パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2021年7月11日

2021-07-11 18:53:38 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ14:22 - 36
説教題:水上の教訓

  五千人の給食の奇跡で、イエスはモーセのような神の預言者であり、メシアであることを証明しました。しかし、そういう華々しい場面だけが、イエスの偉大さを学ぶ場面ではありません。イエスは強いて弟子たちを向こう岸に渡らせます。夕方になれば湖が荒れることは皆知っていたのに、意図を持って送り出しました。
  新約聖書のイエスの水上歩行の奇跡の記録の中で、ペテロが水上を歩いた記録を残しているのはマタイだけです。その箇所から学ぶべき主の教訓を確認してみましょう。

1)イエスは救い主であり、私たちの勇気と平安の源である
  「わたしだ」というイエスの呼びかけは、神の名として理解される表現が用いられています。水の上を歩き、ゲネサレの人々を癒すことで、イエスは旧約聖書が預言したメシアであることを再び示しました。イエスは私たちを救うために来てくださった方であり、私たちが呼ばわる時助けてくださる方です。
  イエスは「しっかりしなさい。恐れることはない。」とも言われました。それが私たちに対する神の御心です。死と黄泉に勝たれたイエスが共におられるのですから、そうできるのです。悪霊の働きが有ると思われる時も、イエスのみ名によって退けることができるのです。

2)イエスは、私たちが神への信仰を実践することを望んでおられる
  イエスは、ペテロに「来なさい。」と言われました。私たちも、自身の信仰を実践に移す必要が有ります。神が働いてくださる生きた経験を積み重ねて行くのです。

3)イエスは、いつも私たちの焦点の中心になけらばならない
  「なぜ疑うのか。」というのがペテロに与えられた理解を促すための質問でした。彼がイエスから目を離して風に目を留めた時に恐れと疑いが生じたのです。私たちの信仰も、イエスから目を離し、環境や状況にもっと目を留める時に薄いものとなります。いつも自分の前に主を見たと告白したダビデの歩みに倣いましょう。(詩編16:8 – 9参照)
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日曜礼拝 2021年7月4日

2021-07-04 17:58:02 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:ハガイ1:1 - 15
説教題:あなたがたの現状をよく考えよ

  ハガイが預言した時、エルサレムのユダヤ人たちはペルシャの支配下に有りました。クロス王が帰還と神殿再建を許可したのですが、修復が始まると、周囲の民族の抵抗が有り、計画がとん挫し18年が過ぎていました。ここで神の霊がハガイを通して、総督であったゼルバベルと大祭司ヨシュアに神殿再建に着手するように語り掛けます。神は繰り返し、あなたがたの現状をよく考えよと訴えます。その理由を確認してみましょう。

1)何が間違っているのかを知るために(1節-6節)
  人々は、神の恵みによってエルサレムに帰還し、神殿再建の使命をいただいたのに、敵の妨害に目を留めて、使命を果たすことができませんでした。そして、自分の家を建てることに奔走していました。彼らは優先順位を間違えていました。そのために、ハガイが預言した日は、特に収穫の感謝をする新月祭の日でしたが、不作のために収穫高が良くなかったことが示されています。

2)何をするべきかを知るために(7節-11節)
  あなたがたの現状をよく考えよという言葉が繰り返されます。この箇所は、前と同じ原則が、少し違った強調点をもって示されています。神からの使命であった神殿再建が神の優先順位なのですから、それに取り組むべきなのです。具体的な指示は、山に登って木を切り、神殿再建をすることです。クロス王は、再建に十分な資材を用意してくれたのですが、この頃までには、木材は民の家のために使われてしまったようです。大事なのは、建物ではありません。神の栄光を表すことです。続けて、神は、不作は神ご自身が与えた警告であるを示されます。それは、モーセの時に交わした契約に基づいたものでもありました。神殿の再建は、神との関係と罪の贖いの必要を日々確認する儀式の復活でもあり、将来的にはキリストの到来を示す型になるのですから、大変重要であり、神に栄光を帰するものとなるのでした。

3)従順の内に神の臨在を知るために(12節-15節)
  ゼルバベルとヨシュアと民は、ハガイを通して語られた言葉に従順しました。エルサレムに帰還した目的を心に留めて、神を畏れたのです。神はそこで、更に大事な言葉を伝えます。それが大変大事な言葉だったので、神は、ハガイに「主の使い」という肩書を与えました。この肩書は、神ご自身が人の形を取って顕現された時に用いられるもので、人間に用いられるたのはこの時だけなのです。それは神が従順する民と共にいらっしゃるということでした。このことは、後にイエス・キリストによっても実現され、内住の聖霊によって完成しました。それがハガイに「主の使い」という肩書が与えられた理由と言えるでしょう。神は、人々の霊を奮い立たせられて、短期間にうちに、彼らが再び神殿建設に取り掛かれるようにしてくださいました。(1節の日付と15節の日付を比較すると、23日で準備を整えたことがわかります。)
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ヘプジバ・ジェンキンズという変な名前

2021-07-01 23:24:08 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
「孤児院にへプシバ・ジェンキンズという変な名前の女の子がいた。」という内容の記述になっていますが、手元に有る英語のテキストでは、”There was a girl at the asylum whose name was Hepzibah Jenkins,”という表記になっていて、「変な名前」という表現は有りません。翻訳者が文脈に合わせて訳したものと思われます。アン自身は、その名前を“When I don’t like the name of a place or a person,”「私が地名や人名が気に入らない時は」 という場合についての説明に使っていて、気に入らないという表現をしています。実際に英語圏でもあまり人気の有る名前ではなく、あるサイトは古風で(classic)変な(strange)印象だと述べています。ハリー・ポッターシリーズにはHepzibah Smithという魔女が出て来るそうです。

ヘプジバという名前は、日本語の聖書では、ヘフジバや、ヘフツィ・バハ等の表記がされています。2列王記 21章1節に、マナセ王の母の名として出て来ます。旧約聖書の王の即位の記述には、毎回ではありませんが、頻繁に母親への言及が有ります。

ヘプジバという名前の意味は、喜びを意味する語幹を持ち、「わが喜びは彼女の中に有り」という意味になるようです。預言者イザヤの書62章4節では、神によって回復されたイスラエルの国をヘプジバと呼んでいる記述が有ります。ですから、意味は良いのですが、その響きが英語的にも個人的にもアンの気に入らなかったのだと思います。

因みに、その息子のマナセは、ダビデ王朝の歴代の王の中では、信仰的に最も堕落した王として聖書には記録されています。伝承では、預言者イザヤをのこぎりでひき殺したとされています。神からの罰としてのバビロン捕囚は、数代後のことですが、この王のせいで決定的になった印象が有ります。マナセはその後一度バビロンに捕らえられますが、そこで神への信仰に立ち返り、もう一度エルサレムに帰ることが許されたという記事が2歴代誌33章に出て来ます。

モンゴメリがこの名前を取り上げたことには、プロット上の意味はあまり無いように思います。一方で、彼女がこのような名前を取り上げたことには、彼女の生い立ちが関係あるかもしれないと思います。モンゴメリは二歳で母親を亡くしたので、旧約聖書の王の即位の記事に、頻繁に母親の名前が記されていることに心が引かれて、一通り調べたことが有ったのかもしれないと私は想像しました。
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