礼拝音声は有りません
聖書箇所:マタ:イ18:15-20
説教題:神は教会の裁定と共におられる
導入)
1節の弟子たちの質問から、イエスは弟子たちに三つのことを教えました。第一に、小さな子どものように謙遜に完全にイエスに信頼することが、天の御国で一番偉らい者となる鍵であること。第二に、誰でもイエスを信じる者をつまずかせる者はわざわいであること。第三に、弟子たちは、イエスの血で買い取られて、神の目に尊い小さい者たちをつまずかせてはならないことです。それに続いて、イエスは、教会の中で、組織的にどのようにつまずきを防止するべきかを教えられました。
本論)
15節 イエスはここで、焦点を信仰者に向けています。そのことは、17節で教会と言う言葉が用いられていることからもわかります。この教会の中で、どのようにつまずきを取り除いていくかということです。そのつまずきは兄弟と呼ばれる人が起こしています。最初にするべきことは、その人と一対一で話し合うことです。そこですることは、「責めなさい」と訳されていますが、実際は、説得するような内容の言葉が用いられています。確実で納得の行く証拠で説得する、悪いことであったことを証明する、という語感です。同様な姿勢は、ガラテヤ6:1でも示されていますが、そこで「正す」と訳された語は、「調節する、修理する、正しい位置に合わせる」という意味合いが有り、脱臼した間接を元に戻すのにも用いられるような語だということです。そのようなやり方で、話し合うのです。怒りは神の義をもたらさず、サタンに利用されることになりがちです。だから、愛をもってそうするのです。
16節 聞き入れてもられなかった場合は、次の段階に進みます。一人か二人の人を一緒に連れて行くのは、その人のした悪い行いが、他の人たちにも確認されていることを示す、証人という意味が有ります。また、その人の行いが聖書に照らして悪いことであることを示すという役割も有るかもしれません。
17節 それでも聞き入れられない場合は、三段階目として、教会に告げなければなりません。それは、会衆全体に知らせることが含まれています。それは、イエスにあって一体である教会が拠って立つ聖書の基準に従って、これまでの説得や説明がなされてきたことを示すためでもあります。また、会衆も共有している聖書の基準を再確認するという意味も有るでしょう。今日の世間的な基準で考えると、それはプライバシーの侵害のように思えます。しかし、同じ信仰を持つ者同士の集まりである教会の中においては、それが従うべき基準なのです。
それでも聞き入れられないならば、異邦人か収税人のように扱うなさいということです。イエスは弟子たちに話しておられましたから、ユダヤ人の習慣を例に挙げて指示したことになります。ユダヤ人は他の神々を崇拝する異邦人と交流を持ちませんでした。収税人は、異邦人であるローマ人の手先であるということで、同様に交流を避けていました。教会の実践としては、そういう人には、教会の交流から出てもらうということになります。それは、つまずきを教会から取り除くためで、普段の社会的な交流をすることは差し支えありません。この指示は、もう一度基本的な部分から説明して伝道することを含意すると考える学者もいます。
18節 この節からは、17節の指示によって交流を止める実践について、確信を持つように説明をしています。教会は、イエスの指示に従ってそうするのですから、神がその決定を承認しておられるということです。
19節-20節 18節で、イエスは、まことに、あなたがたに告げますと言われました。そして、ここで、もう一度告げますと言われました。ですから、この部分は、前の指示の続きであることは明白です。二人が、あるいは、二人でも三人でもというのは、罪を犯した兄弟を正すために一緒にでかけた人たちの人数です。彼らは心を一つにして、その人を正し、教会からつまずきを取り除くために行動したので、天の父も、彼らが正しい判断をすることができるように、祈りに応えられたと考えるのです。二人三人が心をあわせて祈るところにイエスも共にいるというのは、そういう意味であって、一般的な祈りを奨励するみ言葉ではありません。複数の註解書がこのことに注意を払うように書いています。
ある人を教会の交流から出すという決断は、難しく辛いものです。しかし、いったんそれば祈りと従順によってなされたならば、教会はそれを神の手に委ねなければなりません。
まとめ)
神は、このような規律をもって、教会からつまずきを取り除くことを望んでおられます。教会は、イエスの血にの代価によって買い取られた聖徒を守る必要が有ります。その実践にあたって心掛けるべきことを、次のような三つのポイントで提示しておきます。
1)つまずきを起こす人を愛と忍耐によって正す
責める、正すという動作のニュアンスを先にお伝えしました。そのような心構えでする必要があります。また、定められた三つの段階を追って対応しなければなりません。その一つ一つの段階で、愛と忍耐が必要になります。その過程において、非難や怒りは不要なのです。
2)つまずきを起こす人を明確な根拠を示して正す
つまずきとなる罪が有ったことを明確に示す必要が有ります。また、その判断が、聖書的な基準によることが明確に示される必要が有ります。また、教会はその基準を明確に共有する必要が有ります。
3)つまずきを起こす人を祈りをもって正す
示された三つの段階の全体を、祈りをもって取り組む必要が有ります。それが、イエスの教えと権威によって行われるように、その人が聖霊の助を得て、説明、説得を理解するように祈ります。そして、ついには、その人を教会の交流から出さなければならいことになった時には、主に委ねることが必要です。主に在る確信をもってそうするためにも、祈りが必要です。
聖書箇所:マタ:イ18:15-20
説教題:神は教会の裁定と共におられる
導入)
1節の弟子たちの質問から、イエスは弟子たちに三つのことを教えました。第一に、小さな子どものように謙遜に完全にイエスに信頼することが、天の御国で一番偉らい者となる鍵であること。第二に、誰でもイエスを信じる者をつまずかせる者はわざわいであること。第三に、弟子たちは、イエスの血で買い取られて、神の目に尊い小さい者たちをつまずかせてはならないことです。それに続いて、イエスは、教会の中で、組織的にどのようにつまずきを防止するべきかを教えられました。
本論)
15節 イエスはここで、焦点を信仰者に向けています。そのことは、17節で教会と言う言葉が用いられていることからもわかります。この教会の中で、どのようにつまずきを取り除いていくかということです。そのつまずきは兄弟と呼ばれる人が起こしています。最初にするべきことは、その人と一対一で話し合うことです。そこですることは、「責めなさい」と訳されていますが、実際は、説得するような内容の言葉が用いられています。確実で納得の行く証拠で説得する、悪いことであったことを証明する、という語感です。同様な姿勢は、ガラテヤ6:1でも示されていますが、そこで「正す」と訳された語は、「調節する、修理する、正しい位置に合わせる」という意味合いが有り、脱臼した間接を元に戻すのにも用いられるような語だということです。そのようなやり方で、話し合うのです。怒りは神の義をもたらさず、サタンに利用されることになりがちです。だから、愛をもってそうするのです。
16節 聞き入れてもられなかった場合は、次の段階に進みます。一人か二人の人を一緒に連れて行くのは、その人のした悪い行いが、他の人たちにも確認されていることを示す、証人という意味が有ります。また、その人の行いが聖書に照らして悪いことであることを示すという役割も有るかもしれません。
17節 それでも聞き入れられない場合は、三段階目として、教会に告げなければなりません。それは、会衆全体に知らせることが含まれています。それは、イエスにあって一体である教会が拠って立つ聖書の基準に従って、これまでの説得や説明がなされてきたことを示すためでもあります。また、会衆も共有している聖書の基準を再確認するという意味も有るでしょう。今日の世間的な基準で考えると、それはプライバシーの侵害のように思えます。しかし、同じ信仰を持つ者同士の集まりである教会の中においては、それが従うべき基準なのです。
それでも聞き入れられないならば、異邦人か収税人のように扱うなさいということです。イエスは弟子たちに話しておられましたから、ユダヤ人の習慣を例に挙げて指示したことになります。ユダヤ人は他の神々を崇拝する異邦人と交流を持ちませんでした。収税人は、異邦人であるローマ人の手先であるということで、同様に交流を避けていました。教会の実践としては、そういう人には、教会の交流から出てもらうということになります。それは、つまずきを教会から取り除くためで、普段の社会的な交流をすることは差し支えありません。この指示は、もう一度基本的な部分から説明して伝道することを含意すると考える学者もいます。
18節 この節からは、17節の指示によって交流を止める実践について、確信を持つように説明をしています。教会は、イエスの指示に従ってそうするのですから、神がその決定を承認しておられるということです。
19節-20節 18節で、イエスは、まことに、あなたがたに告げますと言われました。そして、ここで、もう一度告げますと言われました。ですから、この部分は、前の指示の続きであることは明白です。二人が、あるいは、二人でも三人でもというのは、罪を犯した兄弟を正すために一緒にでかけた人たちの人数です。彼らは心を一つにして、その人を正し、教会からつまずきを取り除くために行動したので、天の父も、彼らが正しい判断をすることができるように、祈りに応えられたと考えるのです。二人三人が心をあわせて祈るところにイエスも共にいるというのは、そういう意味であって、一般的な祈りを奨励するみ言葉ではありません。複数の註解書がこのことに注意を払うように書いています。
ある人を教会の交流から出すという決断は、難しく辛いものです。しかし、いったんそれば祈りと従順によってなされたならば、教会はそれを神の手に委ねなければなりません。
まとめ)
神は、このような規律をもって、教会からつまずきを取り除くことを望んでおられます。教会は、イエスの血にの代価によって買い取られた聖徒を守る必要が有ります。その実践にあたって心掛けるべきことを、次のような三つのポイントで提示しておきます。
1)つまずきを起こす人を愛と忍耐によって正す
責める、正すという動作のニュアンスを先にお伝えしました。そのような心構えでする必要があります。また、定められた三つの段階を追って対応しなければなりません。その一つ一つの段階で、愛と忍耐が必要になります。その過程において、非難や怒りは不要なのです。
2)つまずきを起こす人を明確な根拠を示して正す
つまずきとなる罪が有ったことを明確に示す必要が有ります。また、その判断が、聖書的な基準によることが明確に示される必要が有ります。また、教会はその基準を明確に共有する必要が有ります。
3)つまずきを起こす人を祈りをもって正す
示された三つの段階の全体を、祈りをもって取り組む必要が有ります。それが、イエスの教えと権威によって行われるように、その人が聖霊の助を得て、説明、説得を理解するように祈ります。そして、ついには、その人を教会の交流から出さなければならいことになった時には、主に委ねることが必要です。主に在る確信をもってそうするためにも、祈りが必要です。