パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

聖書研究ノート 2023年5月30日

2023-05-30 16:03:09 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ13:12-20

ヨハネ13章12節~20節

12節 イエス7節で、「あとでわかるようになります。」と言ったように、ここから、イエスの説明が始まる。

13節 ユダヤ人は、学者や教師を名前で呼ぶことはせず、先生や主という肩書で呼んだ。それは、敬意を表すものであった。だから、ここでイエスが弟子たちの態度を確認したことは、先にしもべや奴隷の仕事である、足を洗うことをしたことと、鮮明な対象となり、次の節につながる。

14節、15節 弟子は師匠の教え、行動に倣う者であるから、イエスと同様に、弟子たちは足を洗い合う、仕え合うようにという指示。1テモテ5:10では、同信の徒の足を洗うことが、仕える者の働きとして勧められている。

16節 弟子の立場の再確認。師であるイエスに勝る存在ではないから、偉大な人物として振る舞おうと思ってはならない。先に示したように、イエスが教訓を与えることになったのは、弟子たちの内で誰が一番偉いかという議論を彼らがしていたからである。

17節 イエスの教えは、既に繰り返し伝えられていた。彼らにはその知識、理解は有ったが、普段の振る舞いや考えに結び付いていなかった。理解と行動を一致させることが求められている。同時に、そのように行動できる時に、神の祝福が有ることが強調されている。祝福されると訳された語は、山上の垂訓で、幸いだ、と訳されているもの。神の国において、「よくやった、良い忠実なしもべだ。」と言われることに比肩される祝福、幸いは無い。

18節 あなたがた全部について言っているのではない、という発言は、裏切って祝福からこぼれる者がいることを示している。ユダは他の弟子たちと同様に、弟子として選ばれ、薫陶を受け、神の国の宣教に派遣された。だが、彼だけが自らの内面を神の国の価値観に合わせて変えて行くことをしなかった。
   詩編41:9が、メシア預言としてイエスに取り上げられている。それは、イエスがメシアであることのしるしとなり、成就しなければならなかった。

19節 イエスが詩編の預言を取り上げて語った理由。ことが起こる前に予告し、その通りになれば、その予告は信頼されなければならない。後から説明しても、こじつけだと思われる場合が有る。11人の弟子たちが、イエスのことを信じる後押しをするために、この説明がされた。神は、私たちの信仰を、聖書の言葉によって促される方である。

20節 ここでは、弟子たち、イエス、父なる神の関係が確認されている。イエスの受難、復活、昇天の後に、弟子たちが宣教に励む時、弟子とその福音の言葉を受け入れた者たちは、イエスを受け入れたことになる。弟子たちは、使徒でもあり、忠実に主人であるイエスの言葉を伝えるからだ。弟子の言葉を聞いてイエスを受け入れた者は、同時に、天の父を受け入れたことになる。イエスによる救いの計画は、天の父が旧約聖書を通して予め示しておられ、それが成就したのだから。このことは、ユダの裏切りが明らかになり、イエスの受難を目撃する弟子たちへの確約、励ましの言葉となる。


まとめ
・弟子は師に倣う者である。私たちも、イエスの仕える姿を心に留めて、互いに仕え合う心を持って教会を建て上げる。イエスを信じると告白するならば、その教えに従うことになる。

・イエスの教えに従うことは、祝福である。神の国において、主の聖徒として認められる幸いを、人生の希望として持つことができる幸いも、そこに含まれる。

・イエスは、最後まで、ご自身が旧約聖書に預言されたメシアであることを示し、弟子たちの信仰を後押しした。私たちの信仰も、聖書を通して強められることが必要である。

・福音を受け入れた者は、イエスを受け入れ、また、父なる神を受け入れた。
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日曜礼拝 2023年5月28日

2023-05-28 21:53:49 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ7:24-29
説教題:霊的に賢い人

28節、29節には、イエス・キリストが権威有る者として話されたことが書いてあります。イエス・キリストはヨハネ1章1節では神のことばと呼ばれている方です。この方のことばに耳を傾けてみましょう。

二種類の人が出てきます。賢い人と愚かな人ですが、その違いは、イエス・キリストのことばを実行に移すか否にかかっています。勿論私たちは賢い人になりたいに決まっています。この聖書箇所に出てくる賢い人の三つのポイントを考えてみます。

1)霊的に賢い人はキリストのことばを実行に移す
  この箇所におけるキリストのことばとは、マタイ5章から7章に記録さえている一連の山上の垂  訓の内容ということになります。コンピューターのウィルスソフトは、インストールしてある  だけでは意味が有りません。(最近では全自動だったりするかもしれませんが)定期的に起動  してスキャンする必要があります。同様に、キリストのことばも実行に移さなければただの知識にしかすぎません。そうする人だけが霊的に賢い人です。

2)霊的に賢い人はキリストを求める努力をする
  ルカによる福音書においては、同様な教えの箇所において、努力することを明確に書き添えています。日々努力してキリストを求め、キリストとの個人的な交流を増し加えていくことですパウロも第二コリント13章5節で「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、吟味しなさい。」と勧めていますが、そのような努力も含まれています。

3)霊的に賢い人は生活の中の様々な困難に耐える
  25節には、雨、洪水、風が出てきます。ユダヤでは冬になると大雨が降りますが、高地や山には植物が少ないため、保水力が無く、雨はそのまま流れてしまい、洪水になるのです。水は困難の象徴です。それが、雨、洪水として襲い、更に風まで吹くのです。様々な困難が有るということです。しかも、これは毎年のことなのです。しかし、イエス・キリストに土台していれば、守られるのです。最大の困難である罪と死からも守られるのです。
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ジェディダイア

2023-05-24 00:07:59 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
アンがマシューとマリラの家に着いた翌日、自分の生い立ちについて話すように命じられた時に、両親の名前について話します。父親はウォルター(Walter)で、母親はバーサ(Bertha)という名前だと紹介した時、アンは、両親の名前を素敵な名前であり、両親の名前がきれいな名前で良かったと言います。その後に、父親の名前がジェディダイア(Jedediah)という名前だったら、生涯の重荷になっただろうと言っています。

聖書をあまり読んだことのない方には、このくだりはあまりピンと来ないかもしれません。ジェディダイアというのは、旧約聖書のサムエル記Ⅱ12章25節に出て来る名前です。この名前は、ダビデ王の後を継いで王となったソロモン王の別名です。神がソロモンを愛されたので、預言者ナタンを遣わして、この名前を与えたということが記されています。新改訳聖書では、エディデヤと表記されています。

この名前の意味は、「主の愛されている者」というもので、祝福を表すものでした。聖書の中には一度しか出てこないために、人名としてよりも、神がソロモンを受け入れられたということを示すために与えられたものと考えられています。

ここまで判れば、アンの生涯の重荷になっただろうという感想も理解できるのではないでしょうか。先ず、その「主から愛されている者」という意味は、有難くはありますが、時には、分不相応と言いましょうか、自分がそんな名前を名乗るのは図々しいという感じがするのではないかと思います。

更に、ソロモン王の功績を考えると、そのことも重荷になるのではないかと思います。ソロモン王は、ダビデ王朝の王の中で、最も広い領土を獲得した王です。彼の治世では、農業生産が増大し、軍備が整えられました。また、ソロモンは博識で知恵が有ることで知られました。文学にも造詣が深く、千五種の詩を書き表わし、あらゆる動植物のことを詳しく知っていたとされています。エルサレムの神殿を建立したことでも知られています。

自分がそんな人物の名前を着けられたら、本人も名前負けしていると感じて、負担に思ったことでしょう。アンの言葉を「生涯の重荷」と訳すのも頷けます。

ただ、原文では、“It would be a real disgrace to have a father named—well, say Jedediah, wouldn’t it?”という表現になっていて、重荷というよりは、恥ずかしいという感覚であったようです。
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聖書研究ノート 2023年5月23日

2023-05-23 16:23:49 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ13章1節~11節

1節 イエスはその使命である十字架にかかり、救いを成就し、復活して昇天することが間近であることを知っていた。そこで、ご自身の愛をはっきりお示しになった。「残るところなく」と訳された語は、「最後まで」という語であるが、最高潮まで、限界までという意味でここでは用いられている。ユダヤ的表現、熟語をギリシャ語に置き換えたものと考える学者もいる。その愛の示し方の一部が、この後に記されている。

2節 どのようにしてであるかは不明だが、悪魔はイスカリオテのユダの心に、イエスを裏切る思いを入れていた。この記述は、続くイエスの愛の発露と、ユダの行動の両方の記述への導入となる。

3節 イエスが父なる神に万物を委ねられていることを含めて、ご自身が神の御子であること、間も無く天に昇ることを認識しているということの確認。イエスの御業は、どれも偶然ではなく、神の御心に従ったものである。天の昇ることの記述は、1節の再確認の面も有る。

4節 イエスが夕食の途中に立ち上がった理由を、ルカは、弟子たちの中で誰が一番偉大であるかという議論が有ったからだと説明している。手ぬぐいを腰にまとうのは、しもべの姿である。

5節 来賓の足を洗うのは、しもべや奴隷の仕事であった。誰が自分達の中で一番偉大であるかを論じていた弟子たちの、考え方を改めさせ、偉大になりたい者は仕える者になりなさいという、これまでに教えて来たことを実践して見せるものであった。

6節 他の弟子たちは、当惑しながらも、イエスに足を洗っていただいた。ペテロは、弟子のリーダー的立場であったので、常識ではありえないイエスの行動を止めようとして、口を挟んだのかもしれない。そうすることで、自分をより良い弟子と見てもらおうという気持ちが有ったかもしれない。いずれにしても、ペテロは、イエスの心を理解していなかったと考えられる。

7節 わたしがしていること、及び、あなた、という代名詞は、強意の用法で、ペテロへの叱責の意味が含意されるという説明が有る。「あとで」わかるようになるという表現は、「このあと直ぐ」という意味で理解される。実際に、イエスは12節以降で、ご自身がされたことの説明をされている。

8節 イエスが、その行動の意味はこのあと直ぐわかるようになると言ったにもかかわらず、ペテロはイエスに足を洗われることを拒んだ。イエスへの尊敬の念の為せる業かもしれないが、ペテロに過剰な自信が有ることがうかがえる。
  彼の言葉は、謙遜の現れのように見えたが、実際にはイエスの御心を受け入れないものであった。私たちは、へりくだって人の姿を取られたイエスの謙卑を受け入れ、感謝し、信じる以外に、神の御業に参与して救われる方法はない。だから、イエスは、もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もないと明言されたのだ。

9節 ペテロには、イエスの思いは理解できていなかったかもしれないが、イエスにあってこそ意味の有る人生を送る自分という関係に賭け、委ねていた。足を洗っていただくことで関係が確立するのであれば、更に進んだ関係になるために、全身を洗っていただこうと考えたと思われる。あるいは、他の弟子たちより程度の高い献身の思いを持っているという姿勢を示そうとしたのかもしれない。

10節 ペテロは、霊的、道徳的汚れを清められるという面からことを理解したのかもしれない。イエスは比喩的に回答する。普段の生活においても、水浴した者は体全体がきよくなっている。しかし、外に出歩けば、足は汚れる。だから、帰宅したり他の家を訪問する時には足を洗うことが必要になる。霊的な意味合いで考えれば、ペテロも他の弟子たちも、イエスに従うことにして、霊的な歩みの全てが変えられた。だから、日々の歩みにおける罪の影響を主に洗いきよめられるだけで十分である。

11節 10節の説明の終わりに、「みながそうではありません。」と言われたことの解説。みながそうでないということは、完全な献身の思いでイエスに従っているのではない弟子がいるということ。その弟子は、主に足を洗っていただく意味が無い。しかし、イエスは愛を示して、その弟子の足も洗われた。イエスは、イスカリオテのユダが裏切る心の思いを知っておられた。

まとめ
・2節の記述から、思いの中に何を入れ、留めさせるかに注意しなければならないことがわかる。悪魔は、私たちの思い、思考の領域に、神の御心に適わない思い、反逆の思いを入れて迷い出させようとする。心を見張ることを、聖書は求めている。(箴言4:23、マタイ12:34-35参照)否定的な思いは、聖書の言葉で打ち消すことが必要である。

・イエスの生涯は、父なる神の御心、ご計画に沿ったものであって、人間的運命的偶然によるものではない。

・イエスご自身が、弟子たちの間で偉大になりたい者は、仕える者でなければならないことを、十字架にかかる直前に、実際の模範を示して再確認されたことに留意するべきである。

・イエスを救い主として信じることが、神の業である。イエスを信じた者は、この世の歩みにおいて犯す罪を悔い改め、主のきよめを仰ぎつつ生きる。
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日曜礼拝 2023年5月21日

2023-05-21 18:18:19 | 日曜礼拝
礼拝音声
音声は説教までとさせていただきます。

聖書箇所:マタイ21:23-27
説教題:天からですか、それとも人からですか

導入)
  一つ前のエピソードでは、いちじくの木がたちまち枯れるという、独特な奇跡が行われました。その時、イエスはエルサレムに移動する途中でした。今回のエピソードは、その後、イエスがエルサレムに入り、神殿の境内で教えていた時のできごとです。

本論)
23節 ラビや律法学者が神殿の敷地内で教えるのは普通のことでした。過ぎ越しの祭りの時期で、神殿には多くの巡礼者がいたはずです。中には、外国から来て、イエスの噂を聞きつけて、回りに集まってきた人もいたかもしれません。
  祭司長たちが来てイエスに質問したのは、彼らに神殿内の運営の許可を与える権限が有ったからです。彼らの質問は、我々はお前に神殿の敷地内で教える許可は出していないぞ、許可を得たというならば、誰の許可かを言ってみよ、という意味が有りました。これらのこと、という複数形の表現は、おそらく、メシアのしるしとしてロバの子にのってエルサレムに来るとか、人々の賛美を受け入れるとかの、この二日間に起きたこと全体を指すと思われます。
  私たちの信じるイエスは、三位一体の一位格として、創造に携われたお方ですし、神殿はその神を礼拝するために有るのですから、当然イエスは祭司長たちよりも高い権限があり、彼らの許可を必要としないお方です。
  更に、ここで確認しておくべきことが有ります。イスラエルの歴史の中では、大変重要なことが起きる時に、神が遣わされたことを明確にするしるしとしての奇跡を行うことのできる預言者が出現しました。その代表格は、モーセです。続くヨシュアの時も奇跡は起きました。イスラエルが真に神に立ち返らなければ、いよいよ大きな災いが望むことを示すために遣わされたエリヤ、エリシャも、神に遣わされたしるしとしての奇跡をお行いました。ですから、イエスのしるしとしての奇跡を見聞きした祭司長たちは、イエスを神の遣わされた方だということを当然受け入れるべきでした。しかし、彼らはそうすることができませんでした。

24節 イエスは、祭司長たちに直ぐに答えず、反対に質問をします。当時のユダヤ人の問答や議論においては、このように、反対に質問をするというのは、よくあることでした。この記述の流れを見ると、祭司長たちは、それを受け入れたと考えられます。
  
25節,26節 バプテスマのヨハネの洗礼はとその権威は、神から来たものか、人から来たものかという質問の背景を知っておく必要があります。
  ユダヤ人にとって、洗礼は、異邦人がユダヤ教に改宗する時に、その改宗のしるしとして授けるものでした。ですから、ユダヤ人が悔い改めを表明するために洗礼を受けるというのは、特異なことで、普通のことではありませんでした。勿論、それは、聖霊の導きによってヨハネが執り行ったと考えるべきものです。その時、その洗礼はユダヤ教の指導者たちに公認されたわけではありませんでした。しかし、マタイ3:7を見ると、パリサイ人たちやサドカイ人たちもその洗礼を受けにきた記録が有ります。
  イエスの質問に、彼らは即答することができず、ひそひそ論じ合うことになります。選択肢は二つ有りましたが、それぞれに、祭司長たちにとって不都合なことが有りました。

「天から来た」と答える場合:パリサイ人たちやサドカイ人たちも洗礼を受けに来たのですが、ヨハネの叱責を受けている様子が福音書には示されていますから、実際に洗礼を受けた者はいなかったかもしれません。そして、ユダヤ人の指導者たちは、ヘロデがバプテスマのヨハネを投獄した時に、彼を擁護することはしませんでした。ですから、今更、「天から来た」などと言える立場ではありません。もっと決定的なことは、バプテスマのヨハネが、イエスをメシアだと証言していたことです。ですから、「天から来た」という回答は、彼らがイエスをメシアだと受け入れるという宣言になってしまい、到底彼らには受け入れられないことでした。

「人から来た」と答える場合:人間の思いで勝手に行ったことだとするならば、その権威を認める必要はなく、同時に、イエスを拒絶し続けることができます。彼らの立場から正直に回答するならば、これが彼らの回答であったはずです。しかし、彼らは別なことも気にしなければなりませんでした。周囲には、巡礼者を含む、大勢の人たちがいました。彼らの多くは、バプテスマのヨハネを、神の遣わした預言者だと信じていました。ですから、「人から来た」と答えようものなら、大変な反発を受けるのは目に見えていました。同じ場面を扱ったルカ20:6の記述では、群衆に石打ちにされてしまうと考えて恐れていたことがわかります。
  祭司長たちは、神を恐れずに、人を恐れていたのです。しかし、そのような態度の結果が良くないことは、箴言29:25でも警告されています。
  私たちも、人を恐れる弱さを持っています。ペテロも、人を恐れて、三度イエスを否んだことが有りました。そんな弱さを持っていても、私たちは、聖霊の力を求め、イエスを求めて生活しなければなりません。

27節 祭司長たちには、どちらの回答も都合が悪かったので、「わかりません。」と答えることにしました。内心は「人から来た。」と答えたかったのですから、彼らは嘘をついたことになります。救い主に対して正直に回答しないのに、どうして、イエスからの回答を得ることができるでしょうか。イエスも彼らの質問には答えないと言われました。同時に、本当はイエスのしるしとしての奇跡によって、正解は「天から来た。」であることを、お前たちは知っているはずだろう、という非難の意味も有ったかもしれません。祭司長たちは、イエスの回答を聞くことはできませんでしたが、イエスの出した条件を飲んだのですから、それ以上イエスに回答を無理強いするようなことはできませんでした。
  
まとめ)
  聖霊がマタイを通して私たちに伝えようとしていることは何であるかを考えてみます。今回は、次の三つに目を留めてみます。

1)イエスは全ての物事の上に権威を持っておられる
  イエスは神の御子であり、全てを創造された神です。そのことは、直前のいちじくの木が枯れる奇跡においても示されています。今回は、神殿での振る舞いに関する権威が問題となりましたが、当然、イエスの方に高い権威が有ります。私たちが信じるイエスがそのようなお方であることを、私たちも日々告白して生活するのです。

2)心をかたくなにしてはならない 
  イエスは、旧約聖書に約束された預言者であり、メシアであることを十分に証明しました。イスラエルの民がモーセに聞き従ったように、祭司長たちも、イエスに聞き従うべきでした。心をかたくなにしてイエスとその教えを拒絶してはならないことは、へブル人への手紙3:7-11においても警告されています。
  私たちの信仰生活において、疑いの思いがわく時も、聖書の警告や指示に従いたくないと思う時でも、イエスを信じ、その教えに従うことを選ぶのです。

3)神を恐れ、霊的な実を結ぶべきこと
  祭司長たちは、神を恐れませんでした。彼らにとっては、プライドや民衆の支持を得ることが、彼らの神のようなものでした。私たちは、そのような姿勢に倣ってはいけません。
  これまでの、12節から27節までの流れを見ると、別のメッセージが含まれていることがわかります。(画像を参照してください。)

枯れたいちじくの木のエピソードを挟んで、前後に、祭司長たちがイエスと対立するエピソードが出て来ます。このような場合、三つのエピソードの原則が、相互に関連が有り、前後か、真ん中のエピソードに大事な原則が示されていることが有ります。今回は、真ん中に配置された、枯れたいちじくの木のエピソードに見出される原則が強調点だと考えることができます。私たちは、イエスの弟子たちのように、霊の実を結ぶ者たちでなければなりません。神が喜ばれる霊の実の有様は、エレミヤ9:24にも示されています。
  私たちも、イエスを信じ、その教えに従い、困難に直面する時には信仰と祈りをもってそれに耐えて行く者であり続けるのです。
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