礼拝音声
聖書箇所:6:28-32, 8:23-27, 14:22-32, 16:5-12, 17:19-20
説教題:「信仰の薄い」の考察
導入)
「信仰の薄い」という表現はマタイによる福音書にイエスが弟子たちに語りかけている言葉として5回出て来ます。「信仰の薄い」という言葉の印象はどんなものでしょうか。自分も信仰の薄い者だと恥ずかしいような気持ちになる、あるいは、弟子たちの信仰はだめだなという裁くような気持ちになるということが有るかもしれません。マタイは、直接イエスからこの言葉を聞いた弟子たちの一人でした。神はこのマタイの記録を通して、私たちに何を伝えようとしているのかを見てみましょう。
本論)
「信仰の薄い」の定義
原文ではオリゴピストスという単語で表現されています。複合語で、オリゴス、「小さい、少ない、少量である」という意味の語と、ピストス「信仰」という語が結合しています。不十分な信仰、小さすぎる信頼という語感になります。それは、パリサイ人や律法学者のように信仰が無いということではありません。私たちにも、信仰が不十分であったり、神への信頼が小さ過ぎると感じる時が有るのではないでしょうか。
「信仰の薄い」状態になる原因
1)生活の心配(6:28-32)
山上の垂訓の一部です。私たちは衣食のことで心配することは殆ど無いかもしれません。それでも、家計の心配、失業の心配、良くない人間関係等が心を煩わせることが有るのではないでしょうか。イエスは、私たちの注意を私たちに心を配ってくださる神の恵に向けさせようとしています。信仰を十分に働かせましょう。
2)死の恐怖(8:23-27)
波が船にかぶされば、水が溢れて沈むことが有るかもしれません。嵐の湖では、泳げる人でも溺れるかもしれません。その船にはイエスが同乗していたのに、イエスが彼らを守ってくださると考えることができませんでした。神の守りが有るにしても、私たちのこの世の命はいつか終わるのです。それはタイミングの問題でしかありません。私たちがこの世を去る時には、イエス・キリストの恵によって私たちの魂は神の国に迎え入れられるのです。信仰を十分に働かせましょう。
3)環境への恐怖・疑い(14:22-32)
もう一つの嵐のガリラヤ湖での出来事です。水の上を歩くイエスを見て弟子たちは幽霊だと思い、恐れました。イエスは、「わたしだ、恐れることは無い」といわれました。その言葉に勇気を得たのでしょうか、ペテロが、もしイエスならば、水の上を歩いてここまで来るように命じてくださいと言い、来なさいと言われて水上歩行を始めましたが、間もなく沈み始めてしまいました。風を見てこわくなったということです。イエスはずっとそこにいらっしゃいました。波風は、その前からずっと荒れていたのです。実際に変わったのは、ペテロの心持ちであったと思われます。イエスは、なぜ疑うのかと言われました。疑うと訳された語は、ある物事を、本当ではない、確実ではないかもしれないと考えるという意味が有ります。風を見て、本当は水の上を歩き続けられないのではないか、呼ばれた方はイエスではないのではないか、などと思ってしまったのかもしれません。環境に惑わされず、イエスに目と留め続けて、信仰を十分に働かせましょう。
4)キリストの権威と心配りへの不十分な信頼 (16:5-12)
イエスは五千人の給食と四千人の給食の奇跡を通して、ご自身が約束のメシアであることを証明しました。モーセと同様の偉大な預言者が来る時、その人に従いなさいと預言されています。(申命記18:15参照)モーセの時は、人々の知らないうちに天からマナが下りて来ました。同様に、イエスは弟子たちがパンの一欠片も持っていなくても、必要とあればパンを作り出すことはできるお方でした。イエスは創造の神です。そういう信仰が薄かったので、パリサイ人のパンだねに気をつけなさいと言われた時、見当違いな議論をすることになりました。信仰を十分に働かせましょう。
5)弟子に与えられた権威への不十分な信頼(17:19-20)
悪霊を追い出すことは、イエスが弟子たちに与えられた務めの一部でした。(10:8参照)そのご命令を実行に移す権威はイエスによって与えられていたことは明白でした。しかし、弟子たちはそれを十分に信頼しなかったために、悪霊を追い出せない場面が有ったのでしょう。その時、彼らは、イエスの力と権威よりも自分の弱さに目を留めていたのかもしれません。今日でも、私たちは必要をであれば、イエスの権威によって悪霊を追い出すことができます。信仰を十分に働かせましょう。
「信仰の薄い」の後に来るもの
イエスは叱責の言葉を無駄にかけられたのではありません。展望や目標を持っておられました。信仰の薄いという指摘は、より深い信仰と弟子の歩みへの招待でもありました。弟子たちは、イエスへの信仰を深めて行ったのです。そのことを認めるイエスの言葉は、ペテロの信仰告白への賞賛の言葉(16:17-19参照)や、大宣教命令に現れています。(28:18-20、使徒行伝1:8参照)イエスの働きを任せるに値する信仰を持った弟子たちと認め、送り出すことがその展望であり目標でした。それが実現して行く様は、使徒行伝に見出すことができます。弟子たちは死に至るまでイエスに忠実にその務めを果たしました。
まとめ)
「信仰の薄い」という言葉は、私たちに対する叱責のように感じることが多いでしょう。そのように感じる時に、三つのことを心に留めていただきたいと思います。
1)それでも私たちには信仰が有るのだということを認識する
信仰が薄いと感じる時に、失望するべきではありません。私たちは、検定試験に合格しなかったら、合格するまで、あるいは基準に達するまで何度でも受検します。同様に、私たちは、信仰を持っているのですから、それが深まるように努力し続けるのです。
2)自分の信仰の薄い時の原因を明確にする
自分の信仰が薄いと感じる時、私たちは、その原因を明らかにする必要が有ります。自分の考えを吟味し、どのような不信仰の思いが有ったのかを確かめます。その不信仰の思いを、聖書の言葉によって退けましょう。イエスへの信頼を宣言し、霊的な助けと力をいただけるように祈りましょう。また、悪霊の働きが有ると感じられる時には、イエスのみ名の権威によって退けましょう。
3)イエスが私たちのために設けられた将来の目標に目を留める
「信仰の薄い」という言葉をかけた時、イエスは弟子たちに敗北者のレッテルを貼ったわけではありませんでした。むしろ、彼らを将来の信仰の深みに招待されたのです。イエスは将来に向けて、彼らがどのように信仰を深め、イエスの証人として歩むかをご存知でした。同様に、イエスは私たちが霊的に成長し、信仰を深めることを望んでおられます。私たちはどのようなところまで信仰を深めることができるかはわかりません。しかし、いつも、イエスが私たちの信仰が深まることを期待し、その実現を楽しみにしていてくださることを心に留めるべきです。また、私たちは天国で受け継ぐ報酬という希望を持っています。その希望をもって、信仰の深化のために努力していくことができます。
聖書箇所:6:28-32, 8:23-27, 14:22-32, 16:5-12, 17:19-20
説教題:「信仰の薄い」の考察
導入)
「信仰の薄い」という表現はマタイによる福音書にイエスが弟子たちに語りかけている言葉として5回出て来ます。「信仰の薄い」という言葉の印象はどんなものでしょうか。自分も信仰の薄い者だと恥ずかしいような気持ちになる、あるいは、弟子たちの信仰はだめだなという裁くような気持ちになるということが有るかもしれません。マタイは、直接イエスからこの言葉を聞いた弟子たちの一人でした。神はこのマタイの記録を通して、私たちに何を伝えようとしているのかを見てみましょう。
本論)
「信仰の薄い」の定義
原文ではオリゴピストスという単語で表現されています。複合語で、オリゴス、「小さい、少ない、少量である」という意味の語と、ピストス「信仰」という語が結合しています。不十分な信仰、小さすぎる信頼という語感になります。それは、パリサイ人や律法学者のように信仰が無いということではありません。私たちにも、信仰が不十分であったり、神への信頼が小さ過ぎると感じる時が有るのではないでしょうか。
「信仰の薄い」状態になる原因
1)生活の心配(6:28-32)
山上の垂訓の一部です。私たちは衣食のことで心配することは殆ど無いかもしれません。それでも、家計の心配、失業の心配、良くない人間関係等が心を煩わせることが有るのではないでしょうか。イエスは、私たちの注意を私たちに心を配ってくださる神の恵に向けさせようとしています。信仰を十分に働かせましょう。
2)死の恐怖(8:23-27)
波が船にかぶされば、水が溢れて沈むことが有るかもしれません。嵐の湖では、泳げる人でも溺れるかもしれません。その船にはイエスが同乗していたのに、イエスが彼らを守ってくださると考えることができませんでした。神の守りが有るにしても、私たちのこの世の命はいつか終わるのです。それはタイミングの問題でしかありません。私たちがこの世を去る時には、イエス・キリストの恵によって私たちの魂は神の国に迎え入れられるのです。信仰を十分に働かせましょう。
3)環境への恐怖・疑い(14:22-32)
もう一つの嵐のガリラヤ湖での出来事です。水の上を歩くイエスを見て弟子たちは幽霊だと思い、恐れました。イエスは、「わたしだ、恐れることは無い」といわれました。その言葉に勇気を得たのでしょうか、ペテロが、もしイエスならば、水の上を歩いてここまで来るように命じてくださいと言い、来なさいと言われて水上歩行を始めましたが、間もなく沈み始めてしまいました。風を見てこわくなったということです。イエスはずっとそこにいらっしゃいました。波風は、その前からずっと荒れていたのです。実際に変わったのは、ペテロの心持ちであったと思われます。イエスは、なぜ疑うのかと言われました。疑うと訳された語は、ある物事を、本当ではない、確実ではないかもしれないと考えるという意味が有ります。風を見て、本当は水の上を歩き続けられないのではないか、呼ばれた方はイエスではないのではないか、などと思ってしまったのかもしれません。環境に惑わされず、イエスに目と留め続けて、信仰を十分に働かせましょう。
4)キリストの権威と心配りへの不十分な信頼 (16:5-12)
イエスは五千人の給食と四千人の給食の奇跡を通して、ご自身が約束のメシアであることを証明しました。モーセと同様の偉大な預言者が来る時、その人に従いなさいと預言されています。(申命記18:15参照)モーセの時は、人々の知らないうちに天からマナが下りて来ました。同様に、イエスは弟子たちがパンの一欠片も持っていなくても、必要とあればパンを作り出すことはできるお方でした。イエスは創造の神です。そういう信仰が薄かったので、パリサイ人のパンだねに気をつけなさいと言われた時、見当違いな議論をすることになりました。信仰を十分に働かせましょう。
5)弟子に与えられた権威への不十分な信頼(17:19-20)
悪霊を追い出すことは、イエスが弟子たちに与えられた務めの一部でした。(10:8参照)そのご命令を実行に移す権威はイエスによって与えられていたことは明白でした。しかし、弟子たちはそれを十分に信頼しなかったために、悪霊を追い出せない場面が有ったのでしょう。その時、彼らは、イエスの力と権威よりも自分の弱さに目を留めていたのかもしれません。今日でも、私たちは必要をであれば、イエスの権威によって悪霊を追い出すことができます。信仰を十分に働かせましょう。
「信仰の薄い」の後に来るもの
イエスは叱責の言葉を無駄にかけられたのではありません。展望や目標を持っておられました。信仰の薄いという指摘は、より深い信仰と弟子の歩みへの招待でもありました。弟子たちは、イエスへの信仰を深めて行ったのです。そのことを認めるイエスの言葉は、ペテロの信仰告白への賞賛の言葉(16:17-19参照)や、大宣教命令に現れています。(28:18-20、使徒行伝1:8参照)イエスの働きを任せるに値する信仰を持った弟子たちと認め、送り出すことがその展望であり目標でした。それが実現して行く様は、使徒行伝に見出すことができます。弟子たちは死に至るまでイエスに忠実にその務めを果たしました。
まとめ)
「信仰の薄い」という言葉は、私たちに対する叱責のように感じることが多いでしょう。そのように感じる時に、三つのことを心に留めていただきたいと思います。
1)それでも私たちには信仰が有るのだということを認識する
信仰が薄いと感じる時に、失望するべきではありません。私たちは、検定試験に合格しなかったら、合格するまで、あるいは基準に達するまで何度でも受検します。同様に、私たちは、信仰を持っているのですから、それが深まるように努力し続けるのです。
2)自分の信仰の薄い時の原因を明確にする
自分の信仰が薄いと感じる時、私たちは、その原因を明らかにする必要が有ります。自分の考えを吟味し、どのような不信仰の思いが有ったのかを確かめます。その不信仰の思いを、聖書の言葉によって退けましょう。イエスへの信頼を宣言し、霊的な助けと力をいただけるように祈りましょう。また、悪霊の働きが有ると感じられる時には、イエスのみ名の権威によって退けましょう。
3)イエスが私たちのために設けられた将来の目標に目を留める
「信仰の薄い」という言葉をかけた時、イエスは弟子たちに敗北者のレッテルを貼ったわけではありませんでした。むしろ、彼らを将来の信仰の深みに招待されたのです。イエスは将来に向けて、彼らがどのように信仰を深め、イエスの証人として歩むかをご存知でした。同様に、イエスは私たちが霊的に成長し、信仰を深めることを望んでおられます。私たちはどのようなところまで信仰を深めることができるかはわかりません。しかし、いつも、イエスが私たちの信仰が深まることを期待し、その実現を楽しみにしていてくださることを心に留めるべきです。また、私たちは天国で受け継ぐ報酬という希望を持っています。その希望をもって、信仰の深化のために努力していくことができます。