チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「おらはぶんだまげだ、須田町の真ん中で/旧万世橋駅『マーチエキュート神田万世橋』開業」

2013年09月14日 22時37分00秒 | 歴史ーランド・邪図
小学校5年の夏休み、うちが親戚を呼んで那須に避暑にいったとき、
年の近い従兄弟(もう他界してしまってる)が
癖になってしまったかのように
"ふざけた"歌をしきりに歌ってた。
春の社会科見学のときに、小学校の担任でない他クラスの教諭が
自分たちのクラスのバスに乗り込んできて
生徒たちに教えて歌わせたものだと言ってた。
♪おらはぶんだまげだ、すんだちょうのまんながで♪
というような歌詞だった。その歌詞の部分の節は
唱歌の「茶摘み」そっくりだった。以来40年あまり、
歌詞も節もそれしか私の記憶には残ってなかった。

今期はNHKの朝の連ドラで能年玲奈女史がさかんに
「おらは○○だべ」
と言ってるが、当時の私にとっては
いわゆる東北のズーズー弁は耳に新しかった。
歌詞は東北の田舎者が東京に出てきてその
喧噪に驚いてるという内容である。
死んだ従兄弟の話になったりや万世橋を通ると、その
歌のことも思い出した。で、
いったい何というタイトルのどういう歌なのか
調べてみたくなった。が、
知ってる人はいなかった。
ネット時代になってこの歌のことを思い出したとき、
検索すれば簡単に判るとたかをくくった。が、
ヒットしなかった。で、
今日、旧万世橋駅を利用した商業施設が開業した、
というnewsをTVでやってたのをみて、また、
この歌のことを思い出した。ちなみに、
旧万世橋駅跡の交通博物館には、幼稚園児の頃、
父親に2度連れてこられた。ともあれ、
「おらはずんだまげだ、ずんだちょうのまんながで」は、
現時点では数点、ネット検索にひっかかった。だが、
どれも詳細は不明ようである。それでも、
歌詞の全容は以下のようだと判った。

おらはぶんだまげだ、須田町(ずんだちょう)の真ん中で。
おらはぶんだまげだ。どうせばえんだべか。
電車っこずんずんずん。自動車(ずんどうさ)ぶんぶんぶん。
おらはぶんだまげだ。どうせばえんだべか。

現在、「須田町交差点」というと、
靖国通りと中央通りが交差する「大きな交差点」ではある。が、
自動車だけでなく、電車が行き交うような地点ではない。
現在の渋谷駅前のスクランブル交差点のようには、
田舎から出てきた者が戸惑ってしまうほどではないのである。
この歌に歌われてる「須田町の真ん中」が指す「須田町交差点」とは、
現在地に移転する以前の、旧万世橋駅正面広場の
"軍神"廣瀬中佐像前にあったもののようである。
そこは市電の乗り換えや迎えの車や人混みで
ものすごい賑わいをみせてたという。ここが
中央線のターミナルに選ばれたのは、
江戸時代から栄えてた商業地だったからである。
武家屋敷と商業地が隣り合ってた。そして、
万世橋駅が建てられたあたりは、江戸時代は
筋違橋の南詰にあたり、八ツ小路と呼ばれ、
多くの街道や通りが交差してた。
もともと交通の要地だったのである。だから、
日米戦争で空襲をまぬがれて現在も残ってる
神田藪(蕎麦)、まつや(蕎麦)、ぼたん(鶏すき)、いせ源(アンコウ鍋)、
などのような食い物のいわゆる老舗が多くあったのである。

明治時代が終わる1912年に開業した万世橋駅は、
中央線の終着駅として建設されたものだった。当時の東京は、
西欧の都市のように、たとえばパリの、
リヨン駅(国内南東方面のターミナル)、
サン・ラザル駅(国内ノルマンディ方面のターミナル)、
北駅(英国、ベルギー、オランダ方面のターミナル)、
東駅(国内東部、ルクセンブルク、ドイツ方面のターミナル)、
モンパルナス駅(国内西部方面のターミナル)、
オステルリッツ駅(国内南西部方面のターミナル)、
といったように、
上野駅(東北方面のターミナル)、
両国駅(房総方面のターミナル)、
新橋駅(東海方面のターミナル)、
新宿駅→万世橋駅(多摩、甲府方面のターミナル)、
という形だった。が、
東京駅を建てて、中央線を御茶の水駅から東京駅に直通させたことで、
関東大震災による万世橋駅の倒壊で東京駅が
東海方面だけでなく多摩・甲府方面のターミナルにもなってしまい、
万世橋が再建されることはなくなったのである。
肉の万世の3階以上のフロアの窓寄りの席からは、
旧万世橋駅跡が見えた。

ところで、
神田川沿いの須田町あたりはその川が運んできた
砂の堆積地を利した水田があったから、つまり、
洲田(すだ)が地名の由来だとされてる。
神田川は徳川幕府が開削したものでもあるし、
かなり怪しい説である。いっぽう、
清和源氏井上氏の中の、現在の長野県須坂市須田を領してた
須田氏の末裔は、現在の埼玉県上尾市から桶川市あたりで
紅花を商ってた豪商となり、あるいは米沢上杉家の重臣となった。
米沢は紅花の主要産地である。この莫大な富を得てた
武州紅花仲買問屋須田家の江戸の拠点がこの須田町だった、
という説もある。

ちなみに、
この一帯の商業地は、明暦の大火で移転させられた。
須田町の隣の連雀町は、背負子職人の町だったので
背負子を意味する連尺から連尺町、字面的に
連雀町となった。この代替地が、現在の
三鷹市上連雀と下連雀である。
そして、本来火除け地となるはずだった空き地に
青果市場ができた。それが明治になって
神田青果市場となった。また、その名残りが
昨年閉店となった万惣フルーツパーラーである。ともあれ、
上記のような事情からすると、
万世橋駅は西部方面のターミナルである。だから、
東北方面から東京に出てきた田舎者が降り立った、
というのは虚構であることが判る。
東北方面からの列車は上野駅が終点だったからである。
何らかの理由でズーズー弁とその話し手を揶揄する替え歌、
だったものと推測される。すなわち、
須田町(すだちょう)の須田(すだ)をあまちゃんが発音すると
「ずんだ」となることと、東北方面の
大豆すりつぶし物(ずんだ)とを掛けたダジャレのつもりなのである。
加えて、東北の紅花で潤った須田家への妬みである。
そんな差別的意趣的替え歌を児童に教え込む教師の
知的程度が知れるというものである。いずれにしても、
万世橋駅が開業したのも、
唱歌「廣瀬中佐」、唱歌「茶摘み」が教科書に採用されたのも、
すべて1912年(明治45年)のことだった。
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6 コメント

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須田町の歌覚えています (さらら)
2015-07-04 11:20:18
50年以上前のことですが覚えています。この歌が気にかかり時おり検索していましたが見つからなく諦めていました。久しぶりに検索してこちらに。
転校して新しく出来た友達からの手紙に書かれていたのを一生懸命覚えました。 前半がすこし異なります。
おらはぶったまげた須田町の真ん中でおらがこっつからむこさえぐとき
電車こずんずんずん ずどうしゃぶんぶんぶん おらはぶったまげた どへばえんだべな
札幌の小学生も知っていた歌ですが流行っていたのか一部だったのかは思い出せません。
返信する
また聴きなので (passionbbb)
2015-07-06 12:54:06
私も最初の節(茶摘みに酷似)しか覚えていないんです。ひょっとしたらあとの節も茶摘みでそっくりその替え歌だったのかもしれません。いずれにしても成立時も不明です。万世橋駅があった頃のものなのか、それともまったくのちの戦後のものなのかもわかりません。私のいとこの学校でこの歌を教えた教師も遠くの県から転任してき(てまたどこかに転出していったた)先生だと言っていました。転校・転入も何か関係しているのかもしれませんね。
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Unknown (元福島人)
2017-02-26 16:49:58
30年くらい前、福島のボーイスカウトで振り付けありでうたったのを覚えています。
ただ 須田町のところが東京と歌っていました。原曲を聞いてみたいものです
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Unknown (passionbbb)
2017-03-26 16:15:32
>元福島人さん、
コメント、ありがとうございます。
おそらく「須田町」って今では知名度が低いからなんでしょうね。
返信する
Unknown (ho999ho)
2022-05-05 22:41:33
「すんだっちよ」の謎が解けました!
ありがとうございます。
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Unknown (passionbbb)
2022-05-08 16:45:45
>ho999hoさん、
お役に立てたなら幸いです。
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