら書いたのではないかと述べています。「山を動か
すほどの信仰」という表現が出てきます。当時、旧約聖書の難解な箇所の説明ができたり、聖書を
通して人生の難しい問題の解決を示すことができる人を、「山を動かす人」と呼んだそうです。イ
エスの周りに座っていたパリサイ人達は、自分たちを「山を動かす人」だと思っていたかもしれま
せん。しかし、彼らには愛は有りませんでした。それとは反対に、男たちが愛に基づいて行動を起
こした時、中風の人の罪が赦され、癒されただけでなく、イエスが神であることを証明し、神に栄
光を帰する結果になったのです。このようにして、人々は、神の権威、力、栄光という「驚くべき
こと」を見ることになったのです。

結論)
1)驚くべきことは、私たちがイエスを信じる時に私たちにもたらされる
  a.イエスは神であり救い主であるから、私たちの罪は赦される。
   罪は神との断絶です。アダムを通して全人類は神を拒絶して堕落しました。ですから、神だ
  けが正当に私たちを赦すことができる方なのです。
   例えば、太郎さんが次郎さんに悪いことをしたとします。この太郎さんの悪行を赦すことが
  できるのは、当事者である次郎さんだけです。三郎さんが来て勝手に太郎さんを赦すと言って
  も全く意味が有りません。だから私たちも神であるイエスに赦しを求めて救っていただくので
  す。

  b.罪に起因する私たちの問題は解決され、癒される
   罪の結果は永遠の滅びです。罪責感や死への恐れが私たちを深く悩ませることもあり得ます。
  私たちがイエスを信じる時、私たちは神に守っていただける神の子ども、神の民になるのです。
  神の恵みと平安が私たちを導きます。私たちはイエスによる義を着せられている故に、神の目
  に完璧な存在として見ていただけるのです。

2)驚くべきことは、私たちが愛に基づいて行動する時に私たちにもたらされる
  a.私たちの愛が人々を救いに導くことがある
   20節では、イエスが男たちの信仰を見て、と書いてあります。中風の人の信仰を見たのでは
  ありませんでした。勿論、中風の人にもそういう信仰は有ったかもしれませんし、無かったと
  しても、この出来事を通して信仰を持ったと考えることはできます。しかし、男たちがその信
  仰と愛をもって行動を起こさなかなったならば、中風の男は赦され、癒され、救われることは 
  無かったでしょう。彼らの愛がこの人をイエスに導いたのです。同様に、私たちも人々をイエ
  スに導くために用いられるように願い、行動し、祈りたいものです。

  b.私たちの愛は人をイエスに導くまで諦めない思いを後押しする
   私たちの山、問題は、祈りを通して神に動かしていただく必要が有ります。私たちは神が私
  たちが予想したり期待したりする形で祈りに答えてくださるかどうかは知りません。しかし、
  聖書は私たちに互いに愛し合うことを求め、また祈り続けることを求めています。

説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
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日曜礼拝 2019年5月19日

2019-05-19 21:08:18 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ7章31節~35節
説教題:この時代の人々か、神のこどもたちか

導入)
 この直前のエピソードで、イエスはバプテスマのヨハネが神に遣わされた真の預言者であると述
べられました。彼の宣教を通して、当時神に反抗する罪人と考えられていた収税人さえ、生き方を
変える決意の表明のバプテスマを受けました。ところが、パリサイ人、律法学者たちは彼を受け入
れませんでした。イエスはここで、そんな彼らのことを取り上げて話をしています。

本論)
 31節 「今の時代の人々」もしくは「この時代の人々」は誰を指すのでしょうか。イエスは前の
箇所でも神の御心に従って洗礼(ヨハネの)を受けた人と、神の御心を拒絶したパリサイ人を比較
して語っています。この箇所ではパリサイ人という言葉は一度も出てきませんが、この表現が彼ら
を指していることは文脈から理解できるのです。
 「この時代・世代」という表現は、旧約においてはいろいろな人々を指すために用いられていま
すが、申命記では、約束の地に入れないユダヤ人達を指して使われています。そして、新約聖書で
は、イエス、ペテロやパウロによって、「神に敵対する人々」という意味合いで用いられているこ
とが殆どです。32節 広場というのは、たくさんの人が集まる場所である。パリサイ人も人の多く
集まる場所にいて、人を教えたり、正したり自分の善行を見せびらかしたりしていました。子供達
の歌の意味は何でしょうか。それは、どういう場合に用いられたのでしょうか。先ず、歌の意味で
すが最初の笛とは、結婚式の祝いの笛のことです。「結婚式ごっこをしようと誘ったのに笛を吹く
真似に応えて踊らなかった。」と言っているのです。また弔いの歌ということから明らかなように、
「葬式ごっこをしようと誘ったのに、泣き真似をしてくれなかったと言っていることになります。
泣くと訳された語の意味、悲しみの表現として「胸を叩く」ということです。
 次に、この歌が歌われる場合です。どんな子供のグループでもボスやいじめっこがいる場合があ
ります。そうすると、彼らが遊びの主導権を持ち、何をするかを決めます。もし、嫌がる子がいる
と、無理にでも一緒に遊ばせようとして、このような歌を歌ってからかったらしいのです。
 これは、「この時代の人々」の説明です。つまり、パリサイ人はこの子供のボスみたいに、人の
多く集まる場所に顔を出して、人の嫌がることを無理にさせるようないやな性質があったというこ
とをにおわせているのです。同時に、この歌は別な意味を暗示している。そのケースにおいては、
パリサイ人を相手の誘いに乗らない子供達をになぞらえているのです。33節 バプテスマのヨハネ
はイナゴと野蜜を食べ、旧約の預言者エリヤのように、らくだの毛の衣を着ていました。また、当
時の食卓では普通に供されたぶどう酒を、天使から告げられた神の命令に従って飲みませんでした。
彼は神に従う姿勢の中の、敬虔さや従順、そして悔い改めに重点のある神の使者でした。しかし、
パリサイ人は、彼が「気に入らなかった」のです。彼が真の神の使者であるにもかかわらず、自分
達のプライドと権威をかさに、彼を「悪霊に憑かれている」と評しました。34節 人の子、イエス
・キリストは、多くの人と交わりを持ち、人々を神の国に招きいれる働きをしました。イエスの働
きは、神に従う姿勢の中で、父なる神の慈悲を反映させることと、神の国を喜ぶことに重点があり
ましたた。彼は単なる神の使者ではなく、メシアでもありました。しかし、パリサイ人は彼が「気
に入らなかった」のです。普通に食事をしただけであったのに、「食いしん坊の大酒飲み」だと評
しました。この表現は旧約聖書において、親に暴力的に言い逆らう息子を公に訴える時に用いられ
る表現でした。パリサイ人は、イエスをならず者扱いしているのです。パリサイ人は、二人の神の
使者のメッセージが「気に入らなかった」のです。そこには、仲間の誘いを無視する子供のように、
神の教えに対する共感が有りませんでした。彼らは神本位ではなく、自分本位でした。宗教的にも
政治的にも自分の力を頼みとしていました。
 35節 知恵は、旧約聖書においては神を敬う敬虔な女性に擬えられています。また、知恵は神の
性質の一部です。また1コリント書1:13においては、イエスを知恵と表現されています。神の
御心の正しさ、神の使者の言葉の正しさ、イエスとイエスの言葉の正しさは、神本位に生きる人々
によって証明されるのです。クリスチャンを通して証明されるのです。証明されると訳された語は、
「義とする、宣言する」という意味合いもあります。神を正しいとし、そのことを宣言するという
ことになります。それこそ、神の子どもたち、クリスチャンのあるべき姿なのです。

まとめ)
1)この時代の人々は、自己中心、自己義認の態度を持つ
  この時代の人々は、パリサイ人や律法学者たちのように、自分の力、自分の義に満足していま
 す。それは、自分の正義を他人に押し付け、怒りと悲しみを引き起こす生き方でもあります。ポ
 リティカル・コレクトネスということが過度に要求されたりするのもその表れかもしれません。
 プロライフの立場の人をプロチョイスの立場の人が暴行したニュースが見受けられた李します。
 そこには憎悪や争いが有ります。神の子どもたちは、そういう態度が自分の中に出てくることが
 ないか、気を付けていなければなりません。
2)この時代の人々は、過度に批判的な態度を持つ
  基本的人権の枠を超えて、思想信条の自由、表現の自由を許さないほどの批判をする人たちが
 います。神の御心の表れが、ヨハネとイエスでは異なっていたように、我々クリスチャンの間で
 も異なることが有るでしょう。その時に、パリサイ人が「気に入らない」ということで拒絶の態
 度を取ったのに倣ってはいけません。他の教派に神の働きは無いだの、あの信者の賛美の姿勢は
 敬虔に見えないだのの、批判的な心を持つべきではありません。どちらも神の御心を求めた結果
 かもしれないのです。さばきは主のものです。私たちにはその権限は有りません。天国で審判を
 受ける時、もしかすると、私たちが批判していた物事を、神様が心から喜んでいたとわかるよう
 なことだってあるかもしれないのです。
3)神の子どもたちは、神は正しいと認める態度を持つ
  神の正しさ、神の計画の正当性を認め、生き方変えることに決めて、バプテスマを受けた人た
 ちは神の子どもとなりました。その生き方が、聖書の原則をあらわし、柔和で謙遜で、神の栄光
 を表し、平安で罪と死の責めと恐れから解放されている様を通して、神の生きて働かれることを
 証します。クリスチャンがキリストの証人とされるのはそのためです。また、その生き方は、こ
 の時代の人々とは反対の生き方と言えます。

(音声は有りません。)
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日曜礼拝 2019年5月12日

2019-05-14 23:47:46 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ5章1節~11節
説教題:弟子道101

導入)
 聖書は時系列に沿って物語が記録されていない場合が有ります。直前の4章44節では、イエスが
ガリラヤ地方に留まらないでユダヤ全土を回ったという記述が有りますが、ここでは再びガリラヤ
地方での出来事が記録されています。4章に初めて出てきたシモンとの関わりを回想するような感
じになっています。この部分も奇跡の記録ですが、それは人々のためではなく、弟子となる人たち
に向けてなされたものです。私たちにとってどのような意味が有るかを確認してみたいと思います。

本論)
 イエスはいつものように多くの人々に囲まれていました。人が押し寄せて、互いに足を踏んでし
まうような状況であったと思われます。それで、イエスは網を洗っている漁師を見つけて、その船
に乗せてくれるように依頼しました。漁は夜するものでしたから、網を洗うということは、朝であ
り、漁師は仕事を終えたということですから、船を使わせてもらうことが可能な状況でした。少し
だけ漕ぎ出したのは、人がそれ以上押し寄せて来ないようにするためです。
 
 この箇所ではイエスの教えや群衆の反応の記述は有りません。焦点は弟子となる漁師達に有った
からです。ここで、イエスはシモン・ペテロに深みに漕ぎ出すように指示しています。今回は依頼
ではありません。シモンはイエスを「主」と呼んで敬意を表しましたが、続いて漁師としての事実
を述べました。シモンにしてみれば、イエスの指示は的外れでした。大工が漁師に魚の取り方を指
示するのはおかしいでしょう。しかも、彼らは既に夜通し漁をして一匹も獲れなかったのです。更
に、昼間に漁をしなければならない時は、浅い所に網を下すのが常識であったそうです。シモンの
返事が記録されているのは、実際にシモンがそう発言したからというだけでなく、読者にもこの指
示は常識に反することを示し、この出来事が奇跡であることを明確にするためという部分も有るで
しょう。
 イエスを失望させないための配慮でもあったのでしょうか、その指示が漁師から見ると見込みが
ないことをシモンは述べます。しかし、その後、イエスの言葉に従うのでした。イエスの言葉に従
った時、彼に対する祝福と報いが来ました。あまりに多くの魚が網にかかったので、仲間の船に応
援を頼まなければなりませんでした。仲間とは、おそらくアンデレ、ヤコブ、ヨハネであると思わ
れます。応援のに来た彼らの船も沈みそうな程の大漁でした。彼らはシモン・ペテロと一緒にこの
奇跡の目撃者となったのです。
 この奇跡の持つ意味合いも理解しておく必要が有ります。ユダヤ人には、おびただしい生き物を
呼び寄せることができるのは、真の神の使者であるという理解が有りました。偉大な預言者モーセ
が神の指示によってカエル、ぶよ、イナゴを大量に呼び寄せた記録が旧約聖書に有るからです。こ
の大漁がただの偶然ではないことは明白でした。
 イエスが真の神の使者であることを理解したシモンは畏敬の念からひれ伏し、自分から離れてく
ださるようにと言いました。4章に記されている悪霊の反抗的な態度とは好対照になっています。
しかし、イエスは「恐れることはない。」と言ってくださいました。イエスは彼らを滅ぼしに来ら
れたのではなく、新しい使命をお与えになるために来られたのです。この使命を与える直前の大漁
の奇跡には二つの意味が有ったと思われます。一つ目は、神はその命令に従う者を十分に養ってく
ださるということです。二つ目は、彼らは将来大勢の人をイエスに導くということです。
 彼らはイエスの召命を受け入れて、何もかも捨ててついて行きました。ガリラヤ地方では、この
湖を資源とする水産業が栄えていました。魚の干物を作って売ることで利益を上げていました。で
すから、そういう収入減を捨てるのは大きな決断でした。しかし、彼らの心は準備ができていたの
です。シモン・ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテス
マを受けた直後から、イエスの教えを聞くことになった人たちです。そして、この大漁の奇跡によ
って神様は背中を押してくださったと考えらえます。

まとめ)
1)私たちはイエスを神として受け入れなければなりません
  イエスは神であり創造に携わった方です。ですから、生き物の動きを御する権威が有ります。
 そして、人々を神の業のために任命して遣わす権威が有ります。ルカはイエスに神の権威が有る
 ことを示すために、4章から6章にかけてそういう説明になるエピソードを書いています。
2)私たちはイエスに従う者の態度を心得なければなりません
  その朝も、イエスの周りにはその話を聞きたい人が大勢集まっていました。しかし、イエスは
 彼らの中からは弟子を選ばないで、ペテロをはじめとする四人を選びました。彼らが持っていた
 弟子の資質は何でしょうか。第一に、ペテロはイエスのために進んで働く気持ちが有りました。
 第二に、ペテロは自分の考えよりもイエスの指示を優先しました。第三に、ペテロはイエスを自
 分の主であり神であると認識していました。第四に、ペテロは全てを捨ててイエスに従って行く
 気持ちが有りました。他の三人も同様であったと考えることができるでしょう。

私たちも、このような弟子の資質を備えてた者として歩んで行く心構えを持つべき弟子です。101
という番号は、大学の科目の1年目の科目につけられたりする番号です。その学問の初歩というこ
とになります。ペテロ達が示した弟子の資質を、私たちの持つべき心構えの初歩と考えて、今日の
イエスの弟子である私たちの心構えとして歩みましょう。


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日曜礼拝 2019年5月5日

2019-05-06 22:51:15 | 日曜礼拝
聖書箇所:イザヤ9章1節~7節
説教題:私たちには有る

導入)
 イザヤ書はイエス・キリストに関する預言を多く記録しています。イエスの12弟子の一人である
マタイは、この聖書箇所がイエス・キリストの到来によって成就したと記録しています。そして、
そういう解説は彼がイエス・キリストから直接的に学んだものなのです。
 イザヤの時代には、アッシリヤ帝国がユダ王国にとって大きな脅威でした。先に7章8章では神
はアッシリヤがユダを蹂躙すると告げています。その一方で、この9章では、神は彼らには希望が
有ると述べています。それは、彼らに救い主が与えられるからだというのです。神はどのように告
げられたのでしょうか。

本論)
 1節に出てくる地名は、アッシリヤがイスラエル王国に侵攻して来た時に破壊された所です。苦
しみとかはずかしめというのは、その経験を表しています。海沿いの道というのは、アッシリヤ軍
が遠った幹線道路の名前ということです。アッシリヤはイスラエル王国を征服し、人々を捕囚とし
て連れ去れました。そして、その南に位置するユダ王国にも継続的な脅威となっていました。アッ
シリヤは残虐なことで知られていました。捕虜の皮をはいで壁に吊るすようなことをしていました。
ですから、2節には死の陰という表現も有るのだと考えられます。しかし、その民は大きな光を見
るというのです。それは、神が解放を与えるということです。その解放が喜びをもたらすのです。
4節、5節の内容は、敵は打ち破られ、敵の武器も破壊されてしまうということを述べています。
どのようにしてそんなことが起きるのでしょうか。簡単に言うと、神がユダ王国を解放する偉大な
王を与えるからということです。そして、王として生まれる子どもは、永遠とかとこしえという神
の特質を表す言葉で説明されています。つまり、その王は神だというのです。
 子供として生まれて神であるというと、それはイエス・キリストの特質と一致します。それで、
この箇所もイエス・キリストの預言と考えることができるのです。そういう理解で読み進めると、
この聖書箇所は更に意味が深まるのです。
 ガリラヤはイエスがよく宣教に赴いた地でしたので、光栄を受けたと考えることができます。ガ
リラヤはゼブルンとナフタリにまたがる地域です。2節には光が出てきますが、ヨハネ1章では、
イエスを光だと述べています。神の民が増えることが3節に述べられていますが、イエスに従う者
は今日22憶人いると言われています。4節にはくびき等、強い支配を示す言葉が並んでいますが、
イエスは罪の支配から人々を解放しました。5節のくつは、軍靴でしょうが、武器をも表す言葉だ
ということです。血まみれの着物も軍服ということになるでしょう。人々を攻撃する様々な敵の道
具は廃棄されるということになります。イエス・キリストへの信仰によって罪の責めや罰が取り去
られました。
 どのようにして人々は解放されて喜ぶことになるのでしょうか。それは、救い主イエス・キリス
トが来られたからです。6節、7節はイエス・キリストの特質をよく表しています。イエスは子ど
もとして神の民のためにこの地上に来られました。主権が肩に有るというのは、王が着るローブが
肩にかけられることにたとえた表現で、イエスは王であることを示しています。6節に出てくる四
つの称号もイエスがどのような存在であるかを表しています。不思議な助言者は、人々が喜んで耳
を傾けるような格別な助言者です。イザヤ28章29節では、そういう特質が神の描写に用いられてい
ます。私たちも喜んでイエスの言葉に耳を傾けて、神の回答をいただくのです。力ある神という肩
書は直接的にイエスの神性を表しています。そして、この肩書も父なる神に対しても用いられてい
るのです。(申命記10章17節参照)永遠の父という称号も父なる神と重なる部分が有り、三位一体
を表すことになります。父親のような統治者として人々を導くので、この称号が使われているので
す。平和の君と呼ばれるのは、人々から罪の咎めと恥を取り去り、平安を与えるからです。7節も
与えられる救い主がイエスであることを示しています。イエスはダビデの子孫です。ダビデ王朝は
絶えてしまいましたが、イエスの統治は永遠に続きます。万軍の主の熱心がこれを成し遂げると書
いてあります。神の預言だから必ず成就するということで、確かにそれはイエスの到来によって成
就したのです。イエスが再臨される時にはこの全てが完成するのです。

まとめ)
1)私たちには敵がいる
  罪、すなわち神と断絶していることが、私たちの惨状の根源です。そして、敵であるサタンが
 私たちの間に罪と滅びを増し加えようとしているのです。アッシリヤが残虐なことで知られたよ
 うに、私たちの敵であるサタンも初めから人殺しで偽りの父だとイエスは述べています。(ヨハ
 ネ8章44節)サタンは私たちにいつも害を及ぼそうとしているのです。(1ペテロ5章8節、9
 節)私たちには敵がいるのだということを認識し、注意を怠らず、立ち向かうことが必要です。

2)私たちには解放がある
  神は敵の抑圧からの解放を約束されました。それは、ユダの人々に大きな喜びをもたらしたこ
 とでしょう。福音はイエス・キリストの良い知らせです。それを受け入れれば、誰でも罪と死か
 ら解放されて永遠の命に入るのです。(ヨハネ5章24節参照)そして、この福音は全世界に広が
 り続けているのです。

3)私たちには救い主イエス・キリストがある
  6節は三位一体の教理を確認しています。イエスは子どもとして生まれましたが神です。四つ
 の称号が明確にイエスが神であることを示しています。そして、天の父なる神が「これに聞け。」
 とお命じになています。彼が不思議な助言者だからです。私たちは今でもイエスに聞くことがで
 きます。丹念に聖書を読み続けることによって。私たちがイエスの聞き従う時、私たちはその権
 威の元に来て救われるのです。そして、その神の約束は必ず成就するのです。
  私たちはどのようにこの聖書の教えを私たちの生活に活かすことができるのでしょうか。

  一つには、このイエス・キリストを個人的な救い主として信じ受け入れることです。まだそう
 したことがない方も、試してみる価値があります。ラリー・リーという人がいました。ヒッピー
 文化全盛時代のアメリカの若者でしたが、薬物乱用の影響や鬱が有り、人生がどん底であると思
 っていました。治療の成果が出ず、最後の拠り所としてイエスの言葉が赤い文字で印刷されてい
 る聖書を取り上げ、特に赤い文字の箇所を一生懸命読みはじめました。そして、跪いてイエスに
 人生を明け渡す祈りをした時、彼の人生は変わってしまいました。バンドを組んでいたので、バ
 ンド仲間にイエスの話をしようとして会いに行きました。その仲間はラリーを見るとすぐに彼に
 変化があったことを認めました。何を試したんだと彼は聞きました。ラリーはイエスの救いの証
 をして、彼にも試すことを勧めました。そして、彼も同様に祈って魂の解放を経験したのです。
 是非、皆様にも真摯に求める心をもって試してみていただきたいと思います。

  もう一つは、クリスチャンの方には、いつもイエスの光に照らしていただくということです。
 海沿いの道を通ってアッシリヤが蹂躙したガリラヤをイエスが福音の光で回復したように、悪魔
 が私たちに怒り、憎しみ、悲しみや不安をもたらしてきた思いの道を、イエスの真理の言葉で日
 々照らしていただきたいのです。私はだめだとか、あいつが私を無視したというような否定的な
 思いの主語を、神様に置き換えた言葉に変えるのです。神様はわたしを高価で貴いと言ってくだ
 さっている。私の義と価値はイエス・キリストの中にしかないのだと宣言し続けるのです。主の
 み名を呼ぶ者は救われるのです。私たちには敵がいること、しかし解放も有ること、そして、そ
 の解放をもたらすのはイエス・キリストであることを、いつも覚えてください。
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