礼拝ビデオ
聖書箇所:マタイ14:22 - 36
説教題:水上の教訓
五千人の給食の奇跡で、イエスはモーセのような神の預言者であり、メシアであることを証明しました。しかし、そういう華々しい場面だけが、イエスの偉大さを学ぶ場面ではありません。イエスは強いて弟子たちを向こう岸に渡らせます。夕方になれば湖が荒れることは皆知っていたのに、意図を持って送り出しました。
新約聖書のイエスの水上歩行の奇跡の記録の中で、ペテロが水上を歩いた記録を残しているのはマタイだけです。その箇所から学ぶべき主の教訓を確認してみましょう。
1)イエスは救い主であり、私たちの勇気と平安の源である
「わたしだ」というイエスの呼びかけは、神の名として理解される表現が用いられています。水の上を歩き、ゲネサレの人々を癒すことで、イエスは旧約聖書が預言したメシアであることを再び示しました。イエスは私たちを救うために来てくださった方であり、私たちが呼ばわる時助けてくださる方です。
イエスは「しっかりしなさい。恐れることはない。」とも言われました。それが私たちに対する神の御心です。死と黄泉に勝たれたイエスが共におられるのですから、そうできるのです。悪霊の働きが有ると思われる時も、イエスのみ名によって退けることができるのです。
2)イエスは、私たちが神への信仰を実践することを望んでおられる
イエスは、ペテロに「来なさい。」と言われました。私たちも、自身の信仰を実践に移す必要が有ります。神が働いてくださる生きた経験を積み重ねて行くのです。
3)イエスは、いつも私たちの焦点の中心になけらばならない
「なぜ疑うのか。」というのがペテロに与えられた理解を促すための質問でした。彼がイエスから目を離して風に目を留めた時に恐れと疑いが生じたのです。私たちの信仰も、イエスから目を離し、環境や状況にもっと目を留める時に薄いものとなります。いつも自分の前に主を見たと告白したダビデの歩みに倣いましょう。(詩編16:8 – 9参照)
聖書箇所:マタイ14:22 - 36
説教題:水上の教訓
五千人の給食の奇跡で、イエスはモーセのような神の預言者であり、メシアであることを証明しました。しかし、そういう華々しい場面だけが、イエスの偉大さを学ぶ場面ではありません。イエスは強いて弟子たちを向こう岸に渡らせます。夕方になれば湖が荒れることは皆知っていたのに、意図を持って送り出しました。
新約聖書のイエスの水上歩行の奇跡の記録の中で、ペテロが水上を歩いた記録を残しているのはマタイだけです。その箇所から学ぶべき主の教訓を確認してみましょう。
1)イエスは救い主であり、私たちの勇気と平安の源である
「わたしだ」というイエスの呼びかけは、神の名として理解される表現が用いられています。水の上を歩き、ゲネサレの人々を癒すことで、イエスは旧約聖書が預言したメシアであることを再び示しました。イエスは私たちを救うために来てくださった方であり、私たちが呼ばわる時助けてくださる方です。
イエスは「しっかりしなさい。恐れることはない。」とも言われました。それが私たちに対する神の御心です。死と黄泉に勝たれたイエスが共におられるのですから、そうできるのです。悪霊の働きが有ると思われる時も、イエスのみ名によって退けることができるのです。
2)イエスは、私たちが神への信仰を実践することを望んでおられる
イエスは、ペテロに「来なさい。」と言われました。私たちも、自身の信仰を実践に移す必要が有ります。神が働いてくださる生きた経験を積み重ねて行くのです。
3)イエスは、いつも私たちの焦点の中心になけらばならない
「なぜ疑うのか。」というのがペテロに与えられた理解を促すための質問でした。彼がイエスから目を離して風に目を留めた時に恐れと疑いが生じたのです。私たちの信仰も、イエスから目を離し、環境や状況にもっと目を留める時に薄いものとなります。いつも自分の前に主を見たと告白したダビデの歩みに倣いましょう。(詩編16:8 – 9参照)