パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2023年3月26日

2023-03-26 22:40:21 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:へブル13:1-6
説教題:神の愛に導かれよ

導入)
  この箇所の中心的な指示は、1節の「兄弟愛をいつも持っていなさい。」です。その具体的な在り方がその後に示されています。そのための原則を順を追って確認してみましょう。

本論)
1)神の愛に留まっていただきなさい(1節)
  原文のニュアンスは、「兄弟愛に留まらせなさい、継続させなさい。」というものです。擬人化した表現として考えられば、兄弟愛が、私たちの生活の中に留まりたいと思っているので、そうさせなさいという感じになります。そして、これは、神の愛を連想させる内容になっています。神は愛です。そして、ここで用いられた「留まる」という語は、イエスがヨハネ13章や15章で用いたのと同じものです。そこでは、弟子たちにイエスの愛に留まるように、また互いに愛し合うようにと命じています。

2)神の愛に実践的な方法で現れていただきなさい(2節-4節)
  ここでは、三つの実践例が挙げられています。

  例1 同胞のクリスチャンを守りもてなすことで
  ユダヤ人は、旧来から、旅人をもてなす習慣が有りました。しかし、ユダヤ人クリスチャンには冷淡で迫害することがありました。ですから、このような指示がなされているのです。また、ここでは、アブラハムのことを示唆していると思われる記述が有ります。アブラハムは知らずに三人のみ使いをもてなしました。その結果、そのみ使いから、アブラハムは神の御心を告げられました。

  例2 祈り、訪問することで
  迫害のために牢に入れられるクリスチャンがいました。その人たちに対して、同情心を持ち、祈ったり訪問したりしなさいということです。
  私たちの主イエスも、人と同じ経験をされて、私たちに同情心を持っておられます。そのイエスに従う者として、私たちも同様の心構えが必要です。

  例3 結婚を尊ばれるものとすることで
  尊ばれると訳された語の意味合いは、大変高価で貴重なものとして、というものです。結婚がそういうものである理由は、人が神の似姿に想像されているからです。結婚は、三位一体の神の奥義を象徴し、更にはイエスと教会の結びつきを象徴するものだからです。
  この後に、裁かれる対象となる人たちが示されています。不品行な者というのは、正式に結婚していないのに性的関係を持つ人のことです。姦淫を行う者というのは、結婚相手以外の人と性的関係を持つ人のことです。これらの行動は、先に示された、神の似姿に想像されたことの関係性を尊んでいないからです。

3)神の愛に、自信・確信の土台となっていただきなさい(5節‐6節)
  金銭を愛する生活が実例として挙げられていますが、その中心的意味合いは、神以外のものに頼って自分の安全を確保しようとする姿勢です。それは、偶像礼拝と同じことになります。私たちは、神にのみ信頼する信仰によって生きるのです。それによって満足するようにと命じられています。満足すると訳された語は、失われることのない力、という意味合いが有ります。お金なら倒産すれば失われてしまいます。しかし、神の守りと養いは失われることがありません。そして、その神がお約束されているのです。決して私たちを離れず、捨てないと。この部分は、原文では否定語が二回用いられて、強意の否定表現になっています。それは、可能性が無いことを示す表現でも有ります。神は、私たちを離れ、捨てる可能性が無い、できない、ということになるのです。
  神が私たちを離れることが不可能な理由は何でしょうか。それは、私たちがイエスの血によって買い取られたからです。神が私たちを離れ、捨てるようなことが有れば、それは、イエスの血には価値が無かったことになってしまいます。神にはそのようなことは決してできないのです。そのことに、私たちの自信、確信をみいだして生きるのです。


まとめ)
次の三つの点に留意して、神の愛に導かれる生き方をしていきましょう。

1)神の愛に留まっていただきなさい(1節)
  神を愛し、互いに愛し合いなさい。このイエスの教えの基本に留まりましょう。イエスの使徒たちも、それを伝えていきました。私たちも、それに従って生きるのです。

2)神の愛に実践的な方法で現れていただきなさい(2節-4節)
  クリスチャンの仲間を、様々な方法で助けていきましょう。祈って支え合うことを忘れてはいけません。迫害されているクリスチャンのために祈りましょう。また、そういう人たちを助ける働きのために祈りましょう。

3)神の愛に、自信・確信の土台となっていただきなさい(5節‐6節)
  あなたの確信と平安は、神にのみ土台していなければなりません。神は決して私たちを離れ、捨てることがないのですから。それは不可能なことなのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2023年3月19日

2023-03-21 13:08:08 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書朗読:マタイ21:12-17
説教題:イエスのメシアとしての主張

導入)
  直前のエピソードでは、イエスがゼカリヤの預言を成就するために、小ロバに乗ってエルサレムに入りました。今回の朗読箇所は、その続きとして、イエスがエルサレムの神殿でした行動についての記録です。その意味を確認してみましょう。

本論)
12節 神殿の境内に売り買いをする者たちがいたことが記されています。祭司たちがその商売を牛耳っていました。神殿で捧げる犠牲の動物は、自分で用意することができたのですが、大抵は祭司達が難癖をつけて、犠牲の動物として相応しくないと言い、彼らが用意した犠牲の動物を高い値段で買わせていました。また、両替人がいたのは、外国からの巡礼者が多くいたからだけではなく、神殿での購入はフェニキヤの貨幣で行われなければならないと決められていたからだそうです。フェニキヤの貨幣が強かったからだったと思われます。また、両替のレートも不当なものであったようです。そういうわけで、イエスはその人たちを追い出したのです。

13節 イエスの言葉は、旧約聖書の引用です。マタイはユダヤ人に向けて福音書を書きました。ユダヤ人たちは、このような旧約聖書の言葉に通じていましたから、その言葉が示唆する事柄がよくわかったと思われます。
  先ず、直接の引用部分は、イザヤ書56章に出て来ます。56章全体を確認するとわかることが二つあります。一つ目は、神は異邦人に対する心配りをしているということです。56章3節や6節には、外国人への神からの心配りがうかがえる表現が有ります。二つ目は、イザヤの時代の指導者たちは、私利私欲のために行動していたことが示されていて、それが、神殿の売り買いを牛耳っている祭司達に重なるということです。
  次に、強盗の巣という表現は、エレミヤ書7章からの引用と考えられます。当時の堕落したユダヤ人たちは、偶像礼拝、姦淫、殺人などをしていても、神殿に来て犠牲を捧げて礼拝し、自分達は救われている、安泰だとという態度だったということです。そういうユダヤ人が集まって礼拝する神殿はまるで強盗の巣のようだというのです。イエスの目には、この時の神殿も同様に見えていたということです。この強盗という表現は、エゼキエル書7章22節では、エルサレムを破壊して人々を捕囚に取ったバビロンの兵士たちを指して用いられています。イエスには、当時の祭司達が、悪辣なバビロンの兵士たちと同様に見えたということと、この後、エルサレムが神の裁きによってローマに破壊されることなどが考えに有ったのではないかと思われます。

14節 イエスは念を押すかのように、もう一度ここで自分が旧約聖書に預言されたメシアであることを示します。目の見えない人や足の萎えた人を癒しました。これは、イザヤ書35章5節、6節の成就と言えます。そして、目の見えない人を癒す奇跡は、メシアによってしか行われていないのです。死者をよみがえらせる奇跡を行ったエリヤやエリシャでさえ、盲人の目を癒したという記録は無いのです。

15節 このような奇跡を目にして、人々はイエスをたたえ、子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。この子供たちのように、人々は単純にイエスがメシアであるしるしとしての奇跡を受け入れました。ところが、祭司長や律法学者たちは、イエスを拒絶し、腹を立てました。腹を立てるという動詞は、大変不愉快に思う、大変怒るという意味が有ります。ヘロデ大王が2歳以下の男児を殺すように命じた時の怒りと同じ語です。また、このことは、弟のアベルを殺したカインの怒りと同じ定義になります。まさしく、彼らは、数日後にイエスを十字架にかけて殺す人たちでした。

16節 祭司長たちの質問の意味は何でしょうか。ダビデの子にホサナという賛美の言葉を、人間であるイエスに向けてかけるのは、神への冒涜ではないか、止めさせないのかということです。イエスの回答の意味は、私は神だからその賛美に相応しいのだ、ということなのです。イエスが引用したのは、詩編8編2節です。その詩編は、主なる神への賛美の詩編なのです。こうして、イエスは祭司長達にも、もう一度明白に自分がメシアであり、神なのだと主張したことになります。祭司長達は、このようなイエスの発言を冒涜として逮捕することができたはずですが、それをしなかったのは、癒された人たちがいて、イエスを預言者と認める人たちが周囲に大勢いたからだと思われます。

17節 マタイが、イエスがこの後ベタニヤに向かったという記録を残したのは、単なる事実の記録ではないように思われます。ベタニヤは、エルサレムから8キロほど離れた町で、徒歩で2時間程の距離にあります。特筆するべきなことは、それが、イエスを受け入れ、もてなしたマルタ、マリア、ラザロ、そして、シモンの住む町だったということです。

まとめ)
  マタイがこの記録によって伝え、明確にしようとしたことを次のように考えることができると思います。

1)イエスは公に自分がメシアであると主張した
  ―神殿に関する権限を行使することによって。
  ―盲人を癒すことによって。
  ―子供の賛美を受け入れることによって。
  ―詩編8編を引用することによって。
それだけではありません。イザヤ書の引用は、イエスが異邦人のための救い主であることも示しています。イエスこそ、神殿の権威であり、礼拝の中心となるべき方です。

2)イエスは拒絶されてはならない
  祭司長たちは旧約聖書に通じていました。メシア預言もよく知っていました。にもかかわらず、彼らは明確なメシアのしるしを無視し、イエスを拒絶しました。その結果が、神の裁きとしての70年のローマによるエルサレム破壊と言えると思います。私たちは、これを反面教師としなければなりません。

3)イエスは復活を信じる者に臨在をあらわされる
  イエスはどこにでも宿を取ることはできたはずです。にもかかわらず、イエスはベタニヤに宿泊することにしました。ベタニヤでイエスを歓迎した人たちの中には、ベタニヤのマリアがいました。ヨハネによる福音書12章では、マリヤが埋葬の準備のために高価な香油をイエスに注いだという記録が有ります。その時のことと考えられるマタイによる福音書26章13節で、福音の語られるところではどこででも、マリヤのことも記念として語られるとイエスは言っています。どうしてでしょうか。それは、マリヤがイエスの復活を信じていたからだと考えられます。十字架にかかられる前に、イエスはそういう信仰を持っている人たちと交流をもたれようとしたのではないでしょうか。今日でも、イエスは、復活を信じるわたしたちと、親しい交流を持っていてくださる方です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2023年3月12日

2023-03-14 16:44:30 | 日曜礼拝
礼拝音声
最初の聖歌のリードがうまくできていません。ピアノ伴奏が入るところからお聞きください。

聖書箇所:マタイ 21:1-11
説教題:見よ、あなたの王が来られる


導入)
  イエスの一行はエルサレムに近づいていました。過ぎ越しの祭りを祝うためでした。ベテパゲという地名が出て来ますが、エルサレムからおよそ2キロ程の場所です。ここでイエスが弟子に出した指示と、その後に起こったことに、どのような意味が有るのでしょうか。ご一緒にみていきましょう。

本論)
2節 3節 イエスは二人の弟子に、近くの村に行ってロバと子ロバを連れてくるように言われました。苦労せず、すぐにみつかると言われています。イエスの神性によってご存知だったのでしょう。他人の家畜を勝手に連れて行くのは窃盗ではないかと思われますが、これは、当時の習慣によるものでした。高い地位にいる人やユダヤ教の教師などが、一時的にロバなどの家畜を借りて、後で返すということがあったのです。だから、「主がご入用なのです。」という言葉で貸してくれる人がいたのです。

4節 5節 先程確認しましたように、ベテパゲからエルサレムまでは2キロ程の距離でした。徒歩でも十分行ける距離なのに、どうしてロバに乗らなければならないのかと思われた人もいると思います。マタイは、ここで、どうしてイエスがそうしたのかを説明しています。それは、旧約聖書の預言が成就するためだったのです。その預言は、5節に示されています。ゼカリヤ9章9節の預言の内容になっています。手っ取り早く言えば、あなたの王がロバの子に乗ってエルサレムに来るという預言でした。
  ルカ24章44節で、イエスは、旧約聖書に出てくるイエスに関する預言は全て成就しなければならないと言っています。ですから、このロバの子にのってエルサレムに来るという預言は必ず成就しなければならなかったのです。そればかりか、この後、民の指導者に苦しめられ、木にかけられて死に、よみがえるという預言まで全て成就しなければならないのでした。

6節、弟子たちが言われた通りにしたということは、問題無くイエスの言われた通りであったということです。このことは、イエスの奇跡的な業であったと理解しても良いと思います。

7節 弟子たちは、ロバと子ロバを連れて来ると、その背に上着をかけました。鞍が無かったからだと考えられます。

8節 イエスが過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに向かっていることは既に説明しました。ですから、他にも大勢の群衆がエルサレムに向かっているのでした。そこで、彼らはイエスがロバに乗っているのを見たので、ゼカリヤ書の預言のことがすぐに思い浮かんだのではないかと思われます。それで、彼らは、道に上着を敷き始めました。上着を道に敷くというのは、そこを通る人を王と認める行為です。(2列王記9章13節参照) 枝を敷いた人たちもいました。イザヤ書40章3節が思い出されます。昔は、王がどこかの町を訪問することになると、人々が道を舗装し直したりして、できるだけ道を平にしました。時には枝を使うことも有ったようです。ですから、これも、イエスを王と認める行為だったと考えることができます。

9節、群衆がイエスをメシア、王と認めた様子は、彼らの叫んだ言葉からも見て取れます。彼らは詩編118編25節を引用していました。ユダヤ人は旧約聖書を暗記していることが多かったのです。また、過ぎ越しの祭りの時には、詩編113編から118編が繰り返し用いられたのです。引用された節には、ダビデの子という表現が有ります。それは、メシアだという意味です。ホザナと言う言葉は「救ってください」という意味です。真に救うことができるのは神だけです。ホザナと言う言葉は、神をほめたたえる言葉になって行きました。彼らは、イエスをそういう存在として認めたことになります。

10節 エルサレムの町は騒ぎ立ったということです。城壁が揺れるようなことも有ったかもしれません。この騒ぎに、「この方は、どういう方なのか。」と尋ねる人がいたということです。イエスの噂はエルサレム、ユダヤに広がっていましたから、このような質問をしたのは、外国から来た巡礼者だったのではないかと思われます。

11節 質問に対する群衆の回答を、皆さんはどう捉えるでしょうか。もし、彼らがイエスを預言者と言ったのが、数ある旧約聖書の預言者の一人という感覚であったなら、間違った回答ということになります。しかし、この時の預言者という語には、定冠詞が着いているということです。すると、これは、申命記18章15節に出て来る、モーセと同様な力有る預言者、メシアを指すことになります。そちらの理解に立てば。その回答は正しいものだったと考えられます。


まとめ)
  ゼカリヤの預言は、あなたの王があなたのところに来る、という内容になっています。イエスはあなたの王でしょうか。イエスはあなたのところに来られたでしょうか。この預言は、「見よ」という呼びかけから始まっています。注意して聞きなさいという意味です。私たちがどのようにイエスを認識するべきかを考えましょう。

1)あなたの王は、あなたを救うために全ての預言を成就された
  イエスは、エルサレムに行かれる時、自分が約束のメシアである印としてこの預言を成就しただけではありません。この後に続く受難と十字架の死、よみがえりまで心に留め、それでもエルサレムまで来れれました。それは、イエスの民となるあなたを救うためでした。
 
2)あなたの王は、天において永遠の王である
  ロバの子に乗ってエルサレムに入ることによって、イエスは、自分がこの世の王とは異なることを示されました。イエスはへりくだっていて、親切な方です。戦争をしかけて敵を倒すためではなく、平和の君として来られました。イエスの王国は、この世の王国ではありません。イエスは、あなたと父なる神の間の恐れを取り除くためにきてくださいました。そして、信じた者に永遠の命をくださるのです。このイエスを通して、平和を得なければなりません。

3)あなたの王は、あなたに認識されなければならない
  イエスを知らない巡礼者たちは、「この方はどんな方か」と尋ねました。私たちは、イエスを知る者として、イエスを王として受け入れ、ほめたたえる者でなければなりません。私たちは、イエスがどういう方であるかを、霊の目が開かれた者として、認識し、受け入れていなければなりません。日々の生活の中に、イエスの教え、イエスの恵みを見いだして歩んでいくのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2023年3月5日

2023-03-05 18:34:51 | 日記
礼拝音声

聖書箇所:イザヤ5:1-10
説教題:わが愛する者

導入)
  先ず、該当箇所の構成から確認します。1節、2節は、短い詩についてのイザヤによる導入と本文です。続いて、3節から6節までが、その詩に関係する神の言葉です。7節から10節は、イザヤによる、神の言葉についての解説です。

本論)
1節、2節 導入において、イザヤは、神のことを「わが愛する者」と表現しています。詩の内容は、後の解説にも出て来ますが、神がユダヤ人をぶどうに例えて、良いぶどう畑を用意したということです。石を取り除いたというのは、心のかたくなさや不信仰を取り除いたくれたということです。山腹という表現が有りますが、神殿が立てられたエルサレムが山の上に建っていたからだと考えられます。残念なことに、神の心遣いにもかかわらず、ぶどうのできは、大変悪いものでした。酸いぶどうと訳された語は、他に、野生のぶどう、腐ったぶどう等と理解できる言葉になっています。

3節 4節 ここからは、直接的な神の言葉として表現されています。神が心配りをして育て、最上の実を期待したのに、酸いぶどうができてしまったのですが、それは誰が悪いのか、判断せよ、と迫った内容になっています。しかし、神が心配りして育てたというならば、最善がなされたということですから、悪い結果になったとしたら、原因はユダヤ人に有るとしか言えません。言い換えれば、神は、これはお前たちユダヤ人のせいだ、と訴えていることになります。

5節、6節 ここから、神は、ユダヤ人に対してどうするか、どう罰するかを述べます。神は、ユダヤの民を守らず、整えず、成るがままに放置するというのです。また、農作物が取れないようにすると言っています。

7節 ここからは、イザヤによる解説です。神が求めた良い実というのは、ユダヤ人の行動と社会における公正と正義のことでした。代わりに彼らが結んだ、腐ったぶどうは、流血や悲鳴でした。

8節 ここでは、彼らの不正の例が示されています。貧しい者を顧みず、金の力にものを言わせて土地や田畑を買い漁る者がいたことが示されています。追い出された人たちは生活が苦しくなったことでしょう。何よりも、律法では、土地は神のもので、地境は移してはいけないことになっていましたから、彼らは、神の命令を無視していたということが問題になります。

9節、10節 神の罰についてのイザヤの説明です。人が家からいなくなるというのです。理由として考えらえるのは、疫病、戦争、捕囚です。また、農作物が育たない様が述べられています。註解書によると、ぶどうの収穫高が、普段の五百分の一程度となるということです。また、麦などは、最低でも蒔いた種の三十倍、豊作なら百倍の収穫が有るはずなのですが、10倍程度しか収穫できないというのです。

まとめ)
  この後、11節からは、具体的な悪行が指摘されています。また、その罰として、国は荒れ廃れ、遠い国から強力な軍隊が攻めて来ることが預言されています。このような厳しい神の言葉を預言しなければならかったイザヤではありますが、彼自身は、神のことを「わが愛する者」と呼んでいるのです。私たちも、神を「わが愛する者」と呼ぶ者でなければなりません。本日の箇所から、私たちは、「わが愛する者」の、どのような面を見つけることができたでしょうか。

1)わが愛する者は、私たちに、深く心配りをされる
  神は細心の注意を払って、イスラエルの民をエジプトから呼び出し、荒野で訓練し、乳と蜜の流れる約束の地に入れました。同様に、神は私たちの人生を導き、聖霊と神の言葉によって信仰と悔い改めに導き、聖なる民に加えてくださいました。私たちを罪から解放するために、一人子なるイエスを遣わされ、私たちの罪の代価を払ってくださいました。イエスを通して、神は私たちを最上のぶどうにしてくださったのです。

2)わが愛する者は、私たちが、神を軽視しないように警告される
  朗読箇所ではありませんが、26節から30節にかけて、神はユダヤ人の5つの罪状を訴えています。神は、私たちの内側に有る曲がった道、罪の性質をご存知です。そこから離れなければ、悪い報いが待っています。そのことは、新約聖書にも警告されています。(ガラテヤ6:7参照)ユダヤ人の不誠実な歩みの要因が、24節では、神の言葉を侮ったことであるとしています。私たちは、神の言葉を豊に蓄えて、神の御心を求めて生活しなければなりません。

3)わが愛する者は、栄光を受けなければならない
  先ず、神は心配りをしてユダヤ人を育て、最上の実を期待したのですから、その期待に応えることによって、神に栄光を帰し、その実を見ることによって栄光を受けなければなりません。ですから、私たちは、その自覚をもって、神を喜ばせることのできる、公正と正義をもって歩まなければなりません。
  次に、16節には、「しかし、万軍の【主】はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。」という記述が有ります。神は全知全能の神であり、最高主権者ですから、その裁き、決定を実行することによって、それが神の栄光の現れとなるのです。私たちが、神がそのような方であることを認め、告白することによって、神に栄光を帰する必要が有ります。

神の罰の記述が多く、その内容が厳しいために、恵まれないと感じられる人もいるかもしれません。しかし、この神が、私たちの味方なのです。私たちの愛する者、愛する主を認識し、愛する主と呼んで、主の恵みの内を歩みましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする