礼拝音声
聖書箇所:イザヤ46章1節-13節
説教題:全能の救い主
導入)
イザヤは、ダビデ王朝末期に活動していました。今回の朗読箇所は、ユダヤ人に将来起こることを伝えると共に、バビロンに連れていかれた民への励ましの意味も含んでいると考えらえます。
この箇所の大まかな目的は、偶像礼拝の愚かしさを伝え、悔い改めを迫り、神に信頼することを勧めています。
本論)
1)偶像礼拝は虚しいものであるから全能の救い主に頼れ
ベルやネボは後にユダ王国を滅ぼすバビロンで礼拝されていました。強い国の神は強い神だと思われていました。しかし、ペルシャに敗北し時に、これらの神の像は略奪されてしまいました。かがむという表現は、屈辱や不面目を表します。人が造り、人が運ぶような偶像には、何の力も有りません。
私達にとっての偶像は、神以外に私達が頼りとしてしまうあらゆる物事です。
2)悔い改めて全能の救い主に頼れ
神はイスラエルの民を「そむく者ら、強情な者、正義から遠ざかっている者たち」と呼び、「わたしに聞け」と悔い改めを迫っています。「聞く」という語は、従うという意味も有ります。彼らは心に決めて、もう一度真の神の教えにだけ従うことを求められたのです。
私達は、誰かに助けを求める時、物事や自分をよく理解しており、自分のことを気にかけていてくれる人の助けをより信頼するのではないでしょうか。真の神こそ、私たちが耳を傾け、従って行くべき方です。うっかりその神から注意を逸らしてしまっても、継続的に注意を神に戻して生きるのが私たちの姿勢です。
3)主がどのような方であるかを心に留めて全能の救い主に頼れ
神は、世界中の神と呼ばれる存在の中の一つではありません。全能の唯一真実の神なのです。イザヤの預言は、ユダヤ人に、そういう神の性質を思い起こさせようとしています。
この箇所で示されている神の性質は
1)私たちの全生涯を気にかけて世話してくださる神。(3,4節)
2)比べうるもののない唯一全能の神。(10節)
3)私たちに救いと勝利をくださる神(13節)
聖書箇所:イザヤ46章1節-13節
説教題:全能の救い主
導入)
イザヤは、ダビデ王朝末期に活動していました。今回の朗読箇所は、ユダヤ人に将来起こることを伝えると共に、バビロンに連れていかれた民への励ましの意味も含んでいると考えらえます。
この箇所の大まかな目的は、偶像礼拝の愚かしさを伝え、悔い改めを迫り、神に信頼することを勧めています。
本論)
1)偶像礼拝は虚しいものであるから全能の救い主に頼れ
ベルやネボは後にユダ王国を滅ぼすバビロンで礼拝されていました。強い国の神は強い神だと思われていました。しかし、ペルシャに敗北し時に、これらの神の像は略奪されてしまいました。かがむという表現は、屈辱や不面目を表します。人が造り、人が運ぶような偶像には、何の力も有りません。
私達にとっての偶像は、神以外に私達が頼りとしてしまうあらゆる物事です。
2)悔い改めて全能の救い主に頼れ
神はイスラエルの民を「そむく者ら、強情な者、正義から遠ざかっている者たち」と呼び、「わたしに聞け」と悔い改めを迫っています。「聞く」という語は、従うという意味も有ります。彼らは心に決めて、もう一度真の神の教えにだけ従うことを求められたのです。
私達は、誰かに助けを求める時、物事や自分をよく理解しており、自分のことを気にかけていてくれる人の助けをより信頼するのではないでしょうか。真の神こそ、私たちが耳を傾け、従って行くべき方です。うっかりその神から注意を逸らしてしまっても、継続的に注意を神に戻して生きるのが私たちの姿勢です。
3)主がどのような方であるかを心に留めて全能の救い主に頼れ
神は、世界中の神と呼ばれる存在の中の一つではありません。全能の唯一真実の神なのです。イザヤの預言は、ユダヤ人に、そういう神の性質を思い起こさせようとしています。
この箇所で示されている神の性質は
1)私たちの全生涯を気にかけて世話してくださる神。(3,4節)
2)比べうるもののない唯一全能の神。(10節)
3)私たちに救いと勝利をくださる神(13節)