礼拝音声
聖書箇所:ヨハネ 5:19-29
説教題:イエスは神である
導入)
イエスはベテスダの池でメシアのしるしとなる体の不自由な男の癒しの奇跡を行いました。それが安息日に起きたために、ユダヤ人宗教指導者はイエスを非難しました。彼らにとっては、律法や伝統を守らないイエスは偽メシアであったと言えます。イエスはその非難に対する弁明をします。19節からイエスは続けてご自身の神性の弁明をします。三回「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言っています。その大事な点を確認していきましょう。
本論)
19節 イエスは父なる神と子なる神の意思における一致と同一性を説明しています。イエスは、「同様に」と言う言葉を用いています。しかし、神以外に神と同様に事を行うことができる存在が有るでしょうか。イエスは、「私は神だ。」と言ったことになるのです。
20節-21節 父なる神と子なる神の関係は愛に基づいていることが示されています。父なる神がイエスにさらに大きなわざを示すと述べられているのは、病気や体の障害の癒し以上に大きなわざということです。それは、主の日に死者をよみがえらせることです。ユダヤ人の指導者たちはそれを目撃する時に驚くのです。驚くと訳された語には、はかりしれない程驚くという語感が有ります。父の「ように」という部分が、再びイエスと父なる神の同一性を示しています。
22節-23節 この部分も、父なる神とイエスの同一性を示す重要な説明になっています。預言者イザヤを通して、主がさばく方だと述べられています。(33:22)しかし、そのさばく務めをイエスに委ねられているというのです。それは、全ての人がイエスを父なる神「のように」敬うためだというのです。父とイエスは同様に敬われなければならないのです。敬うことに関しては、イザヤは42:8において、父なる神は誰にも栄光をわたさないと言っています。イエスが父なる神と同質であるからこそ、人々が敬うことになるのです。父なる神は、人々にイエスを敬い礼拝して欲しいと望んでおられるのです。イエスはこの箇所を通して、「私は神である。私を礼拝しなさい。」と言っていることになります。
24節 二つ目に「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」の部分です。イエスはここではご自身が命を与え救うものであることを示しています。その恵みを受けるための条件が示されています。
1)「わたしの言葉を聞いて」-その言葉とはイエスの福音のことばです。イエスの福音は神の計画ですから、イエスのことばは父なる神のことばでもあります。
2)父なる神を信じる-「わたしを遣わした方を信じる」とはそういうことです。それは、旧約のメシアを送るという約束や、メシアのしるしとして預言されている奇跡のわざも含まれているでしょう。
これらの条件を満たした人は、さばきに合うことがなく、死からいのちに移っています。神がそうなさるのですから、さばきに合うことは不可能なのです。移っていると訳された語は完了時制です。信仰を持った人たちは、すでに永遠のいのちに入っているのです。バプテスマのヨハネとイエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言って宣教を始められましたが、それはもう私達の中で実現しているのです。
25節-29節 三つ目の「まことに、まことに、あなたがたに告げます」がここから始まりました。ここでも父なる神とイエスの同一性が、さばきとよみがえりを焦点に述べられています。
死人が神の子の声を聞く時が来ますと述べられています。死人というのは、ルカ9:60で用いられている表現が参考になります。キリストにつながっていない、霊的に死んだ人ということです。「聞く者」とは、福音を受け入れた者ということです。その人は、霊的にも生きた者となり、永遠の命を持つのです。
26節 神は全ての根源なるお方ですから、ご自身の外側に源を持つことは有り得ません。子にも自分のうちにいのちを持つようにしてくださったという表現は与えたような印象になります。実際に原文でも一般的に与えると訳される語が用いられていますが、幅広い意味が有ります。「当然で正当なものを与える」「返却する」という意味合いも有ります。すると、元からイエスの中に有ったものを確認するという語感になり、イエスは命の根源であり神であるという意味になります。イエスは永遠に神なのです。
27節 ここでイエスは再び明確にご自身の神性を宣言します。「子は人の子だからです。」という表現は大変大事な宣言になっています。二つ目の「子」は、ギリシャ語の聖書でも大文字で表記されることがあり、英語に訳す時は定冠詞のtheが着きます。それは、ダニエル7:13-14に出て来る「人の子」を指すと理解されます。その人の子は、主権と栄光と国が与えられ、諸国民がことごとく彼に仕えるとされています。仕えると訳された語は、神に敬意を払う、礼拝するという意味が有ります。しかも、彼の主権は永遠の主権だと述べられています。つまり、人の子は神です。イエスは自分がその「人の子」だと言ったのですから、言い換えれば、「私は神だ。」と言ったことになるのです。国を支配する者に統治とさばきの権限が与えられているのは当然です。従って、先に確認したイザヤの言葉からも、イエスは神であることが再確認されていることになります。
28節 このことに驚いてはならないというのは、イエスがダニエルの預言した人の子であり、内側に命を持ちさばく方だということを指しています。その結果、死人が墓から出て来る時が来ているからだと言います。マタイ27:52-53 には、イエスが十字架で死なれた時、また復活された時、死人が墓から出て来たという証言が残っています。これが部分的な成就と言えるでしょう。そして、イエスの再臨の時にはそれが完全に成就することになるのです。
29節 ここでは二種類の行いと二種類のよみがえりが出て来ます。「善を行う」というのは、神のことばを聞き入れて従うことです。「行う」という動詞は、実行する、達成するという意味が有るものが用いられています。福音を聞いて受け入れた者は善を行う者となります。そして、永遠のいのちにつながるよみがえりを経験します。「悪を行う」というのは、罪の性質を持ち、神の御心と戒めを無視することです。ここで用いられている「行う」という動詞は、先とは別のもので、習慣的に繰り返し行うという意味のものが用いられています。習慣的に神の御心を無視し、拒絶するならば、永遠に神から切り離されるというさばきを受けることになります。
まとめ)
イエスは神であることが弁証されました。その中心的な内容と思われるものを確認します。
1)イエスは父なる神と同質の神である
「同様に」という表現が父なる神とイエスを同質の神としてつなげています。父なる神は栄光や栄誉を他の者に分かち与えることはしないと宣言していますが、イエスとは分かち合うのです。神がさばくとイザヤは述べましたが、それをイエスが行うことになるのです。そして、イエスはダニエルの預言に出て来た人の子です。イエスは礼拝され、永遠に治める存在なのです。
2)イエスは父なる神のことばを語る
24節でイエスは、イエスの宣教のことを聞いて、イエスを遣わした方を信じるということを勧めています。イエスの福音宣教は、神の御計画を宣べ伝えるのですから、父なる神のことばと言えます。そして、応答する者の永遠の命はすでに始まっているのです。その人は滅びに至るさばきに合うことがありません。神がお救いになると約束されたのですから、さばきに合うことは不可能なのです。
3)イエスは私達をよみがえらせ、さばかれる
いのちを与え、さばくのは神の業です。イエスが再臨される時は、すべての死者がよみがえりさばかれます。それは判決をくだす、決めるということです。それはクリスチャンにも起こります。イエスは私達が善を行ったことに基づいて、いのちを授かる判決をくだされます。習慣的に繰り返し神を無視し、拒絶した者には永遠の刑罰を受ける判決がくだされます。周囲にいたパリサイ人たちが念頭に有っただろうと思われます。
聖書箇所:ヨハネ 5:19-29
説教題:イエスは神である
導入)
イエスはベテスダの池でメシアのしるしとなる体の不自由な男の癒しの奇跡を行いました。それが安息日に起きたために、ユダヤ人宗教指導者はイエスを非難しました。彼らにとっては、律法や伝統を守らないイエスは偽メシアであったと言えます。イエスはその非難に対する弁明をします。19節からイエスは続けてご自身の神性の弁明をします。三回「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言っています。その大事な点を確認していきましょう。
本論)
19節 イエスは父なる神と子なる神の意思における一致と同一性を説明しています。イエスは、「同様に」と言う言葉を用いています。しかし、神以外に神と同様に事を行うことができる存在が有るでしょうか。イエスは、「私は神だ。」と言ったことになるのです。
20節-21節 父なる神と子なる神の関係は愛に基づいていることが示されています。父なる神がイエスにさらに大きなわざを示すと述べられているのは、病気や体の障害の癒し以上に大きなわざということです。それは、主の日に死者をよみがえらせることです。ユダヤ人の指導者たちはそれを目撃する時に驚くのです。驚くと訳された語には、はかりしれない程驚くという語感が有ります。父の「ように」という部分が、再びイエスと父なる神の同一性を示しています。
22節-23節 この部分も、父なる神とイエスの同一性を示す重要な説明になっています。預言者イザヤを通して、主がさばく方だと述べられています。(33:22)しかし、そのさばく務めをイエスに委ねられているというのです。それは、全ての人がイエスを父なる神「のように」敬うためだというのです。父とイエスは同様に敬われなければならないのです。敬うことに関しては、イザヤは42:8において、父なる神は誰にも栄光をわたさないと言っています。イエスが父なる神と同質であるからこそ、人々が敬うことになるのです。父なる神は、人々にイエスを敬い礼拝して欲しいと望んでおられるのです。イエスはこの箇所を通して、「私は神である。私を礼拝しなさい。」と言っていることになります。
24節 二つ目に「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」の部分です。イエスはここではご自身が命を与え救うものであることを示しています。その恵みを受けるための条件が示されています。
1)「わたしの言葉を聞いて」-その言葉とはイエスの福音のことばです。イエスの福音は神の計画ですから、イエスのことばは父なる神のことばでもあります。
2)父なる神を信じる-「わたしを遣わした方を信じる」とはそういうことです。それは、旧約のメシアを送るという約束や、メシアのしるしとして預言されている奇跡のわざも含まれているでしょう。
これらの条件を満たした人は、さばきに合うことがなく、死からいのちに移っています。神がそうなさるのですから、さばきに合うことは不可能なのです。移っていると訳された語は完了時制です。信仰を持った人たちは、すでに永遠のいのちに入っているのです。バプテスマのヨハネとイエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言って宣教を始められましたが、それはもう私達の中で実現しているのです。
25節-29節 三つ目の「まことに、まことに、あなたがたに告げます」がここから始まりました。ここでも父なる神とイエスの同一性が、さばきとよみがえりを焦点に述べられています。
死人が神の子の声を聞く時が来ますと述べられています。死人というのは、ルカ9:60で用いられている表現が参考になります。キリストにつながっていない、霊的に死んだ人ということです。「聞く者」とは、福音を受け入れた者ということです。その人は、霊的にも生きた者となり、永遠の命を持つのです。
26節 神は全ての根源なるお方ですから、ご自身の外側に源を持つことは有り得ません。子にも自分のうちにいのちを持つようにしてくださったという表現は与えたような印象になります。実際に原文でも一般的に与えると訳される語が用いられていますが、幅広い意味が有ります。「当然で正当なものを与える」「返却する」という意味合いも有ります。すると、元からイエスの中に有ったものを確認するという語感になり、イエスは命の根源であり神であるという意味になります。イエスは永遠に神なのです。
27節 ここでイエスは再び明確にご自身の神性を宣言します。「子は人の子だからです。」という表現は大変大事な宣言になっています。二つ目の「子」は、ギリシャ語の聖書でも大文字で表記されることがあり、英語に訳す時は定冠詞のtheが着きます。それは、ダニエル7:13-14に出て来る「人の子」を指すと理解されます。その人の子は、主権と栄光と国が与えられ、諸国民がことごとく彼に仕えるとされています。仕えると訳された語は、神に敬意を払う、礼拝するという意味が有ります。しかも、彼の主権は永遠の主権だと述べられています。つまり、人の子は神です。イエスは自分がその「人の子」だと言ったのですから、言い換えれば、「私は神だ。」と言ったことになるのです。国を支配する者に統治とさばきの権限が与えられているのは当然です。従って、先に確認したイザヤの言葉からも、イエスは神であることが再確認されていることになります。
28節 このことに驚いてはならないというのは、イエスがダニエルの預言した人の子であり、内側に命を持ちさばく方だということを指しています。その結果、死人が墓から出て来る時が来ているからだと言います。マタイ27:52-53 には、イエスが十字架で死なれた時、また復活された時、死人が墓から出て来たという証言が残っています。これが部分的な成就と言えるでしょう。そして、イエスの再臨の時にはそれが完全に成就することになるのです。
29節 ここでは二種類の行いと二種類のよみがえりが出て来ます。「善を行う」というのは、神のことばを聞き入れて従うことです。「行う」という動詞は、実行する、達成するという意味が有るものが用いられています。福音を聞いて受け入れた者は善を行う者となります。そして、永遠のいのちにつながるよみがえりを経験します。「悪を行う」というのは、罪の性質を持ち、神の御心と戒めを無視することです。ここで用いられている「行う」という動詞は、先とは別のもので、習慣的に繰り返し行うという意味のものが用いられています。習慣的に神の御心を無視し、拒絶するならば、永遠に神から切り離されるというさばきを受けることになります。
まとめ)
イエスは神であることが弁証されました。その中心的な内容と思われるものを確認します。
1)イエスは父なる神と同質の神である
「同様に」という表現が父なる神とイエスを同質の神としてつなげています。父なる神は栄光や栄誉を他の者に分かち与えることはしないと宣言していますが、イエスとは分かち合うのです。神がさばくとイザヤは述べましたが、それをイエスが行うことになるのです。そして、イエスはダニエルの預言に出て来た人の子です。イエスは礼拝され、永遠に治める存在なのです。
2)イエスは父なる神のことばを語る
24節でイエスは、イエスの宣教のことを聞いて、イエスを遣わした方を信じるということを勧めています。イエスの福音宣教は、神の御計画を宣べ伝えるのですから、父なる神のことばと言えます。そして、応答する者の永遠の命はすでに始まっているのです。その人は滅びに至るさばきに合うことがありません。神がお救いになると約束されたのですから、さばきに合うことは不可能なのです。
3)イエスは私達をよみがえらせ、さばかれる
いのちを与え、さばくのは神の業です。イエスが再臨される時は、すべての死者がよみがえりさばかれます。それは判決をくだす、決めるということです。それはクリスチャンにも起こります。イエスは私達が善を行ったことに基づいて、いのちを授かる判決をくだされます。習慣的に繰り返し神を無視し、拒絶した者には永遠の刑罰を受ける判決がくだされます。周囲にいたパリサイ人たちが念頭に有っただろうと思われます。