礼拝音声
聖書箇所:マタイ7:1-6
説教題:弟子に与える三つの諺
導入)
イエスは、山上の垂訓を通して弟子たちを教えました。そのまとめと言える原則は、「先ず、神の国と神の義を求めなさい。」ということになります。山上の垂訓の始めの方でも、イエスは、弟子たちが自分の無力なことを認めて謙遜になり、神の義に飢え乾く存在でなければならないことを教えておられます。また、彼らは、迫害にあっても、情け深く、平和を作り出す者でなければなりません。
今回の聖書箇所においては、その続きとして、弟子たちが神の国と神の義を先ず求める態度がどのようなものであるかを、ユダヤ人たちが当時用いていた三つの諺を用いて教えておられると考えられます。
本論)
1)諺その1、裁いてはいけません(1-2節)
裁くと訳された語は、物事の良し悪しについて意見を述べる、論争もしくは非難する、という意味がいが有ります。この先の17節では、木の実の良し悪しへの言及が有ります。物事の良し悪しを判断すること自体は悪いことではないのです。イエスの意図は、弟子たちは、パリサイ人たちがするような態度で裁いてはいけないということでした。彼らは自己義認の態度をもって、早急に、厳しく、人の為にならないようなやり方で裁き、責め立てていました。彼らは、自己中心で、自分を高め、他人を軽んじる態度で裁き、神の国と神の義を求めてはいませんでした。
2節は、諺の後半とも考えられます。その原則は理解し易いと思います。他人を手厳しく扱えば、自分も他人から手厳しく取り扱われることになるということです。イエスの弟子たちは、裁かなければならない場面にあっても、愛をもって、平和と作り出す態度でそうしなければならないのです。そうできなければ、この世でもそのしっぺ返しが有るかもしれませんが、神の前で裁きを受ける時も、同様な有様で責められるということもあるかもしれません。
2)諺その2、自分の問題に先に目を留めなさい(3節‐5節)
実際の表現は、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい。」となっています。先に自分の問題を解決してこそ、他人の問題にも適切に対応できるということです。3節、4節は、同じ原則を先に説明しています。ちりと訳された語は、吹けば飛ぶような藁やもみ殻の乾いた小さな破片を指すものです。余程の問題でもなければ、そんなものに誰も気を留めない程度のことを指します。梁と訳された語は、家の構造を支える太くて長い木材を指す語です。そんなものが落ちてくれば、人は命を落とすでしょうし、梁に欠陥が有れば、家が壊れてしまうでしょう。大きな問題を指しています。この2つは、とても小さな物ととても大きな物を比較する表現としても用いられていたようです。
ここでも、イエスはパリサイ人たちの態度を念頭に置いていたのではないかと思われます。例えば、イエスの弟子たちは、食事の前に手を清める儀式をしなかったことをパリサイ人たちに責められました。しかし、それはモーセの律法に規定されているようなものではなく、言ってみれば、ちりのような小さな問題でした。それに比べれば、パリサイ人たちが勝手に作り出した掟が、モーセの律法の規定を免除するような場合さえ有って、むしろそちらの方がもっと大きな問題でした。パリサイ人たちのような自己中心と自己愛は、大きな問題を無視して、小さな事柄で人を責め立てるような態度になることが有ります。
5節では、イエスは、偽善者よ、と呼びかけています。弟子たちを教えているのですが、周囲で監視しているパリサイ人たちを意識したものであったと考えられます。偽善者というのは、自分がどういう存在であるかを公言するのに、実際の行動が違っている人です。パリサイ人たちは、自分達は経験で信仰深い者だと言っていましたが、実際には神に誠実に仕えてはいませんでした。パリサイ人たちの注意や勧告は、神の国と神の義を求める態度に基づいていなかったので、無意味なものでした。私たちも、神の義を求めず、自己義認の態度でいる時に、霊的な事柄を適切に取り扱うことはできないのです。
3)諺その3、福音を大事にし、聞く耳の有る人に伝えなさい(6節)
実際の表現は、聖なるものを犬に与えてはいけません、もしくは、真珠を豚の前に投げてはいけません、というものです。
聖なるものというのは、元来は、神のために祭壇の上に捧げられた物、という意味が有ります。それは、罪の贖いと神との交流を象徴しています。同時に、恭しい礼拝の心と考えることもできると思います。犬というのは、ここでは、人を襲ったり動物の死体を食べたりする野犬のことを指しています。神への謙遜で恭しい態度を、神への敬意の欠片も無く、それを貶すような人たちと分かち合うことはできないということです。
豚は、貪欲で悪食なことの象徴で、律法では汚れた動物とされていました。ですから、真珠をその前に投げれば、きっと噛り付くと思われます。しかし、真珠はとても固くて、食べられるものではありません。豚は決して真珠をありがたがることはないのです。ここでは真珠の理解も大事です。真珠は貝から採れる宝石と言えます。当時は、インドやスリランカから輸入されました。養殖が発明される前は、潜水夫が海に潜って採取しなければならなかったばかりでなく、彼らが潜水病で亡くなることも多かったので、大変高価な宝石とされていました。マタイ13章45節―46節に出て来るイエスのたとえ話では、商人が持ち物を全部売って、高価な真珠を買うというものが有ります。それほど高価だったのです。この真珠は、イエスによる救いという、福音を象徴しています。潜水夫の命と引き換えに得られた真珠のように、私たちの救いは、イエスの命と引き換えに私たちに与えられたのです。この諺は、真珠をありがたがらない豚のように、イエスを受け入れない人たちに繰り返し福音のメッセージを与えなくても良いということを示しています。
この時は、弟子たちが宣教旅行に派遣される前でした。宣教に出かけた先で、福音に敵対する人たちがいたらどうしたら良いかを示唆していると考えられます。福音に敵対する人たちがいたら、場所や人を変えて、福音を語り続けなさいという指示が後にも与えられています。そうしなければ、彼らは弟子たちに危害を加えることがわかっていたからです。実際にパリサイ人たちは、クリスチャンを迫害して、殺すこともありました。しとパウロは、伝道旅行で迫害に遭うと、つぎの町に移動してい行きました。この教えに従ったのだと理解することができます。
まとめ)
1)諺その1、裁いてはいけません(1-2節)
善悪の判断を示さなければならない時でも、パリサイ人たちのようにではなく、愛と謙遜をもってそうしするのです。この世において、同じ無慈悲な態度で裁かれることにならないためです。また、神の裁きを受ける時に、そのような厳しさで裁かれないためです。
2)諺その2、自分の問題に先に目を留めなさい(3節‐5節)
自分を先に省み、自分の問題を探る態度を持ってまそう。自己中心、不信仰が有る状態で、他人の問題を指摘する時、実際は自分のその状態の方が、霊的に深刻な問題なのです。
3)諺その3、福音を大事にし、聞く耳の有る人に伝えなさい(6節)
私たちに届けられ、与えられた福音が、命と引き換えに採取された真珠のように、高価で貴いことを心に留めましょう。あなたはわたしの目には高価で貴いと言って、身代わりにイエスを死に渡してくださって、救いを与えてくださった神に感謝し、その福音を、聞く耳のある人に渡していきましょう。
聖書箇所:マタイ7:1-6
説教題:弟子に与える三つの諺
導入)
イエスは、山上の垂訓を通して弟子たちを教えました。そのまとめと言える原則は、「先ず、神の国と神の義を求めなさい。」ということになります。山上の垂訓の始めの方でも、イエスは、弟子たちが自分の無力なことを認めて謙遜になり、神の義に飢え乾く存在でなければならないことを教えておられます。また、彼らは、迫害にあっても、情け深く、平和を作り出す者でなければなりません。
今回の聖書箇所においては、その続きとして、弟子たちが神の国と神の義を先ず求める態度がどのようなものであるかを、ユダヤ人たちが当時用いていた三つの諺を用いて教えておられると考えられます。
本論)
1)諺その1、裁いてはいけません(1-2節)
裁くと訳された語は、物事の良し悪しについて意見を述べる、論争もしくは非難する、という意味がいが有ります。この先の17節では、木の実の良し悪しへの言及が有ります。物事の良し悪しを判断すること自体は悪いことではないのです。イエスの意図は、弟子たちは、パリサイ人たちがするような態度で裁いてはいけないということでした。彼らは自己義認の態度をもって、早急に、厳しく、人の為にならないようなやり方で裁き、責め立てていました。彼らは、自己中心で、自分を高め、他人を軽んじる態度で裁き、神の国と神の義を求めてはいませんでした。
2節は、諺の後半とも考えられます。その原則は理解し易いと思います。他人を手厳しく扱えば、自分も他人から手厳しく取り扱われることになるということです。イエスの弟子たちは、裁かなければならない場面にあっても、愛をもって、平和と作り出す態度でそうしなければならないのです。そうできなければ、この世でもそのしっぺ返しが有るかもしれませんが、神の前で裁きを受ける時も、同様な有様で責められるということもあるかもしれません。
2)諺その2、自分の問題に先に目を留めなさい(3節‐5節)
実際の表現は、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい。」となっています。先に自分の問題を解決してこそ、他人の問題にも適切に対応できるということです。3節、4節は、同じ原則を先に説明しています。ちりと訳された語は、吹けば飛ぶような藁やもみ殻の乾いた小さな破片を指すものです。余程の問題でもなければ、そんなものに誰も気を留めない程度のことを指します。梁と訳された語は、家の構造を支える太くて長い木材を指す語です。そんなものが落ちてくれば、人は命を落とすでしょうし、梁に欠陥が有れば、家が壊れてしまうでしょう。大きな問題を指しています。この2つは、とても小さな物ととても大きな物を比較する表現としても用いられていたようです。
ここでも、イエスはパリサイ人たちの態度を念頭に置いていたのではないかと思われます。例えば、イエスの弟子たちは、食事の前に手を清める儀式をしなかったことをパリサイ人たちに責められました。しかし、それはモーセの律法に規定されているようなものではなく、言ってみれば、ちりのような小さな問題でした。それに比べれば、パリサイ人たちが勝手に作り出した掟が、モーセの律法の規定を免除するような場合さえ有って、むしろそちらの方がもっと大きな問題でした。パリサイ人たちのような自己中心と自己愛は、大きな問題を無視して、小さな事柄で人を責め立てるような態度になることが有ります。
5節では、イエスは、偽善者よ、と呼びかけています。弟子たちを教えているのですが、周囲で監視しているパリサイ人たちを意識したものであったと考えられます。偽善者というのは、自分がどういう存在であるかを公言するのに、実際の行動が違っている人です。パリサイ人たちは、自分達は経験で信仰深い者だと言っていましたが、実際には神に誠実に仕えてはいませんでした。パリサイ人たちの注意や勧告は、神の国と神の義を求める態度に基づいていなかったので、無意味なものでした。私たちも、神の義を求めず、自己義認の態度でいる時に、霊的な事柄を適切に取り扱うことはできないのです。
3)諺その3、福音を大事にし、聞く耳の有る人に伝えなさい(6節)
実際の表現は、聖なるものを犬に与えてはいけません、もしくは、真珠を豚の前に投げてはいけません、というものです。
聖なるものというのは、元来は、神のために祭壇の上に捧げられた物、という意味が有ります。それは、罪の贖いと神との交流を象徴しています。同時に、恭しい礼拝の心と考えることもできると思います。犬というのは、ここでは、人を襲ったり動物の死体を食べたりする野犬のことを指しています。神への謙遜で恭しい態度を、神への敬意の欠片も無く、それを貶すような人たちと分かち合うことはできないということです。
豚は、貪欲で悪食なことの象徴で、律法では汚れた動物とされていました。ですから、真珠をその前に投げれば、きっと噛り付くと思われます。しかし、真珠はとても固くて、食べられるものではありません。豚は決して真珠をありがたがることはないのです。ここでは真珠の理解も大事です。真珠は貝から採れる宝石と言えます。当時は、インドやスリランカから輸入されました。養殖が発明される前は、潜水夫が海に潜って採取しなければならなかったばかりでなく、彼らが潜水病で亡くなることも多かったので、大変高価な宝石とされていました。マタイ13章45節―46節に出て来るイエスのたとえ話では、商人が持ち物を全部売って、高価な真珠を買うというものが有ります。それほど高価だったのです。この真珠は、イエスによる救いという、福音を象徴しています。潜水夫の命と引き換えに得られた真珠のように、私たちの救いは、イエスの命と引き換えに私たちに与えられたのです。この諺は、真珠をありがたがらない豚のように、イエスを受け入れない人たちに繰り返し福音のメッセージを与えなくても良いということを示しています。
この時は、弟子たちが宣教旅行に派遣される前でした。宣教に出かけた先で、福音に敵対する人たちがいたらどうしたら良いかを示唆していると考えられます。福音に敵対する人たちがいたら、場所や人を変えて、福音を語り続けなさいという指示が後にも与えられています。そうしなければ、彼らは弟子たちに危害を加えることがわかっていたからです。実際にパリサイ人たちは、クリスチャンを迫害して、殺すこともありました。しとパウロは、伝道旅行で迫害に遭うと、つぎの町に移動してい行きました。この教えに従ったのだと理解することができます。
まとめ)
1)諺その1、裁いてはいけません(1-2節)
善悪の判断を示さなければならない時でも、パリサイ人たちのようにではなく、愛と謙遜をもってそうしするのです。この世において、同じ無慈悲な態度で裁かれることにならないためです。また、神の裁きを受ける時に、そのような厳しさで裁かれないためです。
2)諺その2、自分の問題に先に目を留めなさい(3節‐5節)
自分を先に省み、自分の問題を探る態度を持ってまそう。自己中心、不信仰が有る状態で、他人の問題を指摘する時、実際は自分のその状態の方が、霊的に深刻な問題なのです。
3)諺その3、福音を大事にし、聞く耳の有る人に伝えなさい(6節)
私たちに届けられ、与えられた福音が、命と引き換えに採取された真珠のように、高価で貴いことを心に留めましょう。あなたはわたしの目には高価で貴いと言って、身代わりにイエスを死に渡してくださって、救いを与えてくださった神に感謝し、その福音を、聞く耳のある人に渡していきましょう。