パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年9月25日

2022-09-28 00:38:00 | 日記
礼拝音声は有りません

聖書箇所:マタ:イ18:15-20
説教題:神は教会の裁定と共におられる

導入)
  1節の弟子たちの質問から、イエスは弟子たちに三つのことを教えました。第一に、小さな子どものように謙遜に完全にイエスに信頼することが、天の御国で一番偉らい者となる鍵であること。第二に、誰でもイエスを信じる者をつまずかせる者はわざわいであること。第三に、弟子たちは、イエスの血で買い取られて、神の目に尊い小さい者たちをつまずかせてはならないことです。それに続いて、イエスは、教会の中で、組織的にどのようにつまずきを防止するべきかを教えられました。

本論)
15節 イエスはここで、焦点を信仰者に向けています。そのことは、17節で教会と言う言葉が用いられていることからもわかります。この教会の中で、どのようにつまずきを取り除いていくかということです。そのつまずきは兄弟と呼ばれる人が起こしています。最初にするべきことは、その人と一対一で話し合うことです。そこですることは、「責めなさい」と訳されていますが、実際は、説得するような内容の言葉が用いられています。確実で納得の行く証拠で説得する、悪いことであったことを証明する、という語感です。同様な姿勢は、ガラテヤ6:1でも示されていますが、そこで「正す」と訳された語は、「調節する、修理する、正しい位置に合わせる」という意味合いが有り、脱臼した間接を元に戻すのにも用いられるような語だということです。そのようなやり方で、話し合うのです。怒りは神の義をもたらさず、サタンに利用されることになりがちです。だから、愛をもってそうするのです。

16節 聞き入れてもられなかった場合は、次の段階に進みます。一人か二人の人を一緒に連れて行くのは、その人のした悪い行いが、他の人たちにも確認されていることを示す、証人という意味が有ります。また、その人の行いが聖書に照らして悪いことであることを示すという役割も有るかもしれません。

17節 それでも聞き入れられない場合は、三段階目として、教会に告げなければなりません。それは、会衆全体に知らせることが含まれています。それは、イエスにあって一体である教会が拠って立つ聖書の基準に従って、これまでの説得や説明がなされてきたことを示すためでもあります。また、会衆も共有している聖書の基準を再確認するという意味も有るでしょう。今日の世間的な基準で考えると、それはプライバシーの侵害のように思えます。しかし、同じ信仰を持つ者同士の集まりである教会の中においては、それが従うべき基準なのです。

それでも聞き入れられないならば、異邦人か収税人のように扱うなさいということです。イエスは弟子たちに話しておられましたから、ユダヤ人の習慣を例に挙げて指示したことになります。ユダヤ人は他の神々を崇拝する異邦人と交流を持ちませんでした。収税人は、異邦人であるローマ人の手先であるということで、同様に交流を避けていました。教会の実践としては、そういう人には、教会の交流から出てもらうということになります。それは、つまずきを教会から取り除くためで、普段の社会的な交流をすることは差し支えありません。この指示は、もう一度基本的な部分から説明して伝道することを含意すると考える学者もいます。

18節 この節からは、17節の指示によって交流を止める実践について、確信を持つように説明をしています。教会は、イエスの指示に従ってそうするのですから、神がその決定を承認しておられるということです。

19節-20節 18節で、イエスは、まことに、あなたがたに告げますと言われました。そして、ここで、もう一度告げますと言われました。ですから、この部分は、前の指示の続きであることは明白です。二人が、あるいは、二人でも三人でもというのは、罪を犯した兄弟を正すために一緒にでかけた人たちの人数です。彼らは心を一つにして、その人を正し、教会からつまずきを取り除くために行動したので、天の父も、彼らが正しい判断をすることができるように、祈りに応えられたと考えるのです。二人三人が心をあわせて祈るところにイエスも共にいるというのは、そういう意味であって、一般的な祈りを奨励するみ言葉ではありません。複数の註解書がこのことに注意を払うように書いています。

ある人を教会の交流から出すという決断は、難しく辛いものです。しかし、いったんそれば祈りと従順によってなされたならば、教会はそれを神の手に委ねなければなりません。

まとめ)
  神は、このような規律をもって、教会からつまずきを取り除くことを望んでおられます。教会は、イエスの血にの代価によって買い取られた聖徒を守る必要が有ります。その実践にあたって心掛けるべきことを、次のような三つのポイントで提示しておきます。

1)つまずきを起こす人を愛と忍耐によって正す
  責める、正すという動作のニュアンスを先にお伝えしました。そのような心構えでする必要があります。また、定められた三つの段階を追って対応しなければなりません。その一つ一つの段階で、愛と忍耐が必要になります。その過程において、非難や怒りは不要なのです。

2)つまずきを起こす人を明確な根拠を示して正す
  つまずきとなる罪が有ったことを明確に示す必要が有ります。また、その判断が、聖書的な基準によることが明確に示される必要が有ります。また、教会はその基準を明確に共有する必要が有ります。
  
3)つまずきを起こす人を祈りをもって正す
  示された三つの段階の全体を、祈りをもって取り組む必要が有ります。それが、イエスの教えと権威によって行われるように、その人が聖霊の助を得て、説明、説得を理解するように祈ります。そして、ついには、その人を教会の交流から出さなければならいことになった時には、主に委ねることが必要です。主に在る確信をもってそうするためにも、祈りが必要です。
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日曜礼拝 2022年9月18日

2022-09-18 17:38:23 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ18:10-14
説教題:迷える羊のたとえ

導入)
  迷える羊のたとえはよく知られたものです。クリスチャンの画家やイラストレーターがよく取り上げることがあります。私たちも、この話をよく知っており、その意味も理解しているとおもっているかもしれません。しかし、私たちは自分の理解に注意しなければなりません。イエスは、同じ例話や同じ表現を、異なった場面や異なった人に対して、異なった目的で用いていることがあります。迷える羊のたとえは、ルカによる福音書にも出て来ます。その場合は、イエスはパリサイ人や律法学者に向けて話しています。本日の朗読箇所では、イエスは、弟子たちに向けて話しています。この箇所に示された、主の御心を確認してみましょう。

本論)
10節 イエスはここでも「小さい者」に言及しています。この時、小さい者といえる、子どもが一緒にいました。子どもは、1節で弟子たちがイエスにした質問への回答として、無力で身を低くする者の例として呼び寄せられたのです。その子どものように身をひくくすることが天の御国で一番偉い者となる鍵ということを弟子たちに教えようとされたのです。そして、弟子たちに、イエスを信じる小さい者たちをつまずかせないように警告されました。そのようなことをする者はわざわいであり、大きな石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれた方がましだと言われたのです。この10節では、どうして小さい者をつまずかせてはならないかの別の理由を示しています。天の御使いが天の父の顔を見ているからだというのです。聖書は、神がご自分の民を守るために天使を遣わすことが示されています。(詩編91:11、へブル1:14参照)イエスも荒野で試みを受けた時や、十字架にかかる前に、ゲッセマネの園で祈った時、天使に仕えられ、励ましを受けられました。ユダヤ人の理解によれば、天使はいつも神の支持を仰いで神の民を守っているということです。同時に、天使は自分が守っている人に何が起きているかを神に伝えているというのです。そういうことであれば、弟子たちが小さい者たちを見下げていたりすると、それも天使が神に知らせるということになります。その結果、神が弟子たちを叱ったり罰したりすることも有り得るということです。6節には、小さい者は、イエスを信じる者である書かれています。すると、私たちが同信のクリスチャンをつまずかせる、最悪の場合、信仰を捨てさせてしまうことが有れば、神に厳しく取り扱われることになるでしょう。

11節 この節は、信頼されている多くの写本には含まれていないということです。しかし、この節は、先の節の理由付けになるものです。イエスは失われた者を救うために来られ、ご自身の血で信じる者を買い取ってくださったのですから、イエスを信じる者をつまずかせるようなことが有ってはいけないということです。

12節 イエスに従う者がどれだけ神にとって大事であるかを示すために、ここからイエスは迷える羊のたとえを話します。羊飼いはユダヤ人にとって馴染の有るものでした。百匹の羊は、平均的な群れの数でした。羊のたとえは、弟子たちには、詩編23編やエゼキエル34章を思い起こさせるものでもあったと考えられます。このたとえは、イエスに従う者に焦点が有ります。たとえに出て来る人物は、羊たちの所有者です。一匹の迷った羊を捜しに行く時は、残りの九十九匹は、自分のしもべたちに託して行きます。

13節 迷った羊を捜しにでかけた時、所有者は、羊を見つけることができるだろうかとか、既に崖から落ちたり獣に食べられてして死んでいないだろうか、などど心配したことでしょう。ですから、迷った一匹の羊を見つけたならば、安全な場所にいる九十九匹の羊以上にその一匹のことを喜ぶことになるのです。

14節 羊の所有者にとっては、一匹の羊が失われることも大問題です。購入するとそれなりに大金が必要になる貴重な財産だからです。言うまでもなく、イエスの犠牲の血で贖い、救った人々が失われることは神の御心ではありません。

まとめ)
  ルカによる福音書においては、迷える羊のたとえは、取税人を見下しているパリサイ人たちに向けて語られました。その目的は、パリサイ人たちに、取税人もユダヤ人として同じ群れに属しており、同等に神の目には大事であることを伝えることにありました。本日の聖書箇所であるマタイによる福音書では、弟子たちに対して語られ、その目的は、イエスに従って身を低くする小さな者たちを、彼らが見下したりつまずかせたりしないように教えることでした。これまでの流れを踏まえて、次のような三つのポイントを提示しておきます。

1)クリスチャンが見下される時、神はご存知である
  イエスがそのように話されたのですから、天使はクリスチャンの状況を神に報告しているのでしょう。そうでなくても、神は全地全能です。イエスが弟子たちに与えた警告は、イエスに従う小さい者たちを見下さないようにということでした。その理由は、神はそういう行いをご存知だからだということです。それは当然神から叱責されるような結果になるということです。

2)クリスチャンはイエスの血で贖われた神にとって大事な存在である
  羊飼いはイエスを象徴しています。(ヨハネ10:11、ルカ19:10参照)イエスが命を捨てて救いに入れたクリスチャンですから、神の目には重要で貴重な存在となるのです。
  
3)クリスチャンをつまずかせる者を、神は罰せられる
  本日の聖書箇所は、その前に有る6節の補足という部分が有ります。クリスチャンは、同信のクリスチャンをつまずかせることが有ってはなりません。つまずかせるというのは、信仰を失わせることを含んだ表現です。イエスの血で買い取られた者を滅びに導くようなことが決して有ってはいけません。ですから、8節、9節で示された真剣さをもって、私たちは同信のクリスチャンをつまずかせることがないように努力することが必要です。
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日曜礼拝 2022年9月11日

2022-09-11 18:04:01 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ18:1-9
説教題:自分を低くする

導入)
  この時点で、イエスの受難、死、よみがえりは弟子たちに予告されていました。しかし、それが現実になる前に、神の国の福音を宣教することになる弟子たちが理解しておくべきことを教えておく必要がありました。弟子たちは、まだ神の国の在り方を理解していませんでした。そのことは、1節の弟子たちの質問からもうかがい知ることができます。

本論)
1節 天の御国で一番偉いのは神様に決まっていますから、この質問は、弟子たちの中で一番偉いのは誰かということになります。彼らは、度々そのようなことを議論していた様子で、同様な質問はルカ9:46にも出て来ます。彼らにとっては、イエスの弟子であるということは、イエスの内閣の閣僚になるようなものだったのかもしれません。

2節 神の御国は、能力に基づいた階級や序列とは関係無いのです。その事実を示すために、イエスは小さい子どもを呼び寄せて、弟子たちの間に立たせました。小さい子どもと訳された語は、幼児、訓練を受けている子供、という意味合いが有り、具体的には7歳かそれよりも若いというイメージになるようです。

3節 イエスが弟子たちに「真にあなたがたに告げます。」と言う時は、大事な原則を教える時です。ここで、イエスは、人が天の御国に入るための原則的な資格を教えたと言えるでしょう。その資格とは、先ず、悔い改めること、次に、子どものようになることです。悔い改めると訳された語は、一般に罪を悔い改める時に用いられる語ではありませんが、向きを変える、心を変えるという意味が有り、悔い改めと同様の雰囲気が有ります。弟子たちは、天の御国に入るためには、心構えを変えなければならないのでした。彼らはどのように心構えを変えなければならなかったのでしょうか。その答えは、二番目の資格に関わってきます。小さい子どものようになるということですが、その子どもの意味が大事です。当時の子どものイメージは、役に立たない、価値が無いというものでした。そう思われている子どもたちですから、プライドとか野心とは縁が無いのです。

4節 イエスは更に小さな子どものようになるということを違った角度から説明します。子どものようになるというのは、自分を低くするということです。聖書辞典には、次のような説明がされていました。「信仰者にとっては、完全に主に信頼し、自信をしりぞけ、肉的な自己中心をなくすことによって、これは得られる。」弟子たちは、野心を持ち、天の御国でより高い地位につくことを求めていました。しかし、イエスは、弟子たちに、そのような考えに背を向けるようにと言ったのです。彼らは、むしろ自分を低くし、単純に主に信頼することが求められていました。もし彼らが心構えを変えないならば、天の御国には入れないということでした。その原則は、私たちにも当てはまるものです。同時に、天の御国に入る私たちは、等しく御国で一番偉い者でもあるのです。また、心を変えて小さな子どものように自分を低くする時、私たちの天の御国の市民としての生活は、イエスへの信仰によって既に始まっているのです。

5節 イエスの焦点は、誰でもという表現によって、世の人々に移っていることがわかります。自分を低くする者を、イエスの名のゆえに受け入れるということは、二通りに理解できそうです。一つは、イエスに従う者を受け入れる人は、同時にイエスをも受け入れることになるというものです。もう一つは、子どものように自分を低くする態度を、イエスの名にゆえに受け入れて実践する者は、イエスを受け入れていることになるということです。

6節-7節 ここでは、イエスはパリサイ人や迫害する人たちを念頭にしています。そのような迫害が、人々を信仰から離れさせることが有り得ます。そのようなつまずきをもたらすぐらいであれば、大きな石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましだというのです。イエスに従う者たちは、ご自身の血で買い取った者たちとなるのでうから、イエスにとってそれだけ重要なのです。ことの重大さは、その石臼の大きさにも表されているのかもしれません。大きな石臼というのは、ロバや家畜の力で回さなければならない程の大きさです。臼で挽くための穀物を入れる穴も大きくて、人の頭がくぐれるぐらいだということです。一説によると、これはギリシャ式の死刑の方法だそうですが、ローマによっても用いられた方法だということです。ガリラヤ地方からもローマへの反乱を企てた者が出ていましたが、その主だった人物たちは、このようにしてガリラヤ湖に投げ込まれて殺されたということです。ですから、この言葉を聞いていた人たちの心に、生々しい記憶とともに届いたと思われます。人間の罪の性質の故に、つまずきが起きることは避けられません。しかし、そのようなつまずきを引き起こす人たちは本当にわざわいなのです。

8節―9節 この部分は、再び自分を低くすることに関連したものと考えられます。神の子どもたちは、誘惑やつまずきと真剣に戦わなければなりません。まるで手足を切り落とすかのような努力が必要な時が有ります。この部分は、実際に手足を切り落としたり、目をえぐりだすことではありません。


まとめ)
  自分を低くするとは、どういうことかを再確認してみましょう。

1)プライドと野心から離れる
  パウロは模範的なパリサイ人としてプライドのかたまりでした。イエスに出会ってから、パウロはプライドを捨てました。私たちも、弟子たちが持っていたような、この世の価値観によるプライドや野心を離れなければなりません。

2)自分が霊的に無能なことを認識すること
  最期の晩餐の時に、イエスは弟子たちに、彼らがイエスに留まっていなければ何もすることができないと言いました。小さい子どもたちが、自分では何もすることができず、親に頼るしかないように、私たちも主だけを信頼しなければなりません。
  
3)つまずきが起きないように警戒する
  つまずきを表す語は、罠をしかけるという意味が有ります。私たちは、誰に対してであろうと、罠をしかけ、不信仰や罪に導くようなことをしてはいけません。また、自分自身がつまずかないように注意しなければなりません。その実践の一部として、私たちは誘惑と真剣に戦わなければなりません。手足を切り捨てるのは比喩的表現です。これは、肉体的問題ではありません。これは、心と思いの態度の問題です。
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日曜礼拝 2022年9月4日

2022-09-04 18:36:20 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:2歴代誌31:2-10
説教題:祝福に至る従順

導入)
  今回の内容は、ヒゼキヤ王の記録の一部です。彼はユダ王国の13代目の王でした。アッシリヤが大きな脅威となっていました。彼は統治の一年目から宗教改革を始めました。彼は神殿をきよめ、ユダ王国だけでなく、イスラエルの人たちにも種を入れないパンの祭りを祝うように呼び掛けました。多くの人たちが祭りに参加しました。祭りが終わると、人々は自分の町の偶像の祭壇や柱を破壊しました。彼らの悔い改めが純粋なものであったことがわかります。その後に起きたことが本日の朗読箇所に記されています。

本論)
  2節 祭りの後、ヒゼキヤは、律法に定められている毎日の捧げものを回復するように祭司やレビ人に命じました。その捧げものの要素は、罪の赦し、神への感謝と神への賛美による和解・交わりです。出エジプト19:6や、その引用である1ペテロ2:9 が示しているように、私たちは祭司の王国と表現される存在です。ですから、私たちも悔い改め、感謝、賛美の祈りを日々捧げなければなりません。

3節 ここでは、ヒゼキヤは神の民の良き模範となっています。王でありましたが、礼拝を人任せにしたりすることはなく、自分の礼拝の分は自分で費用を負担しています。私たちが誰であろうと、神への礼拝は私たち一人一人の個人的な責任なのです。私たちは、めいめい、日々の礼拝と日曜礼拝を捧げなければなりません。

4節 祭司とレビ人を支えるのは民全体の義務でしたが、ヒゼキヤは第一段階として、神殿の有るエルサレムの住民にその務めを命じました。

5節 エルサレムの住民は直ぐに応答したばかりか、農作物の捧げものをあふれるばかりに持ってきました。5月後半から6月前半にかかる時期に捧げものは集められ始め、それは春の大麦や小麦の刈り入れの時期でしたので、初物という記述が出て来ます。

6節 間も無く、他の地域の人たちにもこのおふれは届き、家畜の捧げものを含めて、多くの捧げものが神殿に届けられました。彼らが礼拝の心をもってそうしたことがうかがえます。

7節 捧げものが集められた期間が示されています。単純に言えば、春の収穫から秋の収穫の間、ずっと農作物の捧げものが続けて捧げられたということです。

8節 捧げものをするように命じた王は、その検分にやってきました。その積み上がった農作物を見て、彼は神をほめたたえ、また、民を祝福しました。

9節 ヒゼキヤ王の質問は、なぜ捧げものがいまだに多く積み上げられているのかということです。適切に農産物が祭司やレビ人たちに配給されなかったのだろうかと思ったと考えられます。

10節 祭司のかしらであるアザルヤの回答は、配給は適切に行われたのですが、民の捧げものがとても多いので、いまだに神殿の庭に積み上がっているのだというものでした。
  記者は、ここでツァドクの家に言及します。祭司長になる人は、アロンの家系に属していなければなりませんでした。アロンにはエレアザルとイタマルという二人の後継者がいました。サムエルの時代に、イタマル系のエリが大祭司でしたが、息子たちの悪い行いを適切に処することができなかったために、神の祝福を失うことになりました。ダビデ王の時代に、イタマル系の大祭司アビアタルは、神の御心を無視してソロモンより先に王になろうとしたアドニヤを支持したために、その正統性を失ってしまいました。その時、エリエゼル系のザドクは神の御心とダビデ、ソロモンに忠実でしたので、バビロン捕囚の時まで大祭司を務める家系となりました。歴代誌は、捕囚から帰還した民を力づけるために書かれたものです。ザドクの名前を出すことで、読んだ者たちが、神の御心に忠実であるように促す意味が有ったと思われます。

まとめ)
  神は民の従順と認めて、祝福してくださったことが読み取れます。豊作であったことからそれが判ります。それは、申命記28章1,2、11節に示されている神の約束、契約に基づいたものであると考えられます。この箇所から読み取れる神の祝福に至る従順はどういうものでしょうか。

1)悔い改めにおける従順
  種を入れないパンの例祭への参加の呼びかけから始まったヒゼキヤの宗教改革を通して、多くの民が悔い改めました。心を偶像から神に向け直しました。彼らの従順の心構えは、命じられたのでもないのに、偶像の祭壇や柱を壊したことから知ることができます。彼らの悔い改めが、神の祝福につながりました。

2)定期的な礼拝における従順
  日曜礼拝だけが命じられているのではありません。私たちは毎日主を礼拝しなければなりません。神殿の礼拝の実践に倣うのです。朝夕、罪の赦しを求め、また感謝して祈ります。また、神の恵みと祝福に感謝し、神を賛美する祈りを、交わりの捧げものとして捧げるのです。詩編や聖歌の言葉を用いることもできます。

3)捧げものにおける従順
  捧げものをする目的は、神殿の礼拝を維持することです。私たちの場合は、教会における礼拝を維持することになります。イスラエルの民が捧げた油が、神殿の明りに用いられたように、礼拝献金で、教会の光熱費が支払われ、礼拝堂の明りがつけられ、プロジェクターが使えるのです。礼拝献金は、牧師が教会の外で仕事をしたりしないで、聖書を教える備えに集中できるようにする牧師給のためにも用いられます。また、申命記14章には、捧げものが貧しい者たちに分配されるために集められる部分が有ることも記されています。私たちの献金が教団のプロジェクトを通して、貧しい国の援助に用いられるのはこの実践に倣ったものになります。
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