礼拝音声
聖書箇所:ピリピ 2:19-30
説教題:イエス・キリストのことを求める
導入)
ピリピの教会の信徒たちに救いの達成に努めるように励ました後、パウロは、テモテとエパフロデトをピリピに送る計画について述べます。本日の内容においても救いの達成に努める姿勢の一部を垣間見ることができます。(救いを達成することの具体的な実践は14節-16節をご確認ください。)ここでは、パウロ、テモテ、エパフロデトの姿勢がどのように救いの達成の務めに関わっており、イエス・キリストのことを求める姿勢になっているかを見てみましょう。
本論)
1)すべてのことを主にあって行う
この朗読箇所には、「主にあって」という表現が三回出て来ます。
19節-20節 「主イエスにあって」という部分は、互いに愛し合いなさいというイエスの戒めを反映していると考えてよいでしょう。20節には、何故テモテを派遣するのかという理由が述べられています。テモテは誰よりも純粋にイエスにあってピリピの信徒たちを愛し気遣ってたからです。パウロ自身も、彼らに対する愛が有ったが故にテモテを送ることにしたのです。
テモテを派遣するにあたって、パウロが期待していたことがもう一つあります。テモテがパウロの元に戻って来る時には、ピリピの信徒たちが信仰に励んでいるという証や報告が聞けることです。その証や報告がパウロにとって喜ばしものになると述べることで、ピリピの信徒たちへの愛を表したと言えるでしょう。
24節 ここでは、神の主権と統治への信頼を述べていると考えることができます。先に確認した19節にも、この感覚は含まれていると考えて良いと思います。ここでの「主にあって」は、「もし主の御心であれば」と理解できると考えられます。パウロは自分が実現を期待する計画、予定が有りました。しかし、同時に、物事は主の御心に従って成るということをパウロは心得ていました。(詩編 37:5、箴言 19:21参照)私達もいつも同様の心構えを持っていなければなりません。
パウロは自分が釈放された時にピリピを訪問する計画について述べましたが、続けてエパフロデトをピリピに送り返すことを述べています。このことによっても、パウロはピリピの信徒たちへの愛を示しています。
エパフロデトは、ピリピの教会の信徒でした。教会がパウロを援助して金銭的な支援や贈り物をしようとしたときに、教会の代表としてローマまで出かけました。そして、ローマでパウロの必要のために続けて仕えていました。ですから、パウロは自分が釈放されるまで一緒にいて欲しいと思ってもおかしくなかったのですが、ピリピの教会の信徒たちが早く彼と再会できるように、すぐにでも送り返すと言っているのです。
このことに関わる状況は27節-28節に記されています。エパフロデトは、ローマに来てからも熱心にパウロを支えて活動しましたが、何等かの思い病気にかかってしまって、死にそうになったということです。しかし、神様の憐みによって、彼は癒されました。彼が思い病気になったということはただでさえ哀しい出来事でしたが、もし、死んでしまったとなれば、もっと悲しくなったことでしょう。神様は、そのような状況にならないようにしてくださったと言って、パウロは感謝しています。そのような喜びを分かち合うことも、互いに愛し合うという戒めの実践ということができます。
29節 ここでは、主にあってエパフロデトを迎えるようにと指示されています。「迎える」と訳された語は、認める、受け入れる、待つ、探すというような語感があり、歓迎すると訳すことのできるものです。仲間であるエパフロデトが無事に帰って来ることは大変喜ばしいことでしょう。しかし、それよりも、「主にあって」彼を歓迎することはもっと大事なことです。パウロがこのように述べているのは、教会の一部に、ローマで大病を患うことになったエパフロデトに対する非難の声があったからではないかと考える人たちもいます。それでも、エパフロデトは歓迎に値するのです。それは第一にイエスの戒めが私達に互いに愛し合うことを命じているからです。また、エパフロデトがキリストの働きのために命をかけたからです。
2)キリストの仕事のために命・生活を捧げる人たちを尊ぶ
イエス・キリストのことを求める姿勢の二つ目の表れは、キリストの仕事のために命や生活を捧げる人たちを尊ぶことです。29節で「尊敬を払いなさい」と訳されている語は、貴重であると思う、愛しいと思う、高く評価するという意味があります。エパフロデトをそのように考えて歓迎する理由は、彼がキリストの仕事のために命をかけたからです。
「あなたがたが私に仕えることのできなかった分」という表現があります。ピリピの信徒たちは贈り物をする程パウロを愛して気遣っていましたが、直接パウロを支援することができませんでした。それが「出来なかった分、不足した分」ということになります。それをエパフロデトが埋めてくれたのだから、非難するのではなく尊敬を払いなさいということです。
私達は外国にでかけてキリストに仕えている宣教師たちのために祈ります。彼らは私達が直接でかけてお仕えすることの「出来ない分」を満たしてくださっている方々です。私達はその人たちのために祈り、宣教報告で訪問してくる時には歓迎し、尊敬を払うのです。
3)イエス・キリストのことを求める
イエス・キリストのことを求める姿勢そのものを考えてみます。原文はキリストに関わる物事と訳せる内容になっています。「キリストが関心を払う物事を追求する」というように訳している聖書もあります。
21節を見ると、それとは逆の状態の人たちが出て来ます。この節は、テモテの姿勢についての表現の一部です。そんな人たちとは異なり、テモテもエパフロデトもイエス・キリストが関心を払う物事を追求する姿勢を持っていました。21節で、「だれもみな」と表現されている人たちが誰なのかは示されていません。第二テモテ4:10 に出て来る、世を愛してパウロを見捨ててテサロニケに行ってしまったデマスのような人たちなのだろうと思われます。反対に私たちがイエス・キリストのことを求めるならば、この世で光として輝くという目標に向けた行動ができることになります。神に感謝して不平を言わず論争しないこと、純粋な福音の教えを保持すること、神の言葉を人にも示すこと、パウロ、テモテ、エパフロデトが示したような互いんい愛し合う実践をすることが含まれます。
まとめ)
パウロが示した三つの命令を再確認します。
1)すべてのことを主にあって行う
主にあってというのは、主の戒めに従って、同じ主に結ばれた信徒同士としてということが含まれます。そこには、互いに愛し合いなさいという戒めが入っています。また、主が最高主権者であり、主の御心を求める姿勢も入っています。証をし、互いに励まし合い、互いに歓迎し合うことにつながる行動をしていきましょう。
2)キリストの仕事のために命・生活を捧げる人たちを尊ぶ
宣教師、牧師、長老、執事など、特に生活の中でキリストの仕事に携わっている人々に尊敬を払いましょう。その人たちは、私達が届かない、満たすことのできない部分を担っているからです。特に、迫害の厳しい国々で使えている方々を覚えて祈りましょう。
3)イエス・キリストのことを求める
敬虔な思いをもって救いの達成に継続的に取り組みましょう。神に感謝して不平を言わないこと、純粋な聖書的福音理解を保持すること、キリストの証人として、聖書の教えというこの世とは異なった基準に従って生きていることを示しましょう。その聖書の言葉を世の人にも渡していき、宣教の業を支援しましょう。キリストの体なる教会を、共に仕え合い、共に建て上げていきましょう。