パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年3月17日

2024-03-17 17:11:15 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マルコ 11:1-11
説教題:イエスはあなたの王か

導入)
  本日はレントの第五日曜日です。この期間はイエスの受難と救いの御業を思い巡らす期間です。マルコ11:1-11を通して、イエスの理解を深めていきたいと思います。

本論)
1-3節 イエスはベテパゲとベタニアの境界に来たようです。そこからイエスは二人の弟子を使いに出します。二人一組にして伝令や使者を送るのが普通でした。
 誰も乗ったことのないろばの子ということの意味は、何かを最初に使用する人には、特別の扱いを受けたということになります。
 イエスは、ろばの子を連れて来るように指示する時に、人々に尋ねられた時の回答も指示しました。その表現は、原文では、「それ(ろばの子)の主が必要としているのです。」とも理解できる構造になっています。イエスは、すべての被造物の上に権威の有る方です。
4-6節 ろばは、訓練を経てからでなければ人を乗せたり荷物を運ぶことはしませんでした。ですから、そんな役に立たないろばの子を何に使うのかと疑問に思うのは当然でした。
 彼らの説明にどうして周囲の人々が納得したのかはよくわかりません。しかし、最も大事なことは、旧約聖書のメシア預言が成就しなければならなかったということでうす。(ゼカリヤ9:9参照)それに、ベタニヤはエルサレムまで2,3キロの距離でしたから、特別な理由がなければ十分歩ける距離でした。
 ろばという動物の象徴することも知っておくことが良いでしょう。ろばは、普通の使役される動物でしたけれども、律法においては汚れた動物に分類され、神に捧げることはできませんでした。そんなろばの、しかも一般には役に立たない段階の子ろばに乗るというのは、謙遜の姿勢の表れと理解されています。
 また、ゼカリヤの預言において、メシアの性質が、「柔和で」と表現されています。この語は、「虐げられる、貧しい、遜った」という意味があり、ろばと共に、キリストの謙卑と受難を示す内容になっています。
7節―10節 弟子や人々が上着を敷いたのは、王として認める行為です。(2列王記9:13参照)また、道に木の枝を敷くのも、王の訪問のために道を平らにする習慣から来ていました。(イザヤ40:3参照)とにかく、人々はイエスをメシア、また王として歓迎したことになります。
 特に、その事実は、彼らが叫んだ言葉で明らかになります。彼らは、メシアを歓迎する詩編である118:25-26を引用していました。
 ユダヤ人の伝統においては、メシアは過ぎ越しの時に挙兵して敵を退けてダビデ王朝を再興すると信じられていました。ですから、正にその機会が到来したと考えられたのです。
 しかし、この理解のために、群衆は後にイエスを十字架につけるようにピラトに要求することになります。伝統の通りならば、イエスが捕らわれて敵であるローマの総督の前に引きずり出されるはずがないと考えたので、イエスは偽メシアだと考えられたでしょう。メシアを自称したことは、冒涜に当たると考えられたと思います。群衆は騙されたと思い、怒っていたことと思われます。
11節 イエスは、エルサレムに着くと、神殿に入りました。このことも、預言の成就の一部と考えられます。目的を達せられたので、イエスは宿泊する場所の有るベタニヤに戻りました。
 今回の朗読では、最初の1節と最後の11節にベタニヤという地名が出て来ます。記者であるマルコは、ベタニヤに読者の注目を引きたかったのかもしれません。
 ベタニヤは、復活信仰を象徴する場所です。ここで、ラザロが死者の中からよみがえる奇跡が起きました。ベタニヤのマリアがイエスに香油を注がれたのも、イエスの受難と復活の信仰のあらわれと理解されています。更に、イエスはベタニヤを昇天の地として選ばれました。すると、ベタニヤは再臨信仰を象徴する場所でもあることになります。

まとめ)
 私たちは間も無く復活の主日を迎えます。イエスはあなたの王か?という問いに対して、私たちは「はい」と答えられる存在でなければなりません。そのために意識されるべきことを取り上げてみます。

1)私たちの王は最高主権者であり神である
  イエスはろばの子の主でした。イエスは創造主で、すべての上に権威をお持ちです。受難においても、イエスが主導権を握っておられました。名の記されていない二人の弟子は、イエスの元に来て従う者となったので、このような大事な場面で用いられて、神の栄光を現しました。普通は役に立たないろばの子も、イエスの元に連れて来られて用いられ、神の栄光を現しました。イエスは私たちの王です。私たちがイエスの元に来て、御手に人生を委ねる時、私たちの生活は神に栄光を帰するものとなるのです。
2)私たちの王は旧約聖書に預言されたメシア・救い主である
  人々は旧約聖書を知っていました。しかし、彼ら伝統や伝承に注目をしていて、み言葉そのものに注意を払っていませんでした。そのために、彼らの理解と期待は間違っていました。私たちの信仰生活においても、私たちの期待ではなく、み言葉の真理に注目しなければなりません。聖書に親しみましょう。
3)私たちの王は確かに復活され、今も生きておられる
  この箇所の始めと終わりでベタニヤに言及することで、マルコはイエスの復活に注意を引き、強調したかったのではないかと思われます。イエスは今も生きて、私たちのために執り成しをしていたくださいます。私たちは、そのことを信じ、また、私たち自身の体のよみがえりをしんじなければなりません。  
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日曜礼拝 2024年3月10日 | トップ | 日曜礼拝 2024年3月24日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日曜礼拝」カテゴリの最新記事