礼拝音声
聖書箇所:レビ 19:1-37
説教題:聖であるということ
導入)
キリスト教における聖、聖であるということの定義や意味は、一般的な日本語の意味合いと異なります。しかし、そのことがあまり理解されていないために、クリスチャンであっても正しく理解できていない場合が有ります。今回は、レビ記19章の記述から、聖書的な聖、聖であるということの意味を確認します。
19章の構造は、先ず、「あなたがたも聖なる者とならなければならない」。次いで、一連の神の命令。最後に、「わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。」という締めくくりになっています。すると、聖なる者となるというのは、この時点において、イスラエル人にとっては、神のおきてと定めを守り行うということになります。順に19章の示すところを追ってみましょう。
本論)
聖であるという語は、神のために取り分けられた、というのが原義です。神の命じられたことを実践することが、イスラエル人をこの世から取り分けて聖とすることになります。では、神のおきてと定めを確認してみましょう。
神のおきてと定めは、二種類に分類できます。一つは創造主である神を敬うことに関するおきてと定め、もう一つは、神の似姿に創造された仲間である隣人を愛することです。このことは、イエスが律法学者たちに答えた、律法で最も大切ないましめ、「神を愛し、隣人を愛しなさい」と合致しています。(マタイ22:34 参照)本文が、どのようにこの原則を示しているのかを確認します。
1)創造主である神を敬うことに関するおきてと定め(3節‐8節)
3節では、父と母を敬うことと安息日を守ることが併記されています。
両親は創造主である神を象徴します。生物学的親がいなければ、私たちは存在しえないからです。また、親は子供たちに神を敬うこととその教えを教える存在です。ですから、私たちにご自身を啓示してくださった神を敬う意味で、両親をも敬うのです。
安息日を守ることの意味は何でしょうか。神はこの世を創造された時、七日目に休まれたと書かれています。しかし、神は疲れるような存在ではなく、休んだというのは肉体的な感覚で理解するものではありません。神が実際になさったことは、ご自身の創造の業を楽しまれ、アダムとエバとの交流を楽しまれたのです。ですから、私たちも天地を創造してそれを喜ばれた神を敬い、神がこれまでしてくださったことに感謝をし、神との交流を楽しむために日曜礼拝を守るのです。私たちが体を休めることはその目的の中心ではないのです。
4節は偶像礼拝を禁止しています。神は創造主であり、私たちを守ってくださる全能の主なので、他の何物にも頼ってはならないのです。偶像という言葉を聞いた時に思い浮かぶのはどんなことでしょうか。仏像が思い浮かぶ人も多いと思いますが、最初に思い浮かぶべき考えは、「何の役にも立たない、価値が無い」ということです。
5節‐8節は、和解のいけにえ、悔い改めのいけにえの規定です。礼拝は、神の御心にそって捧げられなければなりません。この規定は、私たちに対する神の愛をも表しています。動物の捧げものの肉は、家族で分かち合うものなのです。そして、三日目には食べてはいけないというのは、肉が腐敗し始めて、食べて体を壊すことのないようにという神の愛の配慮が含まれています。
2)隣人を愛することに関するおきてと定め(9節‐18節)
大まかな原則は、1)貧しい人達の世話をすること(9節-10節)2)隣人を傷つけないこと(11節‐16節)3)隣人を憎まないこと(17節-18節)となっています。そうしなければならない理由として、「わたしはあなたがたの神、主である。」という表現が五回出て来ます。神が隣人も神の似姿に創造されたからだと考えられるでしょう。
レビ記19章から考えると、神を愛し、隣人を愛する時、その人は聖い、聖くなっているということになります。それは、世間一般の聖さの概念とは異なっています。
さて、新約の聖徒である私たちは、ここで終わりにしてはいけません。私たちが義とされるには、更に、イエスの教えに従うことが求められています。マタイ6:33においては、神の国と神の義をまず求めることが命じられています。また、ヨハネ6:29においては、神が遣わされたイエスを信じることが神のわざをすることだと記されています。イエスを私たちの救い主として信じ受け入れ、その教えを守る時、私たちは聖であり、聖となり、聖徒であるのです。
まとめ)
聖である、聖となるということの大まかな原則は、神のすべてのおきてと定めを守ることです。私たちの実践としては、次のようになります。
1)創造主である神を敬い、愛すること
神だけに拠り頼み、神の創造の業を尊び、神の御心に従って礼拝することです。
2)神の似姿に創造された仲間として隣人を愛すること
隣人のために心配りをし、彼らを傷つけたり憎んだりしないことです。
3)救い主イエスを信じること
イエスだけが私たちの義の源であり、私たちを神のために世から取り分けてくださる方です。イエスを信じる私たちは、聖であり、聖徒です。
聖書箇所:レビ 19:1-37
説教題:聖であるということ
導入)
キリスト教における聖、聖であるということの定義や意味は、一般的な日本語の意味合いと異なります。しかし、そのことがあまり理解されていないために、クリスチャンであっても正しく理解できていない場合が有ります。今回は、レビ記19章の記述から、聖書的な聖、聖であるということの意味を確認します。
19章の構造は、先ず、「あなたがたも聖なる者とならなければならない」。次いで、一連の神の命令。最後に、「わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。」という締めくくりになっています。すると、聖なる者となるというのは、この時点において、イスラエル人にとっては、神のおきてと定めを守り行うということになります。順に19章の示すところを追ってみましょう。
本論)
聖であるという語は、神のために取り分けられた、というのが原義です。神の命じられたことを実践することが、イスラエル人をこの世から取り分けて聖とすることになります。では、神のおきてと定めを確認してみましょう。
神のおきてと定めは、二種類に分類できます。一つは創造主である神を敬うことに関するおきてと定め、もう一つは、神の似姿に創造された仲間である隣人を愛することです。このことは、イエスが律法学者たちに答えた、律法で最も大切ないましめ、「神を愛し、隣人を愛しなさい」と合致しています。(マタイ22:34 参照)本文が、どのようにこの原則を示しているのかを確認します。
1)創造主である神を敬うことに関するおきてと定め(3節‐8節)
3節では、父と母を敬うことと安息日を守ることが併記されています。
両親は創造主である神を象徴します。生物学的親がいなければ、私たちは存在しえないからです。また、親は子供たちに神を敬うこととその教えを教える存在です。ですから、私たちにご自身を啓示してくださった神を敬う意味で、両親をも敬うのです。
安息日を守ることの意味は何でしょうか。神はこの世を創造された時、七日目に休まれたと書かれています。しかし、神は疲れるような存在ではなく、休んだというのは肉体的な感覚で理解するものではありません。神が実際になさったことは、ご自身の創造の業を楽しまれ、アダムとエバとの交流を楽しまれたのです。ですから、私たちも天地を創造してそれを喜ばれた神を敬い、神がこれまでしてくださったことに感謝をし、神との交流を楽しむために日曜礼拝を守るのです。私たちが体を休めることはその目的の中心ではないのです。
4節は偶像礼拝を禁止しています。神は創造主であり、私たちを守ってくださる全能の主なので、他の何物にも頼ってはならないのです。偶像という言葉を聞いた時に思い浮かぶのはどんなことでしょうか。仏像が思い浮かぶ人も多いと思いますが、最初に思い浮かぶべき考えは、「何の役にも立たない、価値が無い」ということです。
5節‐8節は、和解のいけにえ、悔い改めのいけにえの規定です。礼拝は、神の御心にそって捧げられなければなりません。この規定は、私たちに対する神の愛をも表しています。動物の捧げものの肉は、家族で分かち合うものなのです。そして、三日目には食べてはいけないというのは、肉が腐敗し始めて、食べて体を壊すことのないようにという神の愛の配慮が含まれています。
2)隣人を愛することに関するおきてと定め(9節‐18節)
大まかな原則は、1)貧しい人達の世話をすること(9節-10節)2)隣人を傷つけないこと(11節‐16節)3)隣人を憎まないこと(17節-18節)となっています。そうしなければならない理由として、「わたしはあなたがたの神、主である。」という表現が五回出て来ます。神が隣人も神の似姿に創造されたからだと考えられるでしょう。
レビ記19章から考えると、神を愛し、隣人を愛する時、その人は聖い、聖くなっているということになります。それは、世間一般の聖さの概念とは異なっています。
さて、新約の聖徒である私たちは、ここで終わりにしてはいけません。私たちが義とされるには、更に、イエスの教えに従うことが求められています。マタイ6:33においては、神の国と神の義をまず求めることが命じられています。また、ヨハネ6:29においては、神が遣わされたイエスを信じることが神のわざをすることだと記されています。イエスを私たちの救い主として信じ受け入れ、その教えを守る時、私たちは聖であり、聖となり、聖徒であるのです。
まとめ)
聖である、聖となるということの大まかな原則は、神のすべてのおきてと定めを守ることです。私たちの実践としては、次のようになります。
1)創造主である神を敬い、愛すること
神だけに拠り頼み、神の創造の業を尊び、神の御心に従って礼拝することです。
2)神の似姿に創造された仲間として隣人を愛すること
隣人のために心配りをし、彼らを傷つけたり憎んだりしないことです。
3)救い主イエスを信じること
イエスだけが私たちの義の源であり、私たちを神のために世から取り分けてくださる方です。イエスを信じる私たちは、聖であり、聖徒です。