パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

パース日本語キリスト教会概要

2024-09-15 22:17:51 | 日記
*教会概要は常にトップに表示されます。活動報告は、スクロールしてご覧ください。*




パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。

所在地 101 Kimberley Street West Leederville 6007 WA

集会
日曜礼拝    午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)

聖書研究会   火曜日午後1時より(現在休止中です。ブログに研究ノートを掲載します。)
プレイグループ 木曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)

*集会開催の有無、その他のお問い合わせは左サイドバーのメッセージフォームをご利用ください。

関連サイト等
Henderson Memorial Presbyterian Church
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2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。

2015年10月森本実牧師が就任しました。
献金でご支援いただければ幸いです。
Westpac
BSB 036-048
Account Number 318 792
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日曜礼拝 2024年4月28日

2024-04-28 20:53:55 | 日記
礼拝音声

聖書箇所:詩編 119:169-176
説教題:みことばを歌え
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聖書研究ノート 2023年5月9日 (2)

2023-05-09 12:55:10 | 日記
聖書箇所:ヨハネによる福音書12:37-43

37節 多くのしるし:イエスが旧約で預言されたメシアである印。
→ 具体的には、盲人や肢体不自由者の癒しや、五千人の給食等。
・彼ら:一般の大衆の多くの者。

38節 イザヤのことば:イザヤ53:1 – 知らせ、神の御心の預言の言葉。主の御腕 ― 救いに導く神のみ力(ローマ1:16参照)
→ 人々の不信仰な様は予め示されていた。

39節 イザヤのことばを信じなかった、旧約時代の人々についての説明。

40節 神がその人々の心の目を閉じたから信じることがなかった。しかし、前提は人間の自由意志である。与えられた機会を拒絶すると、神が人の心を閉じる時が有る。(参考:出エジプト7:1~9:7 パロが強情で、神の命令を受け入れなかった。その結果、9:81~10:29 においては、神がパロの心をかたくなにしている。)

41節 イザヤ書には、メシア預言が多く記されている。6:1において、「主を見た」と記されている。その時に、来るメシア、イエスについての啓示も受けたのかもしれない。

42節 「聞く耳の有る者は聞きなさい。」(ルカ8:8等)神の言葉に耳を傾ける人たちが存在することを示したイエスの言葉の通り、イエスを信じる者は指導者たちの中にもたくさんいた。「指導者たち」は、ユダヤ人議会(サンヘドリン)の構成員と考えられる。聖書中では、ニコデモとアリマタヤのヨセフの名が記されている。

43節 同じ議会の構成員であるパリサイ派の議員たちを恐れて、彼らは信仰を公にしなかった。パリサイ派が有力である議会では、イエスをメシアだと認める者はユダヤ人の会堂(シナゴーグ)から追放することが非公式に了解されていた。(ヨハネ9:22参照)イエスをメシアと認める告白をすることの方が、神の目に尊く栄誉なことであったが、彼らは、ユダヤ人議会の構成員であるという栄誉の方を重んじたことになる。会堂から追放するというのは、最も厳しいものは、集会に出席できないだけではなく、社会生活からも排除されることがあった。そのような迫害を耐えることは、はっきりした信仰と、神の支えが無ければ不可能である。

まとめ)
・神は、預言の成就やしるしとしての奇跡を通して、イエスがメシアであることを十分に、明確に示した。
・信じない者は、自由意志によってそうしているが、その結果、神がその心を閉じられる場合が有る。
・信じる者でも、人の栄誉を優先する者が有る。
・信じる者と信じない者へのさばき、神の裁定は、続く44節~50節に示される。
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日曜礼拝 2023年3月5日

2023-03-05 18:34:51 | 日記
礼拝音声

聖書箇所:イザヤ5:1-10
説教題:わが愛する者

導入)
  先ず、該当箇所の構成から確認します。1節、2節は、短い詩についてのイザヤによる導入と本文です。続いて、3節から6節までが、その詩に関係する神の言葉です。7節から10節は、イザヤによる、神の言葉についての解説です。

本論)
1節、2節 導入において、イザヤは、神のことを「わが愛する者」と表現しています。詩の内容は、後の解説にも出て来ますが、神がユダヤ人をぶどうに例えて、良いぶどう畑を用意したということです。石を取り除いたというのは、心のかたくなさや不信仰を取り除いたくれたということです。山腹という表現が有りますが、神殿が立てられたエルサレムが山の上に建っていたからだと考えられます。残念なことに、神の心遣いにもかかわらず、ぶどうのできは、大変悪いものでした。酸いぶどうと訳された語は、他に、野生のぶどう、腐ったぶどう等と理解できる言葉になっています。

3節 4節 ここからは、直接的な神の言葉として表現されています。神が心配りをして育て、最上の実を期待したのに、酸いぶどうができてしまったのですが、それは誰が悪いのか、判断せよ、と迫った内容になっています。しかし、神が心配りして育てたというならば、最善がなされたということですから、悪い結果になったとしたら、原因はユダヤ人に有るとしか言えません。言い換えれば、神は、これはお前たちユダヤ人のせいだ、と訴えていることになります。

5節、6節 ここから、神は、ユダヤ人に対してどうするか、どう罰するかを述べます。神は、ユダヤの民を守らず、整えず、成るがままに放置するというのです。また、農作物が取れないようにすると言っています。

7節 ここからは、イザヤによる解説です。神が求めた良い実というのは、ユダヤ人の行動と社会における公正と正義のことでした。代わりに彼らが結んだ、腐ったぶどうは、流血や悲鳴でした。

8節 ここでは、彼らの不正の例が示されています。貧しい者を顧みず、金の力にものを言わせて土地や田畑を買い漁る者がいたことが示されています。追い出された人たちは生活が苦しくなったことでしょう。何よりも、律法では、土地は神のもので、地境は移してはいけないことになっていましたから、彼らは、神の命令を無視していたということが問題になります。

9節、10節 神の罰についてのイザヤの説明です。人が家からいなくなるというのです。理由として考えらえるのは、疫病、戦争、捕囚です。また、農作物が育たない様が述べられています。註解書によると、ぶどうの収穫高が、普段の五百分の一程度となるということです。また、麦などは、最低でも蒔いた種の三十倍、豊作なら百倍の収穫が有るはずなのですが、10倍程度しか収穫できないというのです。

まとめ)
  この後、11節からは、具体的な悪行が指摘されています。また、その罰として、国は荒れ廃れ、遠い国から強力な軍隊が攻めて来ることが預言されています。このような厳しい神の言葉を預言しなければならかったイザヤではありますが、彼自身は、神のことを「わが愛する者」と呼んでいるのです。私たちも、神を「わが愛する者」と呼ぶ者でなければなりません。本日の箇所から、私たちは、「わが愛する者」の、どのような面を見つけることができたでしょうか。

1)わが愛する者は、私たちに、深く心配りをされる
  神は細心の注意を払って、イスラエルの民をエジプトから呼び出し、荒野で訓練し、乳と蜜の流れる約束の地に入れました。同様に、神は私たちの人生を導き、聖霊と神の言葉によって信仰と悔い改めに導き、聖なる民に加えてくださいました。私たちを罪から解放するために、一人子なるイエスを遣わされ、私たちの罪の代価を払ってくださいました。イエスを通して、神は私たちを最上のぶどうにしてくださったのです。

2)わが愛する者は、私たちが、神を軽視しないように警告される
  朗読箇所ではありませんが、26節から30節にかけて、神はユダヤ人の5つの罪状を訴えています。神は、私たちの内側に有る曲がった道、罪の性質をご存知です。そこから離れなければ、悪い報いが待っています。そのことは、新約聖書にも警告されています。(ガラテヤ6:7参照)ユダヤ人の不誠実な歩みの要因が、24節では、神の言葉を侮ったことであるとしています。私たちは、神の言葉を豊に蓄えて、神の御心を求めて生活しなければなりません。

3)わが愛する者は、栄光を受けなければならない
  先ず、神は心配りをしてユダヤ人を育て、最上の実を期待したのですから、その期待に応えることによって、神に栄光を帰し、その実を見ることによって栄光を受けなければなりません。ですから、私たちは、その自覚をもって、神を喜ばせることのできる、公正と正義をもって歩まなければなりません。
  次に、16節には、「しかし、万軍の【主】はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。」という記述が有ります。神は全知全能の神であり、最高主権者ですから、その裁き、決定を実行することによって、それが神の栄光の現れとなるのです。私たちが、神がそのような方であることを認め、告白することによって、神に栄光を帰する必要が有ります。

神の罰の記述が多く、その内容が厳しいために、恵まれないと感じられる人もいるかもしれません。しかし、この神が、私たちの味方なのです。私たちの愛する者、愛する主を認識し、愛する主と呼んで、主の恵みの内を歩みましょう。
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日曜礼拝 2022年10月9日

2022-10-09 22:57:16 | 日記
礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 3:6-13
説教題:パウロの慰めと祈り

導入)
  この箇所は、原文では二つの文から成っています。一つ目の主節は、「私たちは慰めを受けました。」というものです。慰めという語は、励ましをも意味することのできる語です。二つ目は、11節から始まる二つの祈願文です。日本語の聖書では、節の分割の都合上、「(神が)~してくださいますように。」という三つの祈願文のように訳されていますが、13節は、12節の祈願文の目的、もしくは結果の叙述になっています。パウロが述べている慰めと、祈願を確認してみましょう。

本論)
慰め、励まし 
1)パウロにとっては、テモテの報告で確認したテサロニケ教会の信徒たちの愛と信仰の歩みが慰め、励ましとなりました。私たちも、お互いに信仰の歩みが証となり、牧師や他の信徒の慰め、励ましとなるように心がけるべきです。

2)パウロは、単に報告を聞いて励まされただけでなく、そのことを感謝と喜びのうちに神に祈ることによっても、慰めと励ましを受けたと考えられます。私たちも、互いのために感謝を持って祈る実践をこころがけることが望ましいと考えられます。

3)パウロは、テサロニケの信徒たちの霊的、信仰的成長を祈ることによって、励ましを受けることが有ったと考えられます。私たちも、牧師だけでなく、信徒間においても、互いの信仰の成長を祈り合って、励ましを受けるものでありたいと思います。


祈り
1)パウロは、テサロニケの信徒たちが聖書的理解を深める必要が有ることを感じて、自分をもう一度テサロニケに送ってくださるように、神に祈っています。私たちは、そのような人が与えられるように祈り、また、自分でも求めて聖書を読み、知識を増し加えるように努めることが必要です。

2) パウロは、その次に、テサロニケの信徒たちが、これまでの実践以上に愛が増し加わり、溢れるように祈っています。神は愛ですから、信徒の共同体は、愛の関係が深まるように努めることになります。

3)原文の雰囲気は、「あなたの心が、聖別において責められるところのない様に強められるように」というものです。それが、愛が増し加わり、溢れることの目的・結果であるということです。強められるというのは、「確立する」ということが基本に有る語意です。私たちの愛は、この世の愛とは異なり、キリストの愛に対する信仰から出ています。ですから、そのような愛が増し加わるように生きる時、私たちは、この世の基準から取り分けられた・聖別された者として姿勢、生き方を確立していくことになるのです。そして、それは、イエスの再臨の時まで、キリストの身体なる教会に連なる全聖徒の継続的な取り組みとなります、
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