パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年6月30日

2019-06-30 20:30:37 | 日曜礼拝
聖書箇所:詩編27編14節
説教題:待ち望め、主を

導入)
 詩編3編と共に、この詩編はアブサロムの反乱に基づいていると考える学者がいます。そうでな
かったとしても、ダビデは敵がいて悩まされ、励ましを必要としている状況でした。ダビデは自分
を自分で鼓舞する必要がある状況でした。彼の嘆きと嘆願から目を留めましょう。

本論)
 ダビデの悩みは7、9、11、12節に表れています。それゆえダビデは勇気づけられることが必要
でした。だから、自分に対して14節の言葉を言い聞かせる必要が有ったのです。しかし、それは自
己暗示ではありません。彼は過去の経験に裏打ちされた確信が有ったのです。それは13節に見るこ
とができます。13節は主節が欠けています。しかし、その内容は容易に想像がつきます。神の救い
を信じられなければ絶望したであろうということになるはずです。
 彼の経験は2節に表されています。神は彼を守ってくださったことがあるのです。では、そのよ
うな神の守りを経験できるようにした要因はなんでしょうか。それは、ダビデと神の関係であった
と言えるでしょう。4節で彼は命の限り主の家に住まうことを願ったと言っています。ダビデの時
代にはまだ神殿は有りませんでしたから、主の家は幕屋でした。そして、実際にそこで生活すると
いうことではなく、日々礼拝の心を持って生きることの象徴的表現になっています。また、5節で
は彼は神への信頼と神の性質を告白しています。6節では、たとえ敵に囲まれていても神を賛美し
礼拝することを告白しています。このように、彼は過去の経験が彼の日々の生活の力の源の一つに
なっていたのです。私たちもダビデのように、神への性質、神への信頼を告白し、神との関係を保
ちながら生活しているでしょうか。

まとめ)
 ダビデは1節で力強い信仰の告白をしましたが、14節では自分を鼓舞する必要が有りました。私
たちも同様な状況な時が有ります。雄々しくあれ、心を強くせよという命令は、モーセの後継者で
あるヨシュアに神から与えられた命令でした。しかも、神は三度繰り返してそう命じています。
 ロビンソン・クルーソーの物語でも、彼が詩編27編14節の言葉で力づけられたという記述が出て
きます。作者のダニエル・デフォーの個人的な経験に基づていいたかもしれません。私たちは、神
の言葉で、自分自身に説教することが必要なのです。ダビデがしたように、神の真理の言葉によっ
て、自分自身に確信を持たせ、自らを再教育する必要が有るのです。心を強くすると訳された語に
は、力を回復させる、修復するという意味が有ります。私たちは神への信仰により、神の言葉によ
って継続的に心を回復させ続けなければなりません。だから、ダビデも14節では繰り返し表現を用
いているのです。

バイリンガル礼拝であったため、短くなっています。音声は有りません。
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日曜礼拝 2019年6月23日

2019-06-23 18:08:28 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ10章38節~42節
説教題:神の友

導入)
 この箇所は、よく取り上げられる福音書のエピソードの一つです。聞きなれた聖書箇所にも新た
に気づかされることがあるものです。主の導きに期待して確認していきたいと思います。

本論)
 ある村というのは、べタニヤになります。エルサレムから3キロ程離れた場所に有ります。イエ
スは弟子たちを連れていました。12弟子の他に70人を宣教に遣わしたという記録が有りますから、
この時も一行は80人ぐらいはいたのかもしれません。
 マルタはその一行をもてなすために迎え入れました。彼女は裕福な寡であったかもしれません。
しかし、これは簡単なことではありませんでした。その頃にはパリサイ人たちはイエスをメシアと
告白する者はユダヤ人の会堂から追放することに決めていました。にもかかわらず、マルタはイエ
スを受け入れたのです。それだけの信仰がマルタには有りました。
 イエスはもてなしを受けるまでのんびりしているのではなく、いつものように弟子たちを教えて
いました。マルタの妹のマリヤもイエスの足元で聞き入っていました。弟子たちが師の足元に座っ
て教えを受けるのは当時の習慣でしたから、マリヤも弟子同様にイエスの教えを聞いていたという
意味なのかもしれません。当時、立派な教師は女性を弟子にしないという考えが有ったそうですが、
イエスは女性も平等に扱っていたことになります。また、マリヤの態度は、単に弟子としての態度
であるだけなく、謙遜と教えに傾聴する態度を表しているかもしれません。ここで使われている動
詞は、継続的な動作を示す形が使われています。もしかすると、この時ばかりではなく、マリヤは
いつでもイエスの言葉を聞き続ける態度が有ったということでもあるかもしれません。
 一方姉のマルタは気持ちが落ち着かない状態でした。あちこちに気持ちがそがれる、心が分かれ
るというような意味の有る語が使われています。90人近いお客さんの食事の準備をしていたのです
から、忙しかったことでしょう。具体的にはどんなことが気にかかっていたのでしょうか。イエス
の一行には身の回りの世話をする女性がいたことが8章に書かれています。人手はそれでも足りな
かったのでしょうか。それとも、おもてなしをするマルタの一番の身内である妹のマリヤが手伝わ
ないのは体裁が悪いと思ったのでしょうか。とにかくマルタはイエスにお願いをしないではいられ
ない心持だったということです。
 マルタの言い方は無礼なものとは言い切れません。弟子は師匠の許可がなければ席を立つことが
できなかったのです。そんなにしてでもマルタはマリヤの手を借りたかったのかもしれません。マ
ルタが使った「手伝いをする」という言葉は、何かを得るために共に戦うという意味が有ります。
それだけマリヤを信頼し、あてにしていたことがわかります。どれだけ食事の準備を手伝う人がい
たとしても、マリヤ程台所の状況が分かっている人は他にいないわけですから、それは当然のこと
であったかもしれません。しかし、イエスの言葉はマルタの期待とは違ったものでした。
 イエスの「マルタ、マルタ」という繰り返しの呼びかけは、親愛の情を示し、また注意を引くた
めのものです。気づかなければならないことは、先ず、マルタが心配して気を使っているという状
態です。しかし、気を使うべきこと、必要なことは、一つしかないということです。マルタが気を
使うべきであった一つのこととは何でしょうか。二つほど考えられるのではないかと思います。
 直接的文脈から考えると、マリヤが選び、彼女がマルタを手伝いに行くと取り上げられることに
なると考えられるのは、イエスの言葉を聞くということです。そうすると、継続的に傾聴すること
がどうしても必要なこととなります。
 するとどうでしょうか、マルタもそこに残ってイエスの話を聞かなければならないでしょうか。
他に台所で準備をしている人たちはどうなるでしょうか。そういう疑問を解決できる二つ目の考え
方は、イエスの言葉にヒントが有ると思われます。イエスがマルタに対して指摘した問題点は、彼
女の心が思い煩っていることでした。すると、マリヤがイエスの教えに傾聴していたのは、マルタ
のように心配したり、体裁が悪いなどという考え方をしないことに決めたからだったかもしれませ
ん。イエスは山上の垂訓において、生活の心配をやめるように教えています。イエスの弟子である
ペテロも使徒パウロも信仰によって思い煩わないという原則を述べています。そして、この考えに
立てば、マルタもマリヤもそれぞれのことをしていて良いと判断することができます。
 しかし、この二つの考え方にも弱点は有ります。聖書の理解においては、詳細にこだわるとより
大きくて大事な原則を見逃すことが有ります。大きな意味や流れを把握するためには、文脈の確認
が必要になります。記者であるルカは、この直後に主の祈りと友人の家の扉をたたく例話を収録し
ています。天の神を父と呼び、友人の家の扉をたたくことの共通点は親密な間柄を表しています。
その神との親しさという流れの中でこの箇所を見ていく時、このエピソードは少し違った見え方を
するように思います。

結論)
 説教題は「神の友」としました。会堂を追放されることも厭わないマルタ、イエスの教えに傾聴
していたマリヤ。どちらもイエスの友であり神の友でした。そこから学べる原則は何でしょうか。

1)神の友は神の言葉を聞き続ける
  ベタニヤのマリヤの模範に倣いましょう。イエス様の弟子としてその足元に座っているかのよ
 うな気持ちで日々聖書を読み続けましょう。ただ読むのではなく、イエスと応答しながら読むか
 のように、文脈はどうなっているか、登場人物の性格や表す性質は何かなどを考えながら読みま
 す。可能なら文化背景などがわかる資料を見るのも良いでしょう。ベタニヤのマリヤはイエスが
 十字架にかかる前からイエスの復活を信じていた様子が有ります。そういう信仰を持つことがで
 きた背景は、熱心にイエスの言葉に耳を傾けたことではないでしょうか。

2)神の友は問題や思い煩いを祈りのうちに神に打ち明ける
  マルタは自分の思い煩いを親しい間柄の人間としてイエスに打ち明けました。兄弟のラザロが
 死んだ時も、その悲しみの思いを正直にイエスに対して打ち明けています。どちらの場合におい
 ても、イエスは彼女に必要な理解を与える言葉をかけています。私たちも、神の前にすべての思
 い煩いを打ち明けて答えを求めるのです。詩編には、こんなことまで言って良いだろうかと思う
 ような表現の祈りが記録されています。神の友にしていただいた私たちも、同じ率直さで神の前
 に祈り、答えを求めていきましょう。

3)神の友はキリストにあって心の平安を保とうとし続ける
  イエスはマルタにやさしく声をかけられました。その内容は、言い換えれば、「親愛なるマル
 タよ、思い煩わなくて良いのだよ。」ということになるでしょう。神の言葉である聖書は、繰り
 返して思い煩わないように、平安を保つように勧めています。その源は平和の君であるイエス・
 キリストです。イエスはヨハネ15章14節で、私たちは神の友であると言っておられます。その信
 頼と信仰を働かせていきあしょう。


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日曜礼拝 2019年6月16日

2019-06-16 22:45:04 | 日曜礼拝
聖書箇所:イザヤ50章1節~11節
説教題:神の助け

導入)
 イザヤが活躍した時代の霊的状況は、神との契約を忘れて偶像礼拝に走っているというものでし
た。政治的状況は、アッシリアの圧力にどう対応するか苦心しているところでした。その中でイザ
ヤは人々に神に帰るようにと促し続けていました。50章もその神の警告とイザヤの心構えが示され
ています。

本論)
1)神の助けは罪に身を委ねる者から取り上げられる(1~3節)
  イスラエルの民と神との契約が結婚に例えて表現されています。神はイスラエル人を離縁して
 はいないと言っています。イスラエルの民に神の加護が与えられないのは神が彼らを捨てたから
 ではなく、イスラエルの民が神を離れたからだということです。また、債権者という表現が出て
 きます。債権者は負債のある者の子供を売ることができました。エルサレム神殿の備品はアッシ
 リヤに奪われてたりしましたが、神が売り飛ばしたのではなく、民の態度が問題だということな
 のです。
  イスラエルに助けが来ないのは、神に力が無いからではありません。ここで、神はエジプトか
 ら民を救い出した時のことを思い出させようとしています。
  私たちが神の戒めを守らない時、私たちも神の助けを望むことはできません。忠実に神を愛し
 互いに愛し合う所に神の助けも与えられるのです。

2)神の助けは私たちに義と力を与える(4節~9節)
  新改訳聖書では平仮名の「わたし」は神を指し、漢字の「私」は人間を指します。ですから、
 ここからはイザヤの告白となっていることがわかります。彼は神の言葉を聞き、また従う人物で
 した。神は朝ごとに彼に神を離れて困難を覚えている人々に与える戒めや励ましの言葉を示され
 ました。人々が彼の預言を拒絶しても忠実に神の言葉を語り続けたのです。6節に表れる行動は
 侮辱を表しています。しかし、イザヤはどんなに神の預言者として侮辱されても引き下がること
 はありませんでした。どのようにして彼はそういう毅然とした態度を取る力を得たのでしょうか。 
 それは、7節に示されているように、神の助けが有ったからです。火打石が出てきますが、これ
 は硬い石です。彼が侮辱をものともしない態度をあらわしています。彼は神の言葉を伝えるのだ
 という固い決意をしたのです。
  8節は神がどのような存在か、また、イザヤがいかに神を信頼していたかを示しています。神
 は全能であり、至高の存在です。その神が彼を守り、彼を義人と認めてくださるのです。イザヤ
 は何者をも恐れる必要がなかったのです。9節で彼は再び神が助けであることを宣言し、強調し
 ています。その反対に、神に敵対する者たちは滅びるとも宣言しています。
  この箇所にはイエス・キリストの預言が含まれています。十字架にかかる前にイエスが受けた
 侮辱と重なります。しかし、イエスは父なる神に委ねられた救いの業を成し遂げることを決意し
 ていました。
  私たちもイザヤのように私たちを守られる神を信頼していくという固い決意が必要です。神が
 私たちの義となってくださることを信じるのです。その確信を持って、人生に起きる何事にも恥
 を被ったり当惑しないで歩むのです。

3)神の助けは自己義認に生きる人々には与えられない
  10節でイザヤは人々に神に従うように迫っています。それは、私たちに対する、イエス・キリ
 ストに従うようにという招きでもあるのです。神への畏敬の念が無い人生は明かりを持たずに闇
 を歩くような生き様です。だからイザヤは問題を抱えているユダヤの民に「暗やみの中を歩き、
 光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」と言っているのです。
  11節は自己義認に生きる人間の描写です。太陽の明かりのような神の助けに頼るべきなのに、
 人間の小さな松明のような自助努力や自己義認で満足していると責めています。その行き着くと
 ころは、苦しみ倒れることであり、滅びであると宣言しています。それは、最後の審判の時に決
 定的となるのです。
  私たちは、人間的なやり方や自己義認の態度は神の前には無意味であることを認識しなければ
 なりません。そのような態度は神の前には不快なものです。

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日曜礼拝 2019年6月9日

2019-06-09 23:07:11 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ5章27節~32節
説教題:Mind Your Own Business

導入)
 説教題に示されている英語の表現は、日本語では「でしゃばるな、分をわきまえろ」というよう
な雰囲気が有ると思います。辞書の定義では、「自分自身の業務にだけ目を向けて、他の人々の生
活に疑問をはさんだり関わろうとしたりしないように。」というような内容になっています。でし
ゃばって他人を煩わせたりしないようにするためには、物事の境界線を知る必要が有ります。自分
が何者であるか、他人はどういう存在かということを知る必要が有ります。聖書箇所に出てくるパ
リサイ人はイエスを煩わせたと言っても良いでしょう。幸いなことに、彼らの質問はイエスの回答
を引き出し、イエスがどういう存在かということを示し、また私たちの業務が何であるかを示すこ
とになりました。

本論)
 最初の「この後」というのは、直前の中風の人を癒し、イエスが人の罪を赦す権威を持つ神であ
ることを証明した後ということです。イエスは収税人のレビを召して弟子としました。そこに収税
所が有ったのは、ガリラヤ湖を行き来する人や商品に通行税を課税するためであったと思われます。
収税人は他にもいたはずですが、イエスはレビにだけ声を掛けました。収税人はローマから高い報
酬を得ていましたが、レビは直ぐに従って行きました。聖書は詳細を記録していませんが、レビは
イエスの教えを聞き、また奇跡を目撃したりする機会が有って、心が整っていたのでしょう。彼に
は収税人であることよりも、イエスに従う方が価値が有ることだったのです。
 数日後にレビはイエスのために大ぶるまいをしました。その準備には数日を要したでしょう。そ
れだけレビの喜びが大きかったのは、イエスが普通の宗教指導者が決してしないことをしてくれた
からでした。収税人は宗教的な社会からは排除されていました。異邦人の勢力であるローマ帝国に
仕え、集められたお金の一部は異教の神殿の維持費にも用いられていたからでした。パリサイ人は
収税人とは決して交流を持とうとはしませんでした。しかし、イエスはレビを弟子に召し出してく
ださったのです。レビが多くの収税人を招待したのは、彼らにもイエスの教えを聞いて欲しいとい
う願いが有ったからだと思われます。
 30節には突然パリサイ人たちがそこに登場します。彼らは収税人を嫌っていたでしょうし、招待
もされていなかったはずですが、どうしてそこにいたのでしょうか。当時は、ある人が誰かのため
に食事会を催すと、招待されていない人々も来て主賓の話を聞いたり質問をしたりすることが許さ
れていました。ですから、パリサイ人たちも当然のようにそこに来て、イエスの教えを調査したり
することができたのです。彼らはそこで起きていることが気に入りませでした。そこで、イエスの
弟子たちに質問をするのです。(30節)彼らの言おうとしことは、「お前たちはどうしてあんなク
ズたちと交流したりするんだ。」というような感じになります。
 彼らはイエスの弟子たちに質問をしたのですが、イエスがそれを聞きつけて弟子たちに代わって
返事をしました。イエスの言葉がこの聖書箇所の中心的な意味になります。イエスはユダヤの諺を
使いました。その言おうとする内容は、「私が医者のような存在だということが解らないのか。医
者が病人に会おうとするのは当然ではないか。でしゃばるな。そんな愚かな質問をするものではな
い。」医者は病人に会いに行くからと言って非難されるべきではありません。それが医者の業務で
すから。同様に、イエスは罪人に会いに行くからと言って非難されるべきではありません。イエス
は罪人を悔い改めに導くために来られた救い主ですから、そうすることがその務めだからです。パ
リサイ人たちはその務めには関係有りませんでした。彼らは自分たちを義人だと考えて悔い改めが
必要だとは思っていなかったからです。
 もし誰かに"Mind your own business," と言われたら、自分がどんな線を越えてしまったのかを
確認する必要が有ります。パリサイ人の問題は彼らの言葉から判ります。彼らは収税人を罪人と断
罪し裁いていました。人間でしかないのに、救い主であるイエスを批判していました。イエスは裁
いてはならないと教えています。(マタイ7章1節)また、パウロも裁きは神のものであり、裁き
を神に委ねるべきことを教えています。(1コリント4章5節)私たちが裁く時、私たちは神の座
につこうとする不敬虔な態度を取っていることになり、一線を越えていることになります。一方、
イエスは人を裁く権威をお持ちな方でしたが、収税人を裁くことをせず、彼らを悔い改めと神の国
に導くために彼らと交流を持とうとされました。それがイエスの業であり、務めだったのです。

まとめ)
私たちの分、私たちが心に留めるべき務めは何でしょうか。

1)私たちの務めは他人を裁くことではない
  パリサイ人たちは収税人を裁き、彼らを罪人と呼んでいました。裁くというのは、収税人や異
 邦人は決して救われることはなく、滅びるに決まっている存在だと決めつけることです。しかし、
 裁きは神のなされることです。私たちは神の座につくようなことをするべきではありません。私
 たちは裁きを神に委ねなければなりません。

2)私たちの務めはイエス・キリストと一致してその中に留まることである
  パリサイ人たちは「なぜ、あなたがたは収税人と食事をするのか。」と言ったのであって、イ
 エスに対して直接質問したわけではありませんでした。しかし、イエスが割って入られ、「わた
 しは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」と答え
 られました。イエスはこのようにして、ご自身の弟子たちとの一致を示されました。私たちもイ
 エスとの一致の中に留まる続ける必要が有ります。(ヨハネ15章5節、9節参照)

3)私たちの務めは人々に私たちを救うために来られたイエス・キリストを示すことである
  私たちも人々が悔い改めに至るように働きかけていく必要が有ります。私たちもイエスの弟子
 であり、イエスの証人だからです。医者が病人の癒しを心に掛けているように、私たちも福音を
 必要としている人々を心に掛けていくのです。収税人のレビがイエスを紹介するために仲間の収
 税人を招いたように、私たちも何等かの方法を通して福音の喜びを伝えることができます。最も
 大事なことは、罪人を裁くためではなく、罪人を救うために来られたことを示すことです。
  レビは、またの名をマタイと言います。彼はこのイエスを伝えるためにマタイによる福音書を
 書きました。この記事を記したルカも、繰り返しイエスが罪人を見つけ出して救うために来られ
 たことを語るために、イエスの公生涯の終わりに十字架にかかる直前に、レビと同じ収税人であ
 ったザアカイを見出だして救いに導いたことを記録しています。(ルカ19章10節)



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日曜礼拝 2019年6月2日

2019-06-02 20:00:51 | 日曜礼拝
聖書箇所:詩編139編23節~24節
説教題:神を愛する者の祈り

(要約です。詳細は音声でご確認ください。)

導入)
 この詩編はダビデによるということが書いてあります。朗読箇所はこの詩編の結論になります。
この詩編の全体を確認しながら、神を愛する者として、この祈りに倣うべき点を確認しましょう。

本論)
 ダビデは繰り返し神に呼ばわっています。彼が呼ばわる神はどのような神なのでしょうか。先ず
神は全知の神であることが述べられています。4節まで読むだけでも4回繰り返して「知る」とい
う動詞が使われています。
 神が私たちを知っているその知り方は、単純な知識としてではなく、直接的、個人的且つ体験的
な知り方です。神が私たちをお造りになったからです。(13節~16節参照)ここでは、創造主とし
ての神の認識も表されています。
 また、7節から10節の記述には、神が遍在する神であることも表されています。

 祈り手であるダビデに目を転じます。彼はどのような存在でしょうか。既にお分かりの通り、ダ
ビデは神の性質をわきまえ知っている人物です。しかし、更に重要なのは、彼が神を愛している者
だということです。神の性質をダビデのように理解する人物でも、必ずしも神を愛しているとは限
りません。むしろ憎んでいる場合も有るかもしれません。
 ダビデの神への愛は、19節から22節に述べられています。一読すると、酷く憎しみを促すような
表現に思えるかもしれません。この箇所は、ユダヤ的表現の背景を理解する必要が有ります。新約
聖書のイエスの表現にも反映されていますが、ユダヤ的には、もし人が何かを愛するならば、その
他のものは憎んでいることになるのです。更にこの理解を深めるのが、19節の「悪者」という表現
です。この語には「神を憎む者」という意味が含まれているのです。神を憎む存在がなくなるよう
に祈るとは、すなわち、神に対する愛を告白していることになります。21節、22節で、ダビデは繰
り返して神への愛の告白をしているのです。

 この詩編の結論部分に目を向けましょう。ダビデはここでも類義語の反復表現を用いています。
探り、調べ、見るという表現は、それぞれ、調査する、試して証明する、検査・観察するという意
味が有ります。しかし、ここで疑問が沸きます。1節では神は全知だと告白しているのに、どうし
てこのようなことを神に願うのでしょうか。
 この祈りと願いは次のように理解できます。それは、神が自分を十分に理解していないという訴
えではなく、自分が自分自身をも十分に理解できない存在であるから、神に自分の問題を教えても
らいたいという願いの表現なのです。
人間は自分自身の理解もおぼつかないばかりか、自分の罪や
問題を忘れようとしたりします。だからこそ、神に示していただく必要が有り、そう祈るのです。
 傷ついた道という表現における「傷ついた」という語には、「痛み、悲しみ、偶像」という意味
が有ります。神への信頼から離れた部分が有るならば、それが何であれ偶像礼拝となり、神にも自
分にも痛みや傷をもたらすのです。しかし、それを取り去れば、逆に私たちをとこしえの道に導い
てくださるのです。
 とこしえの道をもたらすものは何でしょうか。それは、わたしは道であり、真理であり、命であ
ると言われたイエス・キリストです。このイエス・キリストを通して私たちには永遠の命がもたら
されるのです。(ヨハネ3章16節、5章24節参照)

結論)神を愛する者の祈りはどのような祈りでしょうか

1)神の性質を知り告白する祈り
  少なくとも、神が創造主であり全知であることをこの詩編は告白し続けています。神は私たち
 から遠く離れた存在ではありません。私たちを完璧にご存知であり、理解しておられる神なので
 す。この神は、あなたの、また私たちの神なのです。このことを告白して祈りましょう。

2)神への愛と渇望を持った祈り
  ダビデは繰り返し神に呼ばわっています。神がどのような方かを告白し、感謝を述べ、強い調
 子で神への愛を述べています。このような祈りに私たちは倣うべきです。それで、礼拝次第の中
 にも、「崇敬と悔い改めの祈り」が入れられているのです。

3)自分が認識できていない罪の示しを求める祈り
  私たちの適用という点では、これが一番重要なものかもしれません。自分では問題も罪も無い
 と思っている時でも、日々神に問題点を示していただけるように祈る必要が有ります。それを示
 していただいて、取り除いていきたいという強い思いを持つ必要が有ります。神にとって痛みや
 傷となり得る事柄を取り除けば取り除く程、私たちは変えられ、霊的に成長していくのです。そ
 して、更にとこしえの道の歩みを深めることができるのです。 
 
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