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聖書箇所:エステル 5章
説教題:二通りの生き方
導入)
4章では、エステルはモルデカイを通して、ペルシャ帝国内の全ユダヤ人を殺す法令が出されたことを知りました。モルデカイの言葉に従って、エステルは、命を失うかもしれなかったのですが、そのようなことが起きないようにするための方法を見つけるために、アハシュエロス王に会いに行くことに決めました。
本論)
1節 三日目にと書いてあります。4章16節に出てくるエステルの指示のように、スサにいるユダヤ人が三日間断食して祈った、その三日目ということでしょう。その祈りに支えられて、エステルは行動を起こす準備ができていました。王に謁見するための美しい王妃の正式な衣装を着ました。4章でも説明しました通り、王の前では悲しい顔をしてはいけませんので、笑顔で王の間の入口に立ったと思われます。
2節‐3節 人々の祈りは聞かれたことがわかります。エステルは王の好意を得たので、死刑にされることなく、迎え入れられました。王が約束をする時に使う、決まり文句を用いて、エステルの願いを適えようと言っています。それは、彼女に三日間の断食の祈りをして神に聞いていただこうという信仰を持っており、また、行動を起こす勇気を持っていたから起きたことと言えます。
4節 ここからは、エステルの別の面が見えてくると思います。彼女は祈りの中で、注意深くどうするべきかを計画したと思われます。この日までに、王を招待するための宴会の準備も済ませていたことがわかります。例え軽食や飲酒が主となる宴会であっても、短時間の内に準備をすることはできないはずです。賢明にすべてを整えてから王の前に来たことがわかります。
5節 王はエステルの申し出を気に入ったことがわかります。ためらうことなく、ハマンを急き立てて宴会に来させるように命じています。「せきたてて」と訳された語は、一語で早く連れてくるという語感の有る語です。
6節 宴会の席で王はもう一度エステルに何が欲しいのかを尋ねます。招かれないのに王の間に行けば、死刑になることも有り得たのですから、エステルが単に宴会に王とハマンを招くためだけに王の間に来たとは考えられません。それで、王は、もう一度約束をする時の決まり文句を用いて、何が望みかを言うように促したのです。
7節‐8節 多くの訳は、エステルが8節の願いを淀みなく答えたようなものになっていますが、原文では言葉が途中で途切れたような不完全な文で、ニュアンスが異なるようです。つまり、王に促されたので、自分の願いを言い出そうとしたのですが、思い止まって、次の日も宴会に来てくださればその時に言うと、言い換えている雰囲気になります。咄嗟の判断か、前もって計画したことかは判りませんが、そんな言い方をすれば、彼女の願いが真剣なものである、あるいは重要なことであることが察せられ、ますますそれが何かを聞きたくなるというものです。記述からは、王がその願いを受け入れたことは明白です。神はエステルとユダヤ人の熱心な祈りを聞かれ、また、エステルの神と民への献身を用いられたことになります。
9節 ハマンは上機嫌でした。それは、王妃エステルが、自分を特別に王と一緒に宴会に招いてくれたばかりではなく、普通は個人的にこっそり話すであろう、エステルの願いについての問答の時にもそこにいることが許されたということがあったかもしれません。それだけ自分が王と王妃に信頼されているのだと考えたのではないでしょうか。しかし、彼の喜びは長続きしませんでした。モルデカイが彼に礼をせず、彼を恐れている様子も見せなかったことで、憤りに満たされました。憤りと訳された語は、激怒、熱、毒という意味が有ります。自分にも他人にも悪い影響の有る性質のものであることがわかります。モルデカイは当然ユダヤ人は全員殺されるという法令が出されたことを知っていました。ですから、その法令を書いたハマンを見て恐れてもおかしくはありませんでした。しかし、そういう期待に反して、モルデカイは何の反応も示さなかったのです。モルデカイは神への信仰を持っている人物であり、ハマンを恐れるようなことは無かったのです。
10節‐13節 この部分に出てくるハマンの言葉が、彼の人となりをよく示しています。彼は自慢を聞いてくれる人が必要でした。彼は自分の富や所有物、政治的な力、王妃の宴会に招かれた特権をひけらかしました。彼の言葉には神は出てきません。彼の満足は肉的なものから来るのでした。そんな性質ですから、自分に礼をしないモルデカイに我慢がならなかったのです。類は友を呼ぶと言いますが、彼の妻であるゼレシュも性根の曲がった人でした。夫の怒りをなだめるようなことはせず、却って、次の宴会の前にモルデカイを殺してしまうことを勧めたのです。提案の柱というのは、20メートル程の長さで、人を突き刺して見せしめになるように高く掲げるためのものでした。20メートルは高過ぎるので、誇張であろうと考えられるようですが、残虐な殺し方であることに変わりはありません。しかし、ハマンはその進言を「気に入った」というのです。ハマンもゼレシュも残酷な人たちでした。神は愛です。しかし、彼らの中には、神はいなかったのです。
まとめ)
二通りの生き方とう説教題をつけました。すでに皆様はおわかりのことと思います。
1)神を信頼する生き方: エステル、モルデカイ、ユダヤ人たちは、このような生き方をしていました。ですから、彼らは一生懸命祈りました。彼らはまた、ソロモン王と神の間で交わされた約束を信じていました。そのような神への信頼に基づいて、エステルはユダヤ人たちを救うために行動を起こしたのです。
2)神を信頼しない生き方: アハシュエロス王、ハマン、ゼレシュたちは、神を信頼していませんでした。その代わりに、彼らは富、政治的権力、周囲の人たちの誉め言葉に頼っていました。彼らは自慢ばかりしていました。彼らの喜びや平安は神から来るものではありませんでした。ですから、ちょっとしたことでその喜びや平安は失われてしまいました。ハマンは法令が実施される日まで待てませんでした。すぐにでもモルデカイを殺してやりたいと思っていました。彼には愛や憐みの心が有りませんでした。
当然、私たちは、神に頼る生き方をしなければなりません。そういう者の態度はどんなものか、確認したいと思います。
1)彼らは困難な状況で熱心に神に祈った
三日間継続的に断食の祈りをしました。共同の祈り、公同の祈りがささげられました。一致して祈っていくことは大事です。また、実際に行動を起こす前に先ず祈るべきです。ネヘミヤも、2章4節で、王に回答する大事な場面で、先に祈ってから回答して、王の好意を得ています。例え、どんな結果になろうとも、私たちは先ず祈ることが大事です。
2)彼らは神から与えれらた知恵と環境を用いた
モルデカイ、エステル、他のユダヤ人たちは、彼らの持っているものを用いました。エステルの王妃という立場、衣装、態度、知恵をめぐらした計画と準備から、彼女がそれらを用いて最善を尽くしたことを示しています。
3)彼らはこの世の力に頼らなかった
モルデカイは、ハマンにおべっかを使って取り入ろうとはしませんでした。逆に、ハマンは人にほめられることを求めました。彼は富や地位に頼っていました。クリスチャンはそのような生き方をしてはなりません。本日は、新しい長老と執事が任命される日です。この人たちが、皆さん以上に信仰の姿勢を貫いて神の体なる教会を支えようとしている人たちです。皆様の祈りをもって応援していただきたいと思います。
聖書箇所:エステル 5章
説教題:二通りの生き方
導入)
4章では、エステルはモルデカイを通して、ペルシャ帝国内の全ユダヤ人を殺す法令が出されたことを知りました。モルデカイの言葉に従って、エステルは、命を失うかもしれなかったのですが、そのようなことが起きないようにするための方法を見つけるために、アハシュエロス王に会いに行くことに決めました。
本論)
1節 三日目にと書いてあります。4章16節に出てくるエステルの指示のように、スサにいるユダヤ人が三日間断食して祈った、その三日目ということでしょう。その祈りに支えられて、エステルは行動を起こす準備ができていました。王に謁見するための美しい王妃の正式な衣装を着ました。4章でも説明しました通り、王の前では悲しい顔をしてはいけませんので、笑顔で王の間の入口に立ったと思われます。
2節‐3節 人々の祈りは聞かれたことがわかります。エステルは王の好意を得たので、死刑にされることなく、迎え入れられました。王が約束をする時に使う、決まり文句を用いて、エステルの願いを適えようと言っています。それは、彼女に三日間の断食の祈りをして神に聞いていただこうという信仰を持っており、また、行動を起こす勇気を持っていたから起きたことと言えます。
4節 ここからは、エステルの別の面が見えてくると思います。彼女は祈りの中で、注意深くどうするべきかを計画したと思われます。この日までに、王を招待するための宴会の準備も済ませていたことがわかります。例え軽食や飲酒が主となる宴会であっても、短時間の内に準備をすることはできないはずです。賢明にすべてを整えてから王の前に来たことがわかります。
5節 王はエステルの申し出を気に入ったことがわかります。ためらうことなく、ハマンを急き立てて宴会に来させるように命じています。「せきたてて」と訳された語は、一語で早く連れてくるという語感の有る語です。
6節 宴会の席で王はもう一度エステルに何が欲しいのかを尋ねます。招かれないのに王の間に行けば、死刑になることも有り得たのですから、エステルが単に宴会に王とハマンを招くためだけに王の間に来たとは考えられません。それで、王は、もう一度約束をする時の決まり文句を用いて、何が望みかを言うように促したのです。
7節‐8節 多くの訳は、エステルが8節の願いを淀みなく答えたようなものになっていますが、原文では言葉が途中で途切れたような不完全な文で、ニュアンスが異なるようです。つまり、王に促されたので、自分の願いを言い出そうとしたのですが、思い止まって、次の日も宴会に来てくださればその時に言うと、言い換えている雰囲気になります。咄嗟の判断か、前もって計画したことかは判りませんが、そんな言い方をすれば、彼女の願いが真剣なものである、あるいは重要なことであることが察せられ、ますますそれが何かを聞きたくなるというものです。記述からは、王がその願いを受け入れたことは明白です。神はエステルとユダヤ人の熱心な祈りを聞かれ、また、エステルの神と民への献身を用いられたことになります。
9節 ハマンは上機嫌でした。それは、王妃エステルが、自分を特別に王と一緒に宴会に招いてくれたばかりではなく、普通は個人的にこっそり話すであろう、エステルの願いについての問答の時にもそこにいることが許されたということがあったかもしれません。それだけ自分が王と王妃に信頼されているのだと考えたのではないでしょうか。しかし、彼の喜びは長続きしませんでした。モルデカイが彼に礼をせず、彼を恐れている様子も見せなかったことで、憤りに満たされました。憤りと訳された語は、激怒、熱、毒という意味が有ります。自分にも他人にも悪い影響の有る性質のものであることがわかります。モルデカイは当然ユダヤ人は全員殺されるという法令が出されたことを知っていました。ですから、その法令を書いたハマンを見て恐れてもおかしくはありませんでした。しかし、そういう期待に反して、モルデカイは何の反応も示さなかったのです。モルデカイは神への信仰を持っている人物であり、ハマンを恐れるようなことは無かったのです。
10節‐13節 この部分に出てくるハマンの言葉が、彼の人となりをよく示しています。彼は自慢を聞いてくれる人が必要でした。彼は自分の富や所有物、政治的な力、王妃の宴会に招かれた特権をひけらかしました。彼の言葉には神は出てきません。彼の満足は肉的なものから来るのでした。そんな性質ですから、自分に礼をしないモルデカイに我慢がならなかったのです。類は友を呼ぶと言いますが、彼の妻であるゼレシュも性根の曲がった人でした。夫の怒りをなだめるようなことはせず、却って、次の宴会の前にモルデカイを殺してしまうことを勧めたのです。提案の柱というのは、20メートル程の長さで、人を突き刺して見せしめになるように高く掲げるためのものでした。20メートルは高過ぎるので、誇張であろうと考えられるようですが、残虐な殺し方であることに変わりはありません。しかし、ハマンはその進言を「気に入った」というのです。ハマンもゼレシュも残酷な人たちでした。神は愛です。しかし、彼らの中には、神はいなかったのです。
まとめ)
二通りの生き方とう説教題をつけました。すでに皆様はおわかりのことと思います。
1)神を信頼する生き方: エステル、モルデカイ、ユダヤ人たちは、このような生き方をしていました。ですから、彼らは一生懸命祈りました。彼らはまた、ソロモン王と神の間で交わされた約束を信じていました。そのような神への信頼に基づいて、エステルはユダヤ人たちを救うために行動を起こしたのです。
2)神を信頼しない生き方: アハシュエロス王、ハマン、ゼレシュたちは、神を信頼していませんでした。その代わりに、彼らは富、政治的権力、周囲の人たちの誉め言葉に頼っていました。彼らは自慢ばかりしていました。彼らの喜びや平安は神から来るものではありませんでした。ですから、ちょっとしたことでその喜びや平安は失われてしまいました。ハマンは法令が実施される日まで待てませんでした。すぐにでもモルデカイを殺してやりたいと思っていました。彼には愛や憐みの心が有りませんでした。
当然、私たちは、神に頼る生き方をしなければなりません。そういう者の態度はどんなものか、確認したいと思います。
1)彼らは困難な状況で熱心に神に祈った
三日間継続的に断食の祈りをしました。共同の祈り、公同の祈りがささげられました。一致して祈っていくことは大事です。また、実際に行動を起こす前に先ず祈るべきです。ネヘミヤも、2章4節で、王に回答する大事な場面で、先に祈ってから回答して、王の好意を得ています。例え、どんな結果になろうとも、私たちは先ず祈ることが大事です。
2)彼らは神から与えれらた知恵と環境を用いた
モルデカイ、エステル、他のユダヤ人たちは、彼らの持っているものを用いました。エステルの王妃という立場、衣装、態度、知恵をめぐらした計画と準備から、彼女がそれらを用いて最善を尽くしたことを示しています。
3)彼らはこの世の力に頼らなかった
モルデカイは、ハマンにおべっかを使って取り入ろうとはしませんでした。逆に、ハマンは人にほめられることを求めました。彼は富や地位に頼っていました。クリスチャンはそのような生き方をしてはなりません。本日は、新しい長老と執事が任命される日です。この人たちが、皆さん以上に信仰の姿勢を貫いて神の体なる教会を支えようとしている人たちです。皆様の祈りをもって応援していただきたいと思います。