パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

ジェディダイア

2023-05-24 00:07:59 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
アンがマシューとマリラの家に着いた翌日、自分の生い立ちについて話すように命じられた時に、両親の名前について話します。父親はウォルター(Walter)で、母親はバーサ(Bertha)という名前だと紹介した時、アンは、両親の名前を素敵な名前であり、両親の名前がきれいな名前で良かったと言います。その後に、父親の名前がジェディダイア(Jedediah)という名前だったら、生涯の重荷になっただろうと言っています。

聖書をあまり読んだことのない方には、このくだりはあまりピンと来ないかもしれません。ジェディダイアというのは、旧約聖書のサムエル記Ⅱ12章25節に出て来る名前です。この名前は、ダビデ王の後を継いで王となったソロモン王の別名です。神がソロモンを愛されたので、預言者ナタンを遣わして、この名前を与えたということが記されています。新改訳聖書では、エディデヤと表記されています。

この名前の意味は、「主の愛されている者」というもので、祝福を表すものでした。聖書の中には一度しか出てこないために、人名としてよりも、神がソロモンを受け入れられたということを示すために与えられたものと考えられています。

ここまで判れば、アンの生涯の重荷になっただろうという感想も理解できるのではないでしょうか。先ず、その「主から愛されている者」という意味は、有難くはありますが、時には、分不相応と言いましょうか、自分がそんな名前を名乗るのは図々しいという感じがするのではないかと思います。

更に、ソロモン王の功績を考えると、そのことも重荷になるのではないかと思います。ソロモン王は、ダビデ王朝の王の中で、最も広い領土を獲得した王です。彼の治世では、農業生産が増大し、軍備が整えられました。また、ソロモンは博識で知恵が有ることで知られました。文学にも造詣が深く、千五種の詩を書き表わし、あらゆる動植物のことを詳しく知っていたとされています。エルサレムの神殿を建立したことでも知られています。

自分がそんな人物の名前を着けられたら、本人も名前負けしていると感じて、負担に思ったことでしょう。アンの言葉を「生涯の重荷」と訳すのも頷けます。

ただ、原文では、“It would be a real disgrace to have a father named—well, say Jedediah, wouldn’t it?”という表現になっていて、重荷というよりは、恥ずかしいという感覚であったようです。
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風がびゅうびゅううなるような荒野

2023-05-10 12:31:18 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
アンが、手違いでグリーン・ゲイブルズに連れて来られたことが判って、泣きながら眠った翌朝の食卓での、アンの第一声に含まれた表現です。私が使っている松本侑子訳の巻末のノートでは、これが申命記32:10の引用であるとされています。アンの言葉と聖書の言葉を照らし合わせて確認してみます。

He found him in a desert land,
and in the waste howling wilderness;
he led him about, he instructed him,
he kept him as the apple of his eye. <King James Version>

主はこれを荒野の地で見いだし、
獣のほえる荒れ地で会い、
これを巡り囲んでいたわり、
目のひとみのように守られた。<口語訳>

原文のアンの言葉は次の通りです。

The world doesn’t seem such a howling wilderness as it did last night.

さて、聖書の方の表現は、口語訳にも表れている通り、野獣が吠える荒野という意味で解釈されています。しかし、アンの言葉においては、風の描写として訳されています。実際に、howling windという表現が英語には有ります。アン・シリーズを読んでも、オオカミなどの獣への言及は無かったと思いますので、この場合は、そういう意味であったのだろうと考えて良いと思います。

では、この聖書的引用を用いることには、どのような思いが隠されているのかを考えます。申命記の引用であるならば、述部、結論は、神がイスラエルの民をいたわり、目のひとみのように守られたという部分にあります。

11歳になるまで孤児院で過ごさなければならなかったアンの境遇は、さながら荒野、荒れ地のようなものであったと言えるでしょう。マシューとマリラは男の子を養子に迎えたかったと知った時の絶望も同様な感じがしたと思われます。しかし、聖書の言葉の続きには、神が、そのような困難な境遇のイスラエルの民に現れ、それをいたわり、大事に守ったということが書かれているのです。

アンは、この時点では、間も無く孤児院に送り返されるか、別の家庭に引き取られてしまうことになっていました。作者のモンゴメリは、申命記のこの表現を引用することで、この後、マシューとマリラとの生活が、アンをいたわり、大事に守るものになるという、希望の要素を読者に暗に示そうと思ったのではないかと推察されます。作者モンゴメリ自身にも、そういう神への信頼と希望の思いが有ったと考えられます。
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ヘプジバ・ジェンキンズという変な名前

2021-07-01 23:24:08 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
「孤児院にへプシバ・ジェンキンズという変な名前の女の子がいた。」という内容の記述になっていますが、手元に有る英語のテキストでは、”There was a girl at the asylum whose name was Hepzibah Jenkins,”という表記になっていて、「変な名前」という表現は有りません。翻訳者が文脈に合わせて訳したものと思われます。アン自身は、その名前を“When I don’t like the name of a place or a person,”「私が地名や人名が気に入らない時は」 という場合についての説明に使っていて、気に入らないという表現をしています。実際に英語圏でもあまり人気の有る名前ではなく、あるサイトは古風で(classic)変な(strange)印象だと述べています。ハリー・ポッターシリーズにはHepzibah Smithという魔女が出て来るそうです。

ヘプジバという名前は、日本語の聖書では、ヘフジバや、ヘフツィ・バハ等の表記がされています。2列王記 21章1節に、マナセ王の母の名として出て来ます。旧約聖書の王の即位の記述には、毎回ではありませんが、頻繁に母親への言及が有ります。

ヘプジバという名前の意味は、喜びを意味する語幹を持ち、「わが喜びは彼女の中に有り」という意味になるようです。預言者イザヤの書62章4節では、神によって回復されたイスラエルの国をヘプジバと呼んでいる記述が有ります。ですから、意味は良いのですが、その響きが英語的にも個人的にもアンの気に入らなかったのだと思います。

因みに、その息子のマナセは、ダビデ王朝の歴代の王の中では、信仰的に最も堕落した王として聖書には記録されています。伝承では、預言者イザヤをのこぎりでひき殺したとされています。神からの罰としてのバビロン捕囚は、数代後のことですが、この王のせいで決定的になった印象が有ります。マナセはその後一度バビロンに捕らえられますが、そこで神への信仰に立ち返り、もう一度エルサレムに帰ることが許されたという記事が2歴代誌33章に出て来ます。

モンゴメリがこの名前を取り上げたことには、プロット上の意味はあまり無いように思います。一方で、彼女がこのような名前を取り上げたことには、彼女の生い立ちが関係あるかもしれないと思います。モンゴメリは二歳で母親を亡くしたので、旧約聖書の王の即位の記事に、頻繁に母親の名前が記されていることに心が引かれて、一通り調べたことが有ったのかもしれないと私は想像しました。
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ヨブの慰め

2021-03-03 16:34:14 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
第一話に出てくる表現です。

  マシューが駅に養子になる子供を迎えに行ったことをマリラがリンド夫人に告げると、大変驚いて、そんなことは軽率にするべきではなかったというような態度で話し始めるのです。そして、ある夫婦が孤児院から男の子を迎えたら、その子が故意に家に火をつけて、夫婦は危うく命を落とすところだったとか、別の子は、しょっちゅう生卵を殻から吸い出して食べてしまう子で、その癖が止められないのというような話をするのでした。一言相談してくれれば止めたのに、と言うのです。
  このヨブという人物は、旧約聖書に出て来ます。神が悪魔に向かって、ヨブ程敬虔で神を敬う人物はいないと言うと、悪魔は、そんなことはないという反論をします。困難なことが起きれば、化けの皮が剝がれて、そんなものは消え失せてしまうだろうというのです。神は、ヨブの正しさを証明できることがわかっていたので、それでは試してみよと悪魔に言います。それで、悪魔は大変な困難を彼に与えました。しかし、ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。(2章10節)」と言って、神を呪うようなことは言わなかったのです。

  さて、ヨブが困難に直面していることを伝え聞いた彼の友人たちが見舞いに来ました。しかし、彼のあまりの惨状に驚いた彼らは涙を流して嘆き、一週間、ヨブに話しかけることができませんでした。ところが、その後、ヨブが、こんなに困難な目に遭って苦しい、生まれなければ良かったのだというような愚痴をこぼしますと、友人たちはその後、延々と交代でヨブに非が有り、悪いことをしたに違いないから、生き様を正せというような忠告を浴びせかけるのです。
  友人たちはヨブを慰めに来たはずですが、逆に彼を責め立てることになり、少しもヨブの気持ちを和らげることが有りませんでした。ヨブにとっては聞くだけ無駄な言葉が長々と述べられたことになります。

  モンゴメリは、リンド夫人の忠告が、孤児院から子供を迎えるマシューとマリラには、何の慰めにも参考にもならない内容だったことを、このような、ヨブにかけられた無駄で逆効果な忠告のイメージと重ね合わせて表現しているのです。しかし、ここにヨブを持ち出すことにはもう一つの効果が有ります。ヨブはその後、神にその正しいことを認められ、「主(神)はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。(42章12節)」と聖書には記録されています。それは、この物語の第一話において、マシューが迎えに行った孤児院から引き取る子供の将来も、マシューとマリラの将来も、共に明るく豊かなものになることを暗示しているのです。その様子は、アンの物語をお読みになった方はよくご存知の通りです。
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マリラ・カスパート

2020-07-28 23:51:04 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
 マリラ ”Marilla” はアンの育ての親となる女性です。この形では聖書には出てきませんので、あまり聖書的名前という印象が有りません。英語の名前の起源等をネット検索して調べると、元来は「海辺」という意味が有るということです。同時に、マリア, Maria の変形という解説も出てきますが、音からの連想で後にそのようになったかもしれません。 
 マリアの変形という方から考えるとがる聖書的名前だということになります。この名前は、旧約聖書に出てくる大預言者モーセの姉、ミリアムに遡るものです。人気の有る名前で、新約聖書には6人のマリアが登場します。英語の聖書ではMaryです。中でも注目度が高いのは、イエス・キリストの母、聖母マリアということになると思います。モンゴメリもそちらのマリアに着想を得ている部分が有るのではないかと思います。
 マリラは赤毛のアンの育ての親で、母親のような立場です。イエスの母マリアは、イエス・キリストの地上の生涯における育ての親です。マリラは生涯結婚をしませんでしたが、アンを養子に迎えることによって母親の立場になりました。その部分が、イエスの母マリヤが、夫ヨセフによらず、聖霊によってイエスを身ごもった部分を連想するようになっているように思います。
 イエスの母マリアは、夫に先立たれて未亡人になりました。ですから、その後の生活はイエスが大工の仕事をして支えたと考えられています。このことは、家族を経済的に支えていた弟のマシューが先に亡くなってしまい、アンが地元に残って教師をしながらマリラの生活を支える部分に重なります。
 更に、イエスが十字架にかかって死ぬ時、(その後の昇天を念頭に入れて)イエスは母マリアを愛する弟子の一人であり、十字架の所までついてきたヨハネに託します。そのシーンはヨハネによる福音書19章26、27節に記録されています。

26 When Jesus therefore saw his mother, and the disciple standing by, whom he loved, he saith unto his mother, Woman, behold thy son! 
27 Then saith he to the disciple, Behold thy mother! And from that hour that disciple took her unto his own home. (King James Version)

26 イエスに愛された弟子の私(ヨハネ)もいっしょでした。イエスは、私と、私のそばに立ち尽くしているご自分の母親とを見つめ、「お母さん。ほら、そこにあなたの息子がいますよ」と声をかけられました。 27 それから、弟子の私に、「さあ、あなたの母ですよ」とおっしゃいました。その時以来、私は先生のお母さんを家に引き取ったのです。 (リビング・バイブル)

 アンがマリラの世話をするようになる部分には、イエスと弟子ヨハネの物語が二重写しになっているような気もします。

 さて、クリスチャンとしてイエスの母マリアを思い出す時に、一番心に留めるべき要素は何でしょうか。私は、ビートルズの歌にもなりました、”Let It Be” という神に物事を任せる信仰を持っていたことだと思います。
 マリアは天使ガブリエルの受胎告知を聞いた時、いろいろな疑問を持ちましたが、神にはできないことはないというガブリエルの言葉に応答して、「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いました。それは簡単なことではありませんでした。マリアは当時の結婚が許される年齢になっていましたから、14歳ぐらいではなかったかと考えられています。また、ヨセフという婚約者がいましたから、結婚して同居する前に妊娠していることが判明するのは、結婚破棄されて行き場を失い、社会から爪はじきにされて、場合によっては母子共に命を失うことも有ったかもしれません。想像してみると、恐ろしくてとてもそのような役割を引き受ける気にはなれないのではないかと思います。しかし、マリアは神への信頼と信仰を持ってそう答えたのです。(ルカによる福音書1章26節~38節参照)

 翻って、マリラ・カスパートにそのような神に全てを委ねて信頼する信仰を持っていたのかというと、あまり明確ではないような気がします。しかし、確実にキリスト教の信仰を持っていた人物として描写されていると思います。彼女がアンを引き取ることを決めたのは、感性が豊かで感じやすいアンをもう一人の里親候補者のブリュレット夫人には委ねたくなかったという部分が大きかったと思われます。(第6話参照)しかし、そういう決心をした背景に、”Let It Be” という神に委ねる信仰が皆無であったとは、私には思えないのです。
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