チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ベト7(Siebte Sinfonie)/不滅の恋人との出会いから200年記念」

2010年03月06日 23時58分56秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
このエントリは悲惨な哀れな、涙なしにはいれない話に言い及んでます。
そのような内容がお嫌いなかたは以下は読まないでください。





三月のことを旧暦では弥生(やよひ)といった。新暦だから
関係ないが、今年は三月に入って雨が多い。私がもしガキだったら、
中山晋平の節に乗せてアイリッシュ・ジグのステップでも踏んでみたくなる。
♪アーーメ、アーーメ、フーレ、フーレ、
 かぁーーあさぁーーんがぁーーーーーーー♪
(ドーード・ドーー<レ│<ミーー>レ・<ソーー>ミ│
<ドーー>ラ・>ソーー>ミ│<ソーーー・ーーーー)
晴耕雨読。
あの上野千鶴子女史とエコ・フェミでかつて大論争を展開したという
故青木やよひ女史が昨年の11月に82歳で亡くなって3箇月あまり、
その死と同時に発行された(昨年12月刊、つまり、発売は11月)
「ベートーヴェンの生涯」(平凡社新書)に目を通した。
同女史は薬学を専攻した人で、ベートーヴェン研究は「素人」だった。
そんな女史がベートーヴェンに興味を持ったのは、
「不滅の恋人」が誰だか当時はまだ不明つだったことだという。
アントーニア・ブレンターノ(婚前は、ビルケンシュトック伯令嬢)。50年前、
「不滅の恋人」がこのブレンターノ夫人だと世界で初めて指摘したのが
青木女史だった。が、
「シロウト」が発見・指摘したものは「クロウト」らには無視される。
とある「権威」が実証するまでの長い間、
取り合ってもらえなったらしい。さて、
1810年。この年は暮れにベートーヴェンが不惑を迎える年である。
この年の春に18歳のテレーゼ・マルファッティにプロポウズして親に断られ、
ほどなく、のちに女流作家となる当時25歳の
ベッティーネ(エリーザベト)・ブレンターノの訪問を受ける。同女史は翌年、
作家のアヒム・フォン=アルニムと結婚し、その末娘は弟グリムの倅と結婚してる。
兄のクレメンス・ブレンターノと夫が収集したドイツ民衆歌謡詩集が、のちに
マーラーが曲をつけたことでも知られる「子供の不思議な角笛」である。
ともあれ、ベートーヴェン宅を訪れる少し前、ベッティーネ女史は、
ヴィーンの義姉の家でそれまで耳にしたこともないピアノ曲を聴いて
心を奪われた。そして、こんなすごい音楽を作る人物に
何がなんでも会わないわけにはいかない、
という衝動を覚えたのである。ベッティーネはベートーヴェンが
興味を抱いてたゲーテとも知り合いだった。意気投合したのだろう。
ベッティーネをヴィーンでの居所まで送っていった。そこで、
ベッティーネの義姉アントーニアと出会うのである。
翌1811年から1812年にかけて作曲されたのが、
「交響曲第7番」、日本での"通称"「ベト7(ベー7)」である。
この交響曲がなぜ「イ長調」で書かれたか、
山手線路線周とインド料理のナンとムンクの叫びの女性の顔の形の区別が
まったくつかない拙脳なる私には解るはずもないが、
主音イに対する属音ホが開放弦であるヴァイオリンのE線をブルブル震わせるため、
などではない。
「不滅の恋人」の名のイニシャル"A"を表して"A dur(イ長調)"としたのである。
いっぽう、「第7の」を意味する序数はドイツ語では、
siebent(ズィベント)もしくはsiebt(ズィープト)であるが、後者で表記すれば、
Siebte Sinfonie(ズィープテ・ズィンフォニー)。「我が不滅の恋人」
meine Unsterbliche Geliebte(マイネ・ウンスターブリッシェ・ゲリープテ)の
恋人にあたるGeliebteと韻を踏むのである。なにしろ、
ベートーヴェンと天才はその実、大のダジャレ好きオヤジだったから。

♪アーーメ、アーーメ、フーレ、フーレ、
 かぁーーあさぁーーんがぁーーーーーーー♪
は、ひょっとするとヒデリつづきやフィドルつづきの日に
嫌気がさしたガキが、雨乞いした歌なのかもしれないが、
この交響曲の第4楽章の主要主題、
[アッレーグロ・コン・ブリオ(二分音符=72)、2/4拍子、3♯(イ長調)]
****♪レーッレ<ミ・<ソ>ファ>ミ>レ│<ミーッミ<ファ・<ラ>ソ>ファ>ミ│
   >レーッレ<ミ・<ソ>ファ>ミ>レ│<ミーー<ド・ドーーー│ーー♪
は、歌とヴァイオリンとチェロとピアノのための
「12のアイルランドの歌(WoO 154)」の第8曲にベートーヴェンが編んだ
"Save me from the Grave and Wise"
(生真面目で堅苦しいのなんてやなこった)
***♪ドード・ドー<レ│<ミー>ド・<ソー>ミ│
  >ドード・ドー<ミ│>レー<ミ・<ソ>ファ>レ♪
から採られてる、と一般には言われてる。その元歌は、
"Nora Creina(Norah Crionna)"というアイルランドの
古い舞曲(6/8拍子のjig)である。
***♪ドー<レ・<ミ>レ>ド│<レー<ミ・<ファ>ミ>レ♪
この節の断片はこの交響曲の第1楽章主部の第1主題、
第3楽章のトリオのオーストリアの聖歌にも、
オウヴァーラップされてるのである。ともあれ、
第1楽章、第3楽章、第4楽章の各長調楽章の主題・動機は、
「セイヴ・ミー・フロム・ザ・グレイヴ・アンド・ワイズ」の歌詞とはまた別で、
ベートーヴェンの真の意味が表されてる詞だったのだろう。
フィドルの重奏が、アントーニアと自分の
二人の音を重ねる意味にもなってたのである。ちなみに、
この交響曲の第4楽章の大詰めでは、
後年のチャイコフスキーならざらにある
「fff」が記されてる。
「3番」「5番」の「3♭」の対極に位置する
イ長調のシャープ「3」つ重ねに合わせるように。

ところで、
とあるブログでまた、この「ベー7」に関する
トンデモない内容を見つけてしまった。
そのブログの主は音楽でメシを食ってる"作曲家"らしい。
「ベー7」をまず「かなり直裁な作り」と評する。
パパパっと作っちゃった、というのである。
1811年から翌年までかけてるが、第九を除けば、
他のベートーヴェンの交響曲に比べて、
とびぬけて速書きではない。が、それはまぁいいとして、
「4楽章全てが和音で開始され、かつ、みなA音が根音。
 全部Aのコードなのだ。統一感バッチリ」
とお書きあそばされてる。
? 嘘でしょう? 冗談でしょう?
まさか音楽のプロがそんな……またしても……。
この交響曲がベートーヴェンが「不滅の恋人」を想って作った曲だから、
「そして一言、この戯言が冗談だよと笑ってほしい」
ので、そんな"いつわ"りを書いたのだろうか。
第1楽章は御託どおり、イ長調の1の和音(主和音)で開始される。
第2楽章も仰せのとおり、イ短調の1の和音(主和音)が、
オーボエ2管・クラリネット2管・ファゴット2管・ホルン2管、という
8管のウィンド・アンサンブルに吹かれて始まる(転回形であるが)。が、
第4楽章は御意、とはどうあっても申し上げることができない。
イ長調の属和音[E-GIS-H]なので、
「Aが根音(=Aのコード)」ではない。ピアノを習い始めてついでに
楽典もいっしょに学び始めた児童のオツムを混乱に陥れる。
この「ベー7」第4楽章の開始の和音が、生まれてこのかたずっと
主和音に聞こえてたのだろうから……。
作曲家なのに耳が聞こえなくなっていったベートーヴェン同様、
音楽を生業にしてるというのに、あまりにも可哀想な耳である。さらに、
第2楽章は、第5音を欠いたヘ長調の1の和音(主和音)[F-A-F]で始まる。
まったく「Aが根音(=Aのコード)」ではない。
一般大衆は「権威」に弱い。プロの言葉を信じ込んでしまうのである。
無垢な若者を誤った方向に導くおそれがある「権威」ある立場にあるのに、
プロとしての耳ももたずベートーヴェンをまったく理解してもないのである。
あってはならないことである。本人も、
その言を信じてしまう人たちも、あまりにも気の毒である。といって、
誤った情報をさも正しいことのように流布させないでほしい。ちなみに、
このベートーヴェンの「交響曲第7番」は、
A dur(3♯)-a minor(調号なし)-F dur(1♭)-A dur(3♯)
という楽章構成である。1,2,4楽章はアントーニアの頭文字Aであり、
3楽章の(1♭)はフラットの文字と同じ意匠であるアルファベットBの小文字b、
つまり、BirkenstockとBeethovenの頭文字なのである。
永遠にこの文字がこの交響曲から取レーネえように、
ベートーヴェンはこれでもかこれでもかと刻印したのである。
篩にでもかけられて選別された二人が、結局は
結ばれなかったことは、涙なくしては思いを馳せれない。
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「ベートヴェン『交響曲第7番』の『ポーコ・ソステヌート』」

2009年11月11日 23時53分40秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
["Poco sostenuto" in Beethoven's Symphony No.7]

今、インフルにはエンザがつきものだったり、
また付かなかったりもするが、かつて、
刑罰には「縁坐」という制度があった。
犯罪者の親族にまで刑罰を科すものである。現在は、
採用されてない。が、たとえば、
工事現場のリンジー雇いに身を隠してた
市橋容疑者の場合、「親の顔が見たい」
という言葉の重みを痛感する。
ああいう親なら殺人を平気で犯す倅もありなん、である。
あの日本人離れしたロバヅラのY染色体だけでなく、
邪悪なふてぶてしさを共有する親子関係と、
やはり日本人離れした容姿・態度母親の、
「似たもの夫婦」のいけしゃあしゃあとした会見での
その言い草ときた日には、
縁坐制が理にかなってないものでもないと
思わされる。こいつらは、
被害者をはじめ、他人のことなど、
屁とも思ってないのである。こんなのが
医師・歯科医師などやってるのである。
そら恐ろしくなる。それにしても、
千葉大園芸学部は殺人鬼も排出すれば、
殺人の被害者となったキャバクラ嬢も通う、という
類稀な醜聞が重なって全国に名を知られ、
気の毒である。
「丘の上。雲母の色の、江戸川の、
 見ゆるあたりの、一むらの罌粟」
「うすものの、女の友を、待ちえたる、
 松戸の丘の、ひなげしの花」
与謝野女史のこの素人なみな歌二首も
似つかわしく響いてくる。この場合、ケシは
乾燥大麻のことではない。が、まぁ、
福田萌女史と小林麻耶女史の顔を区別できず、
フェドセーエフとオシムの顔さえ見わけれない愚脳なる私の
感想にすぎない。ときに、
間奏というよりは、
シューマン(3番1楽章)やブラームス(1番3楽章)に「引用」された
ベートヴェンの「交響曲第7番」の第1楽章の序奏は、
メトロノーム表示で[4分音符=69]というのだけが
テンポを計りうるすべてである。標語はただ、
Poco sostenuto(ポーコ・ソステヌート)、とだけ記されてる。
杓子定規には「ちょっぴりと・音を保って」
……ちんぷんかんぷん、である……だから、
ベートーヴェンの頭は計り知れない、
ということになってしまうのである。
しょっぱなの4分音符へのスタッカートや、
10小節めからの弦そして木管とホルンへの
16分音符へのスタッカートのオンパレードなど、
に見られるように、
この指示が「音を充分に保つ」
などというものでないことは明らかである。
ベートーヴェンはこの指示によって、
4/4もしくは2/2拍子の
[強-弱][強-弱-中強-弱]
というようなリズムを抑えてほしかった、
のである。なぜか?
不滅の恋人を想って創造した
主部vivace(ヴィヴァーチェ)の律動感との
コントラストをくっきりさせるためである。
主部になだれ込む直前の、
54小節からの実質ホ長調の(*)
****♪ドーーー・ーーーー・・<ミーーー・<ソーー>ファ│>ミー○○・♪
のアーティキュレイションは、
****♪ドーーー・ーーーー・・<ミーーー、<ソーー>ファ│>ミー○○・♪
とするのが「普通」である。しかるに、
ベートーヴェンはこのようにスラーを記してる。
****♪ドーーー・ーーーー、<ミーーー・<ソーー>ファ│>ミー○○・♪
こうすることによって、
完璧に拍子のリズムをなし崩しにしてるのである。そして、
[6/8拍子]の附点音符の躍動と対比させる。
****♪ソーーーーー・【ーーー>ファ>ミー】│<ファーーーーー・【ーーー>ラ<シー】│
  <ドーーードー・【ドーー<レ<ミー】│ミー>レーーー・【ーーー<ミ<ファー】♪
しかし、この主題においもベートーヴェンはこの
【ターータター律動】を、強拍(第1拍群)ではなく
弱拍(第2拍群)に集中させてるのである。ときに、
ヴェーバーはこの楽章終いの半音階下降バスを聴いて
「ベートーヴェンは精神病院行き」と言ったそうであるが、
数年後には「華麗なるロンド(舞踏への勧誘)」で、
この【ターータター律動】を存分に踏襲してるのである。

(*)この54小節からの実質ホ長調の
****♪『ドーーー・ーーーー、・・<ミーーー・<ソーー>ファ│>ミー○○・』♪
であるが、こういう箇所で和声的特定を
ベートーヴェンは故意に避ける。第九の冒頭も、
第2音(h)を使わないので、実質イ短調なのに、
「ニ短調」と言い張る御仁もある。が、
属調→主調、あるいは、下属調→主調、
というのは「劇音楽」での常套である。
ベートーヴェンは「交響曲第7番」を、
「不滅の恋人」を想って創りあげた。ゆえに、
そこには深い悲しみも内包されはするが、
根本は「恋の喜び」である。いっぽう、
「交響曲第5番」も、「苦悩から歓喜へ」と解されてる。
その「歓喜」の「勝利のファンファーレ」である
****♪『ドーーー・ーーーー・・<ミーーー・ーーーー│<ソーーー・ーーーー・・ーーーー・>ファー○○│
   >ミー○○・』>レー○○・・>ドー○○・<レー○○│>ドーーー・ーーーー・・♪
を引用してることに気づかないむきは、ここを「イ長調」の
****♪『ソーーー・ーーーー・・<シーーー・<レーー>ド│>シー○○・』♪
と言い張った。自分だけでそう思いこんでるだけなら、
結構なことであるが。
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「イタリアにはイ長調がよく似合う(舞楽借景)」

2008年07月26日 19時47分56秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
演歌や歌謡曲などには、
「上海帰りのリル」「蘇州夜曲」
「(薔薇の騎士のヴァルツァーの主題による)虹と雪のバラード」
「(ドイツ民謡「故郷を離るる歌」の主題による)青葉城恋唄」
「東京キッド」「ブルーライトヨコハマ」「京都慕情」
「大阪で生まれた女」「南国土佐を後にして」「思案橋ブルース」など、
いわゆる「ご当地ソング」なるものがある。いっぽう、
くら音にも「ご当地もの」はある。
「ローマの謝肉祭(1838年作曲-1844年出版)」(ベルリオーズ)、
「イタリア交響曲(1833年作曲-1851年出版)」(メンデルスゾーン)、
「イタリア奇想曲(1880年作曲-同年出版)」(チャイコフスキー)、
「スペイン奇想曲(1887年作曲-同年出版)」(リムスキー=コルサコフ)、
など……。ところで、
「東京キッド」の故美空ひばり女史は、
「歌に行き、恋に生き」た歌手だった。恋した相手は画家ではなく
ギターを持った渡り鳥だったが。さて、プッチーニのオペラで、
タイトルロウルがグォ・ヂンヂンなどに負けじと、
テーヴェレ川まで身をおトスカなどと言って
序奏をつけてダイヴして果てたのは、
サンタンジェロの城塞のテッペンからである。が、
残念ながらシブキはだいぶあがってしまって、
高得点は期待できなかったようである。
「サッコ・ディ・ローマ」時にこの城で防衛戦に加わったり、反対に、
教皇の怒りをかってこの城に幽閉されてたこともあるのが、
ベンヴェヌート・チェッリーニである。同人を
タイトルロウルに扱ったオペラをベルリオーズは書いた。が、
おもにその多楽器使いが嫌われてた同人の作品の初演は、
例によって嘲りで迎えられたらしい。
vnはプリーモ、セコンドそれぞれが少なくとも15丁、という
当時としては異例な大編成である。にもめげず、
ベルリオーズはこのオペラの中から2つの主題を採って
“スィングル・カット”する。それが、
序曲「ローマの謝肉祭」の成り立ちである。
*♪ドーー・ーーー│>ソーー・ー<ラ<シ│
 <ド<レ<ミ・<ファー>ミ│>レ<ミ>レ・>ラ>ー<レ│
 >ド>シ>ラ・>ソー<ラ│>ソー<ラ・>ソー<ラ│>ソ*♪
このサルタレッロは、アッレーグロ・アッサイ・コン・フォーコ、
6/8拍子、「イ長調」である。例によって、
あか抜けしない、拙い厚ぼったいオーケストレイションである。
とはいっても、ベルリオーズは自身は下手ながら、
以降の管弦楽法の可能性を引き出し、変えた功労者である。いっぽう、
作曲された年はこれより先だったが、生前には出版されず、
作曲者の死後に印刷されたのが、メンデルスゾーンの
「イタリア交響曲」である。生前に出されなかったのは、
作曲者がまだ改訂の必要があると考えてたからであり、
多忙で手をつけられないままに38歳で脳卒中死してしまったのである。
*♪ド│<ミーー・>ド●ド│<ミーー・>ド●ド│
    <ソーー・ー>ファッ>レッ│>シー●・●>ソ>ファ│
    >ミー<ソ・<ドー<ミ│>ラー<ド・<ファー<ラ│
    >ソーー・ー>ファ>ミッ│ミー●・●●*♪
アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、6/8拍子、
「イ長調」である。この作曲家も、
ベルリオーズ同様、自身で指揮してたにもかかわらず、さかのぼって、
少年の頃には親がオーケストラを「あてがって」やってた、
くらいなのに、オーケストレイションは巧みとは言い難い。それでも、
「ヘタウマ」というか、妙に風情がある箇所も多いのである。
大金持ちのボンボンのわりには、常に悲しさを漂わせてる芸風に加え、
金持ちの倅らしく上品で端正な顔が、とくに女性に好感を与える。
やはり品のある顔に、憂いをたたえたのはチャイコフスキーである。
**♪ドーーーーー・>ソーーーー<ド│<ミーーーーー・ーーーーーー│
   ミーーーーー・<ソーーーーー>ミ│>ドーーーーー、<ミー>ドー<ミー│
  >ソーーーーー・ーーーーー<ド│ドーーーーー・ドーーーーー│
   ドーーーーー・ーーーーーー**♪
アンダーンテ・ウン・ポーコ・ルバート、6/8拍子。
スコア全体の調号は「3♯」である。が、この
ア・ドゥーエ(2管で)のE管トランペットによるファンファーレは、
実質「ホ長調」である。次いで、「タタタ・タン」という
運命の動機に打ちぬかれ続ける実質「イ短調」の陰カンツォーネが
弦楽4部のユニゾンで奏される。そして、また冒頭のファンファーレが
全奏でやはり「ホ長調」で再現される。このとき、
ファンファーレの節をマルカティッスィモで吹くのは、
上記トランペットだけでなく、A管のピストン式コルネット2管も
「かぶせ」られてる。ときに、ベルリオーズは
ピストン式コルネットの「下品な音色」を嫌ってたそうである。
当時はまだコルネットにはピストンをくっつけれても、
トランペットにそうすることは難儀だったようである。で、
旋律的なものをラッパに吹かせたいとき、「仕方なく」であろうか、
ベルリオーズは「ピストン式コルネット」を「愛用」した。ともあれ、
二度めのファンファーレに続いて、「イ短調」の陰カンツォーネが
コーラングレとファゴット1管のユニゾンで手短かに再現される。そして、
やっと「イ長調」のお出ましである。
ポキッスィモ・ピウ・モッソ。2管のオーボエが3度のハモりで
*♪ミ│<ソー>ミ・<ソ>ファ、>ミ│>レー、<ミ・<ファー、<♯ファ│
    <ソ>ミー・●●*♪
という陽カンツォーネを歌う。これがピストン式コルネットでも吹かれ、
vn2部に受け継がれ、さらに、木管群の大ユニゾンで
プチ・クライマックスを迎える。
この曲の以降はまた別の機会に触れることにするが、
転調を重ねながらも終いはまたイ長調に戻って終わるのである。ところで、
この「イタリア奇想曲」について、巷では、
「チャイコフスキーにしてはめずらしく、南国の明るい気分に満ちた曲」
などと言われてる。「フィレンツェの思い出」が
「イタリアっぽくなく、ロシア臭プンプン」
などと評するむきにはそう匂ってしまうのかもしれない。
作曲を開始したのは1880年1月、
父イリヤーの訃報をローマで受けた一週間後のことである。
グリーンカの「スペイン序曲」2つを念頭において構想した、
というふうにメック夫人には書いてるようである。
小池栄子女史と雅子妃のしゃべるときの口元の区別もつかない
拙脳な私があえて観念的なことを想像すれば、
「ローマのホテルの部屋で、チャイコフスキーは
町から聞こえてくる騎兵隊の起床ラッパに、亡き父との記憶が蘇る。
続くイ短調の哀しい旋律は、父への挽歌である」
というようなことである。さて、
今年2008年はリームスキィ=コールサコフの没後100年だから、
「イタリア」ネタでもないのに「スペイン奇想曲」も「特段に」加えといた。
というのは表向きで、「リームスキィ」というロシア語は、
「ローマ人」という意味である。ちなみに、「コールサカフ」のほうは、
「カルサーク」という「コサック・キツネ」のことである。
キツネはイヌ科で、「単独行動」を採ることが多い。
「コサック」もトルコ系の言葉で「群れから離れた者→一匹狼」
を意味するらしい。余談であるが、コサックはキコリではない。
木を切るのはヨサクである。ヘイヘイホー、トントントォーン。
推測であるが、「cors-」という語幹の、
「corps(英語で「群れ」)」や「corsaire(仏語で海賊)」、
“コルシカ”島(corsica)の「corse」などはみな、
同源なのではなかろうかと思う。それはさておき、
まだ作曲を学んだ者が少なかった当時のロシアで、
きちんとした音楽教育を受けてないにもかかわらず、
リームスキー=コールサコフはできて間もないペテルブルク音楽院の
作曲科教授の椅子に収まった。1871年、27歳のときである。が、
所詮、音楽のド素人である。教えるほうが何もわかってないのだから、
教わるほうも大変である。努力もしたのであろうが、
1884年、40歳のときに「和声学教本」を著した。それを
チャイコフスキーに送って批評を仰いだとのことである。
チャイコフスキーは半年後、その「第1章」についての批評を送った。
「あまり怒らないならもっと見るけれど」と書き添えて。つまり、
この年になっても、「管弦楽法の大家」リムスキー=コルサコフは
和声に関してもまだまだ未熟だったのである。チャイコフスキーに憧れ、
妬み、強い劣等感と並はずれた支配欲求を、派閥で固めて
弟子たちからの称賛で虚栄心を満たしていく。1887年の夏休み、
リムスキー=コルサコフは長年かけて勉強しつづけてきたものを
精一杯に駆使して管弦楽作品を完成させた。が、
**♪ドーー<レ・>ド<レ>ド<レ│>ドーー<レ・>ド<レ>ド<レ│
  >ド>シ>ラッ>ソッ・<ラ>ソ>ファッ>レッ│
  <ソー>ド<ミ・>ドッ<ミッ>ドッ<ミッ│
  >ソー>シ<レ・>シッ<レッ>シッ<レッ**♪
陳腐で退屈な楽想に終始する。
ヴィーヴォ・エ・ストレプトーゾ(喧しく)、2/4拍子、
「イ長調」である。チャイコフスキーが「イタリア奇想曲」なら、
オレは「スペイン奇想曲」だ、調性もおんなじにしたぜ、
と、天才に対抗しようという意識が哀れである。この人物の
虚栄心はそれだけではこと足りない。後年、
「自叙伝」の中で、この作品初演の最初のリハーサルで、
上記のイ長調のアルボラーダの通し演奏が終わるやいなや、
楽団員全員から拍手喝采が湧きおこった、と「自慢」してるのである。
ヒトラー、スターリン、毛沢東、金正日らを
拍手や語録掲げで讃える党大会、とまったく同じである。いずれにしても、
vnのプリーモにせよセコンドにせよ、
管弦楽法の大家の大先生リームスキー=コルサコフにとって、
開放弦のE線をブルブル震えさせ共振させて大騒音を発生させることくらい
おチャのこチャイチャイでなかったのは、
さぞや一生の不覚だったに相違ない。ともあれ、
こういう「まがいもの」屋は、チャイコフスキーへの対抗心、敵愾心から、
それだけで、「キソウ曲」というタイトルと「イ長調」という調性を
借景したが、真っ当な作曲家らにとっては、
キリスト教大本山ヴァティカーノがあるイタリアは、
「♯(十字架)が3つ」なイ長調がふさわしいのである。ところで、
“バチカン”といえば、グレゴリオ暦が施行された年に生まれた
グレゴーリオ・アッレーグリの門外不出の「秘曲」ミゼレーレを
たった3度聴いただけですべての声部を覚えて譜起こししてしまった14歳の少年
モーツァルトは、35年の生涯のうち、「3」度、イタリアを訪れた。いっぽう、
一生の間に「イ長調」の交響曲を、「3」曲、書いた。

第1回イタリア旅行)1769年12月から1771年3月まで
第2回イタリア旅行)1771年8月から同年12月まで
壱)k.114「14番」(作曲1771年12月)
弐)k.134「21番」(作曲1772年8月)
第3回イタリア旅行)1772年10月から1773年3月まで
参)k.201(186a)「29番」(作曲1774年4月)

3つめの「イ長調交響曲」は最後のイタリア行きからやや月日が経ってるが、
1つめは第2回イタリア行からサーツブァクに帰ってすぐに書かれ、
2つめも第3回イタリア行脚に立つほんの少し前に作曲されてるのである。
結局、「イタリアにはイ長調がよく似合う」という言葉も、
つきつめれば「モーツァート」が「応答」するのである。
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「不思議な不滅の角笛」

2007年10月06日 23時55分53秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
前項の「白鳥湖#25幕間曲」で【grave】触れたついでに、
ベートーヴェンが【墓場】まで持ってった秘密について少し考えてみた。
よく知られてるように、ベートーヴェンが死んだとき、
所有してた銀行株券を見つけるべく探し出されたその引出しから、
株券といっしょに女性の肖像画のミニアチュアと紙片が出てきた。
その紙片がのちに「不滅の恋人への手紙」と呼ばれることとなる
書き送り3通である。この「不滅の恋人」が誰であるか、
ずっと謎で研究者のだれもが特定できなかったそうだが、近年、ほぼ
「アントーニエ・ブレンターノ(婚前:ビルケンシュトック伯爵家令嬢)」
で決定したらしい。この「手紙」が書かれたのは
1812年の7月なのだそうだが、その年、ベートーヴェンは
カールスバート(現在のチェコ、カルロヴィッツ)で
同夫人と逢瀬を持ったらしい。そこらへんの事情は
その分野のドシロウトである私には詳しい知識はないが、
少々、おもしろい符合に気がついた。すでに、
「専門家」の研究で、この逢瀬のときの思い出……つまり……
「カールスバートの郵便馬車の御者」
という御者が吹き鳴らしてた「ポストホルン」の旋律を
ベートーヴェンがメモったものが、
「8番交響曲」メヌエット章トリオの動機に採られ、
歌曲「遥かなる恋人に」のpf伴奏パートに組み込まれ、
pf曲「ディアベッリ変奏曲」の第5変奏に編まれてる、
のだそうである。私にはピンとこないのだが……。

ベートーヴェンがメモったポストホルンの節:
**♪『ドードド・ドードー・<ミー>ドー<ミー・
  <ソー>ミー<ソー│<ドーーー・ーー』>ソー・
  <ドー>ソー・<ドー>ソー│
   ソーソー>ミー・>ドードー<ミー・<ソー・……**♪

「のだめ」のような高尚なドラマには出てこない些末は話題ではあるが、
私にはやはり1812年に完成された「7番交響曲」の3楽章、
*♪『ドー│(ド)<ミー・>ド●・<ミー│
   (ミ)<ソー・>ミ●・<ソー│
  <ドーッ・ドーッ』>シーッ│>ラーッ・ラーッ・>ソーッ│
  <ドー>ソー・<ドー>ソー│
  >ファーッ・ファーッ・>ミーッ│>レー・ーー・ーー*♪
に『そのまんま』採られてる、ように聴こえる。ちなみに、
私の考えでは、「7番交響曲」の調性はなにもベートーヴェンが
vnのE線を震えさせるという壮大な
オカルト現象を起こしたかったわけではなく、
「A」ntonieの頭文字を選んだ、というものである。
「8番交響曲」の調性ヘ長は、アントーニエとの
「保養地」が「田園交響楽」の
「郊外に着いたときの心地よい気分」であることと、
万が一、「A」に気づかれた場合のエクスキューズとしての
その夫「F」ranzの頭文字である。あるいはまた、
ヘ長の調号「1♭(フラット)」と同意匠の
b(ベー)のを表してるのかもしれない。
私のハンドルネイム「パション・トリプル・ベ」も
「3♭」と「3b」を「かけた」ものである。アントーニエは、
サンダル履きが日常的な家風だった(※)
生家が「B」irkenstock、
嫁ぎ先も「B」retano、
という「B」型人間である。ちなみに、
「Birke(n)/ビルケ(ン)」は通天閣に生えてない「樺(の)」、
「Stock/シュトック」は「棒(スティック)」、である。
さて、ベートーヴェンがアントーニエに献呈しようとして叶わなかった
「32番pfソナータ」の後章の『『アリエッタ』』、
**♪『『ドー>ソ│ソーー・ーーー』』
  <『『レ>ー>ソ│ソーー・ーーー』』
として据えてた動機は、奇遇にも、
先にも触れた「ディアベッリ変奏曲」、
*♪『『ド>シ│<ドーッ、>ソーッ・ソーッ』』……
 <『『レ>♯ド│<レーッ、>ソーッ・ソーッ』』……*♪
の主題としてディアベッリが送ってきたのである。この動機は、
懐かしい「7番交響曲」の3楽章(ヘ長)のトリオ(ニ長)、
*♪『『ドー・ーー・ー>シ│<ドー・●●・●●
  (この間、両翼vnがオクターヴユニゾンで「ソ」を保持)』』│
  『『ドー・ーー・ー>シ│<ドー・●●・●●
  (この間、両翼vnがオクターヴユニゾンで「ソ」を保持)』』│
  ドー・ーー・<レー│<ミー・<ファー・>ミーッ│>レー・……│
  『『レー・ーー・ー>♯ド│<レー・●●・●●
  (この間、両翼vnがオクターヴユニゾンで「ソ」を保持)』』│
  『『レー・ーー・ー>♯ド│<レー・●●・●●
  (この間、両翼vnがオクターヴユニゾンで「ソ」を保持)』』│
  レー・ーー・<ミー│<ソー・>ファー・>レーッ│>ドー・……*♪
の主題だったのである。ときに、
「ベト7」の主章主部ヴィヴァーチェは、
8分の6拍子というイタリアの舞曲の拍子、律動で書かれてる。
アントーニエの嫁ぎ先ブレンターノ家はフランクフルトの富豪であるが、
その名が示すとおりイタリア系である。のちに、やはり大富豪で
「バルトルディ」というイタリア名も持ってたメンデルスゾーンが、
主章を同じイ長&8分の6拍子で、3楽章にホルンのトリオを配して、
「イタリア交響曲」を作曲するが、その
「ベートホーフェン・マニア」ぶりが強くうかがわれる。
それはともかくも、アントーニエとその夫フランツを
ベートーヴェンに引き合わせたのは、フランツの異母妹の
エリーザベト(ベッティーナ)・ブレンターノであり、
そのベッティーナの夫アヒム・フォン・アルニムは、
ベッティーナの同母兄クレメンス・ブランティーノと
民衆詩集「子供の不思議な角笛」を編纂した人物である。それから、
「ベト7」の終章の主主題は、ディック・ミネが
「ノラ・クレイナ」というアイルランドの花売り娘に女装して歌った(※)
「セイヴ・ミー・フロム・ダ・【グレイヴ】・アンド・ワイズ」
(12のアイルランド民謡セッティング作品WoO154第8曲)
のpf間奏の節
*♪レー<ミ・<ソ>ファ>レ│<ミー<ファ・<ラ>ソ>ミ│
 >レー<ミ・<ソ>ファ>レ│<ミー<ド・ドーー*♪
であるが、このように、8分の6拍子である。この歌は……
「【グレイヴ】=まじめくさった」で「ワイズ=分別顔した」な
ことから私を隔離してください。なぜならば、
私が自分の酒に課税しようなんてばかげてるではないですか
……みたいな歌である。
ベートーヴェンが「不滅の恋人」に手紙を送った1812年は、
皮肉にも、身分の違いで思うままにならない社会を恨んだベートーヴェンが
最初は崇拝し、帝位に就いては失望したナポレオンが、
ロシア遠征で躓いた年だった。ちなみに、
戦死者の亡骸が埋葬される光景が思い浮かぶ
チャイコフスキーの大序曲「1812年」の主部対主題に充てられた
*♪ドー│<ソー・ーソ・・ソ>ファ・>ミ>レ│<ソー・ソー、・・●●・
 >レー│<ソー・ーソ・・ソ>ファ・>ミ>レ│<ソー・ーー、●●
 >ソー│<ラー・<ドー・・<レー<ミ<ファ│<ソー・ーー・・●●
  ソー│<ラー・<ドー・・>シー>ラ>ソ│<ドー・ーー・・●●*♪
も、破棄したオペラ「地方長官」第2幕、
マーリヤとアリョーナの二重唱からの地球にやさしいリサイクル品である。
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「モーツァルト29番交響曲のイオン化傾向」

2005年09月05日 17時46分00秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
9月5日は太(川)陽(介)王ルイ・ルイ14世の誕生日らしい。
ちなみに、ルイ14世はシェイクスピアの『ハムレット』には登場しない。
いっぽう、赤塚不二夫翁の「天才ブル・ブルボン」に藤吉久美子女史は出てこない。
辰吉丈一郎選手と竹澤恭子女史の違いは、WBAとかWBCとか、協会の違いよりも、
バンタム級とかウェルター級とか、階級の違いで区別できるはずである。
さて、階級といえば、トイレ用『スリッパ』の大量生産工程を確立して
新興富裕階級にのしあがった家に生まれたのが、エルネスト・『ショーソン』である。
なお、ショーソンと電話を発明したベルの区別をつけるのは、
ひよこの雄雌を判別するくらい、素人には難儀である。 さて、
難儀だったのは『小村』寿太郎が臨んだヴィッテとの交渉である。
古くは蒙古に、そして、またしても黄色の日本に負けるロシア帝国を見るにみかねて、
戦争終結の仲介をかってでて自国のポーツマスに両国を呼びつけたのは、
中南米やフィリピンに対する「棍棒外交」で知られる
テディ・ベア・ロウズヴェルトであった。同大統領は共和党であったが、
我が国の民主党党首岡田克也の実家イオン・グループのスーパー・ジャスコは、
棍棒競技もある新体操に力を注いできた会社である。
ブルガリアに目をつけるとは慧眼である。かつて、
新体操王国であったブルガリアから新体操女王ディリアナ・ゲオルギエヴァを
千葉の新稲毛のジャスコに招いて、子どもたちに教えさせてたのである。
昨今のスーパーマーケット業界では、
自転車操業が破綻した「主婦の店(偽善、おためごかしがミエミエなコピー)」
ダイエーが中打ち頭打ち、 産業再生機構に身を委ね、いずれ、
イオン・グループ傘下に収まる店舗もちらほらとあるとか。
ダイエーは「一の市」などという最下等レヴェルのダジャレを冠した
あざといセールが「売り」であったが、結局、 スーパー業界は、
「四日市」の一介の呉服屋「岡田屋」が参加して溶け込んでしまったのである。
これを我々流通業界エセ・アナリスト連中は、
「AEON化傾向」と呼んでるのである。 ちなみに、
AEONグループは英会話教室は経営してない。ときに、
「イオン化傾向」とは、中学の教科書的に言えば、
「金属が水溶液中で電子を放出して陽イオンになりがちな度合い」なわけで、
これが「大き」ければおおきいほど「酸化されやすい」、
「水溶液に溶けやすい」ともいえるのである。それから、
「イオン」とは「電気的」にバランスを欠いた原子または分子の状態のことである。
ときに、スーパーのレジ前にも置いてあるリチウム電池は、
イオン化傾向がもっとも大きい金属であるリチウムを用いることによって、
小粒でもピリリと痺れる電圧を得てるのである。
炭酸リチウムは鬱病のクスリとしても使われてる。さて、反対に、
もっともイオン化傾向が小さいのは、金(gold)である。
金はなかなか液体に溶けないのである。であるから、
民主党に政権を取られないようにするために自民党は、
深呼吸して酸素をいっぱい肺に取り込んで思案を重ねてもいいが、
69パーセントの硝酸1モルに対して36パーセントの塩酸3モルを混ぜて
その中に金を放り込めば、効果てきめん。
これを我々エセ政治アナリスト連中は、「王水の陣」と呼ぶのである。
いっぽう、塩酸ではなく墺国江蘇省塩城市出身といえば、
ヴォルフガング・アマデウス・莫扎特である。
「29番交響曲」はその3つの「イ長交響曲」の3つめの交響曲である。して、
その主章(アッレーグロ・モデラート、2/2)シテ主題(主主題)は、
♪ドー>ドー・○<ドドド|>【シ】<ドドッドッ・>【シ】<ドドッドッ|
<レー>レー・○<レレレ|>【♯ド】<レレッレッ・>【♯ド】<レレッレッ|
<ミー>ミー・○<ミミミ|>【♯レ】<ミミッミッ・>【♯レ】<ミミッミッ|
<ファー>ファー・○<ファファファ|>ミーーー・>レ(tr)ーーー♪
である。【】部分は【非和声音】のひとつ、
【倚音(いおん)アッポッジャトゥーラ】である。ときに、モーツァルトの作品は、
ケーヒェルが整理して附した番号で呼ばれるのがもっぱらである。 「K.201」とか。
「K:カリウム」もかなりイオン化傾向が大きい金属である。ともあれ、
前の「【シ】<ドドッドッ」は「ド(<)ミ(<)ソ」という主和音、
後の「【シ】<ドドッドッ」は「ラ(<)ド(<)ミ」という6の和音
                       (平行短調の主和音)、
前後の「【♯ド】<レレッレッ」は、「ソ(<)シ(<)レ」という属和音、
前後の【♯レ】<ミミッミッ」は、「ラ(<)ド(<)ミ」という6の和音
                       (平行短調の主和音)、
が支配する「領地」に属する「領民」なのである。【シ】【♯ド】【♯レ】は、
それぞれの「領地」の掟に「盾突いて」る【非和声音】である。だが、
もし、上記主題を、和声内音だけで素直に収めると、
♪ドー>ドー・○<ドドド|【ド】ドドッドッ・【ド】ドドッドッ|
<レー>レー・○<レレレ|【レ】レレッレッ・【レ】レレッレッ|
<ミー>ミー・○<ミミミ|【ミ】ミミッミッ・【ミ】ミミッミッ|
<ファー>ファー・○<ファファファ|>ミーーー・>レ(tr)ーーー♪
という、ちゃちなポップスのような節になってしまうのである。ただし、
モーツァルトがこの曲を作ったとき、
(これは非和声音で、この節を)などとは考えたとは思えない。
「自然に」♪○<ドドド|>「【シ】<ドドッドッ」♪
と「発想」したはずである。いっぽうで、「作曲時」にそういう
「効果ねらい」ばかりで「作曲」したであろう「引き出し作曲家」が
世の中にいることは、その「作品」がプンプン臭うのでわかるのである。さて、
この「イ長」交響曲が「擦られてないときのvnのE線の振動によるキンキン感」
に満ちてるか、ということに関して、私は以下のように考える。
モーツァルトの時代のvnの弦はG線以外は撚りが詰まったガットだったそうである。
4弦の張力を均等にすることを強いた父モーツァルトの要求どおりの調弦だったとすると、
当時の腸撚E線は現代の細いスティール製の弦よりもかなりな強さで張られてたはずである。
すると、他弦の振動に「共振しやす」くはなかった、のではあるまいか。
いっぽう、19世紀になってE線の材質が変わったか、といえば、否である。
スティール製やナイロン製になったのは、20世紀になってからである。
仮に「イ長」の曲がvnのE線の「キンキン感」がはなはだしかったら、
グレゴーリオ・アッレーグリの「ミゼレーレ」の秘伝を破ってしまうほど
「耳がよかった」モーツァルトが、そんな調で書いたら、その演奏は、
いてもたっても聴いてれなかったにちがいない。交響曲だけでも3曲も書いた、
のであるから、少なくとも、「神童」モーツァルトの時代には、
vnのE線は「イ長」であれその他の調であれ、
よその弦の振動につられてたやすく「振動」することは難しかった、
と考えれるのではあるまいか。
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