パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2021年12月26日

2021-12-26 21:59:40 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:詩編103:1 - 5
説教題:忘れるな

導入)
  詩編103編は、ダビデの晩年の作であると考えられています。高齢になると不機嫌で頑固になるイメージが有るかもしれませんが、ダビデは感謝に溢れてその思いを綴っています。主をほめたたえることが主題ではありますが、この箇所においては、忘れるなという命令にも重点が有るように思います。どのように主の恵みを忘れることなく、神をほめたたえる歩みをするのかを、この箇所から確認してみましょう。


本論)

1)内に有るものを総動員して主をほめたたえることによって
  内に有るものというのは、直截的には内臓を指しますが、意思や感情、更には声や行動をも表す言葉だということです。ですから、自分という存在の全てを動員して、主の恵みを覚えて主をほめたたえることになります。

2)聖なる御名をほめたたえることによって
  名前を表す言葉は、名声、誉、記憶、という意味が有ります。ネット検索をすれば、神の御名とされる表現が16程見つかります。ヤーウェ・シャロームは、平和の神。ヤーウェ・イルエは、備えたもう神等です。神がどのような方であり、どのような性質を持っているかを確認し、告白し、信頼することによって、神の恵みを覚え、ほめたたえるのです。祈りのうちに願い事をすることも、神の性質を知り、神に信頼する姿勢の表れであり、御名をほめたたえることになります。

3)主のしてくださったことを思い出すことによって
  良くしてくださったこと、という表現は、行動、仕事を表すことができるものです。主が私たちのために行動を起こしてくださったことを意識的に思い出すのです。ダビデが、この部分で忘れない、思い出すということに重点を置いていることは、続く3節から5節に、神のしてくださったことを列挙していることからもわかります。
  その筆頭には、神以外には決してすることのできない全ての罪、咎を許してくださったことが来ます。(3節)穴というのは、墓や死を表します。永遠の死と滅びから私たちを救い出してくださったことを指しています。冠をかぶらせるという動作は、取り囲むという意味も有ります、神が恵みとあわれみで私たちを取り囲んでくださるというイメージになります。(4節)次には、願いをかなえられるという意味の表現がされています。願いと訳された語は、飾りという意味も有るということです。神が着せてくださった義の飾りに満足し、喜ぶという雰囲気が有ります。また、若さが回復するような表現がされています。現実的には、肉体の若さは回復することは有りませんから、これは、霊的な若さ、活力のことと言えるでしょう。それが、神の恵みと導きの内に与えられるのです。(5節)


まとめ)
  私たちは忘れやすい存在です。否定的なことばかり記憶して悩まされ、神に目を向けられない時も多いのです。しかし、ダビデは、ここで忘れるなと最初に呼びかけています。私たちが、主の恵みを忘れず、神をほめたたえる生活をする方法を再確認します。

1)内に有るものを総動員して主をほめたたえることによって
2)聖なる御名をほめたたえることによって
3)主のしてくださったことを思い出すことによって
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日曜礼拝 2021年12月19日

2021-12-19 22:24:17 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:1 ペテロ1:3 - 9
説教題:信仰の希望がもたらすもの

導入)
  本日は第四アドベント日曜日です。アドベントの精神を、今回は1ペテロから確認したいと思います。難しいもしくは厳しい状況に直面している時は、希望を持つことが大事な要素です。スポーツは困難で厳しい訓練の先には、競技会で前よりも良い成績を残せるという希望を持っているので、それを耐えることができます。キリスト降誕の時のユダヤ人たちも、彼らに好意的ではないローマの支配下に有り、メシアの到来を待ち望んで耐えしのんでいました。神の預言は必ず成就するという希望と持って生きていたのです。今日、私たちはキリストの再臨を期待して生きています。アドベントと希望の要素を確認してみましょう。


本論)
  先ず、アドベントの要素の希望について確認します。一つ目は、神と共に生き得る永遠の命の希望です。(三節)二つ目は、それに伴う、天に蓄えられている受け継ぐべき資産が有るという希望です。(四節)これらの希望は私たちに何をもたらすのでしょうか。

1)信仰の希望は神の力による守りをもたらす(5節)
  守りと訳されている語は、英語ではshielded というもので、防御されているという語感です。原義は、軍隊によって守られているというものです。強力に守られていることがイメージできます。そして、その守りは万軍の主である神から来るのです。

2)信仰の希望は喜びをもたらす(6節)
  私たちの霊的な源は、創造主なる神です。私たちは、自身の価値を、「あなたは私の目には高価で貴い。だから、キリストを遣わして身代わりにしたのだ。」と言ってくださる神に見出すのです。その関係に基づいて、永遠の命と永遠の相続が有るという希望が、喜びをもたらさないはずが有りません。
  ペテロが手紙を書き送った教会の人たちは、迫害を経験していましたが、この希望と喜びの故に、それを耐え忍ぶことができたのです。しかも、そのように耐え忍ぶことが、来るべき日には、賞賛と光栄と栄誉になるというのですから、ますますその喜びが増し加えられるのです。(7節)6節の「大いに喜んでいます」という表現と8節の「喜びにおどっています」という表現は、同じ言葉が用いられています。しかし、8節では、「ことばに尽くすことのできない」「栄に満ちた」という表現が加えられて、更に喜びを強調しています。

3)信仰の希望は神への愛をもたらす(8節、9節)
  信仰の希望は、それを与えてくださった神への愛をもたらします。神が、私たちを滅びから救い出してくださったからです。その偉大な恵みの故に、ペテロの手紙を受け取ったクリスチャンたちは、イエスと顔を合わせたことは無かったのですが、イエスを愛していました。同様に、私たちも、信仰と聖霊の働きによって、一度も顔を見たことのないイエスを愛しているのです。ペテロは、そのような愛を持っていることが、魂の救いを受けている証明なのだと述べています。魂の救いを受けているという部分は、進行時制で、天国という信仰の完成に向けて前進していくイメージになっています。


まとめ)
  信仰の希望がもたらすものを自覚して、イエスの再臨を待ち望んでいる、私たちのその態度が、アドベントの態度でもあるのです。
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日曜礼拝 2021年12月12日

2021-12-12 17:43:27 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヨハネ1:9 - 13
説教題:アドベントの姿勢

導入)
  本日は第三アドベント日曜日です。アドベントという言葉はラテン語に由来し、到来を意味します。この期間、私たちはキリストの第一回目の到来であるクリスマスを祝う備えをするだけでなく、第二回目の到来である再臨への期待も持って供えます。更に、私たちは日常生活におけるキリストの臨在という到来を期待して生きる必要が有ります。私が見たウィキペディアでは、「クリスチャンは三つのキリストの到来について語る。すなわち、人となってベツレヘムに生まれた到来、日常生活の中で心にいらっしゃるという到来、世の終わりに栄光を帯びて再臨される到来である。」という内容の説明がされていました。こうして見ると、我々のアドベントの姿勢というものは、クリスマスに限定されたものではありません。アドベントの姿勢をいつも持っていなければなりません。具体的にはどのような姿勢であるかということを、本日の聖書箇所から考えてみましょう。


本論)
1)私たちは、キリストに対する渇望を持っていなければならない
  9節の、光の到来の宣言は、イエスを受け入れたユダヤ人たちには大いに興奮を呼び起こすものであったことでしょう。彼らは、救い主の出現を千年以上も待ちわびていました。旧約聖書には、救い主の到来の預言が百以上記録されています。それは、最も偉大な神の約束でした。それは、人類に対する神の愛の頂点です。
  キリストに従うものである私たちも、日常生活において同様の渇望を持ち続けることが必要です。その姿勢は、イエスの臨在を求め歓迎する気持ちを表明すること、イエスが私たちの主であることを告白すること、神の言葉に従う力を祈り求めることなどで表すことができます。主の祈りを頻繁に祈ることもその実践と考えられるでしょう。

2)私たちは、キリストを受け入れ、従順する備えがなければならない
  10節、11節を読むと、世の人々がキリストを受け入れなかったことが示されています。彼らは救い主を待ち望んでいたのにも関わらず、実際にキリストを受け入れた者は少数でした。バプテスマのヨハネを見て、この人がキリストではないかと噂をする様子を見れば、彼らがどれだけキリストの出現を渇望していたかがうかがえます。(ルカ3:15参照)にも関わらず、バプテスマのヨハネがイエスを指示した時、皆がイエスに従って行こうとしたのではありませんでした。彼らには、神に与えられた恵みと祝福がわからなかったのです。
  キリストに従う者である私たちは、キリストを受け入れ、従順する備えができていなければなりません。多くのユダヤ人たちは、イエスが、自分たちの考える救い主の概念と合わなかったために、イエスを受け入れることができませんでした。しかし、私たちはキリストを私たちの小さな考えに押し込めて限定してはいけないのです。そのような態度が私たちの中に有れば、私たちは日々の歩みの中で神の恵みを十分に体験することはできません。イエスがどのような方であるかを、聖書を通してよく理解することに努め、その教えに従って行くのです。

3)私たちは、積極的にキリストの恵みを探し求め、体験しなければならない
  先に、世はキリストを知らなかったとヨハネは述べましたが、ある人達はキリストを探し求めて受け入れ、その名を信じた、すなわち、キリストであると信じました。その信仰が、恵みと永遠の命への扉を開いたのです。その信仰を通して、キリストは私たちに神の子となる特権を与えてくださったのです。特権と訳された語は、他に、権限を与えること、力という意味が含まれます。続いて13節では、この特権は、私たちの欲求、決断等によって与えられたのではなく、神によって与えられたのだということが示されています。
  そのような体験をした人物の中に、ペテロの兄弟アンデレがいました。彼は神の恵みによって導かれました。同時に、バプテスマのヨハネがキリストを指し示した時、直ぐにキリストについて行く積極的な姿勢を示しました。(ヨハネ1:35-44参照)
  私たちの場合はどのような行動になるでしょうか。信仰によって歩むこと、神の恵みを数えること、意識してキリストの教えを守ること等でしょう。私たちは、聖書を読み、祈ることによって聖霊の交わりを持たなければなりません。それは、面倒なことと思われるでしょうか。実際に行動すれば、面倒だと感じることも有るでしょう。その時は、特にアドベントのこの時には、東方の博士たちのことを考えてみましょう。彼らは赤子のイエスに会うために、遥々旅をしてエルサレムまで、そして、ベツレヘムまで来たのです。そして、イエスを彼らの王、また神として拝んだのです。その結果、彼らは喜びに満たされて帰途につきました。その一方で、ベツレヘムに住んでいた人たちは、救い主が近くにいることを知らなかったのです。私たちは、東方の博士たちのような期待と積極性をもってキリストを探し求める必要が有ります。探し求めれば、探し求める程、更に神の恵を見出すことになるでしょう。


まとめ)
1)私たちは、キリストに対する渇望を持っていなければならない
  キリストに対する渇望を持つとはどのようなことでしょう。キリストの力によって生きたい。キリストに従う者として歩みたい。神の恵みをもっと見たい。そのような思いを持ち続けることも、そういう態度の現れではないでしょうか。

2)私たちは、キリストを受け入れ、従順する備えがなければならない
  キリストはどのような方か、その教えはどのようなものかを考えると、受け入れ難いと感じる時も有るかもしれません。しかし、キリストは創造主であり、私たちは被造物です。単純に受け入れ、お従いするしかないのです。

3)私たちは、積極的にキリストの恵みを探し求め、体験しなければならない
  神の子となる特権を与えられた者として、日々の生活の中でキリストを探し求めて行きましょう。主のみ言葉を訪ね求め、祈ることを通して、神の恵みを更に体験して行きましょう。神の恵みによって、私たちの永遠の命は既に始まっているのですから。
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日曜礼拝 2021年12月5日

2021-12-07 21:56:39 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:1歴代誌 4:9 - 10
説教題:ヤベツのようにいのる

導入)
  2000年出版の「ヤベツの祈り」という本は、これまでに一千万部以上売れたということです。一方、この本におけるヤベツの祈りの取り上げ方は、繁栄の神学に結び付けられているという批判も出ました。
  真面目に聖書的福音的信仰を目指す者として、この箇所はどのように理解できるのか見てみましょう。

本論)
  歴代誌は、バビロン捕囚から帰還した人たちに、先祖に恵みを施された神に信頼するように奨励するために書かれたと考えられています。
  2章からは、ユダ族の人たちの系図が記録されています。4章からは、あまり注目されていない系図の本流から外れた人たちが記録されているように思われます。ところが、その中で、記者は突然ヤベツという人物を、父親の名前の紹介も無しに記録したばかりか、この人物の説明のためだけに2節も費やしています。それだけヤベツは重要な人物であったということです。歴代誌の記者は、捕囚から帰還した人々に、それだけヤベツのことを心に留めて欲しいと思ったのです。

9節 ヤベツは兄弟たちより重んじられたとされています。兄弟というのは、親類縁者まで含んだ表現と考えられます。しかし、続く母親の言葉を見ると、彼の人生の初期は惨めなものであったようです。母親の言葉が示す通り、ヤベツという名前は悲しみ、もしくは苦痛という意味が有ります。それは、肉体的な痛みと精神的な痛みの両方に用いられる言葉です。どのような悲しみや痛みが有ったのでしょうか。ある学者は、ヤベツは妾の子だったのではないかと考えます。或いは、ヤベツが生まれる頃には、父親は亡くなっていたのかもしれません。いずれの場合でも、彼の母親の心の苦しみは大きいものであったでしょう。そのような境遇に生まれた子供の生活は、惨めなものであることが多かったのです。それでは、どうして彼が「重んじられる」人物となったのでしょうか。

10節 彼が重んじられることとなった理由は、この節が示しているイスラエルの神に祈ったという部分に有ると考えられます。呼ばわったと訳された語は、大声を出す、音読する、呼びかける、助けを求める等の意味が有ります。おそらく、彼の周囲の人たちは、ヤベツの祈りの声を聞いただろうと思われます。彼が祈りの人であることを、人々は知っていたでしょう。彼の祈りの内容を確認してみます。
  第一に、神の大いなる祝福により、地境を広げることができるように祈りました。ヤベツはヨシュアや士師の時代の人だと考えます。その時代には、ユダヤ人たちは、カナン人たちを追い出して、神に割り当てられた領土を獲得しなければなりませんでした。そうでなければ、ヤベツの願いは意味をなしません。各部族、氏族に割り当てられた土地の地境は、律法によって変更することが禁じられていたからです。ヤベツは欲張りや自己中心の気持ちから祈ったのではありませんでした。彼は、神に与えられた使命を果たしたかったのです。 私の地境と言いましたが、ユダ族全体が協力して戦わなければならない状況でした。この祈りの結果、ユダ族が割り当て地を得ることができたので、ヤベツは重んじられることになったと考えられます。
  第二に、苦しむことのないようにと祈り求めました。苦しみ、悲しみという意味の名を持つヤベツが、神に祈って、肉体的な苦しみや精神的な苦しみから守ってくださるようにお願いしたのです。御手という表現をした時に、ヤベツの思いの中には、出エジプト記の記述などが有ったことでしょう。(出エジプト記13章3節、9節等参照)神の守りと導きの手を信頼し、求めて祈ったのです。
  第三に、わざわいから遠ざけてくださるように祈りました。わざわいと訳された語は、さまざまなわざわいを意味します。土壌が悪い、水質が悪い、災害や大問題、道徳的退廃、悲しみ、不親切、負傷などが含まれます。多くの物事が私たちにわざわいをもたらすことが有り得ます。もちろんそういうわざわいは好ましいものではありません。霊的問題としては、それらが信仰を失わせるような場合も考えられます。だからこそ、守りを祈り求めたのでしょう。その祈りの姿勢は、「われらを試みに合わせず、悪より救いい出したまえ」という主の祈りにも見出されると思います。

  祈りの結果はどんなものだったでしょうか。神は彼の願ったことをかなえられたなっています。かなえると訳される語には、実行に移す、もたらす、来る、下って来る、入る、行く、という意味が含まれます。まるで、神のご臨在が下って来て、彼と彼の祈りの生活に入って来られたと述べているかのようです。そのような祈りの生活をしたヤベツの願いを、神はかなえてくださり、そのゆえに、人々は彼を重んじたというのです。

まとめ)
  ヤベツのように祈るとは、どのように祈ることでしょうか。簡単に以下の三つを挙げておきたいと思います。

1)神だけが苦しみと悪に満ちた世における真の解決である知って祈る
2)神に与えられた使命を果たすことができるように祈る
3)絶えず祈る
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