パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2023年10月29日

2023-10-29 23:45:48 | 日曜礼拝
礼拝音声は有りません

聖書箇所:詩編136:1-26
説教題:神に感謝せよ

導入)
  この詩編はダビデが書き、毎日の礼拝に用いるためにレビ人たちに渡したものではないかと考えられます。この詩編で与えられている命令は、主に感謝せよです。感謝する理由は、神の恵はとこしえまで続くからです。この理由が全ての節に繰り返されています。ダビデがどのようにこの詩編を構成しているのかを確認してみましょう。

本論)
1)主題:神に感謝せよ(1節‐3節)   
  ダビデは最初にこの詩編の主題を示します。主、神という同義で用いられている語の繰り返しでそれを強調しています。同時にそれは、他の神格や偶像を排除する宣言にもなっています。
2)神は創造の神(4節‐9節)
  大事な神の性質は、神が万物を創造した神であるということです。すると、他には神はないということの繰り返しにもなります。私たちが祈る時、礼拝する時、どのような神に祈っているのでしょうか。私たちの答え、私たちの認識は、創造の神でなければなりません。
3)神は救いと解放の神(11節‐16節)
  イスラエルの歴史を振り返った記述になっています。出エジプトは、サタンと罪の力からの救いと解放を象徴しています。紅海を渡ったことは、洗礼の象徴と考える学者もいます。神の全能の御手は、クリスチャンにとってはイエス・キリストの救いにつながります。私たちは罪と永遠の滅びから救われたので、私たちは主に感謝するのです。
4)神は相続を与えてくださる神(17節‐22節)
  この部分にはアモリ人の王やバシャンの王が出て来ます。彼らの領地を理解する必要が有ります。アモリ人の領地は、ガド族とルベン族に割り当てられる領地と重なっていました。また、バシャンは、マナセ族に割り当てられる領地と重なっていました。イスラエルに与えられた領地は、アブラハムの時代から神の約束の地でした。(創世記15:12-16参照)
  ここで留意するべきことは、イスラエルに割り当てられた地であっても、その地を取るために強い王たちと戦わなけれがったということです。神の導きによって彼らは勝利しました。クリスチャンの生活でも困難に合うことがあります。私たちはイエス・キリストへの信仰によって戦うのです。私たちはイエスによる勝利の希望が有ります。また、天の御国の相続の約束が有ります。ですから、神に感謝するのです。
5)神は守り養う神(23節‐25節)
  この部分は、士師の時代に関する記述と考えられます。敵に卑しめられた時に、士師が与えられて、人々は救い出されました。
  神の守りと養いへの言及は山上の垂訓を連想させます。その神の恵みのゆえに神に感謝するのです。
6)結論:神に感謝せよ(26節)
  ダビデは最後に主題に戻り、それを結論として示しています。何にしても神は良いお方なので、その恵みは永久まで続くのですから、神に感謝するのです。
  
まとめ)
1)主題:神に感謝せよ(1節‐3節)
  私たちは常に神に感謝するのです。   
2)神は創造の神(4節‐9節)
  神は最高主権者であり、私たちの根源なる方です。それは永遠に変わることはありません。その神に祈っていることを認識するのです。
3)神は救いと解放の神(11節‐16節)
  神の救いは永遠です。永遠の滅びから救い出してくださいました。
4)神は相続を与えてくださる神(17節‐22節)
  私たちはイエスと共に天の御国の
5)神は守り養う神(23節‐25節)
  神の守りと養いは現在の私たちへの恵みです。山上の垂訓の原則、神への信頼は私たちの原則です。
6)結論:神に感謝せよ。(1テサロニケ5:18)
すべてのことを感謝せよとパウロも命じています。神は良いお方であり、その恵みが永久まで続くからです。
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日曜礼拝 2023年10月22日

2023-10-22 16:40:51 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ 22:34-46
説教題:神は愛なり

導入)
  パリサイ人やサドカイ人達は繰り返しイエスを罠にかけようとして質問をしてきました。たかが人間が神の御子を罠にかけることなどできるはずがありません。今回の朗読箇所には、彼らの最後の試みが記録されています

本論)
34節 普段はパリサイ人とサドカイ人は良い関係にはありませんでした。しかし、イエスを罠にかけるという目的のために協力することにしたのです。(彼らが普段対立していることは使徒行伝23:6-7でよくわかります。)
35節‐36節 律法の中で(一番)大切な戒めがどれであるかというのは、人々の関心を集めていました。様々な意見が有ったようですが、結論が出ていなかったようです。ですから、パリサイ人やサドカイ人は、イエスがどんな回答をしても文句をつけることができると予想したのでしょう。
37節‐38節 イエスは直ぐに申命記6:5を引用して答えました。この戒めは、旧約聖書にあと7回記録されている大変重要な戒めです。言わんとするところは、私たちの全存在をかけて神を愛さなければならないということです。これが大切な第一の戒めであるというのは、その重要度が最も高いということです。実は、この戒めは、直前の申命記6:4とつながっていて、「聞け、イスラエルよ。」というユダヤ人が毎日告白する戒めと組み合わされています。ですから、これが第一の大切な戒めとするのは大変自然なことでした。
39節 イエスは更にレビ19:18を引用して第二の戒めを述べます。ユダヤ人の伝統においては、この二つの戒めを組み合わせて用いられることがよくありました。ですから、この第二の戒めを挙げることは自然なことでした。
40節 律法と預言者というのは、旧約聖書全体のことです。ここに詩編が加えられる場合も有りますが、同じことです。旧約聖書の原則がこの二つの戒めから派生していると言っても良いでしょう。
41節 これは、34節のパリサイ人がイエスに質問をした直後のことであることを示すための一文と考えられています。
42節 今度はイエスの方から質問をしました。メシア、キリストがダビデの子孫であるということは、ユダヤ人には共有されている知識でした。ですから、彼らは即座に答えることができました。(根拠については、詩編89:3-4、イザヤ11:1, 10を参照)旧約聖書の記述から、メシアはこの世の王という考えが定着していました。しかし、人々は、人々はメシア、キリストについてもっと知るべきことが有りました。そこで、イエスはもう一つの質問を加えました。
43節‐45節 43節の「御霊によって」という表現は、聖霊に導かれてダビデが書いた詩編を引用したからです。(詩編110:1)イエスの質問は、原文のニュアンスがわからないと理解が難しいものです。『主は私の主に言われた』という部分は、原文の表現では『ヤーウェは私のアドナイに言われた』という感じになっています。二つ目の主にアドナイが当てられていることに注目します。この語は主に神に対して用いられるものなのです。つまり、『父なる神は私の神に言われた』という意味になるのです。ダビデは聖霊の導きによって、メシアは神だと述べたことになります。イエスの質問の意図は、「メシア、キリストは、どうしたらダビデの子孫であり同時に神でありえるのか」ということだったのです。
  因みに、ユダヤ教の教師が聴衆に明らかに矛盾しているように思われる聖書の記述を理解しようとする時に、どちらも真理であるとし、いかに矛盾を解消するべきかを考えるように求めたということです。それは、現代のクリスチャンにも求められる姿勢です。
  私たちはこの質問への回答を知っています。その説明の一例は、ローマ1:2-4に有ります。メシア、イエス・キリストは、人の子であり、同時に神の御子であり、神なのです。キリストは人の代表として身代わりに死ななければならないので、人間として来なければなりませんでした。しかし、例え罪を持たない人間が一人いても、身代わりの法則から考えれば、その死は一人しか救うことはできません。信じる者が全て救われる程の身代わりとなると、神の他には存在しません。ですから、キリストは神でなければならないのです。神は、人類の救いのために、そのようなキリストを送ってくださったのです。私たちはここに神の愛を見るのです。
46節 パリサイ人たちは答えることができませんでした。イエスの質問が彼らの理解を超えたものであったからでしょう。仮に、彼らの中にイエスの質問の意味するところを理解した者がいたとしても、イエスの神性を認めることはしなかったことでしょう。彼らはそれ以降イエスに質問をすることを諦めたのでしょう。 
  
まとめ)
  今回の聖書箇所には、神が愛であることが読み取れます。どのようにマタイは神が愛であることをこの記録によって示しているでしょうか。神は愛なのです。ですから、

1)神は一番重要なものとして神を愛することを命じている(37節)
  神は愛をもって私たち人間を神の似姿に創造されました。それは、私たちが神との交流を持つ者となるためでした。それが人間と他の被造物との違いです。   
  私たちは、理性、感性、力をもって、すなわち、全存在をもって神を愛さなければなりません。そのことの中には、イエス・キリストの体なる教会を愛することも含まれています。私たちは日曜礼拝を毎週守り、仕え、礼拝の維持を支援しなければなりません。

2)神は私たちが互いに愛し合うことを命じている(39節)
  私たちは神の似姿に創造された者どうしです。神の似姿に創造された人を憎み、呪い、殺そうと思うようなことは罪です。しかし、パリサイ人たちは、イエスを殺そうと決めていました。
  クリスチャンは、互いに愛し合い、お互いに良くしようと努力するのです。イエスはヨハネ13:34で、新しい戒めとして互いに愛し合うことを弟子たちに命じています。私たちが教会を愛し、礼拝し、互いに仕え合う時、私たちは始めの二つの戒めを守っていることになります。

3)神は私たちにキリストを神として受け入れることを命じている(45節)
  この二日後、イエスは人の罪の代価を払うために十字架にかかって死なれました。私たちの代わりになるために、イエスは人間として来られました。同時に、多くの人の救いとなるために、イエスは神でなければなりませんでした。イエスが三日目によみがえられたのは、イエスが神であることを証明し、信じる者に与えられる永遠の命の保証するためでした。神からの最大の贈り物であるイエス・キリストの救いを私たちは受け取るのです。
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日曜礼拝 2023年10月15日

2023-10-15 23:27:49 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ローマ 1:8-17
説教題:パウロの感謝、計画、動機

導入)
  パウロは、挨拶に続けていかにローマを訪問したいと思っているかを述べています。この記述の中には、彼の感謝、計画、宣教の動機が示されています。その中に示されている神の御心をさぐってみましょう。

本論)
1)パウロの感謝(8節―12節)
  パウロは本題の最初に神への感謝を持ってきました。ローマのクリスチャンの信仰が広く知れ渡っていることを感謝しています。彼の感謝は、イエス・キリストの福音を広く宣教する情熱に基づいています。そして、もっと福音宣教と拡大のために貢献したいという思いを持っています。そのために、継続的にローマに行けるように祈っていました。口先だけではなく、実際に熱心に祈っていることを伝えようとしています。神がそのことの証人であると述べています。
  彼のの切望していることは、ローマのクリスチャンを力づけることでした。御霊の賜物というのは、聖霊によってパウロに与えられた聖書の理解、深い洞察や、教えたり癒したりする能力と考えられます。それらは、彼らを確実に力づけるはずのもです。しかし、パウロはそれが一方的なものや恩着せがましいものではないことを示したかったようです。続けて、「というよりも」という表現で、説明を続けます。それは、「すなわち」とか、「どういうことかというと」というような語感です。彼が望んでいるのは、ともに励ましを受けることでした。

2)パウロの計画(13節)
  パウロは願いをもって祈っているだけだとは思われたくなかったようです。実際に何度もローマを訪問する計画を立てて来たことを示しています。彼がどのような目的を持っているのでしょうか。1)ローマのクリスチャンの信仰を力づける。2)宣教を通してもっと多くの魂を獲得する。あなたがたの中でもいくらかの実を得ようと思って、という表現にそれがうかがわれます。

3)パウロの動機(14節―17節)
  先ず、彼は負債を追っているという表現をしています。原文では名詞の表現で、義務を負っている者という感じになっています。それは、イエス・キリストによって、異邦人への使徒に任命されたからです。ギリシャ人というのは、文化的で知識の有る人々を指しています。未開人というのは、ローマ帝国以外の人々ということで、文化や知識に乏しいと考えられていました。彼の宣教の対象は、全ての異邦人であることが述べられています。
  15節では、パウロがローマのクリスチャンの成長のためにも貢献したいと思っていることが示されています。
  16節は、彼の福音宣教の動機の別の面が示されています。
  1)福音には神の救いの力が有るから 神の裁きから救われ、永遠の命に生きるのです。
  2)信じる者はすべて救われる すなわち、救いはユダヤ人にも異邦人にも同等に与えられるということです。ヨハネ3:16の言葉を反映しています。
  3)福音は神の義を啓示するから 神の義とは、神の正しい裁きと救いの計画、キリストへの信仰によってクリスチャンに与えられるキリストの義等です。その義は信仰に始まり信仰に進ませると述べられています。神の救いの計画は信仰によって受け止められ、イエス・キリストの義がその人の生活の中で広げられて行くのです。ハバクク2:4の引用によって、その信仰の大切さを強調しています。
  
まとめ)
  今回の箇所は、パウロに焦点の有るものでした。これを読んだクリスチャンはどのような原則を読み取って、自分の信仰生活に結びつけてゆけば良いのかを考えてみます。

1)良い業と証によって私たちの存在を示していくこと
  パウロはローマの教会に行ったことはありませんでしたが、彼らの証が伝わってきました。そのことを喜び、彼らを力づけたいと願って彼らのために絶えず祈っていました。
  私たちの良い業や証も、他の地域の人たちが聞いた時に、喜び、祈りに導かれるようなものになるように励んで行くことが大事ではないでしょうか。また、パウロがしたように、他の恵まれた教会が更に力づけられるように祈っていくべきではないでしょうか。

2)聖書と福音の知識を深めること
  パウロはクリスチャンを教育し、力づけるためにローマ訪問を計画していました。更に多くの人を神の国に招き入れ、クリスチャンたちを更なる成長に導きたいと思っていました。
  ですから、私たちも進んで福音と聖書の知識を深めるようとしていかなければなりません。私たちは、お互いに福音と聖書の知識をもって互いに励まし合うことや、福音を他の人たちに分かち合うことが求められています。

3)福音に示された救いに導く神の力を心に留め続けること
  パウロは信じる者全てに救いを与える神の力に動機づけられていました。信仰を通して、私たちは神の義をいただきました。その偉大な神の救いの力を心に留めて生きて行くのです。また、福音の知識によって互いに励まし合うことができます。
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日曜礼拝 2023年10月8日

2023-10-08 21:11:15 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ローマ1:1-7
説教題:神の福音

導入)
  今回の聖書朗読は、パウロのローマのクリスチャンへの手紙の冒頭のあいさつ文です。手っ取り早く言えば、パウロより、ローマにいるクリスチャンへ、という簡単なものなのですが、パウロは6節を割いて、自分についての説明をしています。それは、パウロがローマの教会を開拓をしておらず、彼らに会ったこともなかったからかもしれません。しかし、単に自己紹介に留まらず、その中には、今日の私たちにも大事な要素が含まれています。その中心的な要素は、神の福音です。パウロは、最初に自分が神の福音のために選び分けられた者だと述べています。パウロが、神の福音の要素をどのように語っているかを見てみましょう。

本論)
1)神の福音は信頼に値する(2節)
  パウロは最初に神の福音が信頼に値する要素を述べているように見えます。一つ目は、神が福音を約束されたからです。神は契約に忠実で善なる方です。その約束は信頼に値するのです。二つ目に、それは預言者たちを通して約束されたからです。預言者は複数形です。繰り返し約束の成就が確約されたのです。三つ目は、前から約束されたからです。創世記3:15節には、すでにサタンの頭を砕く男子が与えられることが約束されています。最後に、それは神のみ言葉、旧約聖書を通して約束されたからです。

2)神の福音は私たちの主イエスについてである(3節―4節)
  パウロはキリスト論において大事なことをここで述べています。イエスはダビデとの約束により、ダビデの子孫として生まれました。そのことは、イエスが人間の形を取って生まれたことも意味します。それは、父なる神に対して、罪の贖いの血を流す必要が有ったらからであり、悔い改めの人間の執り成し手となるためでもありました。また、イエスは神と聖霊の力で生まれてこられました。聖霊によって身ごもったことは、マタイ1:20において、ガブリエルがヨセフに告げています。また、印と証明のための奇跡の業をなし、神の証明として、死者の内よりよみがえられました。イエスのよみがえりは、神の福音の中で重要な要素です。よみがえりの信仰がなければ、イエスを信じるという告白が無に帰することは、1コリント15章において、パウロが説明しています。

3)神の福音はイエス・キリストを通して私たちに恵みを与える(5節―7節)
  5節、6節も、一人称複数形が用いられていますが、直接的にはパウロのことと言えます。しかし、ここに表わされている恵みも、私たちに関係有るものになっています。一つ目は、信仰の従順です。パウロの伝道の結果、人々がそれに導かれるのですが、それは、私たち、受け入れた人々への恵みと言えます。福音は信じる者に、イエスキリストへの信仰をもたらし、信仰はイエスの教えへの従順に導きます。イエスを主と仰ぐのですから、従順は当然なのです。二つ目は、使徒の伝えた正統な福音を受け継いだことです。使徒は、主人の伝言を忠実に伝える伝令という意味が有ります。パウロは異邦人への福音伝道を委ねられ、それが私たちにも届いたのです。三つ目は、イエス・キリストに属する者の立場を与えられたことです。6節と7節で、私たち異邦人も神に召され、神に愛されて聖徒と呼ばれる立場をいただいたことがわかります。四つ目に、私たちは神とイエス・キリストの平安をいただくことです。挨拶の定型文ではありますが、パウロはローマのクリスチャンに、神とイエス・キリストの恵みと平安を祈っています。恵みについては確認したばかりですから、平安について考えてみます。私たちが父なる神がいただく平安についての教えは、山上の垂訓に見出されると思います。神が、私たちを野の花や鳥よりも大事にして守り養ってくださることを信じる信仰の平安です。イエス・キリストの平安は、罪の赦しによって神と和解し、その怒りを恐れなくてよいことです。また、永遠の命と天国で受け継ぐ相続の希望が有ることも、平安の基となるものです。

  
まとめ)
1)神の福音は信頼に値する(2節)
  福音は神の約束であるために信頼に値することなどを確認しました。更に、旧新約聖書の写本が正確であることも信頼性が高いことの理由として挙げることができるでしょう。死海文書が発見された時に、現代に伝わっている旧約聖書と殆ど変わらないことが証明されています。新約聖書には、どの古文書よりも多くの写本が存在し、かつ、その写本間の違いは0.5%であると、神学者のノーマン・ガイスラーは述べています。

2)神の福音は私たちの主イエスについてである(3節―4節)
  パウロが活躍した時代は、福音というのは、新しい皇帝が即位した知らせのことでした。その皇帝の元で、帝国の安泰が約束される期待が持てることが、福音、良い知らせということだったのです。
  しかし、神の福音は、皇帝ではなく、永遠の命にいたる救いの道をもたらすメシア、イエス・キリストの到来の良きしらせです。このキリストによって、私たちは罪を赦され、復活の信仰を持ち、永遠の命の希望に生きるのです。
 
3)神の福音はイエス・キリストを通して私たちに恵みを与える(5節―7節)
   私たちは、神の恵みを数えて、感謝する生活を送らなければなりません。信仰の従順をいただいたこと、正統な福音を受け継いだこと、イエスに属する者へと召されたこと、神とイエス・キリストの平安をいただいたことを日々心に繰り返し思い起こして生きるのです。
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日曜礼拝 2023年10月1日

2023-10-02 13:31:09 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:詩編106編106編
説教題:主の慈しみはとこしえまで

導入)
  この詩編は、46節、47節の記述から判断すると、捕囚からの帰還が始まった後に書かれたものではないかち思われます。捕囚は神との契約に基づく罰であると考えられます。(申命記28:64参照)同時に、そのような中にあっても、悔い改める時にはその祈りに答えてくだることも神の約束と考えられます。(1列王記8:46-50参照)この詩編は、そのような背景に基づいたものと思われます。
  この詩編は先祖の罪の告白が大半を占めています。しかし、その焦点は、神への賛美と嘆願にあります。どのような霊的原則が述べられているのかを確認してみましょう。

本論)
賛美
  1節の賛美の言葉が最初に述べられています。同様な言葉は107編、118編、136編にも出て来ます。それだけ大事な原則です。2節は修辞疑問文です。誰もつぶさに神の偉大さを讃えることはできません。それでも記者は神をほめたたえようとするのです。そして、3節に、そのような心構えで生きようとする者、神の御心を求めて生きようとする者は、正義を常に行う人と述べられています。そのような人たちは幸いなのです。何故ならば、主はいつくしみ深いからです。
  次に記者がしていることは、嘆願の祈りです。4節と5節では、記者はイスラエル人国家と自分という個人を対比させています。神がイスラエルに目を留める時、私個人にも恵みを施してくださいということです。その目的は、神をほめたたえる喜びの叫びを上げる人々の中に、自分も入れてもらいたいということです。6節は、自分が先祖たちと同様に罪を犯したと告白しています。しかし、その焦点は、罪の告白よりも、神が先祖を憐れんで救い出してくださった歴史に基づいて、自分をも赦して救い出してくださいという部分に有ると考えられます。
  7節から46節までは、先祖たちがどのように神に対して罪を犯したかを告白しています。記者の意図は、あの時も、その時も、神は恵みを施してくださったでしょうと訴えることに有ると考えられます。大まかに八つの場面が取り上げられています。紅海を渡る前に、恐怖と不信仰の言葉を神にぶつけました。神の恵みは、エジプトの軍勢彼らを守って対岸に渡らせてくださり、神の力を示されたことでした。食べ物のことで神に不平を述べることが有りました。神の養いは不十分であり、肉を与えることができないと不平を述べて、不信仰で反抗的な態度を示しました。神の恵みは、罰として病で撃たれる人も出ましたが、うずらの肉を与えてくださいました。コラ、ダタン、アビラムが、モーセとアロンの権限を妬んで反抗し、神に従いませんでした。神は反逆する者たちを滅ぼされましたが、引き続き民を約束後に導く器であるモーセとアロンを維持されました。モーセがシナイ山に上って不在の時、人々は不信仰と不安にかられて金の仔牛の像を造り、偶像礼拝をしました。モーセがとりなしの祈りをして、民が滅ぼされなかったことが神の恵みと言えるでしょう。民は、約束の地にたどり着いた時、その地の人々の体大きいのを見て恐れ、不信仰な態度を取り、神の命令の通りに攻め上りませんでした。神の恵みは、頑なな世代を取り除き、子孫を約束の地に入れてくださることでした。彼らがモアブの地に近づいた時、パアルぺオルに捧げた
物を食べ、モアブ人との間に性的な不道徳が有りました。神は、そのような罪に加わった者たちを殺すように命じられましたが、ピネハスが神の御心を率先して行ったことで、その後の神罰を思い留められました。メリバで民が飲み水が無いと言って逆らった時、神は水を豊に与えてくださいました。モーセが軽率な言葉を発したために、約束の地に足を踏み入れることができなくなってしまいましたが、神の聖であることを示すことになりました。入植後、民は命令通りにカナン人を追い出さず、不従順でした。度々不信仰と偶像礼拝に陥りましたが、悔い改める時には、神が恵みを持って士師を起こし、良い王を与え、彼らを守られました。46節に示された神の恵みは、クロス王が民のエルサレム帰還を許可したことが含まれているように思われます。
  このように、神が民の不従順の歴史の中で、どのように恵み、慈しみを施してくださったかを述べて、記者はもう一度直接的な嘆願に戻ります。その目的は、始めの方で示されたのと同様に、慈しみ深い神を誇り、感謝を捧げることでした。詩編106編は、詩編の第四巻の最後の詩編です。締めくくりに相応しく、神をほめたたえる呼びかけで終わっています。同様な表現が、第一巻、大三巻の終わりにも用いられています。

  
まとめ)
  神の慈しみは深く、その恵みはとこしえまで続きます。そのことに基づいて、私たちは、どうのように応答するべきでしょうか。

1)神に感謝を捧げ続ける
  私たちは、イスラエルの民の歴史と同様に、繰り返し不信仰の罪を犯しているものです。しかし、神は慈しみ深く、神に目を留めて悔い改める者に恵みを施してくださいます。その慈しみに頼り、悔い改め続け、神に感謝を捧げ続けるのです。(哀歌3:22-23参照)

2) 神がいかにわたしたちに慈しみを示していくださっているかを告白する
   記者が述べた先祖たちの罪は、その後に続く神の恵みを思い起こし、同様の恵みを神に請い求めるためでした。神は、罰を与えられますが、同時に悔い改める者の必要を満たし、回復を与えてくださいます。モーセはキリストの予表と言われています。モーセが民のために執り成しをしたので、民は滅ぼされることがありませんでした。神は私たちに大いなる執り成し手、大祭司の働きをするイエス・キリストをくださいました。この慈しみ、恵を私たちは日々告白するのです。

3) 神に救いと恵みを求めて嘆願する
   記者は、この詩編の祈りを捧げた時、または書き留めた時、まだ完全な回復を経験していなかったかもしれません。私たちも、信仰の歩みにおいて、まだ困難を乗り越えていないかもしれません。それは、自分の罪や間違った考えの結果かもしれません。それでも、私たちは詩編の記者と同様に、神に目を向け、神に信頼して、勝利の喜びと感謝の声を上げられる時を期待して祈ることができますし、祈るようにするのです。
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