パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2023年8月27日

2023-08-28 19:27:57 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:レビ 19:1-37
説教題:聖であるということ

導入)
  キリスト教における聖、聖であるということの定義や意味は、一般的な日本語の意味合いと異なります。しかし、そのことがあまり理解されていないために、クリスチャンであっても正しく理解できていない場合が有ります。今回は、レビ記19章の記述から、聖書的な聖、聖であるということの意味を確認します。
  19章の構造は、先ず、「あなたがたも聖なる者とならなければならない」。次いで、一連の神の命令。最後に、「わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。」という締めくくりになっています。すると、聖なる者となるというのは、この時点において、イスラエル人にとっては、神のおきてと定めを守り行うということになります。順に19章の示すところを追ってみましょう。

本論)
  聖であるという語は、神のために取り分けられた、というのが原義です。神の命じられたことを実践することが、イスラエル人をこの世から取り分けて聖とすることになります。では、神のおきてと定めを確認してみましょう。
  神のおきてと定めは、二種類に分類できます。一つは創造主である神を敬うことに関するおきてと定め、もう一つは、神の似姿に創造された仲間である隣人を愛することです。このことは、イエスが律法学者たちに答えた、律法で最も大切ないましめ、「神を愛し、隣人を愛しなさい」と合致しています。(マタイ22:34 参照)本文が、どのようにこの原則を示しているのかを確認します。
  1)創造主である神を敬うことに関するおきてと定め(3節‐8節)
  3節では、父と母を敬うことと安息日を守ることが併記されています。
  両親は創造主である神を象徴します。生物学的親がいなければ、私たちは存在しえないからです。また、親は子供たちに神を敬うこととその教えを教える存在です。ですから、私たちにご自身を啓示してくださった神を敬う意味で、両親をも敬うのです。
  安息日を守ることの意味は何でしょうか。神はこの世を創造された時、七日目に休まれたと書かれています。しかし、神は疲れるような存在ではなく、休んだというのは肉体的な感覚で理解するものではありません。神が実際になさったことは、ご自身の創造の業を楽しまれ、アダムとエバとの交流を楽しまれたのです。ですから、私たちも天地を創造してそれを喜ばれた神を敬い、神がこれまでしてくださったことに感謝をし、神との交流を楽しむために日曜礼拝を守るのです。私たちが体を休めることはその目的の中心ではないのです。
  4節は偶像礼拝を禁止しています。神は創造主であり、私たちを守ってくださる全能の主なので、他の何物にも頼ってはならないのです。偶像という言葉を聞いた時に思い浮かぶのはどんなことでしょうか。仏像が思い浮かぶ人も多いと思いますが、最初に思い浮かぶべき考えは、「何の役にも立たない、価値が無い」ということです。
  5節‐8節は、和解のいけにえ、悔い改めのいけにえの規定です。礼拝は、神の御心にそって捧げられなければなりません。この規定は、私たちに対する神の愛をも表しています。動物の捧げものの肉は、家族で分かち合うものなのです。そして、三日目には食べてはいけないというのは、肉が腐敗し始めて、食べて体を壊すことのないようにという神の愛の配慮が含まれています。
  2)隣人を愛することに関するおきてと定め(9節‐18節)
  大まかな原則は、1)貧しい人達の世話をすること(9節-10節)2)隣人を傷つけないこと(11節‐16節)3)隣人を憎まないこと(17節-18節)となっています。そうしなければならない理由として、「わたしはあなたがたの神、主である。」という表現が五回出て来ます。神が隣人も神の似姿に創造されたからだと考えられるでしょう。
  レビ記19章から考えると、神を愛し、隣人を愛する時、その人は聖い、聖くなっているということになります。それは、世間一般の聖さの概念とは異なっています。
  さて、新約の聖徒である私たちは、ここで終わりにしてはいけません。私たちが義とされるには、更に、イエスの教えに従うことが求められています。マタイ6:33においては、神の国と神の義をまず求めることが命じられています。また、ヨハネ6:29においては、神が遣わされたイエスを信じることが神のわざをすることだと記されています。イエスを私たちの救い主として信じ受け入れ、その教えを守る時、私たちは聖であり、聖となり、聖徒であるのです。
  

まとめ)
  聖である、聖となるということの大まかな原則は、神のすべてのおきてと定めを守ることです。私たちの実践としては、次のようになります。

1)創造主である神を敬い、愛すること
  神だけに拠り頼み、神の創造の業を尊び、神の御心に従って礼拝することです。

2)神の似姿に創造された仲間として隣人を愛すること
  隣人のために心配りをし、彼らを傷つけたり憎んだりしないことです。
  
3)救い主イエスを信じること
  イエスだけが私たちの義の源であり、私たちを神のために世から取り分けてくださる方です。イエスを信じる私たちは、聖であり、聖徒です。
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日曜礼拝 2023年8月20日

2023-08-20 18:06:36 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヤコブ 1:19-27
説教題:迫害下の純真な振る舞い

導入)
  ヤコブは直前に、試練を喜びと思うための秘訣を述べました。今回は、私たちが迫害にあう時に、どのように怒りを治めるべきかを教えています。

本論)
  19節‐20節 原文では一文で、20節は理由の副詞節になっています。「あなたがたはそのことを知っているのです。」と訳された部分は、原文ではむしろ、「このことを心に留めなさい」という命令として読むべき内容になていると考えられます。心に留めると訳せる語は、意識しておきなさい、見なさい、という言い合いが有り、注意を促す強調点と言えます。 
  三つのことが指示されていますが。その理由は、20節に有る通り、人の怒りは神の義を実現しないからです。人間的な怒りは、神に拠り頼まず、自分の能力で自己防衛をしようとさせます。私たちの守りは、ただ神からだけ来るのです。神に拠り頼まない行動ですから、神の義を実現するはずがなく、むしろ罪と言えます。迫害にあう時には、怒りにまかさえて言い返したりしてはいけないのです。

  21節 人間の罪の性質を持った怒りを避けるために、ヤコブは「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」と命じます。受け入れるという語は、歓迎して受け入れるという意味合いが有る語です。みことばとは、イエスのことば、使徒たちのことば、ひいては聖書のことばということになります。ですから、あなたの魂を救うことができるとヤコブは付け加えているのです。
  みことばには、クリスチャンの道徳的規準、行動規範を教えるのです。悪を捨て去りという表現の「悪」は、傷つけてやりたいという願望を表す言葉です。迫害されて、怒りに燃えて報復したくなる思いを捨てるのです。私たちがするべきことは、神に信頼し、その教えに従順することです。

  22節‐25節 ヤコブは心に植えつけられたみことばをどのように受け入れるのかを、鏡の例話を用いて説明しています。
  み言葉を実行するというのは、神の国の希望をもって試練を喜びと思うことが含まれています。また、迫害にあっても神に信頼し、怒りをもって応答しないことも含まれます。
  自分を欺くことで、みことばを実行しないという説明が有ります。欺くと訳された語は、間違った理由付けをする、という意味が有ります。こんな目にあっているのだから、当然自分には報復する権利が有る、などという理由付けをすることがそれにあたります。
  鏡を見る目的は何でしょうか。自分の顔や身なりを整えることです。そのためには、よく鏡を見る必要が有ります。当時の鏡は、銅鏡で、金属の表面を磨いたものですから、現在のガラスの鏡よりも映像が不鮮明でしたから、なおさらよく見る必要が有りました。
  生まれつきの顔というのは、化粧をしていない顔とも言えると思います。寝ぐせがついていないか、眉は整っているか、シミ、ソバカスが浮き上がっていないかを見たのに、何もしないで鏡の前を離れ、自分の状態を忘れてしまうとしたら、鏡を見る意味がどこにあるでしょうか。同様に、私たちの罪の性質を指摘し、神の御心にそった正しい生き方を示すみことばを読んだのに、それを守らなかったら、戒めを聞いたり読んだりすることの意味がどこにあるでしょうか。
  25節に、みことばを実行する者の在り方が示されています。完全な律法というのはみことば、聖書のことばです。みことばは、私たちの霊的な鏡と言えるものです。一心に見つめるという語は、間近によく見るために屈みこむという意味が有ります。離れないという語は、側に留まる、近くに留まるという意味が有ります。その人は自分の霊的な生活で、正すべきことがわかり、みことばに従うことによって、祝福される者となるのです。また、神の国の希望を持つことによって、心に自由が与えられます。

  26節‐27節 ヤコブは再び読者の注意を迫害に怒りをもって応答することに引き戻します。自分の舌にくつわをかけないという表現が、怒りにまかせて言葉を発することだとわかります。
  宗教という表現が繰り返されます。それは、一般的な意味ではありません。みことばの戒めに注意深く従うこと、キリストにある正しい歩みを指して用いられています。
  みことばに従わないで、自分の都合の良い理由をつけて、迫害者と言い争ったりするならば、それは、神に拠り頼んでいないことであり、また、その戒めを守らないことですから、罪をおかしていることになり、信仰告白をしている意味が有りません。ですから、そのような人の宗教はむなしいものなのです。
  27節で、ヤコブは、イエスの教えに敵対するこの世にあって、私たちの優先順位は何であるかを示しています。それは、世の光、地の塩として生き、証を立てることです。その一例が、孤児や、やもめの世話をすることであり、この世の価値観に影響されずに、みことばに従って生きることなのです。

まとめ)
  私たちは、どのようにしてこの世に影響されないで自分をきよく守り、迫害下で純真な振る舞いをするのでしょうか。

1)みことばに従い、怒らずに迫害を耐え忍ぶこと
  ・キリストにある希望は既に教えられました。それを心に留め続けるのです。
  ・自分の怒りを離れ、私たちの義である神を信頼するのです。

2)自由を与える完全なみことばを一心に見つめること
  ・みことばは、私たちに聖書の善悪の基準を教えます。それを守るのです。
  ・みことばに従うことで、魂の自由と祝福をいただきましょう。
  
3)神の御前で世の基準に影響されていない振る舞いを守ること
  ・神に信頼してみことばに従った振る舞いをするならば、神と人に好意を得る。
  ・良い行いを続け、この世によい証を立てる。
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日曜礼拝 2023年8月13日

2023-08-13 17:48:33 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヤコブ1:9-18
説教題:試練を喜びと思いなさい

導入)
  ヤコブは2、3節で、試練を喜びと思いなさいと指示しています。8節までに彼が示した指示は、1)試練を喜びと思いなさい 2)忍耐を完全に働かせなさい 3)神の知恵を求めなさい、ということです。ヤコブは再び試練を喜びをもって耐えることに話を戻します。ここで彼は、神の知恵の幾つかを分かち合おうとしていると考えられます。試練を喜びと思うためにどうしたらよいのでしょうか。

本論)
1)神の国の在り方を心に留めて試練を喜びと思う(9節‐12節)
  貧しい境遇というのは、貧乏だということではありません。迫害されて見下されることを指していると理解することができます。そんな時には、自分の高い身分を誇りとしなさいとヤコブは命じています。誇りとするという語は、喜ぶとも訳せるものです。高い身分というのはどういうことでしょうか。マタイ18:3-4では、子どものようになる、神に頼り切った者が天国で一番偉い者だと宣言されています。人間に見下げられても、神からは、天国で一番偉い者だとみられるなら、それこそ高い身分ということになります。そのことを喜ぶのです。
  富んでいる人が低くされるというのも、信仰のために見下されることだと考えられ、悪ければ、財産が没収されるようなこともあったのではないかと考えられます。信仰者は、この世の富の空しさを心に留めなければなりません。イエスも愚かな金持ちの例話で警告しています。(ルカ12:15-21)
  迫害されて、見下されたり財産を没収されることは、信仰を捨てることにつながりかねない試練でした。それを耐えることのできる励まし、希望が12節に述べられています。神の国で一番偉い者の一人となり、イエスと共に永遠の栄光を受け継ぐ者になることが、約束の命の冠です。

2)試練と誘惑を区別することによって試練を喜びと思う(13節‐16節)
  なぜヤコブはここで誘惑の話を持ち出したのでしょうか。それは、試練を表す名詞と、誘惑するという動詞が同じ語幹で、どちらにも訳せる語なのです。おそらくヤコブは、この事実に起因する誤解、混同である「神が誘惑する」という考えを正そうとしたのでしょう。試練は、神に忠実な信仰を持った者であることを証明するためのテストです。誘惑は、人を神への信仰から迷い出させるものです。ですから、神が誘惑するなどということは有り得ないのです。ヤコブは、そのことを、神の御性質を指し示すことで説明しようとします。「神は悪に誘惑されることのない方」と訳された部分は、神は誘惑することに慣れていない方、誘惑をしたことがない方という訳が適切だという指摘も有ります。
  次に、ヤコブは、実際の誘惑の元は何かを示します。それは、本人の心の中に有るのです。アダムとエバが堕落した時もそうでした。ここでいう欲というのは、神の国で受けるいのちの冠よりも、この世の社会で受ける誉や富を優先させたいという思いです。15節はその過程を示しています。この世で受け入れられたいならば、信仰の実践から離れるでしょう。信仰自体が無くなることも有ります。神から離れることが罪ですから、それは、最終的には、最後の審判を経て永遠の死に定められることになります。
  ですから、16節でだまされないようにしなさいと命じられています。彼らが直面しているものが誘惑ならば、反省しなければなりません。試練だと思うならば、耐えてよしとされ、命の冠を受ける希望を持って生きることができるのです。

3)神が良い方であることを心に留めて試練を喜びと思う(17節‐18節)
  先の勧めを補強するように、神が良い方であることをヤコブは続けて説明します。良い、と訳された語は、本質的に良い、見かけがどうあれ、内実は良い、という意味が有ります。試練も良いものだという考えを含むと思います。
  神の良い御性質が三つ示されています
  1)光を造られた
    直接的には光そのもの、また、星、天体を創造された神ということです。  
    それは、霊的な光をも念頭に入れたものでしょう。神は闇や罪を造られ
    た神ではないのです。
  2)移り変わりがない
    昔の天文学者たちは、運行の規則性がわからない惑星の動きを示す時に、
    移り行く影、という表現をしたそうです。ヤコブは、神は首尾一貫して
    おられることを示すために、この表現を用いました。
  3)私たちを被造物の初穂にする 
    神は新約の聖徒を、イエス・キリストのみ言葉と十字架の贖いを通して、
    生み出してくださいました。その目的を示す句は、私たちを被造物の初
    穂にするためです。ユダヤ人にとっては、初穂には、主だったもの、選
    りすぐりのもの、もっとも素晴らしいもの、という意味が有ります。私
    たちを、被造物の中でもっとも素晴らしいものにしようとされた神が、
    良い方でないはずがありません。私たちを神の民に加えてくださったこ
    とが、神が良い方であることの最上の例と言えるでしょう。
  
まとめ)
  私たちが試練に合っていると感じる時は、ヤコブの指示を思い出して実践する時です。

1)神の国の在り方を心に留めて試練を喜びと思う
  私たちは命の冠を神の国で受け取る者です。その希望によって、私たちは試練を耐え忍ぶことができます。その希望を、心に留め続けましょう。

2)試練と誘惑を区別することによって試練を喜びと思う
  私たちが直面する迫害や困難事態は、誘惑ではありません。この世の欲望を 
満たそうとして、神から、信仰から離れてはいけません。耐え忍んで試練を乗り越え、忠実な者と証明されることを目指しましょう。

3)神が良い方であることを心に留めて試練を喜びと思う
  神は良いお方です。一貫して私たちを天の祝福に導き続けておられます。最も素晴らしい恵みは、イエス・キリストを通して救いの道を確立してくださったことです。神は、私たちを、被造物の内で、最も素晴らしい者にしてくださったのです。

これらのことを心に留めて、試練を喜びと思いましょう。
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日曜礼拝 2023年8月6日

2023-08-06 17:15:38 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:箴言3:1-12
説教題:心を尽くして主により頼め

導入)
  ソロモンによる箴言とされています。朗読箇所には、六つの勧めがなされています。神を敬う知恵から得られる幸いについて述べられています。順を追って確認してみましょう。

本論)
1‐2節 わが子という呼びかけは、私たちに対する呼びかけとして理解されます。また、その戒め、勧めは、聖書の言葉、神の言葉として聴くのです。
  忘れるなという命令は、単に記憶から漏れる様子ではなく、意識的に無視する姿勢を指すということです。逆に、意識して心に留める努力が必要です。
  その結果は、充足と平安が与えられ、長生きすることができということです。
3‐4節 ここで求められているのは、私たちが親切で、信頼のおける人間でなければならないということです。首に結ぶというのは、なくさないように、忘れないようにするということです。私たちが鍵をストラップで首にかけて仕事をしたりする時の雰囲気を想像してください。心の板に書き記すのは、石板に金属の筆で書くイメージです。書いた字は消えません。心に根付いて、親切で信頼のおける性質が、本人の性格になるようにということです。
  4節は、命令文として訳されていますが、結果の記述として理解される内容です。あなたが神と人に対して親切な心と信頼される生き方をすれば、神と人から好意と聡明を得ることになるというのです。私たちの模範であるイエスが、そのような方であったことがルカ2:52 等からうかがえます。
5‐6節 この部分が、今回の箇所の中心的勧め、命令と考えられます。先に示された、聖書の言葉を記憶しておくことや、親切で信頼のおける人物になることができていても、神に信頼していなければ、それは神の前には何の意味も有りません。
  神に拠り頼むその条件は、「心を尽くして」となっています。心とは、理論立てる、知性の部分を指しています。考え、思い出し、理論立てることを常に、意識的にしながら、「だから私は神に拠り頼むのだ」と告白、宣言する姿勢を持っていなければなりません。アスリートが意識的に記録の向上を目指して取り組むように、私たちも意識的に信仰の成長を目指して取り組むのだと言えます。
  その障害になるのが、自信過剰になって、神を忘れることです。だから、自分の悟りに頼るなと戒められているのです。ヨシュアたちは、エリコの攻略が成功した後、神を忘れ、神に伺いを立てず、次の作戦に失敗しました。(ヨシュア9:14参照)
  神に意識的に拠り頼む姿勢は、6節では主を認めるという表現になっています。神のごみ心を確認し、神の指示を仰ぐということです。今日の私達は、聖書を読むことを通してそうすることができます。意識的に、考え、神のみ心を求める時、わたしたちは神との親しい関係に入れられて行くのです。それが、岩の上に家を建てた賢い人の例話に通じる姿勢です。
  その結果は、わたしたちの道がまっすぐになるということです。神があなたの心から疑いや恐れを取り除いて、平安を与えてくださるということだと考えられます。ガリラヤ湖の嵐の中にも関わらず、船の中で眠っておられたイエスの、神への信頼と平安を模範とするのです。
7‐8節 別の表現で、神に信頼する姿勢を説いています。悪から離れよと命じています。離れるという語は、向きを変える、避けるという語感が有ります。自分を知恵のある者と思うなという戒めは、5節に通じるものが有ります。ここでは、神に信頼しないこと、より頼まないことは悪なのだ、罪なのだということを意識させています。
  神に拠り頼むことの結果は既に6節に示されています。そして、神の平安が与えられる生き方は、体をも健康にするのだと述べています。
9‐10節 中心となる命令は、「主をあがめよ」です。あがめると訳された語は、重きを置く、優先順位を与える、栄光を帰す、敬うという意味が有ります。それを、財産とすべての収穫の初物を捧げることによってしなさいというのです。初物と訳された語には、主だったもの、選りすぐりのもの、一番素晴らしいもの、という意味が有ります。神様に最高の捧げものをしなさいということです。
  ここでは、申命記14:22などに示されている、穀物、ぶどう酒、オリーブ油の十分の一を捧げる規定のことを指しています。今日の私達に当てはめると、収入、貨幣、お金ということになります。私達は、神様に養われているのですから、神様に感謝の心を表してあがめ、礼拝をするのです。
  ここで、理解しておかなければならないことが有ります。
1)神様は、霊ですから、食物を必要とされません。十分の一の捧げものの目的は、礼拝を維持し、祭司やレビ人を養い、困っている人を助けることなのです。
2)また、この規定は、旧約の規定であるということです。私達クリスチャンは、新約の聖徒ですから、神様とこの様な契約をしていません。私達は、「心に示されるままに」捧げるのが基本原則です。マラキ3:9 に基づいて、十分の一の献金をしないと呪われるということはないのです。
  一方で、私達クリスチャンに適用される原則も含まれています。このことも、この部分の主題である神に信頼するということに関わってきます。十分の一を捧げることは、神に信頼する信仰の現れです。与えてしまうのに、増し加えられるというこの記述は、私達の常識には反しています。そこで問われるのは信仰です。あなたは、自分の貯蓄、財力に信頼するのか、神に信頼するのかという挑戦です。
  この信仰の応答をする時に、クリスチャンが示すことは次の三つです。
1)養ってくださる神への感謝と信頼
2)神に最高のものを捧げようとする敬虔
3)礼拝を持続可能にするための支援
皆様の献金の取り組みが、収入の十分の一であろうとなかろうと、この三つの目的に適った態度を持っているかということを考える必要が有ります。皆さんが献金を捧げる時、このような態度でしていらっしゃるかどうかを時々考えてみてください。
  原則は生きていますから、神様からの応答、祝福を私達は信仰によって期待して良いのですが、同時に、主権は神に有ることを心に留めておく必要が有ります。神の祝福の応答を過度に一般的原則としてはいけません。神が、何等かの理由で、私達が期待するような祝福で応えてくださらない場合が有ることを受け入れなければなりません。そうでないならば、私達の献金は、神をたたえて栄誉を帰することではなく、単なる投資に堕してしまうのです。
11‐12節 この六番目の戒めは、これまでの戒めの締めくくりと考えられます。それらを守り続けなさいという指示と考えられます。それが、神が懲らしめ、叱責、しかるということの目的です。興味深いのは、これらの言葉に含まれる意味です。懲らしめと訳された語は、指示を与えるという意味での用例がもっとも多いものです。叱責と訳された語は、正す、理論立てるという意味が有ります。恐ろしく厳しい態度ではなく、教え諭し、説明する態度を見ることができます。聖書と聖霊に導かれて生きる関係は、そういうものだという認識が有ることも大事ではないでしょうか。
  
まとめ)
  六つの戒めを確認してきましたが、そこから三つの要素を取り出してまとめてみたいと思います。

1)意識的に継続的に神に信頼する
  そうする時、神は、私達に平安、健全さ、豊かさを与えてくださいます。私達の行動が、御霊の実に基づいて、習慣的に親切さや誠実さを実践するものになるようにすることも、その表れと言えるでしょう。私達の思考、理論立てる考えを神に対する信仰のうちに働かせましょう。

2)神をあがめ、礼拝を維持するために最高の捧げものをすることを目指す
  神は、私達に、主だったもの、選りすぐりのもの、一番素晴らしいものである、救い主イエス・キリストをくださいました。私達も最高のものを捧げる礼拝の思いをもって献金し、奉仕をするのです。どうぞ、神に対する信頼を、捧げものによって実践することを考えてください。

3)神の命令と挑戦は、神の愛から出ている
  神の戒めに従順する時に与えられる恵みのリストにもう一度目を留めてください。長寿、平安と豊かさ。神と人に愛されること。霊と肉体の健全さと力。神は私達を愛しておられ、私達のためにご用意くださった全てを、私達に受け取って欲しいと思っておられるのです。拠り頼み、従って行きましょう。
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