パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2021年11月28日

2021-11-28 16:57:00 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:イザヤ46章1節-13節
説教題:全能の救い主

導入)
  イザヤは、ダビデ王朝末期に活動していました。今回の朗読箇所は、ユダヤ人に将来起こることを伝えると共に、バビロンに連れていかれた民への励ましの意味も含んでいると考えらえます。
  この箇所の大まかな目的は、偶像礼拝の愚かしさを伝え、悔い改めを迫り、神に信頼することを勧めています。

本論)

1)偶像礼拝は虚しいものであるから全能の救い主に頼れ
  ベルやネボは後にユダ王国を滅ぼすバビロンで礼拝されていました。強い国の神は強い神だと思われていました。しかし、ペルシャに敗北し時に、これらの神の像は略奪されてしまいました。かがむという表現は、屈辱や不面目を表します。人が造り、人が運ぶような偶像には、何の力も有りません。
  私達にとっての偶像は、神以外に私達が頼りとしてしまうあらゆる物事です。

2)悔い改めて全能の救い主に頼れ
  神はイスラエルの民を「そむく者ら、強情な者、正義から遠ざかっている者たち」と呼び、「わたしに聞け」と悔い改めを迫っています。「聞く」という語は、従うという意味も有ります。彼らは心に決めて、もう一度真の神の教えにだけ従うことを求められたのです。
  私達は、誰かに助けを求める時、物事や自分をよく理解しており、自分のことを気にかけていてくれる人の助けをより信頼するのではないでしょうか。真の神こそ、私たちが耳を傾け、従って行くべき方です。うっかりその神から注意を逸らしてしまっても、継続的に注意を神に戻して生きるのが私たちの姿勢です。

3)主がどのような方であるかを心に留めて全能の救い主に頼れ
  神は、世界中の神と呼ばれる存在の中の一つではありません。全能の唯一真実の神なのです。イザヤの預言は、ユダヤ人に、そういう神の性質を思い起こさせようとしています。
  この箇所で示されている神の性質は
  1)私たちの全生涯を気にかけて世話してくださる神。(3,4節)
  2)比べうるもののない唯一全能の神。(10節)
  3)私たちに救いと勝利をくださる神(13節)
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日曜礼拝 2021年11月21日

2021-11-21 17:38:08 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ローマ 12:3-8
説教題:生きた供え物としての実践

朗読箇所の文脈的位置から確認します。11章から12章2節まで、パウロは、私たちが救われたのは神の絶大な恵みであることを示しました。そのことを理由として、生きた供え物として生きることを12章の始めに強く勧めています。神の意志に従い、神に栄光を帰する生き方をする決意をせよという語感になります。どのようにしてそれを実践すれば良いのでしょうか。パウロは次の三つを挙げているように思います。

1)私たちは教会で信仰に基づいて賢明に行動しなければならない
2)私たちは教会で一致をもって行動しなければならない
3)私たちは教会で一人一人霊的な賜物を行使しなければならない
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日曜礼拝 2021年11月14日

2021-11-14 21:31:22 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マルコ12:13 - 17
説教題:これは誰の肖像、誰の銘ですか

導入)
 パリサイ人達は度々イエスを罠にかけようとして質問をしてきました。イエスはいつも彼等
の策略を上回る回答をして、罠にかかることはありませんでした。イエスは知恵に満ちた方だ、
素晴らしいと思うことでしょう。しかし、それぞれのエピソードには独特の意味合いが有りま
す。このエピソードを通して神様が私たちに何を示しておられるのかを考えてみましょう。

本論)
 パリサイ人達は早い時期からイエスを殺したいと思っていました。今回は、ヘロデ党の人達
を連れて、イエスの言葉尻をとらえて捕まえようと企てました。ヘロデ党というのは、ヘロデ
王家を支持する人たちで、その後ろ盾となるローマ帝国に税金を払うことにも賛成していまし
た。パリサイ人達はヘロデ王を完全には支持していませんでした。彼が異邦人だったからです。
しかし、イエスを殺すために今回は手を組んだのです。
 彼らの発言、質問は、二重のしかけになっていました。先ず、イエスが人におもねることを
しないで真実を話す人だという評価を示して、今回も正直に話すようにしむけます。次に政治
的にも宗教的にも扱いにくい質問をしました。カイザルに税金を収めるべきか否かという質問
ですから、イエスかノーで答えることになるはずでした。どちらで答えても、難癖をつけて糾
弾できる内容になっていました。
 税金を収めなさいと言えば、お前はメシアだと公言しているくせに、異邦人の王に服従しろ
というのか、偽りのメシアではないかといって捕らえることができます。税金を収めるべきで
はないと言えば、ローマに反逆する者だと訴えて引き渡すことができるというわけです。
 イエスは彼らの企てを一つ一つ退けていきました。先ず、「なぜわたしをためすのか。」と
言って、彼らの計画は見通していることを示しました。次に、彼らが驚嘆するような回答をし
ました。しかし、直接的に回答するのではなくて、デナリ銀貨を見せるようにという要求をし
ました。16節、17節の内容を理解するためには、このデナリ銀貨の説明が必要です。
 デナリ銀貨はローマ帝国の通貨でした。銀の目方から考えると、現代の価値は5ドルぐらい
だそうです。しかし、1デナリは一日分の労賃ということでしたから、100ドルぐらいの価
値は有ったかもしれません。税金を払う時には、ローマの貨幣で払わなければなりませんでし
たので、このデナリ銀貨が用いられました。その時代、カエザル、すなわちローマ皇帝の顔は
貨幣にしか刻んではいけないという皇帝の命令が出されていました。ローマの貨幣は厳しくロ
ーマ皇帝によって管理されており、カエザル、ローマ皇帝の所有物とされていました。
 こういう背景が有ったので、イエスは「カエザルのものはカエザルに返しなさい。」と言わ
れたのです。そういう回答には、パリサイ人達もヘロデ党の人達も文句のつけようがありませ
んでした。デナリ銀貨を出したのがパリサイ人であったら、彼らもローマの貨幣を用いて生活
していることになり、ローマに服従しているではないかという反撃の材料になりかねませんで
した。そうすると、彼らにはイエスを糾弾する資格も無かったことになります。

まとめ)
 17節には彼らはイエスに驚嘆したとあります。周到に準備したと思った質問をイエスが簡単
に片づけてしまったせいかもしれません。しかし、私達はそれよりも、イエスが最後に命じら
れた「神のものは神に返しなさい。」という戒めをもっと重視しなければなりません。この戒
めに従うために、先ずイエスがした質問、「これは誰の肖像ですか、誰の銘ですか。」という
質問に目を留めてみたいと思います。
 デナリ銀貨を見ると、ローマ皇帝の肖像が見えました。アウグストかティベリウスだっただ
ろうと言われます。ですから、銀貨を見れば皇帝はどのような顔かがわかりました。さて、創
世記1章26節、27節を見ますと、人間は神の似姿に創造されていることが示されています。そ
のことを念頭にどのように神のものを神にかえすのかを三点確認いたします。

1)イエスを救い主として受け入れ、尊び、礼拝する
  イエスは神でしたが、人間としてこの世に来られました。神が人となって来られたのです
 から、完璧な神の似姿を持った存在だったと言えます。ヨハネ10章30節ではイエスはご自身 
 が父なる神と一つだと言っています。ヨハネ6章29節では、神の働きをするということは、
 神がお遣わしになった方を信じることだと書かれています。ヨハネ15章は、私たちはイエス
 の戒めを守ることによってイエスにとどまるのだと述べられています。

2)私たちの体を生きた供え物としてささげる
 私たちも神の似姿に創造されています。それだけでなく、イエスの血の代価によって贖われ
 聖霊の証印をいただいます。それは、私たちに神の肖像と銘が刻まれているというふうに理
 解しても良いでしょう。私たちがクリスチャン、キリストに属するもの、と呼ばれるのは相
 応しいことです。ですから、私たちも神のものとして神にかえされるべき存在なのです。ロ
 ーマ12章1節、2節にはっきりこの原則は示されています。そして、それが私たちの礼拝で
 もあるというのです。ですから、日々悔い改める姿勢を持ち、神の国と神の義を先ず求めて
 いくのです。信仰を働かせ、神にだけ頼るのです。

3)私たちの奉仕の業を通して教会を建て上げる
 イエスも私たちも神の姿を反映させた存在です。イエス教会の頭であり、私たちはその体な
 のです。ですから、個々の教会も神のものを神にかえすことをしていかなければなりません。
 聖書の言葉に従って行動するときに、そうすることができるのです。エペソ4章12節、13節
 を確認すると、私たちは奉仕の業を通して教会を建て上げることが述べられています。また、
 信仰の一致を保っていかなければなりません。具体的な表れとしては、日曜礼拝を守ること、
 教会の奉仕の業に携わること、互いに祈り合うこと、献金をもって教会の必要を支援するこ 
 となどが挙げられるでしょう。
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日曜礼拝 2021年11月7日

2021-11-07 19:06:56 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:創世記 24:10 - 14
説教題:エリエゼルの祈り

導入)
  アブラハムのしもべが登場します。彼はエリエゼルであると理解されています。ここでの彼の使命は、主人の息子イサクのお嫁さんを探してくることでした。
  直前の内容から確認していみます。アブラハムは140歳になっていました。すると、イサクは40歳であったことになります。死期が近いことを感じていたアブラハムは、存命中にイサクが結婚するのを見たかったのだと思われます。このことのために、最も信頼のおけるしもべを選びました。
  エリエゼルたどれだけ信頼されていたかは、創世記15:2から分かります。イサクが生まれる前、アブラハムの信仰が弱っていた時、彼の遺産を相続するのはエリエゼルになるのではないかという思いを、アブラハムは神に述べています。彼に遺産を相続させても良いと思える程信頼しているしもべだったということです。 
  エリエゼルにイサクのお嫁さん探しを依頼しましたが、それには条件がついていました。一つ目は、カナン人の女性であってはいけないということです。積み重なる罪のために、神はカナン人を呪っているからです。(創世記9:25参照)二つ目は、イサクをハランに連れて行かないということです。現在滞在している場所こそが、神が定住地として与えると約束された地だからです。三つ目は、出会った女性が、イサクの住む土地に来ることを拒む場合は、エリエゼルはアブラハムに与えられた使命から解かれるということでした。自分の存命中に息子の結婚を目撃しなくても、神の約束は実行されるという確信がそこには有ったと考えられます。

本論)
  仕事に取り掛かったエリエゼルは、先ず、10頭のラクダを選びます。二つの理由が挙げられます。彼の旅は、直線距離でも710キロぐらいの長距離で、乾燥した気候を移動しなければなりませんでしたから、ラクダで移動することが望ましかったのです。10頭にしたのは、それだけのラクダを連れて行けば、アブラハムが裕福であることが証明できるからでした。あらゆる貴重な品々が用意されました。後で彼リベカに贈った金の腕輪など、これらも、主人アブラハムが裕福であり、娘を託するのに心配は無い者だということを示すためでした。
  11節では、エリエゼルは目的地に到着しています。大きな町は城壁で囲まれていて、その外に家畜やキャラバンが水を補給する井戸が有りました。そして、そこが女性に出会うためには最適な場所でした。水汲みは女性の仕事だったからです。しかし、女性は大勢出てくるでしょうから、誰がイサクに相応しい女性であるかを、彼は知る必要が有りました。そこで、彼は神様に祈るのです。
  先ず、彼は、「アブラハムの神」に呼ばわります。彼に信仰が無いからではなく、彼の使命が、神とアブラハムの間の約束に基づいて与えられたものであるからです。また、「今日」という条件を付けて祈りました。アブラハムの死期が近く、早急にイサクのお嫁さんになる人に会わせたいという願いによるものでした。
  エリエゼルが求めたしるしは、その女性に水を求めたら直ぐに飲ませてくれるだけでなく、10頭のラクダのためにも水汲みをすることを申し出てくれるというものでした。ラクダは1頭が80リットルから130リットルの水を一度に飲むのだそうです。すると、その女性は最低でも800リットルの水を汲まなければなりません。ある資料によると、女性の持つカメには20リットル水が入るということです。すると、水だけで20キロの重量になります。そして、最低でも40回水を汲まなければならないことになります。そんな重労働を、見知らぬ女性に頼むことはできません。本人が申し出てくれなければ到底有り得ないことです。しかし、朗読箇所の続きを見ると、神が彼の祈りに応えて、そういう女性に出会わせてくださったことが記されています。

まとめ)
  エリエゼルの祈りは応えられ、かなえられました。彼の祈りはどのような祈りだったのでしょうか。

1)神の約束に基づいた祈り
  神とアブラハムの間の契約・約束は、創世記15:4 – 6 に出てきます。エリエゼルもその内容を知っており、それが神の約束であることを知っていました。その神の約束に則った祈りだったので、応えられたのです。
  聖書に神様から私たち信じる者への約束が多く見出されます。その約束を知り、それに基づいて祈ることを心掛けていきましょう。

2)神への明確な信仰に基づいた祈り
  エリエゼルという彼の名前の意味は、「助ける神、助ける力が有る」というものです。彼の行動から察するに、彼自身も神に対する明確な信仰を持っていました。7節で、アブラハムは、約束をされた神がみ使いをあなたの前に遣わされると言っています。その信仰は、エリエゼルの信仰でもあったと言えます。そして、いざ目的地に着くと、彼は行動する前に祈りました。また、彼は神を礼拝する人物でありました。この出来事の後、26節、48節、52節に彼が神を礼拝する様子が記録されいています。
  恐れるな、あなたと共にいると言ってくださる神への信仰を持って歩みましょう。また、日々の歩みの中で、感謝の心をもって神を礼拝し、祈ることを心掛けましょう。

3)自分に与えれた使命の明確な理解に基づいた祈り
  エリエゼルは目的をしっかり持って祈りました。彼の願いは偶然に左右されるようなしるしを求めたものではありませんでした。やがて一族の長となるイサクの妻に求められる資質を持っていることを、その女性が明らかに示すことを願ったのです。そのような立場の妻は、遠方から訪れる客をもてなす意志と力が必要でした。だから、水を飲ませてくれる上に、10頭のラクダに進んで水を汲んでくれる女性が現れたら、その人がイサクの妻となる女性であるように祈ったのです。
  私たちも、自分が神にどのような環境や能力を与えてくださっているかを理解し、どのような使命が与えられているかを理解した上で、願い祈ることに意味が有ると思います。

  エリエゼルはアブラハムの遺産を相続できる立場でした。しかし、彼はイサクを妬んだりすることはなく、忠実にアブラハムに仕えました。それは、彼が神とアブラハムの間の約束を理解しており、彼自身が神に信頼していたからだと言えそうです。そして、彼は自分の任務をよく理解していました。これらのことが、彼の祈りが応えられた要因であると思われます。

  エリエゼルは、アブラハムの死期が迫っている中での祈りでしたので、直ぐにかなえれらた面が有ると考えられます。一方、それは、私たちの祈りも直ぐかなえられるということを保証するものではありません。私たちは忍耐をもって長く祈らなければならない場合も有ります。しかし、エリエゼルの祈りの原則を心に留めておくことには意味が有ります。
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日曜礼拝(合同礼拝) 2021年10月31日

2021-11-02 16:14:24 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルツ記 2:1 - 4
説教題:神の民の共同体

導入)
  ルツは士師の時代の人物です。ヨシュアの死後数十年程の時期で、神の奇跡の体験をした世代の人たちがまだ生存していた時期だと思われます。イスラエル人がより忠実に神に仕えていた時代ではないかと思われます。当時の神の民の共同体がどのようなものであったかを、ルツ記全体から読み取ってみようと思います。

本論)
1)お互いへの祝福の祈りに満ちている神の民の共同体
  ルツ記を通して読むと、お互いへの祝福の言葉が頻繁に出てきます。(1:8-9、2:4、2:122:19-20、3:10、4:11-12、4:14参照)たった4章で構成されているルツ記に、7回も祝福の祈りが記録されています。
  私たちも、お互いへの祝福の祈りを、直接的にも間接的にもささげて生きる神の民の共同体としての実践をしていくのです。

2)神の誠実な愛を反映した神の民の共同体
  1:8で、ルツの義母であるナオミは、「主があなたがたに恵みを賜り」と言っています。恵みと訳された語は、英語ではkindnessと訳されたりするもので、忠実さ、誠実な愛という意味が有り、頻繁に神やその性質を述べるためも用いられる語です。このような神の誠実な愛がルツに届くようにとナオミは祈ったのです。他の箇所でも、ナオミやボアズが神の誠実な愛を反映した態度で、そのような愛を願ったり讃えたりしています。
  ルツが義母ナオミに仕える様、ボアズがルツに親切にする様にも、このような神の誠実な愛が反映されています。
  また、ナオミやボアズの態度には、神への忠実な愛も反映されています。彼らは、律法に規定を守ることに心を砕いて行動しました。ルツ記は、ボアズとのラブストーリーのように語られることが有りますが、実際はそのようなロマンチックなものではなく、神の掟を忠実に守ろうとした人々と、それに伴う祝福の物語なのです。
  私たちも、神に対して、また、互いに、誠実な愛をもって行動し、仕える共同体を目指すのです。

3)メシアの臨在に導く共同体
  私たちはイエス・キリストの証人です。キリストは私たちの罪の代価を払い、贖ってくださいました。ルツ記においては、ボアズが贖い手であり、買い戻しの権を持っている人物です。先に述べたように、彼は律法を守って、ルツの亡くなった夫、襟目レクの土地を買い戻し、また、ルツと結婚してエリメレクのために子孫を残しました。
  彼が律法に忠実に従った結果は何だったでしょうか。神は、彼の曾孫、ダビデを、神の民の上に王として立てられたのです。そして、私たちの贖い主、救い主イエス・キリストは、人間的には、このダビデの子孫としてお生まれになったのです。
  私たちの生活が、神の律法に忠実なものであり、その結果として他の人々にも神の臨在、信仰をもたらすものであることを目指したいものです。
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