礼拝音声
聖書箇所:詩編103:1 - 5
説教題:忘れるな
導入)
詩編103編は、ダビデの晩年の作であると考えられています。高齢になると不機嫌で頑固になるイメージが有るかもしれませんが、ダビデは感謝に溢れてその思いを綴っています。主をほめたたえることが主題ではありますが、この箇所においては、忘れるなという命令にも重点が有るように思います。どのように主の恵みを忘れることなく、神をほめたたえる歩みをするのかを、この箇所から確認してみましょう。
本論)
1)内に有るものを総動員して主をほめたたえることによって
内に有るものというのは、直截的には内臓を指しますが、意思や感情、更には声や行動をも表す言葉だということです。ですから、自分という存在の全てを動員して、主の恵みを覚えて主をほめたたえることになります。
2)聖なる御名をほめたたえることによって
名前を表す言葉は、名声、誉、記憶、という意味が有ります。ネット検索をすれば、神の御名とされる表現が16程見つかります。ヤーウェ・シャロームは、平和の神。ヤーウェ・イルエは、備えたもう神等です。神がどのような方であり、どのような性質を持っているかを確認し、告白し、信頼することによって、神の恵みを覚え、ほめたたえるのです。祈りのうちに願い事をすることも、神の性質を知り、神に信頼する姿勢の表れであり、御名をほめたたえることになります。
3)主のしてくださったことを思い出すことによって
良くしてくださったこと、という表現は、行動、仕事を表すことができるものです。主が私たちのために行動を起こしてくださったことを意識的に思い出すのです。ダビデが、この部分で忘れない、思い出すということに重点を置いていることは、続く3節から5節に、神のしてくださったことを列挙していることからもわかります。
その筆頭には、神以外には決してすることのできない全ての罪、咎を許してくださったことが来ます。(3節)穴というのは、墓や死を表します。永遠の死と滅びから私たちを救い出してくださったことを指しています。冠をかぶらせるという動作は、取り囲むという意味も有ります、神が恵みとあわれみで私たちを取り囲んでくださるというイメージになります。(4節)次には、願いをかなえられるという意味の表現がされています。願いと訳された語は、飾りという意味も有るということです。神が着せてくださった義の飾りに満足し、喜ぶという雰囲気が有ります。また、若さが回復するような表現がされています。現実的には、肉体の若さは回復することは有りませんから、これは、霊的な若さ、活力のことと言えるでしょう。それが、神の恵みと導きの内に与えられるのです。(5節)
まとめ)
私たちは忘れやすい存在です。否定的なことばかり記憶して悩まされ、神に目を向けられない時も多いのです。しかし、ダビデは、ここで忘れるなと最初に呼びかけています。私たちが、主の恵みを忘れず、神をほめたたえる生活をする方法を再確認します。
1)内に有るものを総動員して主をほめたたえることによって
2)聖なる御名をほめたたえることによって
3)主のしてくださったことを思い出すことによって
聖書箇所:詩編103:1 - 5
説教題:忘れるな
導入)
詩編103編は、ダビデの晩年の作であると考えられています。高齢になると不機嫌で頑固になるイメージが有るかもしれませんが、ダビデは感謝に溢れてその思いを綴っています。主をほめたたえることが主題ではありますが、この箇所においては、忘れるなという命令にも重点が有るように思います。どのように主の恵みを忘れることなく、神をほめたたえる歩みをするのかを、この箇所から確認してみましょう。
本論)
1)内に有るものを総動員して主をほめたたえることによって
内に有るものというのは、直截的には内臓を指しますが、意思や感情、更には声や行動をも表す言葉だということです。ですから、自分という存在の全てを動員して、主の恵みを覚えて主をほめたたえることになります。
2)聖なる御名をほめたたえることによって
名前を表す言葉は、名声、誉、記憶、という意味が有ります。ネット検索をすれば、神の御名とされる表現が16程見つかります。ヤーウェ・シャロームは、平和の神。ヤーウェ・イルエは、備えたもう神等です。神がどのような方であり、どのような性質を持っているかを確認し、告白し、信頼することによって、神の恵みを覚え、ほめたたえるのです。祈りのうちに願い事をすることも、神の性質を知り、神に信頼する姿勢の表れであり、御名をほめたたえることになります。
3)主のしてくださったことを思い出すことによって
良くしてくださったこと、という表現は、行動、仕事を表すことができるものです。主が私たちのために行動を起こしてくださったことを意識的に思い出すのです。ダビデが、この部分で忘れない、思い出すということに重点を置いていることは、続く3節から5節に、神のしてくださったことを列挙していることからもわかります。
その筆頭には、神以外には決してすることのできない全ての罪、咎を許してくださったことが来ます。(3節)穴というのは、墓や死を表します。永遠の死と滅びから私たちを救い出してくださったことを指しています。冠をかぶらせるという動作は、取り囲むという意味も有ります、神が恵みとあわれみで私たちを取り囲んでくださるというイメージになります。(4節)次には、願いをかなえられるという意味の表現がされています。願いと訳された語は、飾りという意味も有るということです。神が着せてくださった義の飾りに満足し、喜ぶという雰囲気が有ります。また、若さが回復するような表現がされています。現実的には、肉体の若さは回復することは有りませんから、これは、霊的な若さ、活力のことと言えるでしょう。それが、神の恵みと導きの内に与えられるのです。(5節)
まとめ)
私たちは忘れやすい存在です。否定的なことばかり記憶して悩まされ、神に目を向けられない時も多いのです。しかし、ダビデは、ここで忘れるなと最初に呼びかけています。私たちが、主の恵みを忘れず、神をほめたたえる生活をする方法を再確認します。
1)内に有るものを総動員して主をほめたたえることによって
2)聖なる御名をほめたたえることによって
3)主のしてくださったことを思い出すことによって