チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「敷衍現象」

2006年02月12日 21時22分49秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
まだまだ寒い日が続く。
♪モォ~グル、はぁ~~~るですねえぇ♪
というわけにはいかない。
フツーの女の子に戻れるのもまだ先のようである。
上村選手の滑走はけっしてカリ・徒労ではなかったが、いかんせん、
上位選手らから2秒のタイム差は致命的である。ときに、
2着に終わってこれですべての色のメダルを獲得した
ノルウェーの選手の歯の黄ばみとその作り笑顔が気になったのは、
だいたひかるだけではあるまい。が、
どぉ~ぅでぇ~もいぃ~いでぇ~すよっ。

>やすのぶさん、
コメント、ありがとうございます。
今回は「敷衍現象」ですので、「熱く」語ります。ご了承ください。

<自筆譜に書かれたものがその通り印刷されているかを
 まずあたってみる必要があるでしょう。先に『白鳥』No.9
  のことを述べましたが、「それを全体に敷衍」してよいものか?>
▲「敷衍」なんて難しい漢語、浅学な私には読めなくて、
調べるのに苦労しました。やっと見つけたら、
「山形で我が国気象観測史上最高気温を記録したときの現象」を嶺に挙げて、
「詳しく解りやすく解説」してありました。ちなみに、
その現象のおおもとはアルプスの山の横面を張る風によるもので、
現象名の由来はその地名なんだそうですね。ときに、
「『アルプス』交響曲」は「交響曲」、という私の熱弁も、
南アルプス駒ケ岳の頂上甲斐路、くらいしか知らねさんな私ゆえ、
支持が「増エン」現象でした。

<ハープに比してピアノの響きには、
 ある種醒めた現実的な響きがあるように僕は感じます>
▲振動させるために「引っ掻く」のと「ぶっ叩く」のとの違いは、
「マッケンロウ」と「ボルグ」のガットの張り具合の差以上に、
弦の張力に大きな差を生むわけですね。おっしゃるとおり、
「ねむり」3幕でpfが用いられてる箇所は、「現実的」な感じがします。
「えろぅ、ぎょうさん、歓待の『キャラはん』が出てきよりましたなぁ。
ご苦労はん、ごくろはん。さ、はよ、はよ、
おみやげ、持ってって。おみやげ、おみやげ!」
と西条凡児に『ハリー・アップ、ハリー』と急きたてられてるような感じ、
とでもいいましょうか……。ときに、
pfが弦と組み合わされがちな「室内楽」では、じつは私はその
「混合色」に違和感を覚えます。「ビルマの竪琴」が、
「ミャンマーの竪琴」や「ヤンマーの発振動機」では違和感があるように。
チャイコフスキーも似たり寄ったりな感覚だったと思います。
「ねむり」3幕でのハープの打席へのpィンチfィッター投入は、
その「違和感」を狙ったものだったのでしょうか。
プレトニョフ&ロシア国立管のCDの演奏では、
pfの響きがなかなかの味(現実味)を出してます。話は別ですが、
サン=サーンスの「(H5N1型で死ーニュそうな)白鳥」も、
「組曲」編成上の都合だったのかもしれませんが、原曲はpf2台でしたね。

<寸劇風のことをやってもよさそうなところでも、
 名前以外は書かれていませんね>
▲名前は書かれて、るんですね? 
寸劇ふうなことをやってもよさそうなとこ、とは、
具体的には、どこらへんですか?

<もし、印刷譜が自筆譜を正確に反映しているのなら、
 これほどチャイコフスキーの意図が言葉で確認できる
  最良のデータは無い様に思いますがねえ>
▲そうであるとも思えますし、そうでないとも思えますね。

<なぜ、パドゥドゥーの標題には書かず、ヴァリアシオンに
 「指示書どおりに記した」のか、これが単なる偶然ではないことは、
   3曲全てのト書きをあたってみて、ぼくには感じられることです>
▲というやすのぶさんの見解はよくわかりました。そこで、
それからどのようなことが引き出されるのか、という
お話に一歩進めていただければ幸甚です。その前に、
改めて私の感想を書いときましょう。

プティ氏が途中降板したのはまさに、この点ではないでしょうか。
同氏は現場のヒトです。教養はあってもダンサー経験のない
フセ氏およびチャイ氏には分からない実務は多々あったはずです。
いっぽう、タタキアゲのプティ氏には、高知能な裁判官が原作者である
このバレエの幽玄性は理解の範囲を超えるものだったはずです。
「お子ちゃま向けの楽しくかわいらしいクリスマス劇」
「女性でもいいんじゃないですか? 男女同権・男女平等なんだし。
え? 女系って何かって? 女性のことじゃないの?」
程度の認識でしょう。それはまさに、
現在の一般バレエ・ファン層の認識とシンクロしてますから、プティ氏の
一般受けを呼び込む感性が優れたものであった証左といえるでしょう。が、
同氏には「エンタテイメント」を得意としてたふしはあっても、
いわゆる「深い」「文学的な」ものが理解できる教養人でなかったことは、
「自伝」から容易に察せられます。ときに、
浅草の「神谷バー」では「デンキ・ブラン」を出してますが、
汗臭の「バー・レッスン」が基礎であるバレエの世界には、
「バレエ・ブラン」というものがあります。白い世界。幽玄。彼岸。
「海賊」「ドン・キホーテ」「ライモンダ」などの「色物」とは違って、
「ジゼル」「ラ・シルフィード」「白鳥湖」などの「白物」は、きまって
「純愛」と「死」を扱ってるのです。そんなものは、
今日はどこで飲んでくかということにしか関心がないむきに、
理解できるはずがありません。
「くるみ」も「白」の世界です。2幕が「同主題」に囲まれた
「インクロウジャー」であるならば、
やすのぶさんのおっしゃる「劇中劇」です。とすれば、早世した
クラーラ嬢は「本来そうなったはず」の世界を見てるわけです。
「コンフィチュランブール」は「こちら」と「あちら」の棺桶ハザマ。
♪豊明~け、こやけぇ~~のっ、悪化、トロンボォ~~~ン♪
その「クライマックス」である#14「パ・ドゥ・ドゥー」では、
「鏡」もしくは「川」で舞台は前方と後方を仕切られてしかるべき
……こちら側で「クラーラ嬢とハシバミ割り王子」、
あちら側で「ドラジェ精とオルジャ王子」……。

<自筆譜の写真がないのかということをお尋ねしたのです。
 それらは非常に示唆に富みます>
▲あることにはあります。が、そのほとんどが各所「一頁だけ」で、
しかも、載ってるものはどこでも同じものばかりで、
肝腎なもの(たとえば、「白鳥湖」#13-6)は、なぜか
いっさい載ってません。ですから、あまり参考になりません。

<なぜ原典に当たろうと努力なさらないのかということです。
 別に研究者でなくても、作品を深く知ろうとする人にとっては
  垂涎のものだと思うのですが・・・・(『悲愴』の自筆稿が
   現存すればそのコピーを見てみたいと思わないですか?)>
▲垂涎寺清子女史の「365度(つまり、5度)のマーチ」の精神:
「3度進んで2度下がる」という「(マタイ)パッション動機」
にあれほど執着し、最後に至高の音楽作品を築いた
チャイコフスキーの頭脳と人格に、私は強く惹かれます。ですから、
自筆譜(コピーでも)が手に入るのなら、そのために
カネに糸目をかけないことに「やぶさかでありません」が、
ツテやヒマがまったくないのです。

<ぼくもブルックナーに関しては、素人ですが、いろいろ苦労をして
 ヴィーンの図書館からコピーを入手しようとはしています>
▲やすのぶさんの業績は、多少なりとも私も存知あげてますし、
心底より敬服してます。が、私の場合は、周辺環境が
「くら音」に打ち込めないものでして……。
本格的に研究するためには、いまの生活をまったく捨ててしまわないと
無理です。フォン=メック夫人でも現れれば可能ですが。

<なきません。が、感心感動はします>
▲私にとってなら、それではごく普通の「名曲」にすぎません。
泣き濡れて涙が「ハナ」水とぐちゃぐちゃになるほどの曲でないと、
真の傑作とはいいがたい、というのが私の考えです。
♪●●【泣喜・納ぁ~<さ<あ│いぃ~~~・~~~~】♪
という歌謡曲のサビは、涙にクレンペラー大先生が
超低速にしたり愚にもつかない「自作」と差し替えたりした
「スコットランド交響曲」の終い、
♪【ソーー・<ラーラ│<ドーー・ーー】>ソ│
<ドー<レ・<ミ<ファ<ソ│>ミーー・>レー●♪
というメンデルスゾーン一世一代の名旋律
(ここには大泣きしてしまいます)と同動機でも、まったく涙は出ません。

<編曲を超えて、ほとんど作曲に立ち入ることだと思います>
▲クレンペラー大先生ほど「作曲の才」があるわけではないのですが。(※)
ただのオヤジギャグですよ。ホンネは、
「アルペッジョーネ」の名の由来に話を進めようとしただけの前フリです。
お気に障ったようでしたら、ここではその話題は止めておきましょう。

<<「岸朝子」女史に変身以降のロッスィーニ?
 国民年金生活以降のスィべりウス?>彼らは、ですから、
  途中で挫折したのであって、真の大天才といえない人たちですね>
▲ご隠居ロッスィーニ翁は歌曲くらいは道楽で作ってたみたいで、
♪ジョォアァ~ッキィノォ~、うぅ~たよぉ~~~~~。
わたしのぉ~~~、こころにぃ~~~~~♪
と故「岸洋子」女史が膠原病に苦しみながらも持ち歌にしてました。ともあれ、
さすが、鋭い洞察力ですね。私のホンネを見破ってらっしゃたとは……。
これは「ヤフー時代」に自論を披露した
「おじいちゃんの大仕事」に関わることですが、彼らは
「挫折した」のではなく、
「彼らに与えられた二葉亭使命は果たした。ただ、
それからすぐにフタバってぇしまわず、そこから長く生き過ぎた」だけ、
なのです。が、結局は、それも、「真の大天才といえない」と同値ですね。
「作曲」という営みが崇高なのは、それが
「生殖」=「性の営み」の代替だからです。フツーの生物は、
単に生殖のために生まれ死ぬのですが、高等生物である
ヒトは、それだけに生き死にするものではなくなってしまいました。
生物的には、子を設ければそれで使命は果たし、自身は用なしです。
むしろ、子孫のためには早々にオサラバしたほうが環境にやさしい。が、
オツムが発達してしまった以上、アンチ・エイジングを求め、
αリポ酸、L-カルニチン、コエンザイムQ10、という
3種のジンギスカン鍋含有サプリが売れにうれるわけです。それはともかく、
「絵」は80歳の芸シャガールにも描けるし、
「小説」は75歳の団鬼六にも書ける。いっぽう、「音楽」は、
「指揮」なら90歳のストコフスキーでもできるけれど、
「作曲」は60歳のスィベリウスにもすでにできない、のです。
それほど「作曲」という営みは難しく、崇高なものです。
ただの秀才にできるものではありません。まして凡人には……。
そして、「音楽」が他の「芸術」と大きく違うのは、
時間芸術、再現芸術、であるということです。
「自身が作ったもの」が即「作品」ではない、のです。それはまさに
「我が子」ですね。なぜ、大作曲家に女性がいないのか?
女性はY染色体を子孫に伝え(る必要が)ないからです。真の作曲とは、
Y染色体を伝えることができない男のうち、
音楽の神に選ばれた数少ない者の生殖補償行為なのです。ですから、
結婚して家庭を持って子をもうけたような「作曲家」など、
真の作曲家ではありません。80歳以上生きた男など、
真の作曲家ではありません。真の作曲は、
せいぜい50台までしかできないはずです。
作曲に関わる脳の分野の機能が衰えるからです。その点、
ブルックナーは異様ですね。驚異です。が、
「ブル9」の終章がなかなか進まず、ついに仕上げれませんでしたね。
それは「年齢的な限界」だったと私は考えてます。

<大天才が先達を超えてしまうことを恐れたりなんて
 するはずがありませんにょ。その時点で大天才失格です(笑い)>
▲八百万の神とオトモダチな日本人には、そのような
絶対一神教のような考えはなじまないようにも思えるのですが。(※)
大天才がすべて一様でも樋口でもある必要はなく、
自身の丈を他と比べるような俗人ふうな面があっても悪くはないでしょう。
モーツァルトもベートーヴェンもブルックナーもチャイコフスキーも、
みんなヘンタイ性癖なヒトですよ。強迫観念症の持ち主ですよ。でも、
我々凡人は高速道路を走っても「時間の進み具合を遅く」は感じれませんが、
光速でつっ走れる大天才たちは「その差」を実感できるのでしょう。
我々凡人はそれを「半信光速」もしくは「迷信光速」と
一笑にふしてしまいがちです。(※)
いずれにしても、「未完成交響曲」の高みは、
「歌」を除いたシューベルトの作品の中で際立ってます。

<まあ、とにかく、お互いに、
 よく事情を知らない出張所のようなところでの論争は、
 この辺で控えておいた方がよいように思います(笑い)>
▲私は「論争」などとはつゆほども思ってないのですが……。
やすのぶさんの考えを伺う、
自分の愚見(ときには私なりにまじめな自論も)を述べる、
他のヒトビトの説も参照する……ことによって、
私には自分の非アカデミックな考え・感想を見直すことができて、
とても有意義なのです。それには「本店」も「出張所」もありません。
我が国には、山形もあれば旭川もあるのですし。また、
やすのぶさんのことはわかりませんが、少なくとも私は、
「本を出してカネが入っ」たり、「教えてカネを取っ」たり、
というようなプロではないので、常識枠にとらわれることもなく、
また、師匠・先輩に遠慮しなければならないこともないので、
出張所でも支店でも、他では知りえない視点から勉強できて、
大変に貴重なのですが……。それに、
意見・考えが同じじゃなければ対話できない、
違うと思ってもそれを表さないで相槌を打ってやり過ごす、
のでは、お世辞にも聡明とはいいがたい例のかたがたと
まったく変わりないではありませんか。

<『白鳥』のパドゥシスについて、これは、
 《6人の応募者が自分たちの魅力を競う音楽》では決してないですよね>
▲(3幕の)#19のことですね?
「6人の応募者が自分たちの魅力を競う」としたらそれは、
#17の「ワルツ」であり、そもそも、ジークフリートにとって、
その6人は眼中になく、「魅力」どうのこうのという次元ではありません。
6人がどんなに王子との結婚を願っても、その縁談には「不縁」です。
ワルツが客の到着によって途中で何度も中断されることでわかるように、
#17の「ワルツ」は、「6人の六者一様さ」と「ジークフリートの焦燥」が
よく表された秀曲です。いっぽう、#19ですが、これは
「オデットを待ち望むジークフリート」の……
何人の「助太刀」が入るのかは分かりませんが
(ひょっとしたら、「助太刀」は4人で計6人?)、
幻影オデットと妄想ジークフリートを主役に置く……
「夢想・グラン・パ・ドゥ・ドゥー」以外には考えれません。
#18の終止が「ヘ調の属7」であることが肝腎です。
これは一般人の耳には「ヘ長」を導いてるように聴こえ、
実際、#19は「ヘ長」で始まります。が、
ジークフリートにとっては「ヘ短」が準備されてる、
というように聴こえるヒトにはそうわかるように、
チャイコフスキーは「図った」のではないでしょうか。
2幕#13の途中で「変イ長のワルツ」の世界を見せられてしまった
ジークフリートには、#17「変イ長のワルツ」でオデットが現れると
心が高鳴ったのにもかかわらず、肩透かしを食らってしまった。
そこで、失望した「変イ長」ではなく、それと同一調号の
「ヘ短」を今度は期待してしまうように率いられられた。が、それは、
ロートバルトの姦計だった……。実際、上記の「ヘ調の属7」のあと、
つぎに「ヘ短」が現れるのは、
#19の「アッレーグロ・スィンプリーチェ部」、ですが、
同曲が「王子の夢想」だったとしたら、現実に現れるのは、
いつ(when:フエン)でしょうか? それは、
「オディールの手の甲にくちづけしてしまった」
=「結婚の申し込み」直後の、
#24の「アッレーグロ・ヴィーヴォ部」の「クラリネット」による
「ラクリモーサ動機」(♪ミ<ド>ラ・ラ>♯ソ♪)であり、
舞台が暗くなってフクロートバルト父娘が勝ち誇り、
ジークフリートが騙されたことを悟るとき、です。
チャイコフスキーの意図はそこまで
「敷(き)延(ば)」されてるのではないかと考えてます。

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『眠り』 (やすのぶ)
2006-02-13 13:06:51
▲名前は書かれて、るんですね?



@スコアはお持ちではないの?

ちなみにぼくの持っているスコアは、カーマスの緑表紙の3巻本です。むかし、ブロード版も見かけましたが、高くて買えなかったです。 



▲寸劇ふうなことをやってもよさそうなとこ、とは、

具体的には、どこらへんですか?



@まず、No.21の「マーチ」。だれそれが登場するなんてこれっぽっちも書かれていません。

No.22の『妖精のお話の行列』でも、具体的にどんな妖精たちがいつ現れるか書かれていません。

No.24の『長靴を履いた猫と白猫』も具体的にどんなものを演じるのか書かれていません。

No.26になるとさらに何も書かれていません。(赤頭巾が狼に食べられるのかな?)登場者すらスコア上不明。

まあ、そんなことはどうだっていいんでしょう。物語に関係ない余興ですから・・・・

『白鳥』の「諸国の踊り」にしても余興のはずが、本筋に入れる演出があったりしますよね。



『眠り』の第3幕でスコア上不思議なのは、フランス語、ロシア語、両語併記をどう使い分けているかです。ヴァリアシオンというフランス語は全く出てきません。ロシア語でそれらしいことが書いてあるのですが、読めないので推測するだけです。





▲それからどのようなことが引き出されるのか、というお話に一歩進めていただければ幸甚です。



@結局のところ『白鳥』を考えているんですよ。

あとの2曲に対してチャイコフスキーがどう考えていようと、指示書どおりにつくるという至上命令がある以上そこから離れるわけにはいけませんね。ただ、そういった制約がチャイコフスキーの才能を刺激したため、あのような名曲が生まれたのだともいえますが・・・・ミンクスやプーニのような音楽を期待していたプティパは大いにそれをもてあましたと評論には書いてありますね。

しかし、『白鳥』は、最初の物語すらチャイコフスキーが構想していたのではないかとぼくは感じています。だから台本と一致しない・・・・また一致しない音楽がしばしば出てくる・・・・と思うのです。

そこが、謎であり面白いところです。
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『くるみ』 (やすのぶ)
2006-02-13 14:20:07
▲「バレエ・ブラン」というものがあります。白い世界。幽玄。彼岸。



@御意。ネズミとの戦争とお菓子の城の間には『死』があるわけですよね。『第5』の終結、『悲愴』マーチの終結と同じ終わり方。

て、すると最後にクララが目覚めるという『落ち』は、全く見当違いということになりますよね。

でも、クララが何故死んだのかというのを舞台上で明示しないことには、観客は納得しないでしょう。



▲……こちら側で「クラーラ嬢とハシバミ割り王子」、

あちら側で「ドラジェ精とオルジャ王子」……。



@舞台上でどのように表現するのでしょうか?

パドゥカトル?



ちなみに、くるみ割リという道具は大小あるのでしょうかねえ?はしばみの実というのは見たこと無いですが、くるみの実とは大きさがどれほど違うのでしょうか?

くるみ割りで銀杏のような小さなものも割れるのでしょうか?



ていうのは、英語では単に『豆割り』ですが、フランス語では直訳すると確かに『はしばみの実を割る道具』ですね。ただ、『くるみの実を割る道具の小さなもの』とも訳せなくもないような気がしますので・・・・



▲あることにはあります。が、そのほとんどが各所「一頁だけ」で、

しかも、載ってるものはどこでも同じものばかりで、



@そういったものの中からも、なにか重要なものが引き出せるのではないでしょうか?

ブルックナーの場合、本に出ている断片コピーからもいろんなことを教えられます。その最大のものが『第七』のアダージョの打楽器の自筆譜です。



▲ツテやヒマがまったくないのです。



@ご自分で見つけることです。熱意のみ。だれも助けてくれないでしょう。



▲本格的に研究するためには、いまの生活をまったく捨ててしまわないと無理です。



@ご事情了解しました。ただ、願望や熱意だけは常に持っておられた方がよいでしょう。どこから、ひょうたんからこまが出るか分かりませんからね(笑い)。



▲それほど「作曲」という営みは難しく、崇高なものです。



@御意。



▲「自身が作ったもの」が即「作品」ではない、のです。それはまさに

「我が子」ですね。



@ブルックナーは自作交響曲を『娘たち』と言っていましたね。献呈先について《娘をよいところに嫁にやろうとするのは当然でしょう》と述べています。



▲ブルックナーは異様ですね。驚異です。が、

「ブル9」の終章がなかなか進まず、ついに仕上げれませんでしたね。

それは「年齢的な限界」だったと私は考えてます。



@御意。『第九』フィナーレの筆跡には、震えが明瞭で衰えは自筆譜にも明瞭に出ています。

またブルックナーの不思議さは、後発の天才だったこと、また、作曲後にも作品を成長させたことにも現れています。



▲私は「論争」などとはつゆほども思ってないのですが……。



@論争というのは御幣がありましたね。愉しく語り合うためにはお互いの知識が不足しすぎているというだけのことです。だから面白い結論に至らないということです。チャイコフスキーなら、話が非常に面白いところへ行くので、そちらへ集中した方がよいということですよ。



▲私にとってなら、それではごく普通の「名曲」にすぎません。

泣き濡れて涙が「ハナ」水とぐちゃぐちゃになるほどの曲でないと、

真の傑作とはいいがたい、というのが私の考えです。



@ぼくは、音楽には2つの作用があると思っています。(もちろん自身が感動しない音楽は別ですが)

感心・感動する音楽と泣きが入る音楽です。

ただ泣きが入るというのは低次元の音楽にもありうることです。夕方にお帰りの音楽(家路みたいなものなど)が夕焼けの時になったりします。それだけで泣けてきたりしませんか?音楽とは魔術のようなものです。単純なものであってもその人の琴線に触れると涙を呼び起こすものです。そのためには作曲上の能力なんて全く必要ありません。

ただ、立派な音楽で泣けるというのは素晴らしいことですが、それは結局音楽のす晴らしさを泣いているのではなく、自分の中に蓄えられた何ものかが泣かせているのではないでしょうか?
返信する
『白鳥』 (やすのぶ)
2006-02-13 20:48:29
▲音楽の神に選ばれた数少ない者の生殖補償行為なのです。ですから、結婚して家庭を持って子をもうけたような「作曲家」など、真の作曲家ではありません。



@これはなかなかに興味あるご意見です。愚生のつまらぬ経験からは、妻や子は、自分のやりたいことを阻害するもの以外の何ものでもないということです。もちろん自分にとって彼らは他のものに替えがたいですが・・・・

簡単に金銭的にいえば、子供1人育てるのと家一軒建てるのと同じだけゼニが要るということです。

だから、才能がある人が、そういうことに人生を浪費しなくてすむということは、浪費している人たちよりも有利であることは確かですね。



それで、その4人以外についてのご意見をお聞かせいただきたいですね。バッハはたくさんの子持ちでした。ブラームスは独身でした。通例、彼らはこの4人と同程度(あるいはもっと上だと言う人もいます)だと考えられていると思うのですが・・・・



ちなみに、ぼくがブルックナーを偏愛するのは、単にかれの音楽が好きだからです。でも彼の声楽曲はあまり理解できません。勉強として聴いているだけです。





▲#17の「ワルツ」は、「6人の六者一様さ」と「ジークフリートの焦燥」がよく表された秀曲です。



@確かに優れた曲です。ここではファンファーレが重要。どう勘定しても3回しか鳴りません。(ブロード版では、繰り返しの場所違いにより5回鳴るように解釈可能ですが、もしそのようにしたら、音楽の流れは不自然です)では、候補者は3人(オディールを含めて4人?)しか登場しないのでしょうか?

もしそうであるとしたら、パドゥシスのあと2人は誰なのか?ということになりますね。



▲「夢想・グラン・パ・ドゥ・ドゥー」以外には考えれません。



@であるとしたら、だれが各曲を踊るのでしょうか?



▲#18の終止が「ヘ調の属7」であることが肝腎です。これは一般人の耳には「ヘ長」を導いてるように聴こえ、ジークフリートにとっては「ヘ短」が準備されてる、というように聴こえるヒトにはそうわかるように、チャイコフスキーは「図った」のではないでしょうか。





@一節目御意。60小節でヘ短調主和音の四六が弦の分散和音で鳴った後、バスはそのままでメロディーが半音上昇を繰り返し「ヘ調の属7」に至るのですね。

だから、次に聴衆はヘ短調を期待します。ところが音楽は気の抜けたぬるま湯のようなヘ長調!それがチャイコフスキーの狙いだったのでしょう。

プティパは聴衆の期待感だけをもって、#21嬰へ短調につなげてしまいます。(これは諸国の踊りが物語りに組み込まれる先鞭を付けたといわれても仕方の無いことですね)



とにかく、完全終止しないことは、バレエ音楽では異例のことなのではないでしょうか?





▲2幕#13の途中で「変イ長のワルツ」の世界を見せられてしまった



@これは、【危機のワルツ】ではなかったでしょうか?



▲ジークフリートには、#17「変イ長のワルツ」でオデットが現れると心が高鳴ったのにもかかわらず、肩透かしを食らってしまった。



@オディールの登場で#17「変イ長のワルツ」は演奏されませんね。#17「変イ長のワルツ」は、ひたすら華麗さと焦燥感を表しているのでしょう。



▲つぎに「ヘ短」が現れるのは、#19の「アッレーグロ・スィンプリーチェ部」、ですが、



@実際ハープは、#19直前と同じ動き(音が1つ足りない)をしてオーボエを導きますよね。



▲#24の「アッレーグロ・ヴィーヴォ部」の「クラリネット」による「ラクリモーサ動機」(♪ミ<ド>ラ・ラ>♯ソ♪)であり、



@御意。



▲舞台が暗くなってフクロートバルト父娘が勝ち誇り、ジークフリートが騙されたことを悟るとき、です。



@ハ短調の四六の和音上ですね。ちなみにこれが#18で現れるときはヘ短調主和音上です。









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Unknown (春夏秋=)
2021-11-03 19:07:07
モーグル、春ですねえの元ネタってなんですか?
返信する
モトネタ (passionbbb)
2021-11-14 16:32:01
太田プロ所属のお笑い芸人(故人)の
アントニオ猪木のモノマネ
元気ですかー!?
です。
返信する

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