パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2023年4月30日

2023-04-30 21:23:42 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ7:1-6
説教題:弟子に与える三つの諺

導入)
  イエスは、山上の垂訓を通して弟子たちを教えました。そのまとめと言える原則は、「先ず、神の国と神の義を求めなさい。」ということになります。山上の垂訓の始めの方でも、イエスは、弟子たちが自分の無力なことを認めて謙遜になり、神の義に飢え乾く存在でなければならないことを教えておられます。また、彼らは、迫害にあっても、情け深く、平和を作り出す者でなければなりません。
  今回の聖書箇所においては、その続きとして、弟子たちが神の国と神の義を先ず求める態度がどのようなものであるかを、ユダヤ人たちが当時用いていた三つの諺を用いて教えておられると考えられます。

本論)
1)諺その1、裁いてはいけません(1-2節)
  裁くと訳された語は、物事の良し悪しについて意見を述べる、論争もしくは非難する、という意味がいが有ります。この先の17節では、木の実の良し悪しへの言及が有ります。物事の良し悪しを判断すること自体は悪いことではないのです。イエスの意図は、弟子たちは、パリサイ人たちがするような態度で裁いてはいけないということでした。彼らは自己義認の態度をもって、早急に、厳しく、人の為にならないようなやり方で裁き、責め立てていました。彼らは、自己中心で、自分を高め、他人を軽んじる態度で裁き、神の国と神の義を求めてはいませんでした。
  2節は、諺の後半とも考えられます。その原則は理解し易いと思います。他人を手厳しく扱えば、自分も他人から手厳しく取り扱われることになるということです。イエスの弟子たちは、裁かなければならない場面にあっても、愛をもって、平和と作り出す態度でそうしなければならないのです。そうできなければ、この世でもそのしっぺ返しが有るかもしれませんが、神の前で裁きを受ける時も、同様な有様で責められるということもあるかもしれません。

2)諺その2、自分の問題に先に目を留めなさい(3節‐5節) 
  実際の表現は、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい。」となっています。先に自分の問題を解決してこそ、他人の問題にも適切に対応できるということです。3節、4節は、同じ原則を先に説明しています。ちりと訳された語は、吹けば飛ぶような藁やもみ殻の乾いた小さな破片を指すものです。余程の問題でもなければ、そんなものに誰も気を留めない程度のことを指します。梁と訳された語は、家の構造を支える太くて長い木材を指す語です。そんなものが落ちてくれば、人は命を落とすでしょうし、梁に欠陥が有れば、家が壊れてしまうでしょう。大きな問題を指しています。この2つは、とても小さな物ととても大きな物を比較する表現としても用いられていたようです。
  ここでも、イエスはパリサイ人たちの態度を念頭に置いていたのではないかと思われます。例えば、イエスの弟子たちは、食事の前に手を清める儀式をしなかったことをパリサイ人たちに責められました。しかし、それはモーセの律法に規定されているようなものではなく、言ってみれば、ちりのような小さな問題でした。それに比べれば、パリサイ人たちが勝手に作り出した掟が、モーセの律法の規定を免除するような場合さえ有って、むしろそちらの方がもっと大きな問題でした。パリサイ人たちのような自己中心と自己愛は、大きな問題を無視して、小さな事柄で人を責め立てるような態度になることが有ります。
  5節では、イエスは、偽善者よ、と呼びかけています。弟子たちを教えているのですが、周囲で監視しているパリサイ人たちを意識したものであったと考えられます。偽善者というのは、自分がどういう存在であるかを公言するのに、実際の行動が違っている人です。パリサイ人たちは、自分達は経験で信仰深い者だと言っていましたが、実際には神に誠実に仕えてはいませんでした。パリサイ人たちの注意や勧告は、神の国と神の義を求める態度に基づいていなかったので、無意味なものでした。私たちも、神の義を求めず、自己義認の態度でいる時に、霊的な事柄を適切に取り扱うことはできないのです。

3)諺その3、福音を大事にし、聞く耳の有る人に伝えなさい(6節)
  実際の表現は、聖なるものを犬に与えてはいけません、もしくは、真珠を豚の前に投げてはいけません、というものです。
  聖なるものというのは、元来は、神のために祭壇の上に捧げられた物、という意味が有ります。それは、罪の贖いと神との交流を象徴しています。同時に、恭しい礼拝の心と考えることもできると思います。犬というのは、ここでは、人を襲ったり動物の死体を食べたりする野犬のことを指しています。神への謙遜で恭しい態度を、神への敬意の欠片も無く、それを貶すような人たちと分かち合うことはできないということです。
  豚は、貪欲で悪食なことの象徴で、律法では汚れた動物とされていました。ですから、真珠をその前に投げれば、きっと噛り付くと思われます。しかし、真珠はとても固くて、食べられるものではありません。豚は決して真珠をありがたがることはないのです。ここでは真珠の理解も大事です。真珠は貝から採れる宝石と言えます。当時は、インドやスリランカから輸入されました。養殖が発明される前は、潜水夫が海に潜って採取しなければならなかったばかりでなく、彼らが潜水病で亡くなることも多かったので、大変高価な宝石とされていました。マタイ13章45節―46節に出て来るイエスのたとえ話では、商人が持ち物を全部売って、高価な真珠を買うというものが有ります。それほど高価だったのです。この真珠は、イエスによる救いという、福音を象徴しています。潜水夫の命と引き換えに得られた真珠のように、私たちの救いは、イエスの命と引き換えに私たちに与えられたのです。この諺は、真珠をありがたがらない豚のように、イエスを受け入れない人たちに繰り返し福音のメッセージを与えなくても良いということを示しています。
  この時は、弟子たちが宣教旅行に派遣される前でした。宣教に出かけた先で、福音に敵対する人たちがいたらどうしたら良いかを示唆していると考えられます。福音に敵対する人たちがいたら、場所や人を変えて、福音を語り続けなさいという指示が後にも与えられています。そうしなければ、彼らは弟子たちに危害を加えることがわかっていたからです。実際にパリサイ人たちは、クリスチャンを迫害して、殺すこともありました。しとパウロは、伝道旅行で迫害に遭うと、つぎの町に移動してい行きました。この教えに従ったのだと理解することができます。

まとめ)
1)諺その1、裁いてはいけません(1-2節)
  善悪の判断を示さなければならない時でも、パリサイ人たちのようにではなく、愛と謙遜をもってそうしするのです。この世において、同じ無慈悲な態度で裁かれることにならないためです。また、神の裁きを受ける時に、そのような厳しさで裁かれないためです。

2)諺その2、自分の問題に先に目を留めなさい(3節‐5節) 
  自分を先に省み、自分の問題を探る態度を持ってまそう。自己中心、不信仰が有る状態で、他人の問題を指摘する時、実際は自分のその状態の方が、霊的に深刻な問題なのです。

3)諺その3、福音を大事にし、聞く耳の有る人に伝えなさい(6節)
  私たちに届けられ、与えられた福音が、命と引き換えに採取された真珠のように、高価で貴いことを心に留めましょう。あなたはわたしの目には高価で貴いと言って、身代わりにイエスを死に渡してくださって、救いを与えてくださった神に感謝し、その福音を、聞く耳のある人に渡していきましょう。
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日曜礼拝 2023年4月23日

2023-04-23 22:58:38 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:2テサロニケ2:13-17
説教題:神の召しに堅く立つ

導入)
  パウロは直前に触れた福音を拒絶した人々について触れましたが、それと対照的に福音を受け入れたテサロニケの信者にある恵みを思って感謝しています。それに続いて、テサロニケの信者に対する神の召しに基づいた勧めと祈りが記されています。中心的なメッセージはその勧め、福音に堅く立ちなさいということです。そのために、どうしたら良いのかを、この箇所で示されている事柄が私たちの信仰生活に適用されるという視点から確認してみましょう。

本論)
1)私たちを救いに選ばれた神にいつも感謝することによって(13節)
  ここで感謝を捧げているのは、パウロと彼の同労者です。しかし、その祈りは、私たちの生活にも適用されるべき内容です。神に愛されていること、聖霊によって聖別されたこと、真理に対する信仰を与えられたこと、神の救いに選ばれたことは、全ての信仰者が感謝するべきことです。このことを感謝し、確信することによって、私たちは、神の召しに堅く立つことができます。

2)福音をしっかり守ることによって(14節‐15節) 
  パウロは、ここでテサロニケの信者に、命令、指示をしています。神の忠実な伝令である使徒の立場にあるパウロが伝えた教えをしっかり守るようにと言っています。その教えは、使徒が伝えた福音のことです。イエスを救い主と信じることによって、神との関係を回復して永遠の命を得るという知らせです。その福音を通して、神は、人々を神の子として召し出してくださいました。その目的は、イエスの栄光にあずからせるためです。具体的には、この世ではイエスの証人として立てられること、来る世においては、永遠にイエスと共に天国の栄光の恵みの相続者になることです。

3)神の励ましを祈り求めることによって(16節-17節)
  この部分は、祈願文になっています。そして、パウロの祈りは、繰り返し表現による強調の表現になっています。慰め・励ましの神が、あなたを慰め・励ましてくださいますようにという構造になっていて、神の慰めと励ましが強調されているのです。慰めと訳された語は、励ましの意味も有り、側に引き寄せる意味が有ります。しかも、永遠の慰め・励ましだというのです。
  その励ましの目的、結果は、信者が良いわざと言葉に進むことです。わざと訳された語は、割り当てられたことを行うという語感が有ります。すなわち、私たちの信仰の行い、生き方ということでしょう。また、ことばと訳された語には、説明という意味あいも有ります。私たちがするべき説明は、福音の説明、信仰の説明、神の恵みの証ということになります。

まとめ)
1)私たちを救いに選ばれた神にいつも感謝することによって(13節)
  イエスによる救い以上に偉大な恵みは有りません。ですから、いつも感謝を捧げて生きるのです。神の恵みを数える時、私たちは幾つも感謝するべき理由を見いだすことでしょう。その感謝が、神の召しに堅く立つ力になります。

2)福音をしっかり守ることによって(14節‐15節) 
  私たちは、福音というものの内容を細かく理解している必要があります。人類の堕落から始まり、メシア到来の約束と預言、イエスが預言の成就であること、十字架の死が、信じる者の罪の贖いになることとその聖書的理由、神の子の復活の必要性、再臨の信仰等を、説明することができるようになり、それを自分で確認できるようになることで、間違った福音の理解や教えを聞いた時に、不安になったり動揺したりしないでいられるのです。

3)神の励ましを祈り求めることによって(16節-17節)
  パウロは、絶えず祈ることを命じています。私たちは、祈ることにも召されています。それが、私たちを祭司の国民であることをペテロが再確認させようとしている理由です。知っている人たちのために、執り成し、彼らが永遠の慰めと励ましを得るように祈りましょう。また、自分自身に慰めと励ましが必要な時にも、そう祈ることができます。そのようにして、わたしたちは、神の召しに堅く立つ力をいただくのです。
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日曜礼拝 2023年4月16日

2023-04-18 15:13:57 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 2:1-12
説教題:心を騒がせないために

導入)
  テサロニケの教会の人々には、他にも再臨に関する疑問が持ち上がっていました。偽教師などの働きによるのではないかと思われますが、再臨は既に来たという考えが、信者を不安にさせていました。そうすると、彼らが直面する迫害は、艱難時代に入ったということではないのか、自分達は、携挙されなかったのではないか、等の恐れを感じていたようです。パウロは、そのような間違った考えに揺るがされないように、彼が以前教えた幾つかのことを思い出させようとしています。

本論)
1)イエスにある希望を思い出すこと
  パウロは、何について注意するのかを簡単に述べているだけですが、イエスの再臨と聖徒の携挙を前提として話を始めます。それは、聖徒の希望です。その教えを伝えた使徒パウロ自身がまだ地上にいて、彼らを教えるために手紙を書いているのですから、既に再臨と携挙は起きてしまったと考えて恐れる必要は全くないのです。
  再臨や携挙の時には、どのようなことが起きるかは、イエスも福音書で述べています。(マルコ13章等参照)パウロも使徒として、その教えに沿って確認をしています。イエスが教えられたような印、不法の者が神殿に立つというようなことがなければ、再臨は来ないのですから、どんな手段で再臨と携挙が終わったような情報が教会に届いても、気に留める必要はなく、揺るがされてはならにのです。

2)再臨前のしるしを思い出すこと 
  先にも触れましたが、そのしるしは、不法の者(人間です)が登場すること、彼が自分を神々に勝る礼拝の対象だとすること、彼が不思議なしるし・奇跡などを行って、人々の心を惑わせることです。しかし、神の力とご計画によって、それらのことが起きていないのですから、心配する必要はないのです。しかし、テサロニケの信徒たちのように、惑わされてはいけないので、そのような知識を持っている必要が有ります。

3)破滅はキリストを受け入れなかった人々に来ることを思い出すこと
  不法の者は、人々を騙して滅びに導きます。騙すという意味の語には、不義をはびこらせるために騙すというニュアンスが有ります。10節に、どのような人々が滅びるのかが示されています。真理(である方)の愛を受け入れなかったからです。滅びに至るのは、「わたしは道であり、真理であり、命です。」と宣言されたイエス・キリストを受け入れなかった人々であるということですから、福音を信じて受け入れたテサロニケの教会の人たちは、その対象ではなく、彼らが恐れる必要は無かったのです。

まとめ)
1)イエスにある希望を思い出すこと
  再臨や携挙と聞くと、恐ろしく感じる人もいるかもしれせんが、それは、私たちにとっては恵みの時であり、希望の時です。パウロは1テサロニケ5:9で、私たちは、神の御怒りを受けるのではなく、キリストの救いを受けるのだということを既に確認しています。

2)再臨前のしるしを思い出すこと 
  再臨前のしるしについては、イエスも弟子たちに教えられました。私たちも注意していなければなりません。それは、心を騒がせないためです。
  
3)破滅はキリストを受け入れなかった人々に来ることを思い出すこと
  神の怒り、破滅は、真理の愛を受け入れなかった人々に臨みます。真理の愛、イエス・キリストの愛を受け入れた人々は、確信をもち、終末の預言などに触れても不安になたり迷ったりすることはありません。むしろ、神の恵みに感謝し、神を賛美するのです。
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日曜礼拝 2023年4月9日

2023-04-11 15:18:35 | 日曜礼拝
英語部との合同礼拝でした。音声はありません。

聖書箇所:ルカ24:13-27
説教題:預言者たちの言ったすべてを信じなさい

導入)
  二人の弟子がエマオに向けて歩いていました。彼らの心の状態はどんなものだったでしょうか。17節を見ると、イエスの質問に対して、かれらの顔が曇っていることがわかります。彼らは復活を喜ぶ状態にはなかったことになります。

本論)
  彼らは、道々話し合っていました。その内容の中心は、朝、イエスの墓を見に行った女性たちの証言についての議論であったと思われます。イエスは、弟子たちにご自身の受難、死、復活を預言しておられました。しかし、彼らの頭には、復活の教えは思い浮かばなかったか、もしくは信じられなかったかのでしょう。
  イエスの彼らに対する言葉は、かなり厳しいものだったと思われます。愚かだという語は、知性が低い、理解が乏しいという意味の言葉です。それから、イエスは、律法と預言者を通して、つまり、旧約聖書を通して、メシア、救い主がどのような存在で、どのような経験をしなければならないかを説明しました。この先の44節では、詩編を加えて述べていますが、どちらも旧約聖書という意味になります。イエスの受難と復活は、旧約聖書の預言を通して教えられ、信じられなければならないということが言えます。聖書がイエスを証しており、イエスについての知識の源になっているのです。
  参考になる聖書箇所を挙げておきます。受難については、詩編22編16節―18節、イザヤ53章9節などが預言になります。また、復活については、詩編16編8節―11節、イザヤ53章10節を参照してください。イエスの復活の預言について読む時には、詩編22編、イザヤ53章が参考になることを記憶しておくと良いでしょう。

  
まとめ)
  エマオの途上での、イエスと二人の弟子との対話から学べることは何でしょうか。今回は、次の三つをお示ししたいと思います。

1)聖書の言葉を知り、信じること
  神からの啓示が無ければ、私たちは神に属することを知ることも理解することもできません。また、神の恵みを受けるためには、神の言葉を信じなければなりません。

2)イエスは全ての旧約の預言を成就されたこと
  旧約のメシア預言に親しみ、イエスの復活を信じることです。クリスチャンを迫害したパウロが改心して、イエスの福音を宣教する者になったことも、今日私たちが復活を信じることができる根拠の一つと言えるでしょう。

3)神に心を開いていただけるように願うこと
  イエスが弟子たちに語る時、45節では、彼らの心を開かれたことが記されています。私たちは、神の心開いていただかなければ理解できない世界が有るのです。日々の生活の中でも、神の心開いてくださるように、折に触れて祈り願うのです。
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日曜礼拝 2023年4月2日

2023-04-03 20:39:26 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:詩編4:1-8
説教題:安らかに住まう方法

導入)
  ダビデによる詩編とされています。おそらくアブサロムの反乱の時の作ではないかと言われています。しかし、そのような大変な時に書いた詩編であっても、その結論の8節では、安らかに住まわせてくださいますと告白しています。どのようにしてそのような心境になるのかを見ていきましょう。

本論)
1節 (神への語り掛け)
  私の義なる神という表現が有ります。神がダビデを王に立てたのですから、彼の王としての立場は正当なものです。神がその立場を保証してくださるのです。ダビデの義の源は神です。
  次に、ダビデは、以前神が解き放ってくださったという体験を告白しています。その記憶に基づいて、ここでもあわれんで祈りを聞いてくださいと訴えています。

2節‐3節 (敵への語り掛け)
  人の子たちという表現は、著名な人たちという意味が有るということです。反乱を起こしたアブサロムは王子ですし、取り巻きは大臣のような人たちも含まれていますから、敵への語り掛けだと判ります。
  私の栄光というのは、神から与えられた王としての栄光と理解することができます。それを奪おうとするのは無駄なことだということになります。彼らの態度は、空しく、偽りを追うことだというのです。NIVは、偽りを偶像と訳しています。敵たちは、神に拠り頼まず、自分の力や戦略に拠り頼んでいたので、その偽りを偶像礼拝と理解することができます。
  ダビデは、神に選ばれ、王となったため、神の守りを確信していました。それゆえに、神が祈りをきいてくださることを確信していました。

4節‐5節 (自分への語り掛け)
  震えわななくという表現は、新約聖書では怒るという表現で引用されています。ダビデは、自分の家臣にも裏切られたのですから、怒っても当然でした。しかし、ダビデは、それでも罪を犯してはならないと言い聞かせています。それは、神に不平を言うとか、不信仰の罪ということだと思われます。あるいは、怒りにまかせて、神に頼らずに自分の手で復讐を果たすということかもしれません。
  ダビデはかわりにするべきこととして、先ず、自分の心に語り、床の上でしずまることを挙げます。自分の心に語るというのは、瞑想するという意味の有る語です。その内容は、神の恵み、神の性質、神の約束、自分に与えられた使命などでしょう。
  5節は、その結果と言えると思います。このような瞑想を深めると、神へのいけにえをささげることになります。ダビデは床に横たわっているのですから、動物のいけにえのことではなく、賛美と感謝の祈りということです。そして、主に引き続き拠り頼むことになるのです。

6節‐8節 (まとめとしての神への語り掛け)
  「だれが良い目をみせてくれるのか。」という言葉は、ダビデの敵の姿勢と考えられます。彼らは、この世の特を追い、アブサロムに加担しました。
  それに続くのは、ダビデの姿勢を表す告白の言葉です。ダビデは、この世の得を追い求めるのではなく、神の恵みを追い求めるのです。御顔の光というのは、神の恵みと祝福を表す言葉です。アロンの祝祷にも出て来る表現です。その恵みを、ダビデと、一緒に行動している人たちに与えてくださいと祈っています。
  7節も、敵と自分の姿勢の対比になっています。敵はこの世の得にしか目を留めていませんから、その喜びの源も、この世のものです。原文では、穀物やブドウ酒に、「彼らの」という意味の語がついています。しかし、神がダビデにくださった喜びは、天にまで及ぶ喜びなのです。
  8節の告白は、その喜びの結果と言えます。住まわせるという語は、留まる、住みつく、定住するという語感が有ります。安らかにという語は、安全、確信という語感が有ります。神は私たちの砦です。その安全の中に留まるのです。

まとめ)
この詩編に、安らかに住まう方法を見いだすことができたでしょうか。その要素を考えていましょう。

1)神が私たちの義であることを思い出すこと
  神が私たちを義としてくださいました。私たちは、イエスの義を着せていただいた存在です。私たちは神と和解して、神との平和を持っているのです。

2)神が私たちを神のために取り分けられたことを思い出すこと
  神は私たちを世から取り分け、聖別し、聖徒と呼んでくださいました。私たちがキリストの証人となるようにという目的を持って呼び出してくださいました。その神の目的のために、私たちの祈りは聞かれ、守られるのです。

3)謙遜に神を信頼して瞑想する
  具体的にはどんなことを瞑想することができるでしょうか。
‐聖書に表される救済の歴史を瞑想します。旧約聖書に記されている著名な人物も、私たちの救いのために神がお立てになったのです。なんという恵みでしょう。
‐キリストの宣教、教え、受難、死、復活、再臨を瞑想します。それらも、皆、私たちの救いのためなのです。なんという恵みでしょう。
‐12弟子、私たちに福音を伝えてくださった宣教師、牧師などを遣わされた神の恵みを瞑想します。
‐神がどのような方であるか、その契約を瞑想します。
(これらのことのためには、聖書の知識が大事です。聖書を読みましょう。
‐ご自身の信仰の歩み、主がどのような出会いと導きと恵みをくださったかを瞑想します。
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