パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

パース日本語キリスト教会概要

2018-07-16 22:12:48 | 日記
*教会概要は常にトップに表示されます。活動報告は、スクロールしてご覧ください。*

パース日本語キリスト教会は、オーストラリア長老教会西オーストラリア中会に所属するHenderson Memorial Presbyterian Churchの日本語部です。日本長老教会と協力関係に有ります。

所在地 101 Kimberley Street West Leederville 6007 WA

集会
日曜礼拝     午後1時より(第五日曜日は合同礼拝のため午前10時半より)
聖書研究会   火曜日午後1時より
プレイグループ 水曜日午前10時より(就学前のお子さんとお母さんのためのグループです。)

関連サイト等
Henderson Memorial Presbyterian Church
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2001年にアメリカ人宣教師Stephen Young師によって開拓されました。
Stephen Young師は2013年に帰国し、テネシー州で日本語礼拝の開拓を始めました。
Stephen Young師の現在の奉仕は、こちらと、こちらからご確認いただけます。

2015年10月森本実牧師が就任しました。

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日曜礼拝 2018年7月15日

2018-07-16 21:06:42 | 日記
聖書箇所:マタイ9章1節~8節
説教題:罪の赦し


(導入)
 8章18節からイエス・キリストは彼に従う者たちが知るべきことを示し始められました。直
前には自然と強力な悪霊に対する権威を示し、ご自身の神性をお示しになりました。10章で弟
子たちが宣教に派遣されますが、その前にまだお示しになりたいことが有りました。

(解説)
 1節の「自分の町」というのはカペナウムです。そこが宣教の拠点になっていました。そこ
にある人たちが中風の人を床にのせて運んできました。床というのは病人を運ぶためのもの
で、担架のようなものでした。担架程度のもので運ぶのですから、近隣に住んでいたと考えら
れます。
 イエス・キリストは彼らに信仰が有ることをご覧になりました。メシアであるという信仰で
した。「子よ」という呼びかけは親愛の情を表す呼びかけでした。しっかりしなさいという呼
びかけは希望を与えたことでしょう。
 しかし、彼らが聞いた言葉は、予想とは異なっていたかもしれません。癒しの宣言ではなく、
「罪は赦された」という宣言だったのです。
 そこに律法学者たちがいました。イエス・キリストを監視するのが目的であったと思われま
す。彼らはイエス・キリストが神をけがしていると、こっそり耳打ちし合っていました。罪を
赦すことは、神にしかできないことでした。ところがイエス・キリストが罪の赦しを宣言した
ので、神を冒涜している、神をけがしているとささやき合ったのです。イエス・キリストはそ
んな思いを知ることのできる神でした。それで彼らに語り掛けるのです。その指摘は、彼らは
「悪いことを考えている」ということでした。イエス・キリストをただの人間と考えているの
で「悪いことを考えている」のです。それ以前に示されたメシアの証としての奇跡も信じない
でいるので「悪いことを考えている」のです。
 5節の言葉は謎かけのような感じがします。どちらがやさしいかと問われましたが、実際は
どちらもやさしくありません。どちらも人にはできず、神にしかできないことでした。その問
いかけはご自身が神であることを示していたことになります。
 6節ではイエス・キリストはご自身が神であることを宣言されました。「人の子」という称
号をご自身に対して用いられました。これはダニエル7章13、14節から来ています。その記述
によると、「人の子」は全ての国民に仕えられ、もしくは礼拝されるべき存在です。礼拝され
るべき方は神しかおられません。ですから、神であることの宣言になるのです。
 イエス・キリストが「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と命じられると、
男は完全に癒されて、その通りにして帰って行きました。それは同時に、目に見えない霊的な
癒しである罪の赦しを得たことの証明でもありました。
 これを目撃した人々は神をほめたたえましたが、彼らのイエス・キリストの理解は間違って
いたと思われます。「こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」という記述になって
いますが、この「人」と訳された語は、複数形なのです。つまり、普通の人間の一人と考えた
ことになります。私たちにとって、イエス・キリストはどういう方でしょうか。

(まとめ)
 この物語の焦点は中風の人の癒しではありません。イエス・キリストがここで弟子たちにお
示しになりたかったことは何でしょうか。今回は次のようにまとめてみました。

1)罪の赦しは正しいイエス・キリストの理解から来る
   イエス・キリストは明らかにご自身が礼拝されるべき神であることを示されました。癒
  された人にはその正しい理解をが有ったことになります。ですから、この人は罪の赦しを
  得ることができたのです。

2)罪の赦しはイエス・キリストへの信仰から来る
   イエス・キリストは彼らに信仰が有ることをご覧になりました。もし、罪を赦してくだ  
  さるという信仰と信頼が無ければ、イエス・キリストが神であると知っていても、実際に
  罪が赦される経験をすることができなかったでしょう。信仰を持って来た中風の人に、イ
  エス・キリストは「子よ、しっかりしなさい」と言ってくださいました。私たちの信仰と
  信頼に、主は応えてくださいます。

3)罪の赦しはイエス・キリストの元に来るという決断から来る
   中風の人とその友人たちは、イエス・キリストの元に行く決断をしました。イエス・キ
  リストの神性を理解し、罪を赦す方だと信じていても、実際に主の前に出なければ赦しを
  得ることはできません。私たちはカペナウムに出かけるのではありません。イエス・キリ
  ストは天において、父なる神の右の座について、私たちのために執り成しをしていてくだ
  さいます。祈りの内にその主のみ前に出るのです。

説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。
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日曜礼拝 2018年7月8日

2018-07-08 19:10:48 | 日記
聖書箇所:マタイ8章28節~34節
説教題:向こう岸に渡った理由


(導入)
 イエス・キリスト8章18節で向こう岸に渡るように言われたのですが、実際に向こう岸に着
くまでには二つの出来事が有り、もう少し時間がかかりました。
 先ず、舟に乗る前に二人の人物と話しをして、彼に従う者の資質は何かを示されました。そ
れは以下のようなものであると考えられます。
 1)イエス・キリストは救い主であると知っている者でなければならない。
 2)イエス・キリストを信頼している者でなければならない。
 3)神の国のことをこの世のことよりも優先させる者でなければならない。
 次に、実際に舟の乗って出かけると、暴風による波に悩まされるということが有りました。
舟が沈みそうだと判断した弟子たちはイエス・キリストに助けを求めました。ここで、彼らは
イエス・キリストの被造物に対する権威を確認することになりました。

(解説)
 向こう岸というのは、ガリラヤ湖の北東部の地で、ヘロデ大王の息子であるピリポの所領内
に有ったと考えられます。上陸するとすぐに悪霊の影響下にある人物が墓から出てきました。
墓というのは死体を安置する洞窟のようなもので、中に居れば雨風をしのぐことができました
が、そこに寝泊まりしていたとしたら、それは異常なことでした。彼らが狂暴であったことも
悪霊の影響の一つでした。悪霊はイエス・キリストがどのようなご存在かは理解していました
し、関りになりたくないと思っていました。
 30節には、豚が飼われていたことが述べられています。ユダヤ人にとっては豚は律法的に穢
れた動物です。それで、この地方は異邦人の住む地方であったことが判ります。ヨシュアに導
かれてユダヤ人がこの地方を取った時は、その周辺はマナセ族に割り当てられましたが、この
時代にはユダヤ人の勢力下にはありませんでした。
 イエス・キリストに出会ってしまった悪霊は、追い出されることを理解していましたので、
豚の群れの中に追いやって欲しいと願いました。異常なこと、悪霊の強さを示して、その地域
の人たちに恐怖を残したい、もしくは、イエス・キリストの印象を悪いものにしたいという目
論みが有ったかもしれません。イエス・キリストがお許しになると、悪霊は豚を走らせ、崖を
下って湖に飛び込ませ、溺死させてしまいました。
 豚の世話をしていた人たちは町に行って、悪霊に着かれた人物のことから始めてことの次第
を全て人々に話しました。すると、なんと町中の人たちがイエス・キリストの所にやって来ま
した。それは、イエス・キリストに感謝したりその教えを聞くためではありませんでした。彼
らは、その地方を去ってくれるようにお願いしに来たのでした。その理由は、その地方の迷信
もしくは考え方に有りました。彼らは、奇跡的なことや超常現象を起こすような人物が現れる
と、災害や疫病などが起こると信じていたのです。更に豚が死んだら損失がもっと大きくなる
という心配をした者もいたかもしれません。

(まとめ)
 彼らの懇願を受けると、イエス・キリストは何の説明もなさらずに帰ってしまわれました。
わざわざ向こう岸に渡るということをしたのに、そこに滞在した時間は比較的短いものであっ
たと考えられます。そんな短い滞在のために何故イエス・キリストはわざわざ向こう岸に渡っ
たのでしょうか。その理由は次のように考えることができそうです。

1)イエス・キリストの悪霊に対する権威を明らかに示すため
   悪霊の影響下に有った人物が大変狂暴であったことや、たくさんの豚のを動かすことが
  できたことを考えると、この悪霊は相当な力を示したと言えます。しかし、イエス・キリ
  ストはその悪霊を従わせる権威をお持ちである救世主であることが、この出来事で明らか
  に示されました。ラビなどにもアブラハムや著名なラビの名によって悪霊を追い出すよう
  な実践が有ったことが資料には出てきますが、イエス・キリストは桁違いのお力を示され
  て、いよいよその権威を明らかに示されたことになります。  
   私たちは生活の中で悪霊の働きを経験することはあまり無いと感じる方もいらっしゃる
  かもしれません。しかし、もしこれは悪霊の働きではないかと思われることが起きた場合
  には、イエス・キリストの御名の権威によって退けるということを覚えておかれると良い
  でしょう。

2)イエス・キリストに従う者に将来起こることを示すため
   この後10章で、イエス・キリストは弟子たちに悪霊を追い出す権威を与えられます。そ
  の時にイエス・キリストの御名の権威を明らかに知っていることによって、きちんと対応
  できるようにされたと考えることができます。使徒行伝には弟子たちが悪霊を追い出す記
  録が有ります。 
   また、彼らが神の国をのべ伝える時に、町中の人たちがイエス・キリストに立ち去るよ
  うに願ったのと同様に、拒絶されることも有り得るのだということを教え、その心構えを
  持つようにされたと考えることができます。
   私たちもイエス・キリストの証人として生きようとするときに、私たちが出会うかもし
  れない事柄を心に留めておく必要が有ります。世はイエス・キリストを憎むのですから、
  証人であるクリスチャンが同様に拒絶に合うことは自然なことなのです。

3)将来の伝道に備えて異邦人の心を整えておくため
   マルコによる福音書では、悪霊から解放された人物がイエス・キリストに着いて行きた
  いと申し出たことが記録されています。しかし、イエス・キリストは、彼に自分が受けた
  恵みを家族に知らせるようにと言って返されました。しかし、彼は家族のみか、デカポリ
  ス全体にその話を広げたということです。
   イエス・キリストは公生涯の中で異邦人にも神の国の福音が伝えられることを何度か示
  しておられます。そして、使徒行伝1章8節の最後のご命令で、地の果てまで、すなわち
  異邦人にまで福音を伝えるように言われました。すると、初期は近いところの異邦人から
  福音を聞くことになったことでしょう。その時には、デカポリス地方の人々はその福音を
  受け入れる素地ができていたと考えられます。
   イエス・キリストはただ道具のようにその人物を利用したのではなく、その人物を愛し
  て解放するために向こう岸に渡られたと考える方が良いと思います。その思いの先には、
  場所と時間を超えてイエス・キリストを受け入れる今日のクリスチャンが有ったことでし
  ょう。そうすると、イエス・キリストが向こう岸に渡ったのは、極言すれば、あなたの為
  であったとも言えると思います。


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日曜礼拝 2018年7月1日

2018-07-01 20:56:54 | 日記
聖書箇所:士師記8章4節~17節
説教題:使命遂行にあたって

(導入)
 ギデオンはイスラエルが王国になる前に宗教的政治的指導者として人々を導いた士師の一人
でした。彼の大きな使命はイスラエルの民をミデアンから救うことでした。ミデアン人は遊牧
民で、収穫の頃になるとイスラエルに略奪に来て穀物や家畜などを奪って行きました。
 この聖書箇所から、ギデオンが使命を忠実に果たしたことがわかります。しかし、同時に、
私たちは聖書に記録されたギデオンの弱さにも注意を払う必要が有ります。

(解説)
 4節で、ギデオンの軍隊は300人であったことが確認できます。少人数でしたが、それは
神様がご自身の栄光を表すためにお決めになった人数でした。そして、最初の攻撃は成功した
ことがわかります。10節によれば、最初の攻撃で敵の戦士十二万人がすでに倒されていたとい
うのです。
 ギデオンの攻撃は夜に始まりましたから、この頃になると彼らは皆空腹で疲れていました。
それで、追撃の途中でスコテに着いた時、町の人にパンを求めましたが、断られてしまいまし
た。更に10キロ程進んでペニエルの町でもパンを求めたのですが、また断られてしまいました。
その理由は、ギデオンの隊が確実にミデアンの王たちを打ち破れるという確信を持てなかった
からでした。もし、ギデオンの隊がミデアンに敗れてしまったら、ミデアンの略奪隊が戻って
来た時に、ギデオンを援助したということでひどい目に合うことを恐れたのでしょう。ギデオ
ンの反応は怒りに満ちたものでした。
 この後ギデオンがどうやって追撃を続けることができたのかはわかりません。何らかの方法
で神様が助けてくださったのでしょう。ミデアンの略奪隊は、ギデオンが後ろから追ってくる
と思っていたようですが、ギデオンは別の道を通って、側面から攻撃したと考えられます。こ
うして、ついにミデアンの略奪隊を滅ぼし、二人の王を捕らえることができました。
 ギデオンは先ずスコテに行き、捕らえた王を彼らに見せた後に、町の長老たちを捕らえて、
予告通りに荒野のいばらやとげで人々に思い知らせました。さらりと書いてありますが、実際
に行われたことは惨たらしいものでした。長老たちは裸にされ、地面に横にならされ、その上
にいばらやとげが置かれた後に、ギデオンたちに死ぬまで踏みつけられたのです。
 ペニエルでも人々は殺されました。予告通り塔が打ち壊されたのですが、籠城した者たちが
塔が崩れた時に死んだのかもしれません。
 ギデオンがしたことは大変残酷で暴虐なことでした。しかも、彼はそれを同胞のイスラエル
人に対してしたのです。士師ギデオンの中には闇と言える部分が有ったのです。翻って、私た
ちはどうでしょうか。私たちの中にも闇が頭をもたげる時が有るのではないでしょうか。

(まとめ)
 私たちにはクリスチャンとしての歩みをするという使命が有ります。その時に心掛けるべき
ことを、ギデオンの例から考えてみます。

1)私たちは私たちの使命にのみ焦点を当てるべきです
   ギデオンの使命はミデアンの略奪隊を打ち破ることでした。同胞を痛めつけることでは
  ありませんでした。神のお命じになっていないことをすると、恐ろしい結果になることが
  有ります。
   私たちの使命は、神と人を愛することによって神を証し、キリストの証人となることで   
  す。それ以外のことに心を用いて仲間を傷つけるような結果にならないように注意するこ
  とが必要です。

2)私たちは神のみに信頼し、神の栄光を現すべきです
   ギデオンは神を信頼していましたが、それだけではなく、自分の方法で自尊心や尊厳を
  守ろうとしました。ですから、スコテとペニエルの人々に残酷な仕打ちをしました。次い
  で、勝利の記念となるような金のエポデを作りました。彼は王になるようにという要請を
  退けましたが、実際には王のような生活をしました。たくさんの妻を持つというのは、王
  がすることでした。息子の一人にはアビメレク(我が父は王)という名をつけました。
   私たちも、教会の中で一生懸命奉仕したりする中で、周囲から支援してもらない時が有
  るかもしれません。それは怒りを呼び起こすような体験かもしれません。その時どうした
  ら良いのでしょうか。自分のことは横において、神を崇め神に栄光を帰するのです。神が
  真の審判者だからです。その態度が、神に対する生きた供え物であり、礼拝なのです。

3)私たちは謙遜で慈悲深くあるべきです 
   スコテとペニエルの人々は神を信頼することができませんでした。恐れからギデオンた  
  ちをもてなすことができませんでした。しかし、ギデオンこそ彼らの恐れを理解するべき
  人間でした。6章を読むと、彼は主の御使いが明らかな奇跡をもって彼の神からの使命を
  伝えたのに、恐れと不信からもう一度羊毛の奇跡を求めるような人物だったことが記録さ
  れています。それは不信仰な行為でした。
   私たちの主イエス・キリストは、山上の垂訓で、私たちに謙遜であるように教えていま  
  す。また、敵を愛し、天の父が完全であるように完全でありなさいと教えました。それは
  天の父と同じように敵にも恵みを施し、慈悲深くありなさいという意味です。
   ギデオンは神を敬う人間でした。しかし、彼には闇と言える一面が有りました。しかし
  イエス・キリストが私たちを罪から救い出してくださいました。私たちの罪が、ちょうど
  ギデオンがスコテの長老をいばらで踏みつけたように、イエス・キリストを踏みにじり、
  私たちの罪がイエス・キリストを十字架にくぎ付けました。ですから、私たちはこの主の
  ご命令に従って、謙遜で慈悲深く生きなければなりません。その生き方が、私たちの礼拝
  なのです。

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火曜聖書研究会 2018年6月26日

2018-06-26 17:02:43 | 日記
聖書箇所:ヨハネ8章12節~20節

研究ノート

・人々が去った後、イエスはまたご自身のことを証されます。パリサイ人がいることを考える
 と、少し時間が経ってからかもしれません。
・「世の光」という表現は、ラビたちの教えや文書の中では、神を表す言葉として用いられて
 いました。ですから、イエスはここで「私は神です。」と宣言したことになります。
・光に関する聖書箇所。詩編119編105節、箴言6章23節、マラキ4章2節、ヨハネ1章等。
・パリサイ人の反論は自分一人の証言は無効であるというものでした。
・イエスの反論は、父なる神の証言が有るということです。他にもパリサイ人が洗礼を求めた
 バプテスマのヨハネの証言、水からあがるイエスに天から下った父なる神の声、旧約聖書に
 記されているメシア預言の成就が証人といえる状況にありました。
・「わたしを遣わした父」という表現にパリサイ人たちは矛先を変えます。ナザレの出身で、
 ヨセフという父親が、どれだけ偉大なのかという侮蔑の意味が含まれていたかもしれません。
・宮の献金箱の有る所で話したというのは、公に人が多く集まる場所であったということを表
 しています。

ごく簡単なまとめ
・イエスは明確に「わたしは神だ」と宣言している。
・イエスが神から遣わされたメシアであることの証言は十分である。
・イエスと父なる神は一つであるから、イエスを知っていれば神を知っていることになる。
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