パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年2月27日

2022-02-27 22:43:36 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:6:28-32, 8:23-27, 14:22-32, 16:5-12, 17:19-20
説教題:「信仰の薄い」の考察

導入)
「信仰の薄い」という表現はマタイによる福音書にイエスが弟子たちに語りかけている言葉として5回出て来ます。「信仰の薄い」という言葉の印象はどんなものでしょうか。自分も信仰の薄い者だと恥ずかしいような気持ちになる、あるいは、弟子たちの信仰はだめだなという裁くような気持ちになるということが有るかもしれません。マタイは、直接イエスからこの言葉を聞いた弟子たちの一人でした。神はこのマタイの記録を通して、私たちに何を伝えようとしているのかを見てみましょう。

本論)
「信仰の薄い」の定義
  原文ではオリゴピストスという単語で表現されています。複合語で、オリゴス、「小さい、少ない、少量である」という意味の語と、ピストス「信仰」という語が結合しています。不十分な信仰、小さすぎる信頼という語感になります。それは、パリサイ人や律法学者のように信仰が無いということではありません。私たちにも、信仰が不十分であったり、神への信頼が小さ過ぎると感じる時が有るのではないでしょうか。

「信仰の薄い」状態になる原因
1)生活の心配(6:28-32)
  山上の垂訓の一部です。私たちは衣食のことで心配することは殆ど無いかもしれません。それでも、家計の心配、失業の心配、良くない人間関係等が心を煩わせることが有るのではないでしょうか。イエスは、私たちの注意を私たちに心を配ってくださる神の恵に向けさせようとしています。信仰を十分に働かせましょう。

2)死の恐怖(8:23-27)
 波が船にかぶされば、水が溢れて沈むことが有るかもしれません。嵐の湖では、泳げる人でも溺れるかもしれません。その船にはイエスが同乗していたのに、イエスが彼らを守ってくださると考えることができませんでした。神の守りが有るにしても、私たちのこの世の命はいつか終わるのです。それはタイミングの問題でしかありません。私たちがこの世を去る時には、イエス・キリストの恵によって私たちの魂は神の国に迎え入れられるのです。信仰を十分に働かせましょう。

3)環境への恐怖・疑い(14:22-32)
  もう一つの嵐のガリラヤ湖での出来事です。水の上を歩くイエスを見て弟子たちは幽霊だと思い、恐れました。イエスは、「わたしだ、恐れることは無い」といわれました。その言葉に勇気を得たのでしょうか、ペテロが、もしイエスならば、水の上を歩いてここまで来るように命じてくださいと言い、来なさいと言われて水上歩行を始めましたが、間もなく沈み始めてしまいました。風を見てこわくなったということです。イエスはずっとそこにいらっしゃいました。波風は、その前からずっと荒れていたのです。実際に変わったのは、ペテロの心持ちであったと思われます。イエスは、なぜ疑うのかと言われました。疑うと訳された語は、ある物事を、本当ではない、確実ではないかもしれないと考えるという意味が有ります。風を見て、本当は水の上を歩き続けられないのではないか、呼ばれた方はイエスではないのではないか、などと思ってしまったのかもしれません。環境に惑わされず、イエスに目と留め続けて、信仰を十分に働かせましょう。

4)キリストの権威と心配りへの不十分な信頼 (16:5-12)  
  イエスは五千人の給食と四千人の給食の奇跡を通して、ご自身が約束のメシアであることを証明しました。モーセと同様の偉大な預言者が来る時、その人に従いなさいと預言されています。(申命記18:15参照)モーセの時は、人々の知らないうちに天からマナが下りて来ました。同様に、イエスは弟子たちがパンの一欠片も持っていなくても、必要とあればパンを作り出すことはできるお方でした。イエスは創造の神です。そういう信仰が薄かったので、パリサイ人のパンだねに気をつけなさいと言われた時、見当違いな議論をすることになりました。信仰を十分に働かせましょう。

5)弟子に与えられた権威への不十分な信頼(17:19-20)
  悪霊を追い出すことは、イエスが弟子たちに与えられた務めの一部でした。(10:8参照)そのご命令を実行に移す権威はイエスによって与えられていたことは明白でした。しかし、弟子たちはそれを十分に信頼しなかったために、悪霊を追い出せない場面が有ったのでしょう。その時、彼らは、イエスの力と権威よりも自分の弱さに目を留めていたのかもしれません。今日でも、私たちは必要をであれば、イエスの権威によって悪霊を追い出すことができます。信仰を十分に働かせましょう。

「信仰の薄い」の後に来るもの
  イエスは叱責の言葉を無駄にかけられたのではありません。展望や目標を持っておられました。信仰の薄いという指摘は、より深い信仰と弟子の歩みへの招待でもありました。弟子たちは、イエスへの信仰を深めて行ったのです。そのことを認めるイエスの言葉は、ペテロの信仰告白への賞賛の言葉(16:17-19参照)や、大宣教命令に現れています。(28:18-20、使徒行伝1:8参照)イエスの働きを任せるに値する信仰を持った弟子たちと認め、送り出すことがその展望であり目標でした。それが実現して行く様は、使徒行伝に見出すことができます。弟子たちは死に至るまでイエスに忠実にその務めを果たしました。

まとめ)
  「信仰の薄い」という言葉は、私たちに対する叱責のように感じることが多いでしょう。そのように感じる時に、三つのことを心に留めていただきたいと思います。

1)それでも私たちには信仰が有るのだということを認識する
  信仰が薄いと感じる時に、失望するべきではありません。私たちは、検定試験に合格しなかったら、合格するまで、あるいは基準に達するまで何度でも受検します。同様に、私たちは、信仰を持っているのですから、それが深まるように努力し続けるのです。

2)自分の信仰の薄い時の原因を明確にする
  自分の信仰が薄いと感じる時、私たちは、その原因を明らかにする必要が有ります。自分の考えを吟味し、どのような不信仰の思いが有ったのかを確かめます。その不信仰の思いを、聖書の言葉によって退けましょう。イエスへの信頼を宣言し、霊的な助けと力をいただけるように祈りましょう。また、悪霊の働きが有ると感じられる時には、イエスのみ名の権威によって退けましょう。

3)イエスが私たちのために設けられた将来の目標に目を留める
  「信仰の薄い」という言葉をかけた時、イエスは弟子たちに敗北者のレッテルを貼ったわけではありませんでした。むしろ、彼らを将来の信仰の深みに招待されたのです。イエスは将来に向けて、彼らがどのように信仰を深め、イエスの証人として歩むかをご存知でした。同様に、イエスは私たちが霊的に成長し、信仰を深めることを望んでおられます。私たちはどのようなところまで信仰を深めることができるかはわかりません。しかし、いつも、イエスが私たちの信仰が深まることを期待し、その実現を楽しみにしていてくださることを心に留めるべきです。また、私たちは天国で受け継ぐ報酬という希望を持っています。その希望をもって、信仰の深化のために努力していくことができます。
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日曜礼拝 2022年2月20日

2022-02-20 22:30:58 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:コロサイ 4:2 - 6
説教題:神を愛し互いに愛し合うから祈る

導入)
  前の段落で、キリストにある家族のあるべき姿を学びました。その指示に従うにあたって心に留めておくべき条件は、主の栄光を現わすこと、天国の報酬を意識すること、神の裁きには不公平は無いことを意識することでした。
  パウロはここから、更に指示を出しますが、それも、神を愛し、互いに愛し合うという基本原則に基づいています。
  先ず、パウロの記述の内容を、順を追って確認します。

本論)
内容1)たゆみなく祈りなさい
  たゆみなく、と訳された語は、困難にもかかわらず、集中的な努力をして何かを継続するという語感が有ります。何が困難なことなのでしょうか。先にクリスチャンの家族としての生き方が示されましたが、当時のクリスチャンは皆信仰を持ってから日が浅い人が殆どでしたから、パウロの示した新しい生活の方針などに馴染みが無く、その指示を守ることが困難な場合も有ったかもしれません。そのような時には、祈りなくしてその実践をすることは難しいことでした。社会や伝道に目を向けると、クリスチャンは誤解されて迫害に合うという困難が有りました。当時当たり前だと思われていた皇帝崇拝をしなかったので、無政府主義者だとか、無神論者だとか思われたりしました。そういう困難の中で、彼らは集中的に祈る必要が有りました。
  たゆみなく祈る上で重要な態度が二つ示されています。一つは、目を覚まして、注意して祈るということです。厳しく注意を傾けてと言う語感の有る語です。たゆみなく祈ろうとすると、そのうちに関心が低下したり、気力が落ちたりすることが有るので、意識的に注意して祈り続けなさいということです。もう一つは、感謝の心を持って祈りなさいということです。新しい戒めを与えて下さり、天国の報酬を用意してくださる神への感謝の心を持って祈る必要が有ります。この二つの態度をもって、私たちは祈りを奮い立たせる燃料とするのです。

内容2) 福音の働き手のために祈る
  3節は、同時にという語で始まります。家族の中で愛し合う姿勢を保つために祈り続けるは大事ですが、それと同等の重要さと頻度をもって、伝道の担い手であるパウロとテモテのためにも祈るように命じています。
  キリストの奥義を伝える機会を得、それを十分に用いることができるように、また、その時には、相手に十分理解される言葉で話すことができるように祈って欲しいというのです。奥義と訳された語は、過去にはよく判らなかったが、今ははっきりわかるようになった事柄という意味が有ります。すなわち、旧約聖書で預言されていたイエス・キリストのことが、その来臨と宣教によってはっきしたということ。神の救いの計画の福音の内容を奥義と表現しているのです。はっきり語れるようにと4節に有りますが、この語は、見えるようにする、十分に理解できるようにする、という意味が有ります。私たちは、自分たちの実践のために祈ると同時に、福音宣教に携わる人たちのために、このように祈ることが求められています。

内容3)私たちの振る舞いが、福音の伝播を支えることになる
  ここで、パウロは祈りから離れて、この世におけるクリスチャンの振る舞いについて指示を出しています。外部の人、という表現は、キリスト教信仰を持たない人ということです。その人たちに対して、私たちは賢く振舞って、神の恵と素晴らしさを現わさなければなりません。それは、会話を通してなされることが多いのです。だから、6節で、私たちの言葉がどのようなものでなければならないかが示されています。親切で、というのは、恵を表す言葉で、心地よいことを含意するものです。塩味が効いたという表現が有ります。塩が加えられると、食物はその美味しさが増すものです。私たちの言葉はが、そういう効果をもたらすようなものであることが必要であり、そのように心がけると、相手に対してどのような話し方をしたら良いかがわかるようになっていくのです。

まとめ)
  私たちがこの聖書箇所から学ぶべき原則は何でしょうか。 
  パウロの祈りに関する指示は、二つの方向に向けられているように見えまうす。一つ目は、新しい命に生きるクリスチャン家族の互いに愛し合う実践ができるようにたゆみなく祈るということです。もう一つは、私たちがイエスの証人としてつとめを果たすことができるようにたゆみなく祈るということです。私たちは、この二つを、祈ること無しに成し遂げることは不可能です。そして、この証人となるためには、福音のために働く人たちのために執り成して祈ることが含まれているのです。
  私たちのこれらの祈りの動機はどこに有るのでしょうか。「神を愛し、互いに愛し合いなさい。」という戒めにしたぐ心がその動機となるのです。だからこそ、私たちは、神の戒めに従って歩めるように祈り、福音を伝える人が機会を得て、明確に福音を語れるように祈り、自分自身が、優しさと心地よさを持った言葉で外部の人と会話することができるように祈ることになるのです。

1)どのように祈るべきか
  ― 集中的に努力して祈ります。
  ― 目をさまして、感謝を持って祈ります。

2)何を祈るべきか
  ― 自分たちがクリスチャン家族としての務めを果たすことができるように
  ― 福音を語る人たちが、伝道の機会を得て、明確に福音を語ることができるように
  ― 私たちが外部の人たちと接する時、証人に相応しい言葉を語ることができるように

3)何故祈るのか
  ― 私たちは、神を愛し、互いに愛し合う故に祈るのである
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日曜礼拝 2022年2月13日

2022-02-15 12:53:33 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:コロサイ3:18 - 4:1
説教題:神を敬う家族の生活

導入)
  コロサイの教会の人々に、パウロはイエスが他の神々に勝る存在であることや、モーセの律法を実践しなくても良いことを述べてきました。クリスチャンは、イエスによる新しい創造物としての生き方をするのです。イエスは、裏切られる夜、新しい戒めを与えられました。互いに愛し合いなさいというものでした。(ヨハネ13:34)互いに愛し合うという戒めを実践するもっとも緊密で小さな共同体は家族・世帯です。パウロは新しい戒めが家族でどのように実践されるべきであるかを述べています。


本論)
妻たち
  パウロが何故妻への語り掛けから始めたのかは定かではありません。可能な説明としては、コロサイの教会では特に妻たちが問題を起こしていたからだというものや、同じ時期に書かれたエペソ人への手紙でも、構成上の理由から妻への語り掛けから始められているので、それに合わせたのだというものが有ります。その手紙では、キリストの花嫁としての教会への言及が要点になっていたために、妻への語り掛けから始まっています。
  夫に従いなさいという指示が与えられています。従いなさいという語は、上官の命令に軍事的行動を整えるために聞き従うという意味が有ります。日常的には、責任を自覚して任務を果たすために自発的に協力する、譲るという意味が有ります。つまり、きちんとした目的が有って従うということになります。神を敬う家族にとっては、その目的は当然神の栄光を現すことになります。ですから、「主にある者にふさわしく」ということになるのです。夫に何でも思うがままにさせるということではありません。

夫たち
  当時の夫は、家族の生殺与奪の権が有りました。今日でも国によっては夫や父が名誉殺人をしたことがニュースになったりします。また、妻を殴るのが当然で、「妻の殴り方」というような本が書かれていたりする国も有ります。しかし、クリスチャンはキリストの新しい戒めによって生きるものです。愛しなさいと訳された語は、心からの感謝と尊敬をもって愛する、気遣いをもって愛するという意味が有ります。そのような態度であれば、決して妻につらく当たるということは起きません。つらく当たると訳された語は、苦々しい憎しみを持つという意味が有り、愛するという行為の正反対の行動を表します。

子供たち
  パウロは、クリスチャンの家庭の子供たちを、会衆の中の責任ある構成員として記述しています。子供が親に従うことは、十戒にも含まれている内容ですので、主に喜ばれることなわけです。両親、すなわち父と母に従うことが求められるのも、旧約の時から変わりません。(箴言1:8等参照)両親の中では、特に権威が有った父親は注意しなければならないということで、パウロは父親への呼びかけを付け加えています。子供を怒らせ落胆させたりしないように導く必要が有ります。それは、クリスチャンの父親が神の良い性質を反映させた存在でなければならないからです。

奴隷たち
  パウロがここで奴隷への指示を加えたのは、当時の世界では、奴隷が人口に占める割合が高く、ギリシャ・ローマ文化においては、家族の一員と考えられていたからです。また、奴隷は必ずしも外国人ではなく、知的水準の高い仕事に従事している者もいました。そうは言っても、奴隷は不公正な扱いを受けることが有り、罰は厳しいものになることがよく有りました。また、奴隷は怠け者であるというのが社会通念でした。それで、パウロは紙面を割いてクリスチャン奴隷への指示を出しているのです。
  奴隷たちの主人は必ずしもクリスチャンではありませんし、酷い扱いをする主人もいたでしょう。それでも、神を敬う心から、主人にも心から仕えなさいというのです。そうすれば、彼らが御国を相続する時、主が報いてくださることを思い出させています。報いが有るということは、裏返せば、手を抜いた仕事をすれば、それだけ報いも小さなものになるということです。そのような評価、裁きをするときには、裁き主であるイエスは公平で依怙贔屓が無いのです。。
  私たちの中には奴隷はいませんが、雇用されて働いており、扱いの難しい上司がいる場合も有るでしょう。その時に、この指示を思い出して適用するのです。

主人たち
  神の裁きに不公正が無いということは、主人たちも心に留めるべきことです。その主に仕えるクリスチャンでもあるのですから、彼らは奴隷を公正に取り扱わなければなりません。もし、自分に部下がいれば、その取扱いが公正でなければならないということにもなります。

まとめ)
  イエスの時代には、ラビが新しい戒めを与えると表明すれば、死刑になったということです。新しい戒めを与えることができるのは神だけであり、そのような行為は神への冒涜だという理由によりました。しかし、神の御子であり、神の言葉であるイエスは、新しい戒めを与えますと言われ、互いに愛し合いなさいと命じられたのです。それに従うために、本日の聖書箇所で示された指示に私たちも従うのです。これらの指示に従う時に私たちが覚えておくべき原則を、以下のようにまとめてみます。

1)すべて神の栄光を現すためにするのだということを意識して行動する
  主に目を留めて考え、行動するのだということは、18節、20節、22節、23節の記述から確認することができます。

2)御国で神からの報いをいただくことを意識して行動する
  奴隷たちへの奨励の中で出てきた表現ですが、すべてのクリスチャンに当てはまります。迫害された牧師が、このことを心に留めて耐えた証が残されています。

3)神の裁きには不公正がないことを意識して行動する
  私たちは、自分達の誤った行動についても報いを受けることになります。ですから、誠実に日々の行動を律し、働くのです。
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日曜礼拝 2022年2月6日

2022-02-06 22:20:41 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ゼカリヤ 9:9 - 10
説教題:ゼカリヤによる救いの福音 (9章全体を扱います。)

導入)
  ゼカリヤはバビロン捕囚から帰還した祭司達の指導的立場にあったイドの孫です。ハガイと同時期に、帰還した人たちの神殿再建事業を励ます預言をしました。聖書に残されている日付を見ると、ゼカリヤは、ハガイが預言を始めた二か月後に預言を始めています。
  ハガイの方は、神殿の礎が据えられた日から、神が民を祝福されるという預言をしました。(ハガイ2:18 – 19)しかし、神殿の再建が進んでも、人々が期待したような平和や繁栄は来なかったようです。それに対して、ゼカリヤは、神の救いの計画はもっと長い展望で考えなければならず、それは、メシアの来臨や終末をも視野に入れるべきものだということを加えながら励ましの預言をしたようです。
  9章は、神がイスラエルの民の救いのためにしてくださることの記述に挟まれて、真ん中にイエスのエルサレム入場の預言が置かれている構造になっています。神の救いの計画について、ゼカリヤはどのように預言したのかを確認してみましょう。


本論)
救い1:神の民を圧迫する者は滅ぼされる(1節―8節)
  ここでは、イスラエルを苦しめた三つの国が出てきます、アッシリヤ、フェニキヤ、ペリシテです。しかし、1節に有るように、主の目は神の民に注がれています。(神の民が主に目と留めているという訳も可能なようです。)ですから、神の救いが神の民に与えられるのです。
  逆に、神の民を圧迫する者は、知恵、財力、誇りに目を向けています。フェニキア人は、自分達の交易によって得た財力や、戦略的な城壁の建設などの知恵を誇っていました。ペリシテは、アブラハムの時代からずっとその地域を支配してきた歴史的な誇りが有りました。しかし、神の前にはそのようなものは用をなしません。
  7節には興味深い記述が有ります。エクロンもエブス人のようになるというのです。エクロンというのは、ペリシテの5大都市の一つです。エブス人のようになるというのは、どういうことでしょうか。エブス人は、ダビデがエルサレムを攻め落としてダビデの町とするまで、その地域を支配していた民族です。異邦人でしたが、後にユダ族に同化していきました。神の救いの計画には、異邦人の救いが含まれていることが、ここにも示されていることになります。
  その後、神殿が完成すれば、神はそれを守って、敵がそこを通らないと8節には記されています。第二神殿の場合は、アレクサンダー大王がエジプトを攻めた時に、エルサレムを通過せず、帰還する時でさえエルサレムを攻撃しなかったということがその成就と思われます。

救い2:救い主が平和の王として来て、治める(9節-10節)
  シオンの娘、エルサレムの娘という表現はイスラエルを擬人化したものです。民は、偉大な王が来るので大いに喜ぶのだということです。9節に記された、王が来るその有様は、イエスのエルサレム入城の有様と同じです。ゼカリヤの記述を知っていれば真似できるではないかと思うかもしれませんが、親子のロバを一度に貸し出してくれる人はそういるものではありません。小ロバを表す語は、まだ背中に荷物を負った経験が無く、母ロバの後をついて行く時期のロバを指します。ですから、用途が不明で、もしかしたら勝手に売り払われてしまうのではないかと警戒されて断られてもおかしくありません。預言の成就として見るべきところです。
  10節の記述は、ユダヤ人の南北王朝が再統一されることを示唆しています。二つの王朝から戦いが無くなるのです。更に、そのことは、異邦人への救いをも示唆していると考えられそうです。この頃には、北王朝の領土には、アッシリヤが入植させた五つの民族が住んでおり、既に異邦人の地と考えられるべき状態でした。それが、再び神の民として統合されると考えられます。そして、その後の領土は地の果てにまでいたるのです。現在のキリスト教の宣教拡大が、その成就と考えられます。

救い3:神の民は解放され、祝福される(11節-17節)
  あなたという二人称は、イスラエルの民のことです。彼らに救いがもたらされる理由は、血の契約が有るからです。民族としてイスラエルは出エジプトの時に神と血の契約を結んでいます。(出エジプト24:8等)そして、イエスは聖餐式の制定の時に、新しい救いの契約の血であることを宣言されています。
  この箇所が示す救いはどのようなものでしょうか。水のない穴の描写が有ります。ヨセフやエレミヤが投げ込まれた、枯れた井戸や水溜めのイメージです。助が来なければ確実に死ぬ状況です。それが、罪に捕らわれた魂の姿です。しかし、イエスがそこから救い出してくださるのです。たとえ捕らわれているようでも、神に望みを置く者が、神への礼拝に心を向ける時、神が二倍のものを返してくださると宣言されています。解放されることと、祝福されることの二つの面が、二倍と表現されています。
  15節の表現は、敵が滅ぼされて血を流すことを示していますが、同時に、神殿の礼拝の描写が重ねられています。神の救いが、民の信仰と礼拝を通してもたらせることを示しています。16節では、その結果、敵が攻めて来る日にも、神の民は守られと述べられています。エルサレムは神にとっては特別で王冠のような場所であり、そこに住む神の民は、その宝石のように神の目に尊いのです。17節は、祝福として、繁栄が与えられることと、霊的な力が与えられることを示しています。穀物とブドウ酒は、繁栄の象徴です。若者だけが祝されるのではありません。ここでいう若さは、神の霊的な祝福と力を示しています。(詩編103編5節等参照)

まとめ)
  導入で確認しましたように、9章は平和の王の入城の預言を真ん中にして、その前後に具体的な出来事を配置しています。それは、救い主が来ることこそが、その救いと祝福の重要なポイントなのだということを示しています。どんなに敵から守られても、国が再統一されても、繁栄が有っても、救い主の到来が無ければ意味が無いのです。イエス・キリストの最初の来臨が無ければ、人類の救いは無かったのです。そして、感謝なことに、私たち異邦人にも、神の救いが拡大されることが、この預言にも三回に渡って記されている大事な要素だと理解できます。(7節、10節、13節)主をほめたたえましょう。
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