パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

聖書研究ノート ヨハネ13章21節-31節

2023-06-27 13:24:51 | 火曜聖書研究会
ヨハネ13章21節~30節

21節 イエスが霊の激動を感じたというのは、間近に迫るユダの裏切りと苦難を思って心が騒いだという意味。イエスの、人間性を示す意図が有ったと思われる。イエスは、18節の詩編の引用について、誤解の無いように、はっきり裏切る弟子が出ることを述べたと考えられる。

22節 ユダは、裏切る様子を一切見せなかったので、弟子たちには想像もつかず、困惑したと思われる

23節 イエスが愛しておられた弟子というのは、ヨハネ自身のことであると考えられている。イエスの隣に座るのは、近しい関係を意味する。

24節、25節 ペテロは、直接イエスに話しかけるにはやや遠い位置にいたと考えられる。ペテロの合図を察知して、ヨハネはイエスにそれが誰であるかを訪ねる。

26節 パン切れを、ワインもしくはソースに浸して与えるのは、友情、もしくは敬意を表す行為であった。イエスは、最後までユダに愛を示されたことになる。

27節 イエスが裏切りに気付いていることが、ユダにとっては都合の悪いことであった。イエスが愛を示されたことに葛藤が有ったかもしれないが、自分の計画が失敗に終わらないようにしたいという気持ちが勝った結果、サタンが彼に入った状態になったと思われる。
  しようとしていることを、「今すぐ」しなさいとイエスが命じられたのは、過ぎ越しの時に神の小羊として十字架にかかることが相応しいので、その機会を逃さないようにとの意図であったろう。イエスは、ユダヤ人の指導者やユダの計略の被害者ではなく、その状況のたずなを握っておられる方なのであった。

28節、29節 他の弟子たちは、イエスの言葉の意図が理解できなかった。最後までユダの計画を公にしなかったのは、ユダへの配慮と、神の計画の実現のための両方ではなかったかと考えられる。
  大いなる祭りの期間には、施しが通常よりも更に奨励されていた。ユダは会計を担っていたから、買い物や施しのために送り出されたと想像するのは自然なことであった。

30節 ユダは、自分の計画の成功のために、促されるままに急いで出て行ったのであろう。しかし、それを促したのはイエスご自身であった。夕食の時であったことはうかがえるので、ヨハネが「すでに夜であった」とわざわざ記したことに、別の意図を読み取る立場も有る。イエスは、昼と夜の例話を用いられたことがあるし、イエスの存在がその昼の光であったから、ユダは、その光であるイエスを離れてしまったのだと述べるためだったと考えるのである。

確認するべき点
・イエスは、最後までユダにも愛を示された。
・イエスが、十字架の苦難の計画の主導権を握っておられた。
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日曜礼拝 2023年6月25日

2023-06-25 17:28:15 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:使徒行伝19:23-41
説教題:騒動が明らかにしたこと

導入)
  パウロの2年と3か月のエペソ伝道を通して、多くの人が信仰を持ちました。今回の聖書箇所も、彼の伝道が成功したことを示しています。同時に、人の罪の性質とサタンの狡猾さも示されている箇所と言えるでしょう。聖霊を通してルカが私たちに伝えようとしていることを確認してみましょう。

本論)
23節 そのころ、というのは、パウロがエペソを離れてエルサレムに戻るように導かれ、間も無く旅立とうとしていた時のことです。その導きについては、21節22節に説明されています。

24節-25節 そこに、デメテリオという人物が出て来ます。彼は銀細工人で、他の職人と一緒に、アルテミス神殿の模型を作っていました。アルテミスの像も一緒になっていることもあったそうです。相当の収入が有ったというのは、巡礼者がその模型を土産にしたり、家に祭壇として飾ったり、神殿に奉納したりするために購入していたからでした。

26節-27節 デメテリオは、パウロが、人の手で作ったものは神ではないと説いたことを取り上げて、これではアルテミスの威光は地に落ちてしまうと、職人たちに訴えました。ここで、デメテリオは、全アジアが拝む大女神という表現をしています。これは誇張ではありません。地中海沿岸に、最低でも33か所に、人々がアルテミスを礼拝する地域が有ったと考えられています。
  デメテリオは、パウロの説明に納得していませんでした。彼にとっては、霊的な真理の探究よりは、お金の方が大事だったと考えられます
 
28節-32節 銀細工人の集まりで始まったこの動きは、町中に伝播したようです。アルテミスを崇拝する者たちが通りに集まって騒ぎ出しました。彼らはパウロを探したのだろうと思いますが、見つかりませんでした。代わりに、パウロの伝道団の仲間であるガイオとアリスタルコがつかまってしまいました。おそらく彼らは通りとか市場とか、人目につきやす所にいたのでしょう。人々は彼らを劇場に連れて行きました。
  劇場は、アルテミス神殿の隣にあり、あらゆる娯楽や集会のために用いられ、25,000人ぐらい収容できたと考えられています。また、罪人や奴隷を猛獣と戦わせる見世物にも使える施設でした。もしかすると、ガイオとアリスタルコを猛獣と戦わせようと考えている人たちもいたのかもしれません。
  パウロが劇場に入って行こうとしたのは、弁明をし、二人を助け出し、また、福音を説明する機会を得ようと考えたからでしょう。しかし、弟子たちだけでなく、アジア州の高官たちもパウロを止めました。この高官たちの仕事は、ローマ帝国と皇帝の礼拝を司ることであったと考えられます。そのような人たちが、パウロの友人であったことは、注目に値します。信仰には入らないまでも、パウロと交友関係になることをためらわないのは、パウロにそれだけの立ち振る舞いが有ったからだと考えられます。

33節‐34節 ここで、突然アレキサンデルというユダヤ人が登場します。どういう事情だったのでしょうか。実は、ローマでも反ユダヤ感情というものが有りました。クラウデオ帝は、ユダヤ人をローマから追い出す命令を出していました。(18:1-2参照)そこで、ユダヤ人はパウロの伝道するキリスト教とは関係無いことを説明して、少しでも立場を良くしようと考えたと思われます。しかし、ユダヤ人も天地創造の唯一神を信じ、偶像を退けていましたから、エペソの人たちには、キリスト教と変わりありませんでした。アレキサンデルは退けられ、エペソの市民は、2時間もアルテミスをたたえる声をあげ続けることになりました。

35節‐41節 ここでは、書記役が登場します。この人の仕事は、公文書の管理や保管でした。最後には、彼がこの群衆を解散させますので、もしかすると、パウロに対して好意的であったのかもしれませんが、彼の発言は、福音に反するものでした。
  最初に、彼は、エペソの人々がアルテミスの守護者だということは、皆が知っていることだと述べて、彼らのプライドを満足させました。次に、アルテミスの御神体は、天から下ったもので、人の手で作られたものではないので、パウロの説明を気にすることはないというものでした。更に、これらのことは事実であり、誰もそれを否定できないと言いました。続いて、彼は法律に則って行動するように呼びかけます。それ自体は良いことですが、彼は、そうすることによって、人々の目を霊的な問題から目をそらせてしまいました。また、騒擾罪になると、大変なことになると言って、市民の恐怖に訴えました。ローマは、そのような騒乱を大変厳しく罰していたからです。書記役は、エペソの町を守ろうとしたのであって、クリスチャンを守ろうとしていたわけではありませんでした。

まとめ)
  この記事を通して、聖書は私たちにどのようなことを示しているでしょうか。次の四つのことに目を留めたいと思います。

1)福音が早く広まったこと
  パウロの伝道の成果は目覚ましいものが有りました。2 テサロニケ3:1で、パウロが祈りの要請をしているように、私たちは、現在でも、福音が早く広がるように、祈らなければなりません。世界には、まだ福音が到達していない場所が有ります。パウロは、ツラノの講堂で2年間伝道しました。人々との接点を見つけたということです。私たちにも、そのような人々との接点が与えられて、より多くの人々に福音を聞いてもらえるように努力し、祈るのです。
2)福音に反対した人々の罪の性質
  デメテリオ‐彼は、霊的な真理よりも、お金を神としているような人でした。
  群衆‐霊的な真理よりも、自分達のプライドが大事な人たちでした。
  アレキサンデル‐クリスチャンの仲間だと思われたくない人(達)でした。
  書記役‐偶像に神と同等の地位を与える発言をして、神を貶めました。
      進化論やポリコレなどに、そのような態度を見ることができると思います。
3)パウロの肯定的な証と影響
  皇帝礼拝を司る立場にある州の高官さえ、パウロに好意を示していました。私たちも、周囲の人たちに、少なくともキリスト者として行為を持っていただけるような歩みを心掛けなければなりません。
4)パウロと同行者に対する神の守り
  パウロ達は、いつも神に信頼し、神の守りを祈り求めていました。神に拠り頼むことは、他の何に拠り頼むよりも良いのです。(詩編118:9-10 参照)神は、この時には、弟子たち、州の高官、書記役を用いて、パウロと同行者たちを守られ、誰も命を落とすことはありませんでした。
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日曜礼拝 2023年6月18日

2023-06-19 11:02:35 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所: 2テサロニケ 3:6-15
説教題: キリストの教えに留まるために

導入)
  パウロは最後に特定の問題についての指示を出します。その内容を確認しながら、より一般的な原則を読み取っていきます。

本論)
6節 イエス・キリストの御名によって命じる強い指示です。主節は、「離れていなさい」ということです。何故そんなに強い指示になったのでしょうか。それは、締まりのない歩みをする信徒たちが、「私たちから受けた言い伝えに従わない」からです。言い伝えというのは、イエスが使徒たちに伝えた神の国の福音と原則です。そのような大事な原則に従わないのですから、強い指示が出るのは当然のことです。その中には、第一の手紙で出された、落ち着いた生活をして、自分の手で働きなさいという指示も含まれているでしょう。(4:11参照)
  この節が示している中心的な原則は、イエスの教えに従わなければならないということになります。

7節-10節 ここでは、パウロと同労者が示した模範ということに重点が有ります。パウロは、テサロニケの信徒がどのようにパウロ達を見習う必要が有るかを知っていると言っています。見習うと言う語は、師の行動を真似するという意味が有ります。まさしくパウロとテサロニケの信徒の関係です。
  パウロ達の模範と、それに従わない者との対比が述べられます。パウロは、使徒であるにも関わらず、一生懸命仕事をして自活していました。従わない者たちは、働きもせず、家々を渡り歩き、食事をたかっていました。神は愛と秩序の神ですから、そんな生活がイエスの教えに従った生活なはずがありません。信徒たちは、パウロの模範に従うべきでした。
  9節で、パウロは、彼の模範が、一般信徒としての模範であり、使徒としての模範ではないことを断っています。権利と訳された語は、権威、権限という意味が有ります。使徒には、生活のための報酬を受ける、もしくは要求する権威、権限が有りました。そのことは、イエスが12弟子を宣教に派遣した時の言葉(マタイ10 :9-11)パウロの他の書簡(1テモテ5:17等)にも示されています。
  10節では、その模範に基づいた指示が、パウロがテサロニケにいた時にもされていたことが述べられています。彼らにそれを思いおこさせようとしています。

11-12節 パウロが模範の話をしなければならなかった理由は、締まりのない生活をしている信徒たちの問題が彼に伝わってきたからでした。ここで、パウロはもう一度、締まりのない信徒たちに、おちついて仕事をして自活するように命じています。

13節-15節 パウロはここで、忠実に歩んでいる信徒たちに指示を出しています。たゆむことなく善を行えというのです。善というのは、イエスの教えに従って生きることです。たゆむという語は、すっかり気力を失う、という意味が有ります。締まりのない信徒の行動に煩わされて、力を落としてはいけないということです。私たちも、気落ちすることなく、継続的にイエスの教えに従って生活しなければなりません。
  更に、忠実に歩んでいる信徒たちに、この手紙のパウロの指示に従わない締まりのない信徒たちがいれば、交際しないようにと指示しています。交際するという語は、親しくする、仲間だと認識される、という意味が有ります。そのような交流をしないようにということです。そうする目的は、彼らが恥じ入るようにということです。恥じ入るようにという語は、自分を吟味して恥ずかしく思うという内容の語です。彼らにそういう機会を与えることが、交際しないことの目的です。
  そのような処置をするにあたっての注意は、敵としてみなすのではなく、仲間として戒めなさいというものです。目的が、彼らに自省を促すことなので、愛と気遣いをもって扱わなければならないのです。

まとめ)
  原文を確認すると、パウロは、6節と12節で、「私たちの主」という表現をしています。イエスとその教えが、信徒の共通の土台だということを示しています。そのイエスの教えに留まり続けることが、今回の朗読箇所の中心原則と言えます。ここに示されている、イエスの教えに留まるための行動は、次のようなものが挙げられます。

1)締まりのない信徒と距離を取ることによって
  パウロは、このことについて、繰り返し強い指示をしています。
2)イエスと使徒たちの模範に倣うことによって
  彼らの模範は、今でも聖書の中に記されています。
3)努力して善を行い続けることによって
  気落ちしないためにも、イエスの教えを確認し続け、天国の希望を持ち続け、
イエスの教えに従い続けることです。
4)愛に基づいて行動することによって
  互いに愛し合うことは、イエスが最後の晩餐で新しい戒めとして弟子たちに指示したことです。締まりのない信徒を戒めるような場面でも、愛に基づいて行動する必要が有ります。
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日曜礼拝 2023年6月11日

2023-06-11 19:47:37 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:2テサロニケ 3:1-5
説教題:パウロの祈祷課題

導入)
  二章で、パウロはテサロニケの信徒たちが持っていた、間違った再臨の理解を正しました。三章では、手紙を締めくくるにあたって、言い残したと思ったことを述べようとしています。最後に、と訳された語には、残っているもの、という語感が有ります。本日の朗読箇所は、三つの内容で構成されています。

本論)
パウロの祈祷の要請(1節‐2節)
1節 パウロの一つ目の祈りの要請
  主の言葉が早く広まるように祈って欲しいと言っています。主の言葉というのは、福音の言葉、教えと考えられます。福音伝道が広がるように祈ることは、今日でも重要です。早く広まると訳された語は、アスリートが全速力で走って行く様子を表すということです。パウロがテサロニケで伝道した時には、そのような福音の広がりであったことが示されています。
2節 パウロの二つ目の祈りの要請
  パウロと伝道チームが悪者から守られるように祈って欲しいと言っています。特にユダヤ人を念頭に書いていると思われますが、ひねくれた悪人どもが、彼らを迫害するからです。その態度の根本原因は、彼らがイエスに対する信仰を持っていないことに有ります。

パウロの神にある確信(3節―4節)
3節 神が強め、守られるという確信
  神がそうしてくださるのは、神が真実なお方だからです。テサロニケの信徒の真実な信仰に、神が真実をもって答えてくださるのです。
4節 テサロニケの信徒が使徒の教えを守るという確信
  パウロが伝えたのは、神のみ言葉であり、福音です。それを、信仰をもってうけとめたテサロニケの信徒たちなのですから、彼らは、み言葉に従って生きるに違いないという確信です。

パウロの執り成しの祈り(5節)
  導いてと訳された語には、障害を取り除くという意味合いが有ります。間違った再臨の理解のために、信仰に障害が有ったのですが、それが、パウロの説明によって取り除かれ、安心と確信をもって神の愛に魂を委ねることができるように、また、み国の希望による忍耐をもって生きることができるようにと祈っています。  

  
まとめ)
  パウロは、祈りの要請をし、また、執り成しの祈りをしています。ここに述べられたことの全てが、パウロの祈祷課題であり、現在の私たちも祈るべき祈祷課題であるといえそうです。その祈祷課題を列挙してみます。

・福音が早く広がるように祈る。
・伝道者、牧会者が守られるように祈る。
・神が信徒を守り、強めてくださるように祈る。
・信徒が聖書的な教えに従い続けるように祈る。
・神との愛の関係と信仰の忍耐を妨げるものが取り除かれるように祈る。
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日曜礼拝 2023年6月4日

2023-06-04 21:42:55 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:伝道者の書 8:1-15
説教題:だれが知恵ある者にふさわしいだろうう

導入)
  伝道者の書は、全ては空であるという衝撃的な導入から始まります。本日の朗読箇所にも、そのような考えが含まれているように思われます。しかし、それがこの書の結論であるならば、全体を読む意味は無いのではないでしょうか。すでに結論が示され、世間はそのようなものであることは、私たちにもわかっているからです。彼がこの世の様子を観察して得たものを私たちに伝えようとしていることが、9節からわかります。ソロモンが伝えようとしていることを、確認してみましょう。

本論)
この箇所の主題への導入(1節)
  導入となる疑問は、「だれが知恵ある者にふさわしだろう」というものです。その答えは、直接的、明白に語られてはいません。知恵のある者は少ないことを示唆しているように思えます。しかし、知恵を得れば、その人の顔を輝かせ、その顔の固さをやわらげるというのです。生活において、自信と喜びや平安を与えるということでしょう。

知恵ある者の資質(2節―6節)
1)神を畏れ、神に従うこと
  王への従順を進める言葉が書いて有るように見えますが、ソロモンは、王の背後におられる神に目を留めています。2節には、王に従う理由は、「神の誓約があるからだ。」と説明されています。王は任職の油注ぎを受ける時に、律法に従って神の民であるイスラエル人を治めることを誓約し、民は、神が立てた王を支援することを誓約したからです。
2)時とさばきを知っていること
  裁きという語は、神の決定という意味も有ります。神の御心を知っていると考えることもできます。神の御心は律法に、また、私たちにとっては聖書に記されています。私たちが熱心に聖書を通して御心を求め、神に従う時、私たちには良い判断が与えられます。そうなれば、神の御心の時に御心に適った行動を取ることができるのです。
  ここでは、ソロモンは、神が統べ治めておられ、神を離れて悪を行おうとする者に、罰を与えることも記しています。しかし、知恵ある者は、神の御心を知っているので、そのような目に遭うことがないのです。

人間の無知、無力(7節-8節)
  ソロモンは、人がどうして知恵を必要としているかを述べているようです。それは、人が無知で無力だからです。自分を救うことができる人はいないのです。特に、死に打ち勝つことはできません。「悪は悪の所有者を救いえない。」というのは、人間的な努力は人を死から救うことはできません。人は、時には長生きするために、より良い生活をするために、不正を働いて他人を蹴落とすようなこともするかもしれませんが、それで、死を免れることはできません。私たちの罪が、私たちの死の原因なのです。
  天変地異を体験することも有りますが、私たちは、風を支配することもできません。
  この、無知、無力の故に、人には知恵が必要であり、救い主が必要なのです。私たちは、神を知り、神の知恵をいただく必要が有ります。それに従う時、私たちは、罪を離れ、自力に頼ることを離れ、神に従い、委ねることになるのです。

この世は空しさに満ちている(9節‐14節) 
  ソロモンは、彼が観察したことを並べ立てています。悪者がたたえられ、正しい者が忘れ去られたりすること。悪い者がなかなか罰せられないこと。悪い者が長生きすることがあること。悪者が、正しい者の受けるべき報いを受けることがあること等が述べられています。
  しかし、ソロモンが言おうとしていることは、違うところに有ります。空しいと思われる事柄を並べ立てるその真ん中に、叩き込むように、12節、13節には、「神を恐れる者も、神を敬って、しあわせである」、「悪者にはしあわせがない」と言って、その確信を述べているのです。それこそが、知恵ある者の有様なのです。

知恵ある者は、空しさに満ちた世でも、神の恵みの生活を楽しむ(15節)
  知恵のある者は、全能の神を恐れ、神の御心をもとめ、自分が無知で無力なことを認め、神の救いと守りを求めて生きる者です。神への信頼のゆえに、平安に生きる道を知っています。

  
まとめ)
  だれが知恵ある者にふさわしいか。知恵ある者の特質は次のようにまとめられると思います。

1)知恵ある者は神を恐れる
  知恵ある者は、神に従い、罪を離れます。
  知恵ある者は、神の御心を求め、時とさばきが有ることを知っている。
  知恵ある者は、神の権威を知っている。

2)知恵ある者は救い主が必要なことを知っている 
  知恵ある者は、自分が無知で無力であることをわきまえている。
  知恵ある者は、罪は神にしか贖うことができないことを知っている。

3)知恵ある者は空しさに満ちた世でも生活を楽しむ
  知恵ある者は、悪者がはびこるように見える世でも、神に信頼する。
  知恵ある者は、神と神の恵みに感謝して生きる。
いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する生活をすることができる。  
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