今年もなんだかんだ忙しく、
京都旅もあまり何度も行けなかった。そのうち、
岡崎周辺を探訪地とした旅もあった。その日はまず、
法勝寺跡とその一角である
白河院庭園。現在は高級住宅街でもある岡崎の
二条通沿いにあり、南禅寺も近い。
南側には市立動物園がある。法勝寺跡はかつて、
藤原良房の別荘でのちに白河帝に献上され、
帝が法勝寺を建立させた。その跡地である。
白河院庭園は明治になってこの地を所有した呉服屋が
有名な庭師7代め小川治兵衛に作らせたものである。
けっこうな穴場である。この庭園の入口となってる門の脇に
ふたつの碑がある。
「白河院址」、そして、「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」である。
今年は江戸時代中期の俳人、諸九尼(しょきゅうに)こと
永松波子(ながまつ・なみ、現行暦換算1714-同1781)が
生まれてから400年の年にあたる(誕生日は不詳)。
同女は久留米藩有馬家領内の庄屋の家に生まれ、
同じく庄屋の家に嫁いだ。が、
俳句をたしなんでるうちに俳句の師匠とデキて
駆け落ちした。
(cf;「Ocの舗装道と街なみ」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/4b1ba2ade63afe9cacc350211ec63bd9 )
そのなみ女が間男に先立たれてその俳号の湖白を
庵名として住んでたのが、この地だった
(晩年には間男の湖白→改号→浮風の故郷である直方に移って
直方湖白庵を編んでそこで死んだのだが)。
諸九尼は芭蕉に憧れて、奥のほそ道をなぞろうとした。
当然にまったく同じ道程ではないし、
松島まででまたひきかえしてくるのだが、
往きは京都から東海道、復りは途中から中山道経由で帰京する。
そのときの模様を「秋風の記」として残してる。
往きの富士川あたりではこう記してる
(私が便宜上現代的表記に変更してる箇所があります)。
[(明和八年(西暦換算1771年)四月)二十日、清見が関を過ぐるに、
岩越す波の白き絹を打ち着するやうに見ゆとある古き言葉、
げにもと思ひ出でられて、飽かず眺めはべる。
田子の浦にうち出でれば、海づらのどかに、
富士の山はこれまであらはにも見はべざりしか、
今日は高嶺までくまなく晴れて、一目に見渡されぬ。
まことによろずのものなべて絵に描くるより見るは劣りがちなるに、
これは如何で絵には描くはと、いみじく驚かれぬる。
行きゆきて見るたび、雲のかかれる景色、さまざまに変はりて、
おもしろさ譬しへなく、あとになしぬることぞうらみなる。
富士川にて(詠める)。
涼しさも 富士を見初めし あたりより
原に宿借りはべりて(東海道の原宿、現在は沼津市)、夜も起き出でて見る。]
さて、
あちこちと居所を替えた人物繋がりで、次に
白河院庭園の北500mほどのところにある
金戒光明寺(通称「黒谷さん(くろだにさん)」)に向かった。
ここもあまり一般観光客が訪れない場所なので
けっこうな京都観光の穴場である。この寺は
幕末に京都守護職となった会津藩主松平容保が陣としたゆかりで
殉職した会津藩士の墓や同藩で中間をしてたことがある
会津小鉄の墓もある。
(cf;「明保野亭事件から150年/京都守護職と金戒光明寺と会津小鉄」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/79dffdaa57a90674a7f92e73690c2435 )
そして、ここに
八橋検校(西暦換算1614?-同1685?)の墓があるのである。ちなみに、
八橋検校の現在の墓は昭和初期に移動されたもので、
本当のというか元の墓はまたこの墓所の別のところにあるのである。
当然ながらそこにも参ってきた。
今年はいちおう同人の生誕400年の年とされてる(誕生日はさらに不詳)。
現在の福島県いわき市で生まれたとされてる。
それはかなり怪しい説なのだが、後年、
平藩内藤家に召し抱えられてた時期はあった。
同人の弟子に小野お通がいたとされてる。同女またはその娘のお伏は
真田信之や信政と縁があるとされてる。ながらく途絶えてたとされてた
「八橋流」がじつは松代にずっと伝えられてた、
ということが話題になったことがあった。
そうした真田家当主と小野母娘の関係があったからかもしれない。ちなみに、
八橋検校は本名が不詳なばかりだけでなく、
なぜ「八橋」という検校名を名乗ったのかも不明である。
(八橋検校作曲と伝えられる(真偽は不明)「六段」の
第一段を鉄琴にアレンジしたものをアップしました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/yatsuhashi-kengyou-rokudan-arr-for-vibraphone-kamomeno-iwao )
京都旅もあまり何度も行けなかった。そのうち、
岡崎周辺を探訪地とした旅もあった。その日はまず、
法勝寺跡とその一角である
白河院庭園。現在は高級住宅街でもある岡崎の
二条通沿いにあり、南禅寺も近い。
南側には市立動物園がある。法勝寺跡はかつて、
藤原良房の別荘でのちに白河帝に献上され、
帝が法勝寺を建立させた。その跡地である。
白河院庭園は明治になってこの地を所有した呉服屋が
有名な庭師7代め小川治兵衛に作らせたものである。
けっこうな穴場である。この庭園の入口となってる門の脇に
ふたつの碑がある。
「白河院址」、そして、「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」である。
今年は江戸時代中期の俳人、諸九尼(しょきゅうに)こと
永松波子(ながまつ・なみ、現行暦換算1714-同1781)が
生まれてから400年の年にあたる(誕生日は不詳)。
同女は久留米藩有馬家領内の庄屋の家に生まれ、
同じく庄屋の家に嫁いだ。が、
俳句をたしなんでるうちに俳句の師匠とデキて
駆け落ちした。
(cf;「Ocの舗装道と街なみ」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/4b1ba2ade63afe9cacc350211ec63bd9 )
そのなみ女が間男に先立たれてその俳号の湖白を
庵名として住んでたのが、この地だった
(晩年には間男の湖白→改号→浮風の故郷である直方に移って
直方湖白庵を編んでそこで死んだのだが)。
諸九尼は芭蕉に憧れて、奥のほそ道をなぞろうとした。
当然にまったく同じ道程ではないし、
松島まででまたひきかえしてくるのだが、
往きは京都から東海道、復りは途中から中山道経由で帰京する。
そのときの模様を「秋風の記」として残してる。
往きの富士川あたりではこう記してる
(私が便宜上現代的表記に変更してる箇所があります)。
[(明和八年(西暦換算1771年)四月)二十日、清見が関を過ぐるに、
岩越す波の白き絹を打ち着するやうに見ゆとある古き言葉、
げにもと思ひ出でられて、飽かず眺めはべる。
田子の浦にうち出でれば、海づらのどかに、
富士の山はこれまであらはにも見はべざりしか、
今日は高嶺までくまなく晴れて、一目に見渡されぬ。
まことによろずのものなべて絵に描くるより見るは劣りがちなるに、
これは如何で絵には描くはと、いみじく驚かれぬる。
行きゆきて見るたび、雲のかかれる景色、さまざまに変はりて、
おもしろさ譬しへなく、あとになしぬることぞうらみなる。
富士川にて(詠める)。
涼しさも 富士を見初めし あたりより
原に宿借りはべりて(東海道の原宿、現在は沼津市)、夜も起き出でて見る。]
さて、
あちこちと居所を替えた人物繋がりで、次に
白河院庭園の北500mほどのところにある
金戒光明寺(通称「黒谷さん(くろだにさん)」)に向かった。
ここもあまり一般観光客が訪れない場所なので
けっこうな京都観光の穴場である。この寺は
幕末に京都守護職となった会津藩主松平容保が陣としたゆかりで
殉職した会津藩士の墓や同藩で中間をしてたことがある
会津小鉄の墓もある。
(cf;「明保野亭事件から150年/京都守護職と金戒光明寺と会津小鉄」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/79dffdaa57a90674a7f92e73690c2435 )
そして、ここに
八橋検校(西暦換算1614?-同1685?)の墓があるのである。ちなみに、
八橋検校の現在の墓は昭和初期に移動されたもので、
本当のというか元の墓はまたこの墓所の別のところにあるのである。
当然ながらそこにも参ってきた。
今年はいちおう同人の生誕400年の年とされてる(誕生日はさらに不詳)。
現在の福島県いわき市で生まれたとされてる。
それはかなり怪しい説なのだが、後年、
平藩内藤家に召し抱えられてた時期はあった。
同人の弟子に小野お通がいたとされてる。同女またはその娘のお伏は
真田信之や信政と縁があるとされてる。ながらく途絶えてたとされてた
「八橋流」がじつは松代にずっと伝えられてた、
ということが話題になったことがあった。
そうした真田家当主と小野母娘の関係があったからかもしれない。ちなみに、
八橋検校は本名が不詳なばかりだけでなく、
なぜ「八橋」という検校名を名乗ったのかも不明である。
(八橋検校作曲と伝えられる(真偽は不明)「六段」の
第一段を鉄琴にアレンジしたものをアップしました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/yatsuhashi-kengyou-rokudan-arr-for-vibraphone-kamomeno-iwao )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます