礼拝音声
聖書箇所:へブル13:1-6
説教題:神の愛に導かれよ
導入)
この箇所の中心的な指示は、1節の「兄弟愛をいつも持っていなさい。」です。その具体的な在り方がその後に示されています。そのための原則を順を追って確認してみましょう。
本論)
1)神の愛に留まっていただきなさい(1節)
原文のニュアンスは、「兄弟愛に留まらせなさい、継続させなさい。」というものです。擬人化した表現として考えられば、兄弟愛が、私たちの生活の中に留まりたいと思っているので、そうさせなさいという感じになります。そして、これは、神の愛を連想させる内容になっています。神は愛です。そして、ここで用いられた「留まる」という語は、イエスがヨハネ13章や15章で用いたのと同じものです。そこでは、弟子たちにイエスの愛に留まるように、また互いに愛し合うようにと命じています。
2)神の愛に実践的な方法で現れていただきなさい(2節-4節)
ここでは、三つの実践例が挙げられています。
例1 同胞のクリスチャンを守りもてなすことで
ユダヤ人は、旧来から、旅人をもてなす習慣が有りました。しかし、ユダヤ人クリスチャンには冷淡で迫害することがありました。ですから、このような指示がなされているのです。また、ここでは、アブラハムのことを示唆していると思われる記述が有ります。アブラハムは知らずに三人のみ使いをもてなしました。その結果、そのみ使いから、アブラハムは神の御心を告げられました。
例2 祈り、訪問することで
迫害のために牢に入れられるクリスチャンがいました。その人たちに対して、同情心を持ち、祈ったり訪問したりしなさいということです。
私たちの主イエスも、人と同じ経験をされて、私たちに同情心を持っておられます。そのイエスに従う者として、私たちも同様の心構えが必要です。
例3 結婚を尊ばれるものとすることで
尊ばれると訳された語の意味合いは、大変高価で貴重なものとして、というものです。結婚がそういうものである理由は、人が神の似姿に想像されているからです。結婚は、三位一体の神の奥義を象徴し、更にはイエスと教会の結びつきを象徴するものだからです。
この後に、裁かれる対象となる人たちが示されています。不品行な者というのは、正式に結婚していないのに性的関係を持つ人のことです。姦淫を行う者というのは、結婚相手以外の人と性的関係を持つ人のことです。これらの行動は、先に示された、神の似姿に想像されたことの関係性を尊んでいないからです。
3)神の愛に、自信・確信の土台となっていただきなさい(5節‐6節)
金銭を愛する生活が実例として挙げられていますが、その中心的意味合いは、神以外のものに頼って自分の安全を確保しようとする姿勢です。それは、偶像礼拝と同じことになります。私たちは、神にのみ信頼する信仰によって生きるのです。それによって満足するようにと命じられています。満足すると訳された語は、失われることのない力、という意味合いが有ります。お金なら倒産すれば失われてしまいます。しかし、神の守りと養いは失われることがありません。そして、その神がお約束されているのです。決して私たちを離れず、捨てないと。この部分は、原文では否定語が二回用いられて、強意の否定表現になっています。それは、可能性が無いことを示す表現でも有ります。神は、私たちを離れ、捨てる可能性が無い、できない、ということになるのです。
神が私たちを離れることが不可能な理由は何でしょうか。それは、私たちがイエスの血によって買い取られたからです。神が私たちを離れ、捨てるようなことが有れば、それは、イエスの血には価値が無かったことになってしまいます。神にはそのようなことは決してできないのです。そのことに、私たちの自信、確信をみいだして生きるのです。
まとめ)
次の三つの点に留意して、神の愛に導かれる生き方をしていきましょう。
1)神の愛に留まっていただきなさい(1節)
神を愛し、互いに愛し合いなさい。このイエスの教えの基本に留まりましょう。イエスの使徒たちも、それを伝えていきました。私たちも、それに従って生きるのです。
2)神の愛に実践的な方法で現れていただきなさい(2節-4節)
クリスチャンの仲間を、様々な方法で助けていきましょう。祈って支え合うことを忘れてはいけません。迫害されているクリスチャンのために祈りましょう。また、そういう人たちを助ける働きのために祈りましょう。
3)神の愛に、自信・確信の土台となっていただきなさい(5節‐6節)
あなたの確信と平安は、神にのみ土台していなければなりません。神は決して私たちを離れ、捨てることがないのですから。それは不可能なことなのです。
聖書箇所:へブル13:1-6
説教題:神の愛に導かれよ
導入)
この箇所の中心的な指示は、1節の「兄弟愛をいつも持っていなさい。」です。その具体的な在り方がその後に示されています。そのための原則を順を追って確認してみましょう。
本論)
1)神の愛に留まっていただきなさい(1節)
原文のニュアンスは、「兄弟愛に留まらせなさい、継続させなさい。」というものです。擬人化した表現として考えられば、兄弟愛が、私たちの生活の中に留まりたいと思っているので、そうさせなさいという感じになります。そして、これは、神の愛を連想させる内容になっています。神は愛です。そして、ここで用いられた「留まる」という語は、イエスがヨハネ13章や15章で用いたのと同じものです。そこでは、弟子たちにイエスの愛に留まるように、また互いに愛し合うようにと命じています。
2)神の愛に実践的な方法で現れていただきなさい(2節-4節)
ここでは、三つの実践例が挙げられています。
例1 同胞のクリスチャンを守りもてなすことで
ユダヤ人は、旧来から、旅人をもてなす習慣が有りました。しかし、ユダヤ人クリスチャンには冷淡で迫害することがありました。ですから、このような指示がなされているのです。また、ここでは、アブラハムのことを示唆していると思われる記述が有ります。アブラハムは知らずに三人のみ使いをもてなしました。その結果、そのみ使いから、アブラハムは神の御心を告げられました。
例2 祈り、訪問することで
迫害のために牢に入れられるクリスチャンがいました。その人たちに対して、同情心を持ち、祈ったり訪問したりしなさいということです。
私たちの主イエスも、人と同じ経験をされて、私たちに同情心を持っておられます。そのイエスに従う者として、私たちも同様の心構えが必要です。
例3 結婚を尊ばれるものとすることで
尊ばれると訳された語の意味合いは、大変高価で貴重なものとして、というものです。結婚がそういうものである理由は、人が神の似姿に想像されているからです。結婚は、三位一体の神の奥義を象徴し、更にはイエスと教会の結びつきを象徴するものだからです。
この後に、裁かれる対象となる人たちが示されています。不品行な者というのは、正式に結婚していないのに性的関係を持つ人のことです。姦淫を行う者というのは、結婚相手以外の人と性的関係を持つ人のことです。これらの行動は、先に示された、神の似姿に想像されたことの関係性を尊んでいないからです。
3)神の愛に、自信・確信の土台となっていただきなさい(5節‐6節)
金銭を愛する生活が実例として挙げられていますが、その中心的意味合いは、神以外のものに頼って自分の安全を確保しようとする姿勢です。それは、偶像礼拝と同じことになります。私たちは、神にのみ信頼する信仰によって生きるのです。それによって満足するようにと命じられています。満足すると訳された語は、失われることのない力、という意味合いが有ります。お金なら倒産すれば失われてしまいます。しかし、神の守りと養いは失われることがありません。そして、その神がお約束されているのです。決して私たちを離れず、捨てないと。この部分は、原文では否定語が二回用いられて、強意の否定表現になっています。それは、可能性が無いことを示す表現でも有ります。神は、私たちを離れ、捨てる可能性が無い、できない、ということになるのです。
神が私たちを離れることが不可能な理由は何でしょうか。それは、私たちがイエスの血によって買い取られたからです。神が私たちを離れ、捨てるようなことが有れば、それは、イエスの血には価値が無かったことになってしまいます。神にはそのようなことは決してできないのです。そのことに、私たちの自信、確信をみいだして生きるのです。
まとめ)
次の三つの点に留意して、神の愛に導かれる生き方をしていきましょう。
1)神の愛に留まっていただきなさい(1節)
神を愛し、互いに愛し合いなさい。このイエスの教えの基本に留まりましょう。イエスの使徒たちも、それを伝えていきました。私たちも、それに従って生きるのです。
2)神の愛に実践的な方法で現れていただきなさい(2節-4節)
クリスチャンの仲間を、様々な方法で助けていきましょう。祈って支え合うことを忘れてはいけません。迫害されているクリスチャンのために祈りましょう。また、そういう人たちを助ける働きのために祈りましょう。
3)神の愛に、自信・確信の土台となっていただきなさい(5節‐6節)
あなたの確信と平安は、神にのみ土台していなければなりません。神は決して私たちを離れ、捨てることがないのですから。それは不可能なことなのです。