パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2018年2月25日

2018-02-26 09:08:37 | 日記
聖書箇所:申命記18章14節~22節
説教題:彼に聞き従わなければならない

該当箇所の流れ
・異国の人々のように、占い師などの言葉に聞き従ってはならない。
・聞き従うべきは、神がイスラエル人の中から立てたモーセのような預言者である。
・預言者が必要なのは、神の直接的な表れにイスラエル人たちが耐えられなかったからある。
・預言者は神の言葉を伝えるのであるから、従わない者には神自身がその責任を問う。が
・預言者の真偽は、預言が成就するか否かで判断するものである。

モーセとイエス・キリストの対比
1)神との直接的交流を持っていた。キリストは更に三位一体の交流において勝っている。
2)仲保者であった。キリストは全人類のための仲保者である点で勝っている。
3)忠実な預言者であった。モーセはメリバの水の事件で神に栄光を帰さなかったが、キリス
  トは最後まで忠実であった。
4)大きな印と奇跡を行ったが、キリストは自らの権威で行った点で勝っている。
5)どちらにも王としての性格が有ったが、キリストは最後の審判をも司る王の王である。
6)律法、掟を与える存在であったが、モーセは神の律法を伝達したに過ぎず、キリストは自
  らの権威において新しい律法を授けたことにおいて勝っている。

彼(イエス・キリスト)に聞き従わなければならない
1)我々は仲保者としてのキリストを必要としているから
  人類は神との直接的な交流を持つことができません、イエス・キリストが受肉して父なる
  神を完全に啓示されたのです。このキリストの仲保によって私達信じる者は義とせられ天
  の御国に迎えられるのですから、キリストに聞き従わなければなりません。

2)我々は神の言葉であるキリストを必要としているから
  キリストは神の言葉です。(ヨハネ1:1)ですから、キリストに聞き従わなればなりません。
  キリスト自身が自分に聞き従い、その教えを守るように銘じています。(ヨハネ14:23)
  また、ご自身の権威をもって新しい掟を与えられました(ヨハネ13:34)イエス・キリス
  トご自身が申命記8:3を引用し、「はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一
  つのことばによる。」と言っています。

3)我々はキリストの預言を良く調べなければならないから
  イエス・キリストの預言は成就しました。ご自身の受難、死、復活を予告され、成就され
  ました。エルサレムの神殿の破壊を預言され、それは成就しました。終末の預言もされて
  います。偽キリストの出現などは預言の通りになっています。今後の世の中の情勢や再臨
  についてはまだ成就していない部分が有ります。再臨のキリストを名乗る人々に騙されて
  いる人たちは、キリストの言葉をよく調べていない、キリストに聞き従っていないことに
  なります。
  
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火曜聖書研究会 2018年2月20日

2018-02-20 17:12:16 | 日記
聖書箇所:ヨハネ6章1節~15節

研究ノート
・1節「その後」は、実際には一年近く後と考えられます。5章の出来事が過ぎ越しの祭りであ
 る可能性も残っていることと、6章が過ぎ越しが間近であると述べていることから、そう考
 えることができます。
・3節でキリストと弟子は山に登りますが、5節はそこから下りてからのことと考えられそうで
 す。それは、15節でキリストが再び山に退かれたという記述から考えられます。
・5節でピリポに質問をしたのは、その界隈がピリポにとって地元であり、地理的商業的事情が
 よくわかっていたからかもしれません。しかし、最も大事なことは、この質問によって、ピ
 リポやアンデレなどの弟子たちに、キリストには解決できるという信仰が無かったことが明
 らかになることであったと思われます。
・1デナリは当時の一日分の給料というのがこの金銭感覚の目安です。
・大麦のパンと小さい魚は庶民的な食材で、日本風に言うと、おにぎり三つと沢庵数枚という
 感覚になるだろうと思われます。
・10節の「すわらせなさい」「すわった」という語は食事のために体を横にする動作を表しま
 す。それが当時の食事の姿勢でした。ですから、キリストのこの指示は、食事を出しますよ
 という宣言と同じことになります。
・「その場所には草が多かった。」という記述は、詩編23編の「緑の牧場に伏させ」の句を想
 起させるものです。ヨハネはイエス・キリストが詩編23編に表された主と同格の方であるこ
 とをここで示していることになります。また、詩編23編の後半は宴会の主催者のイメージが
 用いられていますが、群衆が欲しいだけ食べられたという記述がそこに重なることになりま
 す。
・余ったパン切れを集めることの意味は、第一に、これが本当に奇跡であり、大いなる業がな
 されたことを確認すること、第二に、神の恵みを無駄にしないということが考えられます。
 神が自分のために、周囲の人のために、教会のためにしてくださった恵みを数えることが霊
 的な養いになることが有るのも、この原則によるのではないでしょうか。
・パンを集めるのに用いられたのは、比較的小さいかごで、出かける時にちょっとした食物を
 入れておくようなものでした。異邦人の地域に行った場合、穢れた食物を知らないで食べる
 ことを避けるために、食べ物をそういうかごに入れて持参したということです。
・5章でイエス・キリストは、ご自身が行っている奇跡の業が、メシア性を証明していること
 を述べられました。この奇跡も十分にそのことを示しています。ですから人々は、「この方
 こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言いました。この表現はモーセのことを連想させ
 るものであり、申命記18章18節の預言者のことを示しています。神はモーセを通して荒野に
 マナを降らせ、イスラエルの民に食物を与えました。
・申命記の記述を持ち出すならば、キリストの言うことを聞く、従うということも要求されて
 いたのですが、人々はむしろイエス・キリストを自分達の利益のために用いようとする態度
 を持っていました。むりやりに連れて行こうとしたというのは、王に担ぎ上げようという意
 図が有ったことを示しています。
・この人々の動きには背景が有ります。メシアは過ぎ越しの祭りの時に表れて、敵を打ち砕い
 てくれるという考えが広まっていました。まさにこれは過ぎ越しの祭りが1、2週間後に迫っ
 ている時のことであり、その奇跡は確実にナザレのイエスはメシアだということを示してい
 ましたから、興奮してそういう行動に出ようとして人々が存在したことは大変自然なことで
 あったと言えます。
・イエス・キリストはここで弟子たちに向こう岸に渡るように指示だけして、弟子たちや群衆
 に紛れるようにして、人々に利用されないように一人で山に退いてしまいました。別の福音
 書によりますと、イエス・キリストは山で祈っていたということですから、このことを通し
 て弟子の信仰が深まるようにという執り成しの祈りもされていたかもしれません。その執り
 成しは、今日の私達のためにも続けられています。感謝なことです。
・聖書に出てくる奇跡の記述を否定する立場でいろいろな可能性が語られる場合が有ります。
 少年が食べ物を出したので、他の人々も心を動かされて自分の弁当を出して分け合ったのだ
 とか、ちょっと舐めては回したらお腹が一杯になったような気がしたのだという説明が試み
 られてきたようです。しかし、それでは福音書の記述として意味をなしませんし、14節に出
 てくる「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」という判断につながりよ
 うが有りません。
・五千人の給食の奇跡は、唯一四福音書全部に記述の有る奇跡です。その重要性は、イエスが
 メシアであることの宣言に有ることは言うまでもありません。

ごく簡単なまとめ
・イエスは真のメシアです。
・クリスチャンは、イエスにはできるという信仰を持ち、繰り返し確認する必要が有ります。
・キリストは、私達が利用するべき存在ではなく、私達が聞き従うべき方です。
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日曜礼拝 2018年2月18日

2018-02-18 21:22:53 | 日記
聖書箇所:ルカ7章36節~50節
説教題:キリストの足を洗った女

登場人物の比較

パリサイ人シモン
キリストを食事に招待しましたが、動機は良いものではなかったのではないかと思われます。
食事に招待した時の基本的なもてなしをひとつもしていないことからそれがうかがえます。客
は温水で足を洗ってもらい、歓迎の口づけをされ、油を塗って髪を整えてもらうものでした。
キリストが罪深い女のすることを黙認していると、キリストは預言者ではないのではないかと
考えている様子が有ります。

罪深い女
どのように罪深かったのかは記されていませんが、一説では娼婦だったのではないかというこ
とが言われています。この女性は、単純に感謝の気持ちから献金のような考えで香油を持って
来たのかもしれませんが、最終的には、パリサイ人シモンがキリストにしなかったもてなしを
したことになります。


キリストの足を洗った女に倣うべきポイント


1)イエスの足を洗うクリスチャンになる
  キリストの御体なる教会の霊的汚てれを戒め、執り成し、祈ることが聖書では奨励されてい
  ます。(コロサイ3:16、Iペテロ4:8等)
  人の足を洗うという奴隷の仕事を、自らの誇りである髪をもって実行した女性の謙遜にも倣
  うことが重要でしょう。

2)イエスの足に口づけするクリスチャンになる
  女性が繰り返しイエスの足に口づけしたのは、メシア預言を含む詩編2編に表れる「御子の足
  に口づけせよ」という言葉に従ったのではないかという考え方が有ります。今日のクリスチャ
  ンの適用としては、イエスを救い主と認め、繰り返しそう表明することが考えられます。日々
  心の中でイエスをキリストと告白し、機会が有る時に証をすることです。

3)イエスの足に香油を塗るクリスチャンになる
  女性は、自分の時間を割き、労力を割き、高価な香油をささげてイエスにお仕えしました。イ
  エスは、私達のために命をかけてくださった方であり、あらゆる賛美と奉仕を受けるに値する
  方です。時間、才能、労力、財力をささげてお仕えしましょう。


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火曜聖書研究会 2018年2月13日

2018-02-15 15:54:14 | 日記
聖書箇所:ヨハネ5章30節~47節

 キリストが安息日をやぶり、自らを神と等しくすると責めているユダヤ人指導者達への言葉
が続きます。
 今回は、キリストのメシア性を証言するものが三つ有るということを示しています。本人で
はなく、第三者の証言が三つ以上有り、それが一致することは有効な証言として受け入れられ
ていました。

有効な証言1:バプテスマのヨハネによる証言(33節~35節)
 バプテスマのヨハネは真理について、すなわちキリストについて証言しました。パリサイ人
や律法学者たちでさえヨハネのバプテスマを受けようとしました。35節の「ともしび」という
表現は、良い教師に対して用いらえる言葉ということです。ユダヤ人の指導者が認めた人物が
ナザレのイエスはキリスト、メシアであると証言したのですから、彼らはそれを受け入れるべ
きなのではないか、という訴えになっています。

有効な証言2:キリストの行った奇跡の業(36節~38節)
 旧約聖書の記述では、メシアが来れば目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳
が開かれ、足の不自由な者が歩けるようになるという預言の記述が有ります。それまでにキリ
ストはすでにそのような証拠としての奇跡を行っていました。しかし、ユダヤ人の指導者たち
は、そのような聖書の言葉を心に留めもせず、キリストを受け入れようとしていないと責めら
れているのです。

有効な証言3:旧約聖書の記述という証言(39節~47節)
 42節‐「神の愛」は神に対する愛と理解できる用法です。キリストは父なる神の権威を持っ
て来られましたし、父の御心と一致した存在でしたが、それを受け入れないのですから、神へ
の愛が無いと言われても仕方が有りません。
 43節‐ほかの人がその人自身の名において来れば、あなた方はその人を受け入れるという記
述に合う人物としては、132年から第二次ユダヤ戦争を率いたバル・コクバが挙げられます。
彼は自分がイスラエルを解放するメシアだと言いました。この時、ユダヤ人指導者のラビ・ア
キバが彼を支持しました。
 46節‐モーセが書いたのは私のことだからです、というのは、申命記18章18節の記述を指す
と考えられます。モーセと同等の力強い預言者が来たならば、その指導に従わなければならな
いということが示されています。その他のメシア預言にもキリストの有様は合致していました
が、ユダヤ人指導者はそれを受けれませんでした。だから、彼らを裁くのは、彼らが尊敬して
いると思っているモーセなのだということになります。

ごく簡単なまとめ
ナザレのイエスがメシアであることは十分に証明されている。
そのような明らかな証拠を受け入れないのは、神への愛がないということだ。
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日曜礼拝 2018年2月11日

2018-02-11 19:45:41 | 日記
聖書箇所:マタイ7章7節~14節
説教題:門をたたき続けなさい

 「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」という教えは、祈りの姿勢として語られること
が頻繁に有ります。その考え方は、この箇所の結論が示されている12節の内容とは合いません。
 この箇所の理解のためには先ず文脈、話の流れを理解しなければなりません。聖書学者は7
章は山上の垂訓の補遺的な内容になっていると考えます。すると、この箇所は6章33節に示さ
れている山上の垂訓の大事なまとめになっている、「神の国と義を先ず求めなさい。」という
大原則に関わる補足説明と考えるべき内容であることが判ります。

門をたたき続けなさい
1)神の国と神の義を熱心に全精力を傾けて探し求めることによって。(7節~8節)
  求める:緊急性と渇望をもって(その心を傾けて)
  捜す:考え、理由付けをしながら熱心に(その意思を働かせて)
  たたく:門をたたく行為(さらに親密な関係を求めて)
  *そうすれば誰でも受けると約束されています。聞かれない祈りも有るのですから、これ
   は祈りに関する教えではないことが判ります。求めるものが誰でも受けるのは、神の国  
   と神の義です。

2)自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにすることによって(9節~12節)
  神の国と議を求める者は誰でも受けるのは、父なる神が良いお方だからです。それは、5
  章44、45節にもつながっています。キリストは律法と預言者を成就するために来られまし
  た。そして、この原則も律法と預言者にかかっていると言われました。この戒めを守るな
  らば、キリストの戒めを守り、神の国と義を求めて生きていることになるのです。

3)キリストとの個人的で親密な関係を追い求めることによって(13節~14節)
  小さく狭い道は個人宅への道であり、狭い門は個人宅の入口です。ある人と知己を得て、
  もっと親しくなりたければ、その人の住所を尋ね(求め)、それを頼りに家を捜し、その
  家を見つければ門をたたくのです。ですから、この箇所も前とのつながりで理解されなけ
  ればなりません。聖書を学び、み言葉を思い巡らし、日々祈り、主をほめたたえ、完全に
  に神に信頼して行こうとすることなどがその実践となります。  


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