パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年9月27日

2020-09-29 23:32:44 | 日曜礼拝
本日のビデオ

聖書箇所:エステル 5章
説教題:二通りの生き方

導入)
 4章では、エステルはモルデカイを通して、ペルシャ帝国内の全ユダヤ人を殺す法令が出されたことを知りました。モルデカイの言葉に従って、エステルは、命を失うかもしれなかったのですが、そのようなことが起きないようにするための方法を見つけるために、アハシュエロス王に会いに行くことに決めました。

本論)
1節 三日目にと書いてあります。4章16節に出てくるエステルの指示のように、スサにいるユダヤ人が三日間断食して祈った、その三日目ということでしょう。その祈りに支えられて、エステルは行動を起こす準備ができていました。王に謁見するための美しい王妃の正式な衣装を着ました。4章でも説明しました通り、王の前では悲しい顔をしてはいけませんので、笑顔で王の間の入口に立ったと思われます。
2節‐3節 人々の祈りは聞かれたことがわかります。エステルは王の好意を得たので、死刑にされることなく、迎え入れられました。王が約束をする時に使う、決まり文句を用いて、エステルの願いを適えようと言っています。それは、彼女に三日間の断食の祈りをして神に聞いていただこうという信仰を持っており、また、行動を起こす勇気を持っていたから起きたことと言えます。
4節 ここからは、エステルの別の面が見えてくると思います。彼女は祈りの中で、注意深くどうするべきかを計画したと思われます。この日までに、王を招待するための宴会の準備も済ませていたことがわかります。例え軽食や飲酒が主となる宴会であっても、短時間の内に準備をすることはできないはずです。賢明にすべてを整えてから王の前に来たことがわかります。
5節 王はエステルの申し出を気に入ったことがわかります。ためらうことなく、ハマンを急き立てて宴会に来させるように命じています。「せきたてて」と訳された語は、一語で早く連れてくるという語感の有る語です。
6節 宴会の席で王はもう一度エステルに何が欲しいのかを尋ねます。招かれないのに王の間に行けば、死刑になることも有り得たのですから、エステルが単に宴会に王とハマンを招くためだけに王の間に来たとは考えられません。それで、王は、もう一度約束をする時の決まり文句を用いて、何が望みかを言うように促したのです。
7節‐8節 多くの訳は、エステルが8節の願いを淀みなく答えたようなものになっていますが、原文では言葉が途中で途切れたような不完全な文で、ニュアンスが異なるようです。つまり、王に促されたので、自分の願いを言い出そうとしたのですが、思い止まって、次の日も宴会に来てくださればその時に言うと、言い換えている雰囲気になります。咄嗟の判断か、前もって計画したことかは判りませんが、そんな言い方をすれば、彼女の願いが真剣なものである、あるいは重要なことであることが察せられ、ますますそれが何かを聞きたくなるというものです。記述からは、王がその願いを受け入れたことは明白です。神はエステルとユダヤ人の熱心な祈りを聞かれ、また、エステルの神と民への献身を用いられたことになります。
9節 ハマンは上機嫌でした。それは、王妃エステルが、自分を特別に王と一緒に宴会に招いてくれたばかりではなく、普通は個人的にこっそり話すであろう、エステルの願いについての問答の時にもそこにいることが許されたということがあったかもしれません。それだけ自分が王と王妃に信頼されているのだと考えたのではないでしょうか。しかし、彼の喜びは長続きしませんでした。モルデカイが彼に礼をせず、彼を恐れている様子も見せなかったことで、憤りに満たされました。憤りと訳された語は、激怒、熱、毒という意味が有ります。自分にも他人にも悪い影響の有る性質のものであることがわかります。モルデカイは当然ユダヤ人は全員殺されるという法令が出されたことを知っていました。ですから、その法令を書いたハマンを見て恐れてもおかしくはありませんでした。しかし、そういう期待に反して、モルデカイは何の反応も示さなかったのです。モルデカイは神への信仰を持っている人物であり、ハマンを恐れるようなことは無かったのです。
10節‐13節 この部分に出てくるハマンの言葉が、彼の人となりをよく示しています。彼は自慢を聞いてくれる人が必要でした。彼は自分の富や所有物、政治的な力、王妃の宴会に招かれた特権をひけらかしました。彼の言葉には神は出てきません。彼の満足は肉的なものから来るのでした。そんな性質ですから、自分に礼をしないモルデカイに我慢がならなかったのです。類は友を呼ぶと言いますが、彼の妻であるゼレシュも性根の曲がった人でした。夫の怒りをなだめるようなことはせず、却って、次の宴会の前にモルデカイを殺してしまうことを勧めたのです。提案の柱というのは、20メートル程の長さで、人を突き刺して見せしめになるように高く掲げるためのものでした。20メートルは高過ぎるので、誇張であろうと考えられるようですが、残虐な殺し方であることに変わりはありません。しかし、ハマンはその進言を「気に入った」というのです。ハマンもゼレシュも残酷な人たちでした。神は愛です。しかし、彼らの中には、神はいなかったのです。

まとめ)
 二通りの生き方とう説教題をつけました。すでに皆様はおわかりのことと思います。
1)神を信頼する生き方: エステル、モルデカイ、ユダヤ人たちは、このような生き方をしていました。ですから、彼らは一生懸命祈りました。彼らはまた、ソロモン王と神の間で交わされた約束を信じていました。そのような神への信頼に基づいて、エステルはユダヤ人たちを救うために行動を起こしたのです。

2)神を信頼しない生き方: アハシュエロス王、ハマン、ゼレシュたちは、神を信頼していませんでした。その代わりに、彼らは富、政治的権力、周囲の人たちの誉め言葉に頼っていました。彼らは自慢ばかりしていました。彼らの喜びや平安は神から来るものではありませんでした。ですから、ちょっとしたことでその喜びや平安は失われてしまいました。ハマンは法令が実施される日まで待てませんでした。すぐにでもモルデカイを殺してやりたいと思っていました。彼には愛や憐みの心が有りませんでした。

当然、私たちは、神に頼る生き方をしなければなりません。そういう者の態度はどんなものか、確認したいと思います。

1)彼らは困難な状況で熱心に神に祈った
  三日間継続的に断食の祈りをしました。共同の祈り、公同の祈りがささげられました。一致して祈っていくことは大事です。また、実際に行動を起こす前に先ず祈るべきです。ネヘミヤも、2章4節で、王に回答する大事な場面で、先に祈ってから回答して、王の好意を得ています。例え、どんな結果になろうとも、私たちは先ず祈ることが大事です。

2)彼らは神から与えれらた知恵と環境を用いた
  モルデカイ、エステル、他のユダヤ人たちは、彼らの持っているものを用いました。エステルの王妃という立場、衣装、態度、知恵をめぐらした計画と準備から、彼女がそれらを用いて最善を尽くしたことを示しています。

3)彼らはこの世の力に頼らなかった
  モルデカイは、ハマンにおべっかを使って取り入ろうとはしませんでした。逆に、ハマンは人にほめられることを求めました。彼は富や地位に頼っていました。クリスチャンはそのような生き方をしてはなりません。本日は、新しい長老と執事が任命される日です。この人たちが、皆さん以上に信仰の姿勢を貫いて神の体なる教会を支えようとしている人たちです。皆様の祈りをもって応援していただきたいと思います。
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日曜礼拝 2020年9月20日

2020-09-21 14:30:35 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:2ペテロ3章1節ー9節
説教題:神の言葉の力

導入)
 この第二の手紙において、ペテロは繰り返し聖書、神の言葉は確かで信頼できることを述べています。(1章19節‐21節、2章4節‐9節参照)3章でも同じ原則が示されています。記述の流れに沿って確認してみたいと思います。

本論)
1節‐2節 手紙の目的 ペテロは「あなたがたの純真な心を奮い立たせるため」だと述べています。奮い立たせると訳された語は、起こす、覚まさせる、波が盛り上がる、心を持ち上げるというような語感が有ります。迫害や偽教師の圧力で落胆しているクリスチャンたちを励ますことが目的だということです。奮い立たせられるべきものは、純真な心です。純真なと訳された語は、日射しのもとで点検されて純粋だとわかった、という語感が有るということです。心と訳された語には、理解という意味が有ります。ここでは、合わせて正しい福音の理解ということになります。
 奮い立たせる方法 ペテロが彼らの心、福音の理解を奮い立たせる方法は、「記憶を呼びさまさせて」ということです。2節に具体的な記述が有ります。彼らが呼びさますべき記憶というのは、みことばと命令です。私たち、現代のクリスチャンにとっては、旧約聖書と新約聖書(福音書)と考えられる内容です。厳密に言えば、それはメシアの到来の預言と義と永遠の命に導くイエス・キリストの教えです。ペテロは、「あなた方のみことばの理解は純粋で正しいのですよ。あなた方の救いは確実なのですよ。」と呼び掛けて励ましていることになります。

3節‐4節 背景 ペテロがこのようなことを書くことになった背景です。終わりの日というのは、複数形で、イエスの到来以降の日々を指します。ペテロはここで、あざける者が来るという部分に未来形を使っています。おそらく、ローマにいたと思われるペテロの周りにはそういう者たちがいたのですが、手紙の宛先の教会ではまだそういう者たちが現れていなかったのでしょう。彼らのあざける言葉は4節に記されています。彼らがしていることは、イエスの再臨を否定することでした。初代教会のクリスチャンたちは、再臨は自分たちの生存中に有ると思ったようです。ペテロがこの手紙を書いたのは、キリストの昇天から30年程経った頃だと考えられています。そして、その頃には亡くなったクリスチャンたちも出てきていました。3節を見ると、あざける者たちは、その事実を悪い自分の欲望を満たすための言い訳や許可のように用いていたのです。2章の偽教師の行状の記述などから、それは、性的不道徳、貪欲などが含まれていただろうと想像できます。彼らは再臨を否定して、罪責や裁きを受けないと考えたのです。私たちも終わりの日(々)に生きています。私たちの信仰をあざけるような人たちが周囲にもいるかもしれません。その人たちによって、私たちが失望落胆することが有るかもしれません。しかし、私たちも聖書の啓示された神のみことばを信頼し信仰を貫かなければなりません。

5節‐7節 反論 ここでペテロは三つのことを指摘します。一つ目は、神は既に一度ノアの時代にこの世を罪に定めて罰を下したことが有るということです。そうであれば、神はみこころの時に何時でもこの世に罰を下すことができるのだということです。二つ目は、この世、現在の天地は、不敬虔な者たちの火による裁きと滅びの日まで一時的に保たれているだけだということです。必ず終わりが来て、それは最後の審判の時となるのです。旧約聖書にもそのような火による裁きの日は預言されています。(マラキ4章1節参照)物質的な世界は永久に同じ状態を保つことはないことを知らなければなりません。天文学者たちは、太陽は今後50億年以内に死を迎えるだろうと言っています。三つ目は、全てのものは神の言葉によって作られたということです。5節は世界が神の言葉によって作られたことを示し、6節は、神のことばによって作られた水によって世界は一度滅ぼされ、7節は、現在の世界も神のことばによって保たれていると述べています。これらすべてを支配しているのは、神のことばということになります。不敬虔な者たちは、それを意識できていないということです。

8節‐9節 補足 ここでペテロは、あざける者の指摘に対する、クリスチャンたちの理解がどうあるべきかを示しています。8節の意味するところは、神は偉大であり、人間には計り知ることのできない存在だということでしょう。神の時間感覚も人間に理解できるものではないのです。線虫は寿命が16日ぐらいだということです。線虫には、最長120年近く生きることもある人間の時間感覚など想像もつかないはずです。人間は神の時間を判断することのできる存在ではないのです。9節には、その代わりに、私たちが心に留めるべきことが二つ示されています。一つ目は、私たちは神のことば、神の約束を信頼しなければならないということです。ここでは、イエスの再臨の約束を信じなければならないということです。二つ目は、神の愛と慈悲に目を留めなければならないということです。9節に出てくる「望んでおられるのです」と訳された部分には、熟考の後に強く望むという意味の言葉が用いられています。そういわけで、何かが遅れているように思われても、それは神の失敗ということではないのです。神は、その慈悲によって、神を求める人がキリストに導かれて救われることを本当に望んでおられるのです。イエスの再臨はより多くの人を天国に迎え入れるために注意深く計画されているのです。旧約聖書を見てもその様子は表れています。神は繰り返し預言者を送ってユダヤ人が神に立ち返るように呼びかけました。ヤコブとヨハネが、イエスを受け入れないサマリヤ人を見て、「天から火を呼び下しましょうか。」とイエスに尋ねた時も、諫められています。(ルカ9章53節‐55節参照)

まとめ)
今回はいつもと違ったまとめ方をしてみたいと思います。

 先ず、神の言葉の力に注目をしてみたいと思います。ペテロの記述の順番で、神の言葉が何をしているのかを見てみましょう。
1.聖霊を通し、預言者を通して神の救いの計画を伝えた。2.神のことばと呼ばれるイエスと使徒を通して、救いの道を示した。イエスは旧約聖書に約束された救い主です。イエスを信じるということが、神の業をすることになるのです。そうすれば、イエスの血があなたを義とし、永遠の命が与えられるのです。3.天と地を創造した。水を作り、世界を作ったことが示されています。「光あれ」という神の言葉で光が有ったと創世記には記されています。4.洪水で世界を滅ぼした。水は創造の業であり、水による裁きもノアを通して啓示されました。5.今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれています。それは、イエスの再臨と裁きの約束のことばに基づいているのです。

ペテロが示した神のことばの力から、更に次のようなことが読み取れると思います。
1.神は全能であり、同時に慈悲の神でもあります。
2.神とその約束を信頼すること。
3.神のことばを良く知ること。ペテロは、人々の純粋な福音の理解を奮い立たせようとしました。私たちも、いろいろなこの世の声に落胆することが有るかもしれません。その時、自分自身を正しい福音の理解で奮い立たせなければなりません。
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日曜礼拝 2020年9月13日

2020-09-13 18:56:46 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書朗読:2ペテロ2章1節~12節
説教題:主は敬虔の者たちを救い出される

導入)
 1章で、ペテロは自分の証言は確かであるが、たとえそうでなくても、聖書の言葉は信頼するべきであることを述べています。そして、その聖書の解釈についての警告を20節、21節で述べました。その警告に基づいて、2章では、聖書を自分勝手に解釈する偽教師についての警告を述べています。2章の内容を整理すると、1)異端をひそかに持ち込む偽教師に気をつけよ 2)彼らをその性質で見分けよ 3)敬虔な者を救い出し、不敬虔な者を罰する神を信頼せよ という三つのポイントに分けられると思います。

本論)
1)異端をひそかに持ち込む偽教師に気をつけよ
  イエスも偽預言者の出現を警告しています。(マタイ7章15節参照)使徒パウロも偽教師に気を付けるように警告しています。(ピリピ3章2節等)ペテロは「気をつけなさい」という表現をしていませんが、その意図は明確です。ペテロはここで気をつけるべき三つの理由を示しています。一つ目は、彼らがひそかに入ってくるからです。同じ信仰を持つ者のようにして入ってきますし、同じ聖書を用います。気をつけていなければ、そういう人たちを識別することはできません。二つ目は、滅びをもたらすからです。滅びと訳された語は、喪失・損失に直面すること、殺すこと、等の意味が有り、新約聖書では永遠の破滅、地獄での永遠の悲惨な様子にも用いられます。また、それが、そのような破滅に苦しむ人物自身の意思や過ちに起因するという感覚が含まれます。彼らの持ち込む異端はどうしてそんなにも破滅的なのでしょうか。それが三つ目の理由です。それは、彼らが主を否定するからです。イエス・キリストの十字架の血によって買い取ってくださった神を否定するというのです。そのようなことをしておいて、どうして破滅を免れることができるでしょうか。主を否定することの実例としては、イエスの十字架の贖いによる救済計画は失敗したとか未完成だとかいう主張が有ります。だから、別に完成者が必要だとか言いだすのです。あるいは、十字架の贖いに加えて特別な経験が必要だとか言いだすのです。一体、神が失敗することが有り得るでしょうか。少し落ち着いて考えてみれば、解るはずです。そうできるように、気をつけている必要が有るのです。

2)彼らをその性質で見分けよ
  偽教師は教会にひそかに入り込むとすると、私たちはどうやって彼らを識別することができるのでしょうか。2章において、ペテロは幾つものヒントを示しています。一つ目は、先にも示された通り、主を否定するということです。教義的な間違いを持ち込みます。イエスは人間であって神ではなかったとか、その逆に、神が人間になれるわけがないので、幻影が用いられたのだ、等の主張もその一部です。二つ目は、彼らが肉的な欲望を満たそうとするということです。貪欲だったり好色だったり威張り散らしていたりするのです。それらは、神以外のもので満足を得ようとする偶像礼拝です。三つ目は、謗る、悪口を言うということです。10節や12節にそのことは示されています。これらの指摘をしながら、ペテロはマタイ7章のイエスの警告を思い出していたことでしょう。彼らの行状が悪いだけでなく、人々を正しい教えから迷い出させるのが更に悪い点です。2節、14節、18節参照。彼らは、自分たちが他の教師よりも偉大であるかのように振る舞います。そして、ある人たちは騙されてついて行ってしまうのです。自分たちに破滅を招くばかりでなく、他人までその破滅に巻き込んでいるのです。
 人々が彼らについて行くべきでないことを示すために、ペテロは更に彼らについて行くことがどれだけ無意味であるかを説明しようとしています。一つ目は、彼らは賢者のように振舞いますが、獣よりも愚かで無思慮であるということです。(12節)バラムのロバの話への言及は、ペテロの皮肉だと思われます。偽教師は、旧約の偽預言者バラムと同様に金銭的な欲にまみれていました。何度も神が出かけないように伝えたのに、欲に目がくらんでロバに乗ってでかけました。獣であるロバに諫められなければならなかったとは、獣以下ではないかというわけです。二つ目は、彼らは水の無い泉のような存在だということです。泉や井戸をみつけたならば、さわやかな真水が汲めることを期待するのは当然です。偽教師は何か素晴らしいものを提供できる存在のようなふりをしますが、実際には何の霊的な利益も与えることはできません。風に吹き飛ばされる霧にも例えられています。霧が出れば、湿度が上がって雨も降るかもしれないという期待を持たせます。しかし、きちんとした水源がなければ、風に吹き飛ばされてしまいます。雨を期待した人はがっかりするわけです。そして、彼らの教えは試練に耐えない程度のものだということになります。彼らは自由を約束しますが、実際には罪の生活様式に迷い出させるという部分がそれに当たるでしょう。(17節)三つ目は、彼らは罪や悪を離れるかのように教えながら、実際にはそれに立ち戻っているということです。犬に関する諺が用いられています。犬が吐いたのは、食べた物が体に毒だったからです。せっかく、体を整えるために吐き出したのに、もう一度そこに戻って食べるとしたら、それは大変愚かしいことです。そんな愚かな行為を一緒にしたいですか、という問いになっているわけです。一つお断りしておきますと、偽教師はここに出ているような性質の全てを持ち合わせているとは限りません。例えば、エホバの証人の人たちは、イエスの神性を否定するので、主を否定するという部分が当てはまりますが、品行方正で不道徳な部分は有りません。その代わり、自分の罪の自覚はあまり無く、正しくて立派な自分という神にない誇りを持っていたりします。
 さて、見分けよという勧めなわけですが、どうしたら見分けられるようになるのでしょうか。聖書をよく確認し、クリスチャンの性質はどうあるべきなのかということを確認する必要が有ります。見聞きしたことを、時には立ち止まって吟味し、果たしてそれが聖書的な教えや行いなのかどうかということを、慎重に確認しなければなりません。

3)敬虔な者を救い出し、不敬虔な者を罰する神を信頼せよ
  教会にも偽教師がひそかに入ってくることがあり得るのだと考えると、不安になるかもしれません。しかし、神の言葉は確実であり、成就するのです。そして、神ご自身が私たちをどのように救い出すべきかをご存知なのです。(5節―7節参照)そこに書かれているノアやロトの模範に倣うことが必要です。ノアは、神の御心に適った正しい生き方を人々に示し、勧めていたと思われます。神を恐れることを勧めることもしていたでしょう。創世記3章に示されている救世主の到来を信じていたと思います。ロトは、当時の人々の堕落した生き様に失望し、悩まされていました。ロトは町の門の所にいて、そのことでも謗られていますから、人にアドバイスをするような立場になっていたのかもしれません。ノア同様に、正しい生き方を人々に促していたかもしれません。 
  私たちも、この世の乱れた様や社会的腐敗に落胆することが有るかもしれません。私たちは世相を残念に思うと同時に、神が介入して導いてくださるように祈ることもしていかなければなりません。私たちは、私たちを助けてくださり、義の中に保ってくださる神に望みを置くのです。私たちはイエス・キリストによる義以外のものによって良い存在になろうとしたり、義を追い求めようとしたりはしません。イエスの義をいただいたのですから、神の目から見て最高の状態をいただいたのです。にも拘わらず、人間的なものを頼んでより良い存在になろうと努力をするならば、主を否定し、22節に出てくる犬や豚のような生き方をしていることになるのです。

まとめ)
1)異端をひそかに持ち込む偽教師に気をつけよ
  この命令は第一に、イエスから出ているのです。ですから、気を付けなければなりません。また、偽教師はひそかに入ってくるというのです。気づかれないようにして入って来ようとする者が存在することが判っているならば、気を付けていなければなりません。
  実際に自分たちの教会に人が入ってくることだけではありません。注目を集めている出版物やその著者、その教えの中にも間違った教えが混入している時が有ります。そういう部分でも警戒する心をいつも持っていることが大事です。

2)彼らをその性質で見分けよ
  観察していれば、いずれは罪の性質に根差した行動や教えが見えてくるでしょう。教えや行いに注意を払っていましょう。牧師の留守を預かった説教者の教えが怪しいということで、長老がその教えを正したところ、「聖書に何と書いてあろうと」などと反論してきて、馬脚を現した偽教師のレポートを読んだことが有ります。
  私たちは、見分けるためにも、聖書をよく読まなければなりません。古物商は、本物のブランド品をしっかり観察することで偽物を見分けています。1章3節から11節に示されているようなクリスチャンの徳をよく心得、その逆と思える教えや行動がすぐ感知できることが必要です。

3)敬虔な者を救い出し、不敬虔な者を罰する神を信頼せよ
  神は偽教師を罰せずにはおかれません。また、神は必ず義とせられ敬虔な生き方をしようとする者を救い出してくださいます。神は、この邪悪な世から救い出してくださいます。神のみ言葉が私たちの人生の歩みの灯です。神からいただいた義にだけ目を留めましょう。1章の5節では、あらゆる努力をするようにと勧められています。また、1章8節、10節では、私たちのクリスチャンとしての成長が保証されているのですから。
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日曜礼拝 2020年9月6日

2020-09-06 16:00:40 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:ホセア10章9節~12節
説教題:あなたは正義の種を蒔け

導入)
 ホセアは紀元前750年から720年の間に活動した預言者と言われています。彼は存命中にアッシリヤの捕囚が有ったと思われます。彼は人々に偶像礼拝を捨てて神に立ち返り、神の平安と愛の中で生きるように呼び掛けています。このような原則は繰り返し聞いていることでありますが、繰り返し思い出す意義が有ることです。今回の聖書箇所では、どのようにそれが表現されているか、確認してみましょう。

本論)
 ホセアは神の裁きと罰が有ることを宣言しています。ホセア書の印象は否定的で暗いものです。それは、神の裁きと罰が繰り返し述べられているからです。その裁きと罰の理由は何でしょうか。1節や11節を見ると、イスラエル人は神の恵みによって繁栄と安寧を楽しんでいた様子が述べられています。11節の「飼いならされた雌の子牛」という表現から、彼らは神の言葉によく従っていたことがわかります。麦打ち場踏むというのは、脱穀の作業でないかと思われます。それは比較的楽な仕事なうえに、合間に麦わらや穀物を食べることも可能でした。恵まれた環境を表現していると思われます。彼らはその時は神の戒めと恵みを喜び楽しんでいたのです。
 しかし、1節も11節も後半になると事が悪い方に向かっています。1節の石の柱は、バアル礼拝に関係有るものと考えられます。11節では、くびきが掛けられるようになり、作業も重労働となる耕作に変わります。それは、神が彼らをアッシリヤの圧迫に委ねたことを示しています。
 10節には「二つの不義」という記述が有ります。幾通りかの解釈が可能かもしれませんが、イスラエルを偶像礼拝に導いたものとしてすぐに連想されるのは、ベテルとダンに置かれた金の子牛像ではないかと思われます。イスラエルが北王国と南王国に分かれた時、北王国のヤロブアムが、人々が南王国に有る神殿に行かないようにと考えて造ったものです。偶像礼拝の罪だと考えてよいでしょう。
 しかし、偶像礼拝は必ずしも金の子牛のような像に祈ることとは限りません。偶像礼拝と考えられる他の要素を、ホセア10章に出てくる二つの地名から確認してみたいと思います。5節にはベテ・アベンが出てきます。これは、アイの町が有った地域だと考えられます。アイというのは、ヨシュアに率いられたイスラエル人が、ヨルダン川を渡って二つ目に攻めた町です。アカンという人物が、神に捧げるべき品物を盗むという罪を犯したために、最初の攻撃は失敗してしまいました。物欲、貪欲、物質主義も神以外のものを信頼する偶像礼拝です。また、9節にはギブアが出てきます。ベニヤミン族に属する町です。士師記では、ギブアのならず者たちが、レビ人の妾に性的暴行を働いて殺してしまった記事が出てきます。ギブアの人たちは犯罪者たちを引き渡すことを拒否したために、他の部族から攻撃されて、あわや全滅というところまでいきました。ギベアはサウル王の出身地でもありました。彼はアマレク人を攻める時に、神の命令を守らなかったばかりか、自分の栄誉を称える記念碑を立てることまでしました。これらの背景は、無慈悲、不道徳、神を拒絶すること、人間の力を頼みとすること、自己愛なども偶像礼拝であることを示しています。
 預言書は、裁きと罰の記述ばかりではなく、どうすればそれを回避できるかも示されています。それが12節です。
 先ずするべきことは、「あなたがたは正義の種を蒔け」ということです。正義というのは、神との正しい関係という意味合いで用いられています。「あなたは」という言葉が強意的に用いられています。自分自身の霊的な利益のために、当事者として、神の掟に聞き従って神との正しい関係を築きなさいということです。イエスの話された種蒔きの例話によれば、私たちは神の御言葉によって私たちの心を養わなければなりません。ユダヤ教の教師の詩編126編5節、6節の解説も。この考えを支持しています。そこには種入れが出てきますが、それはトーラー(モーセ五書)だというのです。広く理解すれば、聖書の言葉ということになります。もし、人が神の言葉を自分の心に蒔いていけば、神の霊的な恵みと力が与えられて、私たちは大いに喜ぶことができるということです。
 次に、「あなたがたは耕地を開拓せよ」ということです。農業においては、農地を広げて開拓するためには、いばらや雑草、時には灌木や石を取り除かなければなりません。信仰の領域を広げていくためには、心を柔らかくして神の言葉を受け入れるばかりではなく、不信仰や間違った霊的理解を取り除いていかなければならないのです。そこには、聖書を読むこと、瞑想すること、祈ることに聖霊の交わりと助けを得ることも必要です。耕すことの目的は、土壌に空気を混ぜることや、水が吸収しやすくすることが有ります。ホセアは、それらのことが神を求めるのに必要なことだと示しています。
 何時、どれだけの期間そうするのでしょうか。12節後半には、今が主を求める時だと書かれています。その期間は、「主が来て正義をあなたがた(私たち)に注がれる・現わされる」時までです。それは、私たちの生活の中に、イエス・キリストが現わされて証される時までであり、引いては、天国でイエスの救いと栄光が完成されるまでです。言い換えれば、私たちにとっては、瞬間瞬間が神を求める時なのであり、正義の種を蒔き、耕地を耕き続ける時なのです。

まとめ)
 私たちが正義の種を蒔くことを考える時、何を心に留めるべきでしょうか。

1)私たちが個人的に取り組むべき事であるという自覚を持つ
  12節では「あなたがたは」という表現が繰り返されています。他の誰でもなく、あなたがたは、なのです。言い換えれば、私たち一人一人が当事者意識を持って取り組まなければならないのです。私たち一人一人が、神が生きるようにと私たちに示している道に従って歩むことを心掛けなければなりません。

2)神の御言葉で心と思いと霊を養う
  正義の種を蒔くことは、命令です。神は聖書を読み、その言葉に拠って生きることを命じています。ですから、私たちは継続的に聖書を読まなければならないのです。一人一人が目標を定めて、一日一節でも一章でも聖書を読んで、継続的に自分を神の言葉に触れるようにしていくのです。蒔いた種は刈り取るという法則が有ります。神の言葉を心に入れていくと、何が起こるのでしょうか。誠実の実を刈り入れることになるのです。誠実というのは、変わらぬ愛、慈悲という意味合いが有ります。変わらぬ愛や慈悲は、神のものです。つまり、この実は私たちが実らせるのではなく、神が恵みを持って応えてくださることを指しているのです。聖書を読み、その教えを心に留めて考え、生きる者に、神様は愛と慈悲をもって応えてくださるのです。

3)私たちの信仰の領域を更に広げるために、耕地を開拓する
  この部分は、努力を要する部分です。私たちは、継続的に自分の心を見張り、物欲、無慈悲、不道徳、自己愛、不信仰等の偶像礼拝を取り除いていかなければなりません。生活の中で、信仰を働かせるべき領域がもっとないか考え続けることになります。自分自身に言い聞かせるようにして、聖書の言葉を適用し、不信仰を追い出すのです。聖書を読み、祈る時に、聖霊の助けを求める祈りを忘れないでください。分析的に、文脈や登場人物の表す考えの性質に留意しながら聖書を読むことも、耕地を開拓する作業と言えるでしょう。

イエス・キリストが私たちの中に現わされるまで、また、神の国に迎え入れられるまで、日々、この命令に従い、神の下さる誠実の実を喜びながら歩みましょう。
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