パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

クリスマス合同礼拝 2023年12月25日

2023-12-26 21:47:11 | 特別礼拝
礼拝音声は有りません

聖書箇所:1ヨハネ4:8-10
説教題:神は愛です


導入)
  神は愛ですという1ヨハネ4:8の言葉はよく知られています。それは、ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」を思い出させるかもしれません。
  そこで、この愛と性質、本質について考えてみたいと思います。愛の性質の最も大事な部分は、自由意志、自発性です。それは、誰にも強いられることも制限されることもなく、自分で決定をすることができる能力、意志ということです。

本論)
  神は愛なのですから、神様においてその自由意志がどう働いているかを見てみましょう。
1.神は誰にも強いられることなく私たちのために世界を創造されました。
2.神は強いられることなく人類が神との関係を選ぶことを望んでおられます。
  ーロボットは、「愛します。」と告白するようにプログラムすることはできるかもしれませが、その告白を喜ぶ人はいないでしょう。
  ー暴力的な配偶者や恋人が、無理に相手に愛を要求しても、本人はそれが空しいことを理解しているはずです。
  ー自由意志は愛の関係において大変重要なので、神は人類に御心の生き方を強制することはありません。待ってくださるのです。
  ー神が良い存在ならば、どうしてこの世の中に多くの悪いことが起きるのでしょうかと問う人がいます。自由意志が大事であるという点から、その理由は神が愛だからですと答えることができます。人間の自由意志が大事なので、神は介入することがないのです。信じる者の祈りに答えてくださる時以外には。
3.人類がアダムとエバにおいて神に逆らった時に、神は誰にも強いられることなく自発的に人類に救済を送ることを決められました。
4.誰にも強いられることなく、神はご自身の存在と御心を、預言者と聖書の言葉を通して私たちに啓示してくださいました。
5.神は誰にも強いられることなく、私たちのために救い主イエス遣わされることを決められました。
6.イエスは誰にも強いられることなく信じる者を救って永遠の命を与えるために、この世に来られました。私たちを救うために十字架にかかられることをその自由意志をもってお決めになりました。イエスはヨハネ10:18で次のように言っておられます。
    
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです。
わたしは、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

7.自由意志はとても大事なので、神は逆らうもの、神との関係を拒絶する者をこの世に生かしていてくださいます。神は、他の幾つかの宗教がするように、強制的に脅して神を選ばせようとはしません。
  
まとめ)
  クリスマスは、イエスの最初の来臨を記念する日です。イエス・キリストは、私たちを救うために、誰にも強いられることなくこの世に来てくださいました。神様のその愛の性質に動かされて、私たちは神を愛する者になることに決めたのです。ですから、1ヨハネ4:19には、「 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」と述べられています。
  このクリスマスに、聖書が述べる愛の性質がどんなものであるかを考え、イエスの最初の来臨を感謝しましょう。神は愛です。
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日曜礼拝 2023年12月24日

2023-12-24 18:57:09 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ23:1-12
説教題:低くされ高められた者

導入)
  直前の22章では、パリサイ人、サドカイ人、律法学者たちから質問をぶつけられています。イエスは正しい答えを示すだけではなく、彼らが聖書の正しい理解をしていないことを示されました。イエスはまだ神殿の境内にいたと思われます。ここから家は周囲にいた人たちと弟子たちを教え始めます。

本論)
1節-4節 イエスはパリサイ人たちの言うことは聞きなさいというのです。理由は、彼らがモーセの座を占めているからというのです。それは、彼らがモーセの律法の解釈、解説をする役割を持っていたということです。パリサイ派の律法学者は、自分達がユダヤ人に対してモーセの後継者の立場にあると考えていました。イエスのここでのポイントは、神のみ言葉である旧約聖書の教えには従いなさいということです。
  一方で、イエスはパリサイ人たちの行いを真似てはいけないと言われました。彼らは、長老の伝統などの付け足しの律法も加えて民をがんじがらめにしていたのに、自分達は律法の精神を守らず、イエスに「やもめの家を食いつぶしている」などと責められていたりします。そんな彼らの行いを真似するべきでないことは明らかです。
5節-7節 イエスはここでパリサイ人たちの性質を示す例をあげます。
  先ず、彼らは人に見せるために行動しているということです。経札というのは、革製の小物入れ、パウチのようなもので、そこに聖書の言葉が書かれた羊皮紙などを入れておくものです。祈りや礼拝のために用いられるものなので、額や左腕に紐で結び付けるものです。彼らはそれが目立って人の目につくように、その幅を広くしていたのです。衣のふさは、民数記15章に出て来る規定で、ユダヤ字の男性は衣の四隅に房を付けることが求められていました。パリサイ人たちは、それを必要以上に長くして、目立つようにしていたのです。
  パリサイ人たちが好きな宴会の上座とは、宴会の主催者の隣の席です。また、会堂の上席というのは、礼拝堂の律法を朗読するための壇ぐらいの高さに作られていて、一番目立ち、偉い人が座る席と思われていました。
  広場というのは、多くの人が集まってビジネスなどをする場所ですから、耳目を集めるのには良い場所です。そして、そこで誰かがラビ、私の先生、と呼んで挨拶をすれば、それが自慢できることだと考えました。
8節-10節 ここでイエスは特に弟子たちに目を向けているように思います。弟子たちは自分達の中で誰が一番偉いかと何度も議論をしていました。一連の先生、教師、父、師はほぼ同じ意味で使われており、神の言葉を解き明かす教師のことです。ここで問題なのは、先生と呼ばれること自体ではありません。問題なのは、パリサイ人たちが先生と呼ばれることを自慢するような態度でした。もし牧師が、先生と呼ばれないと機嫌が悪くなるとか、信徒が自分の教会の牧師が先生と呼ばれないとおもしろくないということがあれば、パリサイ人たちと同じことになってしまいます。イエスに従う者は、人からの栄誉を求めるような者であってはいけないのです。私たちは、神の国と神の義を先ず求め、神からの栄誉を求める生き方をしなければなりません。私たちは、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の導きと教えを尊ぶ者たちでなければならないのです。
11節-12節 ここでイエスは弟子たちへの教えを締めくくります。その内容は、マタイ20:26-28と同様な内容になっています。しかし、ここでは、その時のように直接的にイエスの模範については触れませんでした。それでも、12節の内容はイエスの模範を十分に示していると考えることができます。「自分を低くする者は高くされます。」という部分です。御子なる神の地位を離れて人となられたこと、パリサイ人たちや異邦人に虐げられて十字架に着けられたこと、死んで葬られ、黄泉に下られたことが低くされた内容です。極限までイエスは低くされたのです。そして、高くされ、天の王座に着かれました。私たちには到底できないことですが、それでも、イエスの謙卑に私たちは倣っていかなければなりません。
  
まとめ)
  本日の聖書箇所がイエスに倣って低くされ高められる者となるために私たちに示していることを次のようにまとめておきます。

1)神の言葉に従え
  イエスは、パリサイ人や律法学者が正しく聖書の解釈を教えている部分については言うことを聞くように命じられました。私たちは、聖書をよく読み、その内容をよく理解しようとしなければなりません。そして、その教えを、聖霊の導きによって守って行くのです。

2)人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めよ
  私たちの実践は、パリサイ人たちがしていたような、人の栄誉を求めるものであってはなりません。自らを低くして、神と教会に仕え、主にある兄弟姉妹に仕えるのです。また、神を信頼し、神の加護と養いを信じて生きることも、神を尊び栄誉を帰する生き方です。

3)常に神の偉大な救いの恵みを覚えよ
  イエスが極限まで低くなられたのはなぜでしょうか。それは、私たち信じる者を救うためです。三位一体の神が、どれだけの犠牲を払ったかを考えるのです。それは、一方的な恵みであって、私たちの功績ではありません。そのイエスは、天に昇られて、王座についておられます。そこで、私たちのために執り成しをしてくださり、最後の審判の時には、私たちを無罪として受け入れてくださるのです。
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日曜礼拝 2023年12月17日

2023-12-17 22:58:14 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ 8:18-27
説教題:王に従う者の資質

導入)
  直前の17節までの内容は、イエスが病を癒し、悪霊を追い出すという奇跡を行って、ご自身が約束のメシアであることを証明されるというものでした。マタイは、これらのことが、イザヤ53:4の成就であるとしています。
  ここからは、マタイは、イエスに従う者の資質に注目した記述をしていると考えられます。イエスに従う者への神の御心を確認してみましょう。

本論)
18節 イエスと一行はカペナウムにいたことが5節からわかります。群衆をご覧になってイエスは、向こう岸に行くことを決められます。向こう側というのは、ガダラ人の地方であることが28節に記されています。前日の働きによってまだ疲れが残っていて、しばらく群衆から離れていたいと思われたからかもしれません。
19節 一行が出かける前に、一人の律法学者がイエスの所に来ました。通常福音書に出て来る律法学者は、イエスに敵対する者であることが多いのですが、この人は、イエスについて行きたいと申し出ました。どこにでもと言っていますから、この場面では、湖の反対側にもついて行きたいということになります。
20節 そこでイエスは、弟子たちの伝道旅行の雰囲気を伝えます。枕するところが無いというのは、決まった宿がなく、人々のもてなし、もっと言えば、神の導きと守りに頼って生活しなければならないということです。イエスは、その律法学者に、そんな代償を支払ってイエスについて行く心の準備ができているのかと尋ねたことになります。律法学者がどう応答したかは記録されていません。
21節 また、他の地方に移動しなければならないことを知って、イエスの弟子の一人がカペナウムに留まる許可を求めました。父を葬りたいということでした。普通ユダヤ人は既に父親が亡くなっていれば、出歩くことをしませんので、この時点ではその父親は存命であったことがわかります。すると、この弟子は、父親が弱っていて、間も無く亡くなるかもしれないので、それまで一緒に過ごして葬式をしてからイエスの所に戻ってきたいと考えたことになります。
22節 イエスの返事は予想とは違っていました。「わたしについて来なさい。」と言われました。ユダヤ人は、子どもが両親の葬りをきちんとすることを尊びましたから、このご命令には驚いたに違いありません。イエスのご命令の理由は、続く説明と状況から判断できます。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい言っています。死人というのは、ここでは、イエスを自分の王として受け入れない霊的に死んだ者たちということになります。では、この場面で霊的に生きている者、イエスを王として受け入れた弟子たちがするべきことはなんだったのでしょうか。それは、イエスについて行って、共に福音宣教をすることでした。現在の私たちがそうしなければならないということよりも、その時、イエスの弟子の優先順位はそういうものだったということと考えられます。しかし、そのような場面でなくても、私たちも神の国の福音に関わることが世事よりもゆうせんされるべき時が有るかもしれません。この弟子の応答の記録も有りません。
23、24節 対話を終えたイエスと一行は、船に乗り込みました。大暴風が起きたのは、昼間のことであると理解できる状況です。普通ですと、湖の大暴風は、周囲の山頂の空気が冷えて湖にくだって来る夕暮れ時に起こります。それは常識でしたので、わざわざそんな時間に船で湖に出ることはしなかったのです。そういわけで、学者の中には、これはガダラ人の地方で福音が語られるのを妨げようとしたサタンの働きと考える者もいます。または、弟子たちに教訓を与えるための機会としてイエスが起こしたものではないかと考える者たちもいます。いずれであるかは私たちにはわかりません。しかし、これが弟子たちに教訓を与える機会になったことには違いありません。そして、この大暴風の中で、イエスはぐっすり眠っておられました。
25節-27節 助けを求めた弟子たちに対するイエスの答えや、驚いた人々の言葉が、王に従う者の資質を示していると考えることができそうです。ちなみに、27節の「人々」というのは、大勢の弟子たちを乗せる船を出した船頭たちだろうと考えられます。イエスの弟子たちであれば、「この方はどういう方なのだろうか」という問いの答えは知っていなければならないからです。イエスはメシアであり、神の御子であり、また創造主でもあるのです。しかし、その答えを知っているということと、それが信仰を伴って心の内に働くことは別のことです。ですから、イエスは「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われました。
メシアであり創造主であるイエスが一緒に船に乗っていました。そして、その方は眠っておられたのです。その方が、「向こう岸に行こう。」という指示を出されたのですから、必ずそれは成就しなければならず、イエスが眠っている以上、船が危険にさらされるはずが無かったのです。イエスが風と波を叱られると、大なぎになりました。なぎは海上が滑らかな状態です。突然無風状態になっても、波の方は物理的に突然エネルギーが平均化するはずがないので、このこともイエスによる奇跡の業と考えなければなりません。

まとめ)
  私達は、最初の福音宣教を委ねられた弟子たちとは立場や状況がが異なります。それでも、イエスを信じて従う信仰者として持っていなければならない資質が有ります。この聖書朗読から私たちの持つべき資質を確認してみましょう。

1)私たちの王であるイエスがどのような方かを明確に知ること
  イエスは、神の御子、創造主、約束の救い主です。イエスは信じる者を罪と死から贖い出して救ってくださり、永遠の命を与えてくださる方です。ですから、私たちの主として命じられることを、私たちは信じ従わなければなりません。

2)私たちの王であるイエスの御力を確信し、信頼すること
  聖書においては、多くの場合は、水は困難の象徴です。しかし、私たちは主の御体なる教会の中に、イエスと一緒にいるのです。私たちは確実にイエスが私たちのために定められたゴールに到達します。ですから、イエスを信頼し、恐れずに、心の平安を保って歩むのです。

3)神の国に属する事柄を優先すること
  現在の私たちが両親を葬ることをせずに伝道に行くことが求められているわけではありません。それでも、イエスの良い証人になること、イエスの教えを守ること、聖書を読み、祈る続けること、日曜礼拝を守り、奉仕と献金をもって礼拝を維持することを優先する態度がなければなりません。
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日曜礼拝 2023年12月10日

2023-12-10 18:23:49 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書朗読:ルカ 5:33-39
説教題:なんともったいない

導入)
*直前のエピソードでは、イエス様に従うことになったマタイが、喜んで食事会を開きました。
*イエス様に従って義人となることを受け入れられないパリサイ人たちは、つぶやいて言いました。
*自分のプライドや方法で正しくなろうとする人は、他人に容赦がなく、人を傷つけるような表現になることが多いのです。
*イエス様を主として従って行こうという、悔い改めと決心をした人達の生き方の原則は、彼らには理解できませんでした。
*ですから、パリサイ人たちは、続けてイエス様を非難する言葉を投げかけて来ます。
*ルカがこの記録を通して私たちに伝えようとしていることを確認しましょう。

本論)
33節 パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちを非難しているような表現をしますが、暗に、彼らの師匠であるイエス様の指導がなっていないという非難をしています。イエス様は教師の資格が無いという雰囲気になります。
*ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちがしていた断食はどんなものでしょう。
背景1 モーセの律法
*モーセの律法では、断食の規定は年に一回しかありませんでした。大祭司が全ての国民の罪の贖いのための生贄を捧げる日に、仕事を休み、断食しました。
背景2 伝統
*預言者はそのような規定を伝えたことはありませんでしたが、捕囚から帰還した後は、年に4回断食をするようになったそうです。(2回とも)
背景3 パリサイ人たちの規定
*イエス様の時代には、敬虔なユダヤ教徒や厳格なユダヤ教徒は、週に二回断食をしたそうです。伝統や言い伝えでは、モーセが山に登って神から律法を受け取った日だという理由で、月曜日と金曜日に断食したということです。(木曜日という説も有ります。)
→これが一般的に強制されるような感じになってきたようです。
 パリサイ人たちは、断食をしていることを誇り、自慢していました。
 また、いかにも断食していることが判るように振る舞って誇示していました。
*神の御子であるイエス様は、神がモーセに与えた律法には従っていましたが、人が定めた伝統や規定を採用することはしませんでした。
34節-35節 婚宴の例話
当時のユダヤの婚宴は、一週間続きました。
→この祝いの期間に関係者が断食をすることは禁じられていました。
 もし関係者が断食をすれば、大変な侮辱とみなされました。
*婚宴の例話は、マタイの設けた宴会とどうつながるのでしょうか
→イエス様:これから花嫁となる主の体なる教会との関係を結ぼうとしている花婿。
→弟子たち:花嫁である教会の一部であり、参列者でもある存在。
*この宴会は、喜びとお祝いの時であり、断食を持ち出す場面ではありませんでした。
*イエス様は、レビ・マタイの悔い改めと、宴会を、イエス様と教会の婚宴と同様なものとみなして祝福されたのです。
*35節では、イエス様は預言的な発言をします。
—1)定められた時に、花婿なるイエスは地上からいなくなる。
   イエス様は、十字架で死なれ、三日目に復活し、40日弟子たちに現れた後に天に昇られることが決まっていました。イエス様はご存知でした。
—2)イエス様が天に昇られると、弟子たちはいよいよ福音宣教に尽力することになり、その時には、神との深いつながりと助を得る必要のために断食して祈ることになりました。(例:使徒行伝13:2-3、パウロとバルナバの派遣の時)
☆それは、見栄を飾るためにするパリサイ人たちの断食とは全く違った、純粋な断食と祈りであることが示唆されています。
36節-39節 着物と革袋の例話
*ここからイエス様は、パリサイ人たちがしているのがどんなことかを、例えを使って話し始めます。
*着物の例話: お気に入りのジャケットを何年も着古して、肘の所に穴ががあいてしまいました。その時、最近買ったプラダのジャケットを思い出しました。柄、パターンが似ているから、あれから布を切り取って、古着の穴に継ぎ当てをしよう!そんなことを考える人がいますか?
→新しい着物を傷物にするのは愚かなことです。着られなくなります。
→新しい布は、色合いが異なり、古い布に馴染みません。また、洗濯をすると縮むことがあり、古い布がさらに傷むことが有ります。
☆これは大変愚かでもったいないことです。
*革袋の例話: 一般的には山羊の革で作ったもので、そこに水、ワインを入れて持ち運びました。
*新しいワイン: まだ発酵初期のものということになります。その後も発酵が進み、二酸化炭素が発生する段階です。
*古い革袋は、そういう段階の新しいワインを保存するのには適していません。古い革袋は、弾力性がなくなっており、長く使用してきたために薄くなったり弱くなったりしている部分がでてきます。うっかり二酸化炭素を逃がし忘れると、ガスが充満してついには革袋が張り裂けてしまうことがあるのです。
→新しいワインと古い革袋を組み合わせるのは愚かなことです。
→革袋が張り裂ければ、もう使えなくなります。
→ワインもこぼれてしまって、飲めなくなってしまいます。勿体ないことです。
☆パリサイ人たちがしていることは、これと同様に愚かで勿体ないことです。
*例話の意味:生活の知恵の話ではありません。新しい方法でもありません。
*新しいワイン:イエス様を信じることによって義とされ、神の国の民となることができるという救いの福音。イエス様の教えです。
*新しい革袋:イエス様を信じる信仰に基づいた態度と行動です。
→弟子たちは、イエス様に招かれて、神の国の福音を信じる新しい信仰、新しいワインを心に持っていました。
→その現れである革袋、表面に見える状態は、イエス様との交流を喜び、マタイの悔い改めを喜び、神が定めたのではない、人間の見栄をはるための断食をしないことでした。
☆もし弟子たちがパリサイ人たちの言うことを聞いて、彼らと同様な態度で断食をしたら、どういうことになるでしょうか?
*弟子たちがパリサイ人たちと同じ心構えで断食を始めるならば、彼らの霊的な状態は、古い着物を着ているのと同じです。イエス様に従うことは、ただのポーズになってしまい、福音の恵みの一部を切り取って古い着物に継ぎを当てただけのような状態になってしまいます。
→イエス様の福音の恵みが全く無駄になってしまいます。
→新しい着物は、そのまま全体を用いてこそ意味が有ります。福音も同様。
*弟子たちがパリサイ人たちと同じ心構えで断食を始めるならば、彼らの霊的な状態は、古い革袋に新しいワインを入れたようなものです。
→子なる神、イエス様の福音による義と、パリサイ人たちの見栄を飾った断食の義は、比較になりません。後者は無に等しいのです。
→イエス様による義の信仰を持っているはずの人間が、パリサイ人たちと同じ心の持ち方、考え方で断食をしたならば、その信仰は無意味です。(偶像礼拝です。)ですから、ワインは流れ出て、古い革袋と一緒にだめになってしまうというのです。
☆39節は、神の国の福音を受け入れないパリサイ人たちへの皮肉と考えられます。彼らは人間が考え出した厳しい規定や伝統という古いワインを几帳面に守っていること、それを人々に見せびらかして賞賛されている自分に満足して、イエス様の教えに耳を貸そうともしませんでした。彼らの多くは、最後まで福音の恵みを味わうことが有りませんでした。

まとめ)
*もしイエス様の例話が生活の知恵のことであれば、パリサイ人たちは、我々はそんな愚かなことをするものかと思ったかもしれません。
→しかし、霊的には、彼らの考えや行いは、同様に愚かなものでした。
☆聖書に出て来る愚かな考えや行いを読む時、私たちがするべきことは、自分の中にそのような部分がないかを反省することです。

1)神がお命じになっていない行動で義人、良い人になろうとしない
*神を愛し、互いに愛し合うこと、絶えず祈ること、礼拝を守り、献金と奉仕で教会を支えることは聖書に命じられています。
*しかし、見栄をはるために断食をする、聖書的でない基準で他のクリスチャンを断罪するなどのことは、単なる自己満足です。
*アナニヤとサッピラの事件。
*ガラテヤ6:14-16(朗読) 割礼の問題について ガラテヤ5:2、5-6(朗読)

2)神がいかに大きな犠牲を払ってくださったかを認識する
*インドの父親の話。汽車から三歳の息子を救って片足を失った。
*神様は、私たちを救うために、もっと大きなものを犠牲にされた。御子イエス
*神様が私たちに与えてくださった義の衣は、イエス様の十字架の贖いを通して与えられました。
*それを、割礼とか、何かの伝統を守っていることの誇りに置き換えるのは、あまりにももったいない、無限大にもったいないことです。

3)神の国の福音の基本原則を認識する
*マタイ18:3 自分の能力、努力では、神に義と認められることはないことをしっかり心に留めておくことです。
*イエス様の弟子たちも、繰り返しこの原則を教えこまれました。
*私たちはただ信仰によってのみ義とされ、救われ、神の業をする者と認められるのです。
*そんなにお気楽で良いのか。→では、あなたに何ができるのか。功なきわれら。
*私たちにイエス様以外に誇るものが生じる時、自慢する心が生じる時、あまりにももったいない状態になっていることを肝に銘じましょう。
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日曜礼拝 2023年12月3日

2023-12-03 22:15:28 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:詩編44編1節-26節
説教題:主よ、なぜ御顔お隠しになるのですか

導入)
  この詩編の副題には、コラの子たちのマスキールとあります。コラは、荒野でモーセとアロンに逆らって神に滅ぼされたレビ人です。しかし、その子孫は続けて神に仕えていました。彼らの役割は、門衛と神との交わりの捧げものを整えることでした。後者には、賛美の歌を歌うことが含まれていました。この詩編もそういう役割を持ったコラの子たちの一人が書いたのでしょう。因みに、預言者サムエルもコラの子孫で、彼の孫のヘマンも歌手として1歴代誌には記録されており、詩編の88編は彼の作とされています。
  この詩編は、嘆きの詩編に分類されます。詩編の4割近くが嘆きの詩編だと考えられていますが、この44編には特徴が有ります。多くの嘆きの詩編は、どんなに嘆いても、最後は賛美の告白で結ばれることが多いのですが、44編は、神への懇願の言葉で締めくくられています。この詩編の記者は信仰が欠けていたのでしょうか。その伝えようとしている内容を確認してみましょう。

本論)
神への呼びかけ(1節-8節) 
  この部分では、記者は、「神よ」と呼びかけています。先ず、神が先祖にしてくださった御業を思い出しています。その内容は、出エジプトからカナン入植までと考えられます。そして、そのことが可能だったのは、神の力のおかげであって、先祖の力によるのではないことを告白しています。
  4節から大事な転換が見られます。記者の焦点が、先祖から自分たちの世代に移ります。しかし、ここでも、自分達が成し遂げて来たことは、神の力によるものであって、自分達の力によるのではないことを告白しています。更に大事なことは、4節にあるように、神が「私の」王であるという告白をしていることです。彼は、民全体を代表するように立場で一人称単数の「私」を用いたのでしょうけれども、そこには、例え他の同胞がそう言わなくても、私にはあなたが王ですという強い信仰の現れが有るように思います。

神が国にしてくださったこと(9節-16節)  
  力強い信仰告白の後で、記者は神に不平を述べ始めたかのように見えます。私はあなたを完全に信頼しているのに、あなたが私たちにしていることは酷いではありませんか、と言っているような記述になっています。神が助けてくださらないから、敵国の思うがままにあしらわれ、命を落としたり、奴隷として連れ去られたりしているというのです。大変困難な状況であることがわかります。
  この箇所で特徴的なことは、記者が神に対して繰り返し「あなたは」と呼びかけていることです。神がこれらの困難な状況を民に与えているという表現になっています。そこに、私たちは何を見出せば良いのでしょう。ここに記者の信仰を見るべきではないかとおもわれます。どんなことの背後にも、主権者なる神がおられて、神が全てを治めておられるという信仰です。

私たちの心の状態(17節-22節)
  記者は、そのような中でも、神に対して信仰を貫いていることを訴えます。神を忘れず、契約を守り、忠実に歩んでいると言っているのです。にもかかわらず、私たちは神の助けを得られないとはどういうことかと神に訴えています。(17節-19節)記者は表現を変えて畳みかけるように続けて訴えます。全知全能の神ならば、訴えている記者の心の中がわかるはずで、神がご覧になっても、自分が神に忠実なことは明白だろうと訴えています。
  22節では、「あなたのために、私たちは一日中、殺されています」と書かれています。あなたのために、というのは、彼らが神に忠実で、外国の政策に同化し、外国の神を礼拝しないことを指していると考えられます。記者は、このようにして、表現を変えながら、繰り返し自分たちが神に対して忠実であることをしつこく訴えているのです。

これが私の懇願することです(23節-26節)
  23節-24節で記者が言っていることは、「直ぐに私たちを救い出すために行動を起こしてください。」ということです。なぜ眠っておられるのかという問いは、修辞的表現です。神は眠ることのない方です。なぜ御顔をお隠しになるのですかという問いは、どうして恵みを、救いを与えたくださらないのですかということです。旧約においては、神の顔は、神の恵みを示す表現です。
  私たちは、神に対して「なぜ」と問いかけることは不信仰であると考える傾向があるかもしれません。しかし、これまでの記述の流れを考慮する時、記者の心に有るのは神への不信仰や疑いではなく、神に対する信仰、信頼、確信と判断することができるのではないでしょうか。
  25節は、民がどん底の状態にいることを言い表しています。私たちの悲惨な状況を見てくださいと訴えています。同時に、それは、「神様、今こそ、あなたに忠実に生きている私たちのために行動を起こす時ではありませんか。」という訴えになっていると考えられます。
  記者の継続的な訴えは、イエスが弟子たちに、いつも祈るべきであり、失望してはならないと教えられたことを思い起させます。(ルカ18:1参照)最後の26節でも、「立ち上がって私たちをお助けください。」という類似の繰り返し表現で締めくくっています。それに伴う、「あなたの恵みのために」という表現は、何を意味しているのでしょうか。記者は、神が恵みの神であるという後性質に訴え、また、その恵みの故に民に与えられた契約を履行して、神に忠実である私たちを救い出してくださいと訴えていると考えることができます。

まとめ)
  記者は、最後の一行も神への懇願の言葉で締めくくりました。神に「なぜ」と尋ねていますが、彼の信仰は未成熟なのでしょうか。いえ、もしそういうことならば、この詩編が聖書に収録されることはなかったでしょう。私たちは、むしろ、成熟した強い信仰が示されていると考えるべきです。この詩編の模範に従うなら、私たち大きな困難に直面する時、どのように祈ったら良いのでしょうか。

1)神がこれまでにしてくださったことを感謝し、神を賛美する
  これが、この詩編の記者が最初にしたことです。どんな時でも神への感謝から祈りを始めることは大事な要素です。私達は、すべてのことが神の恵みの結果であり、自分の能力の結果として誇らないようにし、神に信頼しなければなりません。

2)神を自分の王として、神への信仰と忠誠を示す
  詩編の記者は、一人称単数の「私」を用いて、神を「私の王」と宣言しています。彼は、神の契約を信頼していいました。神の教えに従う時に、神が祝福してくださることが、神と民が交わした契約です。

3)神に懇願する
  詩編の記者がしたように、自分が直面している大きな困難の内容を神に申し上げるのです。ピリピ4:6-7では、「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という一節が有ります。神は全知ですから、私たちが表現しなくても、私たちの願いはご存知です。この聖書箇所の言わんとすることは、神にあなたの祈りを経験していただきなさいという意味合いになるという解説を読んだことが有ります。あなたが直接神に申し上げることに意味が有るのです。そのようにして、神に直接救いの手を伸べてくださるように懇願するのです。諦めずに祈り続けるのです。(前出)私たちが神との契約を持った神の民であることと、私たちが神の教えに忠実に従っていこうとしている存在であるという事実に基づいて懇願し、祈り続けましょう。
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