パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年4月14日

2024-04-14 21:03:06 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヤコブ 3:1-12
説教題:あなたの舌は建てるのか壊すのか

導入)
 以前確認した通り、ヤコブの手紙は離散したユダヤ人クリスチャンに向けて書かれています。迫害に耐えるように勧め、また、信仰に相応しい行いが伴うように勧めが続きました。三章では突然内容が変わるような印象になりますが、信仰に相応しい行いをするようにという勧めの続きと考えることができます。

本論)
1節 突然気軽に教師にならないようにという警告になります。ユダヤ人の社会においては、人々の注目を集めたくてラビ、律法の教師になりたがる人達がいたということです。それで、中にはクリスチャンになってもそのような考えをする人がいたのだと推測されます。これは不純な動機です。適切な資質のある人物がそのような役職につくべきです。また、その責任は重いので、間違いを犯せば、より厳しい非難を受け、罰せられるのは当然です。
2節 特に注意を払うべきことは、どんな発言をするかということなのがわかります。一方で、舌を抑制できる人は、体全体、言ってみれば、生き方全体をよく治めることができるという指摘がされています。
3節―4節 ヤコブは比較的小さい物がより大きなものを制御できることを例示します。それは、舌が持つ問題を示すためでした。舌は大きな問題を引き起こすことが有り得るので、制御することが必須なのです。
5節 舌は様々な問題を引き起こすことが考えられますが、ここでヤコブが注目しているのは、誇ることでした。この語は、言葉や行動で自分が勝っていることを示そうとすることを意味します。しかし、神は私達が神に信頼して遜って生きることを望んでいらっしゃいます。見栄を張ったりするのはクリスチャンの生き方とは言えません。そんな態度では、仲間のクリスチャンを見下した言動になったり、知識をひけらかしているうちに間違った教理を持ち込むことも有り得ます。そうすると、教会には問題が起こり、分裂につながったりするでしょう。
6節 そういわけで、言葉を介して示される人間の邪悪な精神は、神への反抗に起源が有ると考えることができ、そのような状態のままでは、地獄の火で焼かれる日が来てしまうというわけです。
7節―8節 人類は多くの動物を飼いならしてきました。サーカスの猛獣使いや水族館で見るイルカショーなどが思い浮かぶでしょう。しかし、舌を制御するのは難しいことがあるのです。生まれた時から罪の性質を内側に持っている人間が、どうして死の毒とも表現される結果をもたらすことのある舌、悪い言葉を制御することができるでしょうか。それは、悔い改めて神に拠り頼み、聖霊の導きをいただき、神のみ言葉を学ぶしか方法は有りません。
。顔を火打石のようにするという表現が有りす。火打石は大変固い石だと考えられていて、強い意思と決意を示しています。
9節―11節 ここでヤコブは教会の中で観察されたと思われる状況を取り上げます。教会の中で、クリスチャンが、神を賛美するのに、同時に他のクリスチャンをのろうようなこと言うというのです。それは極端な例かもしれません。のろいと訳された語の雰囲気は、人々に悪いことが起きるように願うというものです。
 そこで、ヤコブは、パレスチナ地方に住んでいたことのあるユダヤ人クリスチャンが身近に感じられる例を持ち出します。パレスチナでは、井戸を掘ると塩水が出て来ることが有りました。それが苦い水です。死海が有る地域ですから、そういうことが有ってもおかしくないのです。塩水を飲むことは、体に害が有ります。そんな井戸は役に立たずに見捨てられるでしょう。水脈は一つですから、一つの井戸から真水と塩水が出ることは有り得ません。
 泉は心を象徴していると考えられます。クリスチャンの心はイエス・キリストにつながっていなければなりません。そのことによって、語る言葉は仲間のクリスチャンを潤し、力づけるものでなければなりません。
12節 ここでは、いちじく、オリーブ、ぶどうというパレスチナや地中海地方の農産物が例話に用いられています。例話のように、いちじくの実を期待して近づいたらオリーブの実が生っていたとしたらどうでしょうか。期待した用途に用いることができずに、がっかりすることになるでしょう。ここでは、言葉が嘘であったり偽善であったりする時のことを示していると考えられます。しかし、私達は聖霊と聖書の言葉に導かれて真っすぐな言葉をかたらなければなりません。(エペソ4:25 参照)


まとめ)
 教師になること自体は悪いことではありません。へブル5:12 によれば、私達は信仰を持って長くなれば、成熟して教師になることは自然であることが示されています。成熟しているかどうかが問題なのです。仲間のクリスチャンを建て上げ、教会を建て上げる言葉を用いているかどうかが判断基準になります。すくなくとも、私達は、教会、他の人たち、ひいては自分自身を壊すような人間になってはいけません。もし人に害を与えるような発言をする人がいれば、その人は、行いの伴わない信仰者であると言えます。
 ここで、壊す舌、建てる舌を考えてみます。

1)壊す舌
  誇り、自分を他人より勝っていると見栄を張るものです。また、他人に悪いことが起こるように願うようなことを言う舌です。そんな人の言葉は、他人を傷つけ、自分をも破壊し、教会を破壊することになります。そのような舌を持っているならば、その人は霊的に未成熟です。そのような態度は、神に拠り頼んでおらず、罪に属します。自分の言葉を時々吟味してください。壊す舌の言葉を使っているのではないかと思った時は、悔い改め、神に信頼することを告白するのです。

2)建てる舌
  仲間であるクリスチャンと教会を建てる言葉を語る舌です。それは、聖霊と福音の言葉から来るものです。そのような言葉は、仲間を励ますことができます。
 4節の記述は示唆に富んでいると思います。小さな舌に例えられた船の舵は、適切に制御されれば、大きな船を正しい航路に乗せることができます。同様に、舌を制御することができるならば、舵が船を強い風の中でも思い通りに動かせるように、大きな利益につながるのです。強い風は、激情もしくは困難の隠喩とも考えられます。私達の理想的な状態は、互いに励まし合い、特を高め合う言葉で語り合えることです。(1テサロニケ5:11参照)

3)舌は神を知る知識で養われなければならない
  エペソ5:19では、私達が聖書の言葉で語り合うことが勧められています。聖書の言葉が私達の語彙でなければなりません。私達の行動の動機は、神を尊び、神に栄光を帰することでなければなりません。一つの考え方は、9節に表わされていたと思います。悪い例として、私達が神の似姿に創造された人をのろうことが述べられています。崇めるべき神の似姿に創造された存在をのろうならば、神に対してのろいの言葉をはいているのと同じことにならないでしょうか。神を敬う心からは、そのような言葉は出てこないはずです。
コメント
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