パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝(合同礼拝) 2021年9月26日

2021-09-28 23:39:27 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ
(コード:6AsX9+.8、説教は13:33-41:17)

聖書箇所:創世記1:29, 2:15 - 17)
説教題:エデンにいるかのように生きる

導入)
  エデンは時間的にも場所的にも遥か彼方であるような印象が有ると思います。しかし、クリスチャンは、今でもアダムがそこで従っていた原則によって生きている部分が有ります。今回は、その中から、次の三つを取り上げてみたいと思います。

本論) 
1)神に与えられた役割を果たし、神によって養われる
  聖書朗読で確認した通り、神はアダムに役割を与えました。それに従っているならば、神はアダムの食物を生じさせてくださったのです。彼には食物の心配は有りませんでした。イエスも山上の垂訓で、衣食について心配しないようにと教えています。そして、神の国と神の義をまず求めるならば、そういう必要は満たされると言われたのです。
  私たちの役割、為すべきことは何でしょうか。1)イエスを信じる(ヨハネ6:29、39-40) 2)イエスの教えを守る(ヨハネ15:17)3)教会を建て上げることが挙げられます。教会を建てる命令は大宣教命令(マタイ28:18 - 20)に含まれています。その実践は使徒行伝2:41 - 42で確認できます。彼らの集まりが教会として認識されていたことは、5:11からわかります。私たちがそのような取り組みをしている時、神様の養いを受けるのです。

2)神の守りと備えを信じて眠る
  堕落する前のアダムとエバの睡眠は、健全で完全なものだったことでしょう。詩編127:2を見てください。これは、神がその愛する者たちのために、眠っている間にも彼らを守り備えてくださるので、自分の食物を得ることを心配して、睡眠を削って労苦する必要は無いという内容です。備えてくださるのは食物ばかりではなく、環境も整えてくださいます。ダビデの告白(詩編4:8)やソロモンの告白(箴言3:24 - 26)を参照してください。
  この原則に従うために、早寝をしなければならないというわけではありません。しかし、最低でも、私たちは神がクリスチャンのために寝ている間にも備えてくださることを期待し、感謝して就寝するべきでしょう。クリスチャンには、眠ることもイエスの名によって為される必要が有ります。

3)いのちの木の実を選ぶ
  エデンに有ったいのちの木と善悪の知識の木のを今日見ることは有りません。しかし、今でも私たちは、いつも、どちらの木の原則に従うかを選ばなければならないのです。いのちの木は、イエスによる義の象徴です。それは、永遠の命を与えることができます。善悪の知識の木は、人間の判断に基づく義の象徴です。それは、私たちに罪と破滅をもたらします。クリスチャンが人や行いを賞賛したり断罪する時、気を付けなければなりません。立ち止まって、その判断がどちらの木に属するかを考える必要が有ります。

まとめ)
  これらの認識を持って日々を生きる時、私たちはエデンにいるかのように生きる歩みをしているのです。
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日曜礼拝 2021年9月19日

2021-09-19 22:30:07 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:コロサイ3:12 - 17
説教題:すべて主イエスの名によってなせ」

導入)
  パウロは偽教師に悩まされていたコロサイの教会の信徒に手紙を書いています。偽教師の教えは、律法主義、神秘主義、禁欲主義などのこの世の知恵に属するもので、永遠の価値の無いものでした。ですから、パウロは天上のものに目を留めるように勧めました。直前の箇所では、捨て去るべきものに焦点が有りましたが、今回の箇所では、身に着けるべきものに焦点を当てた記述となっています。要点を次のようにまとめてみたいと思います。

本論)
1)愛を身につけなさい(12節―14節)
  12節で、クリスチャンはどういうものかを述べている中に、神に愛されている者というものが有ります。それを前提にして、実践するべき美徳が挙げられています。そして、そのまとめに、もう一度「愛を身につけなさい」という指示がされています。神の愛に土台を持ち、愛の実践でまとまるのです。(1コリント13:4、1ヨハネ4:7も参照)愛が聖霊の宮であるクリスチャンの土台であり、頭石です。
  神が罪を赦して下さったことに目を留めています。神には人類を糾弾する上では無数にその理由が有るのですが、それでも神に立ち返る者を赦してくださったのです。愛を身に着けるにあたっては、神の愛と赦しを意識することが土台となっています。

2)主キリストの言葉を豊に住まわせる(15節―16節)
  ~しなさい、という命令が二つ述べられています。最初に、キリストの平和が支配するようにしなさいという命令が出て来ます。当時、コロサイのクリスチャンたちは、偽教師の教えのために平安を失っていました。また、分裂が起きていました。もう一度、キリストの平和に立ち返り、一致を保つ必要が有りました。そのためには、キリストに関する知識が必要でした。ですから、二番目の命令でそのことが確認されています。
  続けて、パウロは、具体的にはどのようにしてキリストの言葉を自分たちの内に豊に住まわせるのか、その方法を示しています。(原文では手段を表す用法の分詞が用いられています。)先ず、互いに教え、戒めるという方法です。そのためには、キリストの言葉である聖書を確認する必要が有ります。そのことが、キリストの言葉を内側に住まわせることにつながります。詩(詩編)と賛美と霊の歌で、歌うということも添えられています。私たちが讃美歌を通して聖書の言葉を思い出したりするのは、この部分に当たります。しかし、これは必ずしも、歌うことだけを指してはいません。この三つは、詩編の種類を示すのに用いられた表現だそうです。また、同じ獄中書簡のエペソ5:19では、この三つが「語る」ものとして指示されています。暗唱したり引用したりすることができるように備え、実践することが求められています。

3)神に感謝する(15節―17節)
  この三つの節には感謝することが共通の要素として出て来ます。この感謝は、キリストの平和、神の愛と赦しに結びついたものです。クリスチャンはその故に、あらゆる場合に神に感謝する動機が有るのです。その感謝の故に、私たちは12節に挙げられた美徳を追い求めることが可能になります。その感謝の故にキリストの平和を心に保ち、キリストの言葉を豊に内に住まわせることができます。この感謝が、聖書を読み、暗唱・引用し、聖書に土台した賛美の歌を歌おうとする動機になります。

  これらのことを実践する時、クリスチャンはすべてののことを主イエスの名によって行うという状態になるのです。
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日曜礼拝 2021年9月12日

2021-09-12 21:57:05 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:コロサイ3:1 - 11
説教題:地上のものではなく、キリストにあって

  パウロは直前の記述では、偽教師の教えが律法主義、神秘主義、禁欲主義等の、人間的な知恵によるもので、この世と共に滅ぶだけの価値の無い教えであることを述べました。今回の聖書箇所は、そのことを受けて、だから上の物、天上のものに心を向けなければならないと諭しています。特に信仰を持っている者がそうするべき三つの理由をこの箇所から取り上げてみます。

1)私たちは既にキリストにあってよみがえらされたから(1節ー4節)
キリストにあってよみがえらされたのなら、という仮定の表現は、事実の指摘として用いられているています。天上の補足として、そこにキリストが神の右の座を占めていると述べられていますが、それは単に場所を説明したのではありません。キリストがそこに至るまでの過程をも心に留めていると考えられます。降誕、十字架、復活、昇天を通ってこそそこに至るのであり、それによってクリスチャンはよみがえらされることになったのだからです。
  2節は1節の繰り返しの面が有りますが、地上のものと対比させる意図が有ります。地上のものはクリスチャンの最終的な目標にはなりえないのです。3節は更に進んで、クリスチャンがキリストにあって死んだことを、過去の事実を示す動詞の時制で表現しています。そして、いのちはキリストの内に隠されていると述べます。隠されているという語は、鍵をかけるという意味が有ります。まるで、キリストという世界一安全な金庫にしまい込まれ、保管されているようなイメージになっています。そればかりか、キリストの再臨と天国の生活において、私たちもキリストの栄光の内に現れることになるというのです。そのような特権を持っているクリスチャンですから、地上のものに引き込まれてはいけないのです。

2)地上のものは神の怒りの対象であるから(5節ー7節)
  5節にこの世に属する性質が列挙されていますが、それらはまとめて偶像礼拝だと指摘されています。それらは神を信じない、神に信頼しない態度を反映しています。このようなことのために神の怒りが下るのです。この6節には脚注がついていまして、古い写本の中には、不従順の子らの上に、という語が添えられているものが有るということです。私たちは神を信頼して従順するように創造されたのです。しかし、偶像礼拝をしている時は、不従順な状態なのです。キリスとの恵によって共に、死に、よみがえらされ、キリストの内に鍵をかけて保管されるように隠され、キリストの現れの時に、その栄光のうちに現わされるクリスチャンが、どうして継続的に偶像礼拝、不従順のうちに留まっていることができるでしょうか。7節の表現は、そのような事柄は、もうすでに過去となったのだということを強調しています。

3)私たちは新しくされたのだから(8節ー11節)
  8節と9節の命令は、連動しているように見えます。古い自分を取り除きなさいということに主眼が有ります。8節に列挙されていることは、全て口からでる言葉で言い表すことができます。そして、9節ではそのまとめのように、偽りを言ってはいけませんと命じています。偽りは愛の律法に反し、教会に信仰の破壊や愛の破壊をもたらします。偽りはサタンの性質です。偽りを言ってはならない理由は、既にクリスチャンは古い人を脱ぎ捨てたからです。捨てたものをいちいち拾い上げて用いる必要は無いのです。
  偽りを言ってはならないもう一つの理由が、10節に示されている、新しい人を着たという事実です。その新し人は、救い主であるイエス・キリストについての真の知識によって着せられたのであり、その新しい人をクリスチャンに造り出してくださったキリストの似姿に成長していくことを含んでいます。
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日曜礼拝 2021年9月5日

2021-09-05 23:09:26 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:ハガイ 2:1 - 23
説教題:教会の礎であるイエス

導入)
 ハガイの時代の主要な出来事は、神殿の再建です。1章では、ハガイを通して与えられた預言によって、人々は中断していた神殿の再建に着手しました。2章では、その再建の仕事を完成させるように神からの励ましの預言が与えられます。与えられた三つの預言を確認します。

本論)
預言1)強くあれ1節-9節
 民が神殿の再建に取り掛かって約一か月後の預言です。4節では神の繰り返し強くあれという言葉が記録されています。それは、神が彼ら共に在り、神の霊が彼らの間に在り、神の守りはイスラエルとの契約に基づいているからだということです。そして、神は、仕事にとりかかれと再度命じておられます。
 神の励ましは、将来の希望をも含んでいます。(6節-9節)ここにしるされているような自然現象を伴う神の栄光の現れは、まだ実現していないように思われます。しかし、神の御子イエスがエルサレムの神殿に来られ、異邦人にも救いの道を示されたことは、その実現の大事な一部と考えて良いと考えられます。

預言2)忠実であれ
 励ましの預言の二か月後に再び預言が有りました。この日には注目すべき出来事が有りました。主の神殿の礎が据えられた日だったのです。(15節、18節)神は、それまでの日々と、それ以降の日々のことを考えよ、言い換えれば、比較せよと言っておられます。1章で神の警告を受けたように、彼らは神殿の再建を中断して不忠実であったために、農作物は不作でした。しかし、神の警告に民が奮い立ち、もう一度再建に着手して三か月目に、神殿の礎を据えることができました。その故に、神がそれからの豊作を約束しておられるのです。
 民が忠実であることを神が求めていることは、11節-14節の例示、質問からもわかります。神の聖さは、物質的なものではないので、物理的に触れても伝わりません。それは、霊的な事柄であり、神への従順の問題です。一方、汚れは物質的に触れることによっても伝わります。汚れは律法を定めた神の規定であり、それに従わないこと自体が汚れだからです。
 大事なことは、神の神殿の再建は、単に構造物や建物の再建ではないということです。忠実な心で再建しなければ、それは汚れた建物になってしまいます。従順の心をもって再建することが大事なのです。ですから、神に忠実であり続けなければなりません。

預言3)霊的祝福を期待せよ
 二つ目の預言と同じ日に、更に三つ目の預言が語られました。先の預言では、彼らの心が神の忠実であったので、農作物も祝福するという神の言葉が有りました。ここでは霊的な祝福の預言が示されていると考えられます。
 実際の内容は、政治的安定や独立と、総督であるゼルバベルの権威の確率のように読めます。しかし、歴史的には、そういう状況は起こりませんでした。ですから、ここは、むしろ霊的な意味を持つ将来についての預言と理解するのが適切と考えられます。
 ゼルバベルはダビデの家系の出なので、イエスの予表として選ばれたと考えられています。「わたしのしもべ」という呼びかけは、ダビデ王とその王位継承者に用いられるものでした。そして、最も大事なのは、救い主イエスに与えられた称号でもあるということです。印形のようにするという表現も出て来ます。印形は、指にはめて用いた印鑑のようなもので、大変重要な地位にあることや権威を象徴します。それを神はゼルバベルに与えたのです。それはイエスが「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。」(マタイ11:27)と述べられた状況を想起させます。イエス・キリストこそが、この預言の成就と考えられます。

まとめ)
 ハガイ2章の注目するべき出来事は、神殿の礎石が据えられたことでした。私たちのクリスチャンとしての歩みは、イエスという礎の上に立つ信仰の歩みです。この預言の原則は、私たちの歩みにも当てはまります。

1)強くあれ
  高齢の者の中には、66年前に破壊されたソロモンの神殿の素晴らしさを記憶している者もいました。それに比べると、再建する神殿の建材や規模はみすぼらしかったかもしれません。しかし、神が見ているのは建物ではなく、人々の心でした。ですから、神が再建を命じられたなら、心を強くして取り組むのです。私たちも、神の臨在と約束を信じて、日々礼拝の生活の再建という仕事にとりかかるのです。

2)忠実であれ
  民が神殿の再建に取り組む時、神はその悔い改めた心を見て、契約に従って農作物の祝福を宣言されました。私たちも、新約の聖徒として、忠実であり続ける必要が有ります。私たちがイエスの礎の上に信仰を持った時、インマヌエルの主が私たちと共にいてくださり、私たちを聖霊の宮としてくださいました。その恵をくださったイエスの教えを守り続けるのです。

3)霊的祝福を期待せよ
  神は、霊的な祝福の預言をされました。神の完全な支配と平和が私たちの希望です。天の国で、私たちの報酬を受け、朽ちることのない資産を受け嗣ぐことは最大の希望です。ペテロもこの希望に基づいて、艱難に耐えて証人として生きるように勧めています。
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