パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年9月22日

2024-09-22 23:11:03 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヨハネ 5:19-29
説教題:イエスは神である

導入)
  イエスはベテスダの池でメシアのしるしとなる体の不自由な男の癒しの奇跡を行いました。それが安息日に起きたために、ユダヤ人宗教指導者はイエスを非難しました。彼らにとっては、律法や伝統を守らないイエスは偽メシアであったと言えます。イエスはその非難に対する弁明をします。19節からイエスは続けてご自身の神性の弁明をします。三回「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言っています。その大事な点を確認していきましょう。

本論)
19節 イエスは父なる神と子なる神の意思における一致と同一性を説明しています。イエスは、「同様に」と言う言葉を用いています。しかし、神以外に神と同様に事を行うことができる存在が有るでしょうか。イエスは、「私は神だ。」と言ったことになるのです。
20節-21節 父なる神と子なる神の関係は愛に基づいていることが示されています。父なる神がイエスにさらに大きなわざを示すと述べられているのは、病気や体の障害の癒し以上に大きなわざということです。それは、主の日に死者をよみがえらせることです。ユダヤ人の指導者たちはそれを目撃する時に驚くのです。驚くと訳された語には、はかりしれない程驚くという語感が有ります。父の「ように」という部分が、再びイエスと父なる神の同一性を示しています。
22節-23節 この部分も、父なる神とイエスの同一性を示す重要な説明になっています。預言者イザヤを通して、主がさばく方だと述べられています。(33:22)しかし、そのさばく務めをイエスに委ねられているというのです。それは、全ての人がイエスを父なる神「のように」敬うためだというのです。父とイエスは同様に敬われなければならないのです。敬うことに関しては、イザヤは42:8において、父なる神は誰にも栄光をわたさないと言っています。イエスが父なる神と同質であるからこそ、人々が敬うことになるのです。父なる神は、人々にイエスを敬い礼拝して欲しいと望んでおられるのです。イエスはこの箇所を通して、「私は神である。私を礼拝しなさい。」と言っていることになります。

24節 二つ目に「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」の部分です。イエスはここではご自身が命を与え救うものであることを示しています。その恵みを受けるための条件が示されています。
1)「わたしの言葉を聞いて」-その言葉とはイエスの福音のことばです。イエスの福音は神の計画ですから、イエスのことばは父なる神のことばでもあります。
2)父なる神を信じる-「わたしを遣わした方を信じる」とはそういうことです。それは、旧約のメシアを送るという約束や、メシアのしるしとして預言されている奇跡のわざも含まれているでしょう。
  これらの条件を満たした人は、さばきに合うことがなく、死からいのちに移っています。神がそうなさるのですから、さばきに合うことは不可能なのです。移っていると訳された語は完了時制です。信仰を持った人たちは、すでに永遠のいのちに入っているのです。バプテスマのヨハネとイエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言って宣教を始められましたが、それはもう私達の中で実現しているのです。
25節-29節 三つ目の「まことに、まことに、あなたがたに告げます」がここから始まりました。ここでも父なる神とイエスの同一性が、さばきとよみがえりを焦点に述べられています。
  死人が神の子の声を聞く時が来ますと述べられています。死人というのは、ルカ9:60で用いられている表現が参考になります。キリストにつながっていない、霊的に死んだ人ということです。「聞く者」とは、福音を受け入れた者ということです。その人は、霊的にも生きた者となり、永遠の命を持つのです。
26節 神は全ての根源なるお方ですから、ご自身の外側に源を持つことは有り得ません。子にも自分のうちにいのちを持つようにしてくださったという表現は与えたような印象になります。実際に原文でも一般的に与えると訳される語が用いられていますが、幅広い意味が有ります。「当然で正当なものを与える」「返却する」という意味合いも有ります。すると、元からイエスの中に有ったものを確認するという語感になり、イエスは命の根源であり神であるという意味になります。イエスは永遠に神なのです。
27節 ここでイエスは再び明確にご自身の神性を宣言します。「子は人の子だからです。」という表現は大変大事な宣言になっています。二つ目の「子」は、ギリシャ語の聖書でも大文字で表記されることがあり、英語に訳す時は定冠詞のtheが着きます。それは、ダニエル7:13-14に出て来る「人の子」を指すと理解されます。その人の子は、主権と栄光と国が与えられ、諸国民がことごとく彼に仕えるとされています。仕えると訳された語は、神に敬意を払う、礼拝するという意味が有ります。しかも、彼の主権は永遠の主権だと述べられています。つまり、人の子は神です。イエスは自分がその「人の子」だと言ったのですから、言い換えれば、「私は神だ。」と言ったことになるのです。国を支配する者に統治とさばきの権限が与えられているのは当然です。従って、先に確認したイザヤの言葉からも、イエスは神であることが再確認されていることになります。
28節 このことに驚いてはならないというのは、イエスがダニエルの預言した人の子であり、内側に命を持ちさばく方だということを指しています。その結果、死人が墓から出て来る時が来ているからだと言います。マタイ27:52-53 には、イエスが十字架で死なれた時、また復活された時、死人が墓から出て来たという証言が残っています。これが部分的な成就と言えるでしょう。そして、イエスの再臨の時にはそれが完全に成就することになるのです。
29節 ここでは二種類の行いと二種類のよみがえりが出て来ます。「善を行う」というのは、神のことばを聞き入れて従うことです。「行う」という動詞は、実行する、達成するという意味が有るものが用いられています。福音を聞いて受け入れた者は善を行う者となります。そして、永遠のいのちにつながるよみがえりを経験します。「悪を行う」というのは、罪の性質を持ち、神の御心と戒めを無視することです。ここで用いられている「行う」という動詞は、先とは別のもので、習慣的に繰り返し行うという意味のものが用いられています。習慣的に神の御心を無視し、拒絶するならば、永遠に神から切り離されるというさばきを受けることになります。

  
まとめ)
  イエスは神であることが弁証されました。その中心的な内容と思われるものを確認します。
1)イエスは父なる神と同質の神である
  「同様に」という表現が父なる神とイエスを同質の神としてつなげています。父なる神は栄光や栄誉を他の者に分かち与えることはしないと宣言していますが、イエスとは分かち合うのです。神がさばくとイザヤは述べましたが、それをイエスが行うことになるのです。そして、イエスはダニエルの預言に出て来た人の子です。イエスは礼拝され、永遠に治める存在なのです。
2)イエスは父なる神のことばを語る
  24節でイエスは、イエスの宣教のことを聞いて、イエスを遣わした方を信じるということを勧めています。イエスの福音宣教は、神の御計画を宣べ伝えるのですから、父なる神のことばと言えます。そして、応答する者の永遠の命はすでに始まっているのです。その人は滅びに至るさばきに合うことがありません。神がお救いになると約束されたのですから、さばきに合うことは不可能なのです。
3)イエスは私達をよみがえらせ、さばかれる
  いのちを与え、さばくのは神の業です。イエスが再臨される時は、すべての死者がよみがえりさばかれます。それは判決をくだす、決めるということです。それはクリスチャンにも起こります。イエスは私達が善を行ったことに基づいて、いのちを授かる判決をくだされます。習慣的に繰り返し神を無視し、拒絶した者には永遠の刑罰を受ける判決がくだされます。周囲にいたパリサイ人たちが念頭に有っただろうと思われます。
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日曜礼拝 2024年9月15日

2024-09-15 22:14:30 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ピリピ 2:19-30
説教題:イエス・キリストのことを求める

導入)
  ピリピの教会の信徒たちに救いの達成に努めるように励ました後、パウロは、テモテとエパフロデトをピリピに送る計画について述べます。本日の内容においても救いの達成に努める姿勢の一部を垣間見ることができます。(救いを達成することの具体的な実践は14節-16節をご確認ください。)ここでは、パウロ、テモテ、エパフロデトの姿勢がどのように救いの達成の務めに関わっており、イエス・キリストのことを求める姿勢になっているかを見てみましょう。

本論)
1)すべてのことを主にあって行う
  この朗読箇所には、「主にあって」という表現が三回出て来ます。

  19節-20節 「主イエスにあって」という部分は、互いに愛し合いなさいというイエスの戒めを反映していると考えてよいでしょう。20節には、何故テモテを派遣するのかという理由が述べられています。テモテは誰よりも純粋にイエスにあってピリピの信徒たちを愛し気遣ってたからです。パウロ自身も、彼らに対する愛が有ったが故にテモテを送ることにしたのです。 
  テモテを派遣するにあたって、パウロが期待していたことがもう一つあります。テモテがパウロの元に戻って来る時には、ピリピの信徒たちが信仰に励んでいるという証や報告が聞けることです。その証や報告がパウロにとって喜ばしものになると述べることで、ピリピの信徒たちへの愛を表したと言えるでしょう。

  24節 ここでは、神の主権と統治への信頼を述べていると考えることができます。先に確認した19節にも、この感覚は含まれていると考えて良いと思います。ここでの「主にあって」は、「もし主の御心であれば」と理解できると考えられます。パウロは自分が実現を期待する計画、予定が有りました。しかし、同時に、物事は主の御心に従って成るということをパウロは心得ていました。(詩編 37:5、箴言 19:21参照)私達もいつも同様の心構えを持っていなければなりません。
  パウロは自分が釈放された時にピリピを訪問する計画について述べましたが、続けてエパフロデトをピリピに送り返すことを述べています。このことによっても、パウロはピリピの信徒たちへの愛を示しています。
  エパフロデトは、ピリピの教会の信徒でした。教会がパウロを援助して金銭的な支援や贈り物をしようとしたときに、教会の代表としてローマまで出かけました。そして、ローマでパウロの必要のために続けて仕えていました。ですから、パウロは自分が釈放されるまで一緒にいて欲しいと思ってもおかしくなかったのですが、ピリピの教会の信徒たちが早く彼と再会できるように、すぐにでも送り返すと言っているのです。 
  このことに関わる状況は27節-28節に記されています。エパフロデトは、ローマに来てからも熱心にパウロを支えて活動しましたが、何等かの思い病気にかかってしまって、死にそうになったということです。しかし、神様の憐みによって、彼は癒されました。彼が思い病気になったということはただでさえ哀しい出来事でしたが、もし、死んでしまったとなれば、もっと悲しくなったことでしょう。神様は、そのような状況にならないようにしてくださったと言って、パウロは感謝しています。そのような喜びを分かち合うことも、互いに愛し合うという戒めの実践ということができます。

29節 ここでは、主にあってエパフロデトを迎えるようにと指示されています。「迎える」と訳された語は、認める、受け入れる、待つ、探すというような語感があり、歓迎すると訳すことのできるものです。仲間であるエパフロデトが無事に帰って来ることは大変喜ばしいことでしょう。しかし、それよりも、「主にあって」彼を歓迎することはもっと大事なことです。パウロがこのように述べているのは、教会の一部に、ローマで大病を患うことになったエパフロデトに対する非難の声があったからではないかと考える人たちもいます。それでも、エパフロデトは歓迎に値するのです。それは第一にイエスの戒めが私達に互いに愛し合うことを命じているからです。また、エパフロデトがキリストの働きのために命をかけたからです。
  
2)キリストの仕事のために命・生活を捧げる人たちを尊ぶ
  イエス・キリストのことを求める姿勢の二つ目の表れは、キリストの仕事のために命や生活を捧げる人たちを尊ぶことです。29節で「尊敬を払いなさい」と訳されている語は、貴重であると思う、愛しいと思う、高く評価するという意味があります。エパフロデトをそのように考えて歓迎する理由は、彼がキリストの仕事のために命をかけたからです。
  「あなたがたが私に仕えることのできなかった分」という表現があります。ピリピの信徒たちは贈り物をする程パウロを愛して気遣っていましたが、直接パウロを支援することができませんでした。それが「出来なかった分、不足した分」ということになります。それをエパフロデトが埋めてくれたのだから、非難するのではなく尊敬を払いなさいということです。
  私達は外国にでかけてキリストに仕えている宣教師たちのために祈ります。彼らは私達が直接でかけてお仕えすることの「出来ない分」を満たしてくださっている方々です。私達はその人たちのために祈り、宣教報告で訪問してくる時には歓迎し、尊敬を払うのです。

3)イエス・キリストのことを求める
  イエス・キリストのことを求める姿勢そのものを考えてみます。原文はキリストに関わる物事と訳せる内容になっています。「キリストが関心を払う物事を追求する」というように訳している聖書もあります。
  21節を見ると、それとは逆の状態の人たちが出て来ます。この節は、テモテの姿勢についての表現の一部です。そんな人たちとは異なり、テモテもエパフロデトもイエス・キリストが関心を払う物事を追求する姿勢を持っていました。21節で、「だれもみな」と表現されている人たちが誰なのかは示されていません。第二テモテ4:10 に出て来る、世を愛してパウロを見捨ててテサロニケに行ってしまったデマスのような人たちなのだろうと思われます。反対に私たちがイエス・キリストのことを求めるならば、この世で光として輝くという目標に向けた行動ができることになります。神に感謝して不平を言わず論争しないこと、純粋な福音の教えを保持すること、神の言葉を人にも示すこと、パウロ、テモテ、エパフロデトが示したような互いんい愛し合う実践をすることが含まれます。  
  
まとめ)
  パウロが示した三つの命令を再確認します。
1)すべてのことを主にあって行う
  主にあってというのは、主の戒めに従って、同じ主に結ばれた信徒同士としてということが含まれます。そこには、互いに愛し合いなさいという戒めが入っています。また、主が最高主権者であり、主の御心を求める姿勢も入っています。証をし、互いに励まし合い、互いに歓迎し合うことにつながる行動をしていきましょう。
2)キリストの仕事のために命・生活を捧げる人たちを尊ぶ
  宣教師、牧師、長老、執事など、特に生活の中でキリストの仕事に携わっている人々に尊敬を払いましょう。その人たちは、私達が届かない、満たすことのできない部分を担っているからです。特に、迫害の厳しい国々で使えている方々を覚えて祈りましょう。
3)イエス・キリストのことを求める
  敬虔な思いをもって救いの達成に継続的に取り組みましょう。神に感謝して不平を言わないこと、純粋な聖書的福音理解を保持すること、キリストの証人として、聖書の教えというこの世とは異なった基準に従って生きていることを示しましょう。その聖書の言葉を世の人にも渡していき、宣教の業を支援しましょう。キリストの体なる教会を、共に仕え合い、共に建て上げていきましょう。
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日曜礼拝 2024年9月8日

2024-09-08 19:39:43 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ピリピ 2:12-18
説教題:世の光として生きるために

導入)
  パウロはピリピ人への手紙の1章で、ピリピの信徒たちを誉めていますが、同時に内部に不協和が有ることを指摘しました。そして、1章27節では、キリストの福音にふさわしく生きるように命じています。2章の最初の段落では、イエス・キリストの謙遜を模範として一致して生きることで神に栄光を帰するように命じています。
  謙遜と言う概念は、当時は奴隷の持つべき性質と考えられ、一般人の徳目とは思われていませんでした。しかし、神のためにこの世から取り出された聖徒たちは、神の基準で生きることが求められており、イエス・キリストの証人として、世の光として生きなければなりません。そのことのために三つの命令が本日の聖書箇所には見出されます。

本論)
1)継続的に自分の救いの達成に努めなさい(12節-13節)
  達成すると訳された語は、労して効果を上げる、完成するまで実行する、という語感が有ります。私達は、イエスの再臨の日に与えられる救いの最終段階を目指しながら、私達のクリスチャンとしての性質をより良い段階に向けて努力して高めていく必要があります。このことのために、パウロは三つの要素を述べているように思われます。
1)その努力は個人的な務めである
  パウロは、「私のいない今はなおさら」とい述べています。パウロがいれば頻繁に助言を受けられたかもしれませんが、もう彼はピリピにはいなかったのです。ですから、彼らは自ら進んで信仰の維持と成長に取り組まなければならなかったのです。私達の信仰の成長も、故人々々が目標を目指して取り組むものです。
2)謙遜にと取り組まなければならない
  パウロは「恐れおののいて」という表現を使っています。これは、しもべが主人の意向を注意深く汲んで謙遜に仕えて行く姿勢を表しています。私達は神の前に能力の足りない人間であることを自覚しています。その自覚が、神に拠り頼む心構えを導きます。この時、パウロは教会の聖徒達の一致のことも考えていたであろうと思われます。
3)神への畏敬の念をもって取り組まなければならない
  救いは神からいただくものです。1章6節では、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は」と表現されています。私達が従順して努める時、神は助けてくださいます。神が私達の霊的な成長の主たる原動力なのです。ですから、わたしたちは神に助けてくださるように祈り求めるのです。「ことを行わせる」と訳された語は、効果的に行うという語感があり、神が私達にしてくださることを含意していると思われます。また、「みこころ」と訳された語は、喜びと訳される語が用いられています。私達の救いの達成を助けることが神にとって喜びであるということです。また、聖徒に恵みを賜ることが神の喜びだということになります。神がそのようなお方であることを感謝し、畏敬の念をもって救いの達成に努めなければなりません。

2)世の光として立つためにすべてのことをしなさい(14節-16節)
  地上で過ごす間、私達が救いの達成に努めることは、この世でイエス・キリストを証する結果につながらなければなりません。「すべてのこと」というのは、1章27節以降のパウロの教えです。パウロがピリピに滞在していた間に教えたことも含まれているかもしれません。パウロは先ずその教えを守るうえで必要な条件を示します。それは、つぶやかず、疑わずに行えということです。「疑う」と訳された語は、論争するという意味が有り、そちらの訳が採用されている聖書もあります。そのようなことがあると、教会は一致していくことが難しくなります。これらの行動は、荒野を放浪したイスラエルの民のことを思い起こさせます。彼らは、神に対する感謝や畏敬の念がありませんでした。私達は神に対する感謝と畏敬の念が欠けていてはいけません。
  論争することについては、マルコ9章のできごとが参考になるでしょう。イエスの弟子たちは、自分達の中で誰が一番偉いかと議論していました。そのような議論、論争は、虚栄心から出てくるものです。ピリピの地方では、哲学者や思想家が、自分を偉く見せるために議論をする姿勢を持っていたと言われます。ピリピのクリスチャンもそのような文化に染まっていたのかもしれません。 
  パウロは次にそのように行動する目的を示しています。非難されることのない純真な者になること、傷のない神の子となることだと述べています。「純真な」と訳された語は、水割りされていない、混ぜ物のないぶどう酒を指して用いられるものだということです。それは、イエスの新しいぶどう酒と新しい皮袋の例話を思い起させます。新しいぶどう酒とは、イエスを信じる信仰によって義とされるという福音のことばです。イエス・キリストの福音のことばは、混ぜ物がない状態で保たれなければなりません。
 神の子供は、神のためにこの世から取り出された聖徒です。聖徒は神の掟、神の基準によって生きなければなりません。この世の基準ではなく、神の基準で生きていることが現れることが、聖徒が光であるということです。(光と言う表現についてはイザヤ42章6節も参照)神の子どもであるということの中心的な要素は16節の「いのちのことばをしっかり握って」と言う部分に示されています。
「握って」と訳された語には、宴会で客にぶどう酒をすすめる、振る舞うという語感が含まれるということです。神の子どもは霊的な新しいぶどう酒である聖書の言葉の真理、イエス・キリストの福音をすすめるのです。勿論、しっかり握りしめるという語感も有ります。聖徒として、神の言葉をしっかり握りしめて、聖書の言葉に従って生きて行かなければなりません。この二つの意味が聖徒の中で車の両輪のように相互に働かなければなりません。(1ペテロ1章23節、2章三節、ヨハネ1章1節-5節参照)
  ピリピの聖徒たちが、そのように生きるならば、救いの達成がイエスの再臨の時にパウロは確認することができ、むだに労したのではないことをほこることができるだろうと言って、その期待を示し、励ましています。

3)主の日の希望をもって生きた供え物としての人生を喜びなさい(17節-18節)
  パウロは17節と18節で喜びを表す同義語を繰り返し用いて、聖徒が互いに分かち合うべき喜びを強調しています。「いっしょに喜ぶ」と訳される語は、祝うという意味も有ります。彼らが分かち合ったものは、生きた供え物としての生活、礼拝の生活であり、また、イエスの再臨の時に完成する救いの喜びです。その喜びが大変大きいので、福音を言い広め、教会を励ますために自分が殉教することになっても喜ぶと言っています。そして、その喜びは、私達にとっても喜びでなければいけません。

まとめ)
  パウロが示した三つの命令を再確認します。
1)継続的に自分の救いの達成に努めなさい(12節-13節)
  私たちは神の国での信仰の達成、完成を目指します。それは、わたしたち一人一人の個人的な務めです。遜って、私達を喜んで助けてくださる神に従順して努力していくのです。私たちの成長と私達の救いの完成を、神は喜んでいてくださいます。
2)世の光として立つためにすべてのことをしなさい(14節-16節)
  つぶやいたり論争したりしてはいけません。神に感謝しましょう。神のみ言葉をしっかり握りしめ、それを他の人たちとも分かち合っていくのです。そうすることで、私たちは聖徒として、世の光として立つことになるのです。
3)主の日の希望をもって生きた供え物としての人生を喜びなさい(17節-18節)
  礼拝者としての生活を喜びましょう。イエスの来臨の時に完成する救いの希望をもって喜びましょう。あらゆる福音宣教のわざと、互いをに励まし合うことに喜びを見いだしましょう。
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日曜礼拝 2024年9月1日

2024-09-01 21:43:08 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ヨシュア15:13-19
説教題:神の忠実なしもべ

導入)
  カレブがアナク人と戦った記録は11章と14章に出てきます。彼は神に忠実で、神が契約に忠実な方であることを証明したのです。15章は再び彼の業績を述べています。彼の証は記憶されるべきものだったのです。しかし、彼ユダ族への貢献はそれだけではありませんでした。カレブの模範から更に学んでいきましょう。

本論)
13節 ヨシュアがカレブに土地を与えたのは、神の命令によるものでした。カレブに土地が与えられる約束は民数記14 :24、申命記1:36等に記録されています。彼に与えられたのはヘブロンでした。そこには巨人であるアナク人が住んでいました。45年前にカレブが探索に出かけた時、人々は恐れて神の命令に従わず、約束の地を取りに行きませんでした。カレブはその地を取ることで、神の約束の確かなことを示したのです。また、ヘブロンは父祖アブラハムが神の約束を信じて土地を購入した場所でもありました。
14節 三人のアナク人の名前が出て来ます。同じ名前が民数記13:22に出て来ます。それから45年経っても、同じ人達がそこに居た、もしくは、その名前は一族の名前であって、その人たちがずっとそこに居たということかもしれません。45年前に民を恐れさせた存在を、カレブが追い出したことに違いは有りません。
15節 カレブはヘブロンに定住し、環境を整えていきましたが、自分の土地が手に入ったから後のことは知らないという態度ではありませんでした。更に仲間を助けて、最年長の指揮官として、デビルの町へ攻め上りました。デビルの町は、元の名称がキルヤテ・セフェルであったと記録されています。それは、「本の町」というような意味が有り、アナク人たちの大事な書物や記録が保存されている町であったと考えられています。そのためであると思われますが、城壁が有り、堅固で強い町であったということです。そのような攻略が難しい町でしたが、信仰によってカレブは仲間を励まして、神の約束と命令に従って町を取りに行ったのです。
16節 カレブは仲間を励ますために、更に当時は普通に行われていた報奨を申し出ます。デビルの町を取るにあたって主要な働きをした者には、娘のアクサを妻として与えるというものでした。およそ180年後にサウル王がゴリアテを倒す者に娘を与えると、同様の約束をした記録が有ります。名の有る人物の娘を妻とすることは名誉なことでしたし、大きな持参金も期待され、若い兵士の士気は上がったと思われます。因みに、いくら子供に対する両親の権限が大きかった時代とはいえ、娘たちはその結婚を断る権利が有りました。アクサは状況をよく理解し、信仰によってこの約束の履行を受け入れたのだと考えられます。アクサと言う名前は、アンクレット、足輪という意味が有り、美と両親の愛情を表すものでした。信仰の人であるカレブの元で愛されて育った娘として行動したと思われます。
17節 オテニエルという人物がデビルを取るのに主要な役割を果たして、アクサを妻に迎えたことが記録されています。この箇所の理解は、原文のヘブル語の理解に幅が有るため、二種類の解釈が有ります。オテニエルが誰であったかということです。一つの理解は、カレブとオテニエルが兄弟だというものです。アクサは叔父と結婚したことになります。しかし、この時カレブ85歳以上で、弟が初婚もしくは新しく妻を迎える年齢というのは有り得なくはないのですが、少々無理が有るように思います。もう一つの理解は、カレブにケナズという兄弟がいて、その息子がオテニエルというものです。すると、カレブの甥ということになります。こちらの理解の方が可能性が高いのではないかと思われます。この場合はアクサは従兄弟と結婚したことになります。いずれの解釈も可能なため、様々な聖書を読み比べると、どちらの理解も出て来ます。
  オテニエルがカレブと同じ一門の出で有ることは、彼の信仰が確かなものであったことを推測させます。実際に彼は、この後、人々が堕落しても神に忠実に歩み、最初の士師として活躍しています。
18節 この出来事は、おそらくオテニエルとアクサの結婚の日のことと思われます。二人は親類で顔見知りであったかもしれませんが、新婚の夫婦が結婚当日までお互いに顔を知らないことも有った時代です。結婚の前に親しく相談をすることは無かったと思われます。結婚のお祝いと引っ越しの行列が新居に向かって進んで行く途中のことだったのではないかと思われますが、この時にオテニエルとアクサが相談をしたということでしょう。
  ここでも原文のヘブル語の解釈を巡って二つの考えが有ります。オテニエルがアクサに提案をしたというものと、アクサがオテニエルに提案したというものとが有ります。様々な聖書を読み比べると、この二通りの理解を見ることになります。文法的な面から見ると、動詞が女性動詞になっているので、アクサがオテニエルに提案したと考えることになります。
  適切な場所に来た時に、アクサはロバから下りました。女性が乗っていた動物から下りるのは、主人、父、夫などに敬意を表す行為でした。ですから、創世記では、リベカがイサクを見つけた時にラクダから下りたことが記録されています。そういう習慣が有ったので、カレブはアクサが何かを求めるだろうということは予測できたのでしょう。「あなたは何が欲しいのか。」と尋ねています。
19節 「お祝い」と訳された部分は、祝福という意味と、贈り物という意味が有ります。ネゲブの地が与えられたから、というのはどういうことでしょうか。ネゲブは南の方に位置していて、砂地が多く水の供給が大変重要な場所でした。18節では「畑を求めるように」という表現がされています。十分に水があって、農耕ができる場所が欲しいということです。もしかすると、オアシスのような場所を考えていたかもしれません。それで、アクサがカレブにお願いする時には、泉を下さいと言ったのです。
  カレブの応答は大変気前の良いものでした。一つではなく、二つの泉を与えてくれたのです。二倍の祝福です。その行動は、必要なものを求める者には多くの祝福を下さる天の父なる神の性質を象徴していると思われます。私達にとっては、霊的な命の水が重要です。福音とイエスをメシアと信じる信仰によって与えられる命の水が有ります。更に、イエスの元に来る人たちに与えられる聖霊という命の水が有ります。私達も二倍の祝福をいただいて生きていると言えないでしょうか。

まとめ)
本日の内容は、士師記1:1-15にも繰り返し記録されていて、大事な内容であったと理解することができます。私達が読み取れる原則を確認してみましょう。

1)神の忠実なしもべは神に信頼する
カレブは神とその約束を信頼しました。神が彼に約束した地であるヘブロンを受け取りました。彼の甥と考えられるオテニエルも、同様の信仰を持ち、城壁が有る強い町であったデビルを取る時に主要な働きをしました。私達も、聖書に示されている神と神のの約束を信頼して歩み続けるのです。

2)神の忠実なしもべば仲間を励ます
カレブは最年長でしたし、自分に約束された土地を得ましたので、一線を退いてもおかしくはありませんでした。しかし、かれは同族を励まして、共に戦いました。彼がヘブロンを取ったことも仲間に希望を持たせたと思われます。更に進んで、デビルを取った者には彼の娘を妻として与えると申し出ました。このような背景から、オテニエルは士師記3:10では最初の士師になったことが記録されています。

3)神の忠実なしもべは必要なものを求めて答えられる
  ネゲブはエジプトの方に近く、荒野や砂地でした。水はそのような場所では大変貴重です。アクサは大事な水を求めて、二倍の祝福を得ました。私達もこの世では霊的な闇、霊的な荒野にいると言えるでしょう。私達も霊的な命の水が必要なのです。いつもイエスの福音の力と聖霊の力を祈り求めることが必須です。私達は神に祝福を求めることができます。カレブと同時代に生きたかもしれないヤベツも、祈って神に答えられました。
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日曜礼拝 2024年8月25日

2024-08-25 20:43:19 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:レビ 19:1-18
説教題:聖いということ
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