チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「往く年ヒツジ年、来る年サル年/正月のかるたとりと猿丸太夫の紅葉色」

2016年01月02日 22時23分52秒 | 歴史ーランド・邪図
今年(といっても細かくは今年は2月8日からだが)の干支は「申」である。
「申」という漢字の原義は「雷」(「電」)であり、「稲妻」を表した。
天が起こす事象はつまり「神」のなせるわざであり、
「かみなり」とも呼ばれる。
「神」への願いは口にだして言わなくてもマウス→「申す」ということであり、
稲妻は空を上下に長く走ることから「伸」びるという意味になり、「申」という形から、
草木の茎や幹が伸び(成長し)て果実が成熟したさまを意味するようになった。

十二支に後世動物があてがわれた結果、「申」を「さる」とも読むようになった、
ということであるが、ともあれ、
猿の顔や尻は赤い。
赤←朱は魔除けの色、とされてきた。なぜなら、
赤はヒトの血の色であり、
朱は丹(に)=辰砂(シンシャ)の主成分である硫化水銀鉱の色であるからである。
辰砂や水銀は生物にとって毒性が強い、ゆえに
ヒトを害する生物への毒ともなり、
ヒトに対しては薬ともなった。そしてなにより、
サル→去る、という語呂で「猿」自体が「魔除け」の動物、
ということにもなったのである(cf;赤山禅院)。

ちなみに、
正月行事のかるたとりには欠かせない小倉百人一首には、
三十六歌仙の一とされてる猿丸太夫の作とされてる歌が撰ばれてる。
[奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき]
この「猿」にもきっちり「紅葉」の「赤」が填めこまれてるのである。
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「防御方豊臣牢人軍団のブリッツ(クォーターバック・サック)/真田信繁(幸村)討死から400年」

2015年06月03日 14時09分34秒 | 歴史ーランド・邪図
今年の6月3日は、
慶長20年5月7日からちょうど400年の日にあたる。慶長20年5月7日は、
大阪夏の陣のハイライト、天王寺・岡山の戦いで、
(徳川方)本多忠朝(ほんだ・ただとも、西暦およそ1582-同1615)、
(大阪方)真田信繁(さなだ・のぶしげ(ゆきむら)、西暦およそ1567-同1615)、
という義理の兄弟が討死した日である。
忠朝は徳川四天王の一人、本多忠勝(ただかつ)の次男であり、
幸村は本多忠勝の長女小松殿を正室とした真田信幸(信之)の弟である。
なお、同日には徳川方の小笠原秀政(正室は家康の孫)・忠脩(ただなが)父子も
戦死(秀政は討ち取られず深手を負ったのち絶命)した。

正午から天王寺口で戦闘が始まった。
徳川方の勝ち筋であり、恩賞も期待できないため、
参陣した諸大名の武士たちの士気はあがらなかった、
と俗にいわれてるが、日本の合戦史上、もっとも凄惨をきわめた戦いだった、
ともいわれてる。
文字どおり背水の陣で臨んだ大阪方の牢人軍毛利勝永隊は、
死にものぐるいでかかっていったという。
武勇を極めた本多忠勝の次男忠朝隊は徳川方の天王寺口での先鋒として、
毛利隊と正面からぶつかり、忠朝も囲まれて討ち死にした。
忠朝隊の生き残りはたったの5人だったという。
徳川方の第二陣の小笠原父子隊も凄絶な戦いで壊滅し、
第三陣の酒井家次隊もけちらされた。そして、
隙あらばはるか後陣の家康本陣めがけるという奇襲作戦に出た。

越前松平隊と戦ってた真田信繁隊も最後の策として、
全隊が家康本陣だけをめがけて突入する、というブリッツをかけた。
この奇策は半ば功を奏した。大久保彦左衛門が残した文章によれば、
三方ケ原以来倒れたことがなかった本陣の旗が倒れ、
敗走する徳川方自身によって踏みつぶされた、のだという。
これはあまり出世しなかった彦左衛門の鬱憤混じりの
味方への皮肉からの虚飾というむきもあるが、
門外不出の書として綴られたいわゆる「三河物語」なので、
逆に信憑性があると考えられてる。また、
これだけでなく、徳川方の別の書にも
徳川方が相当な形勢不利な状況に陥ったことが書かれてるので、
おそらく本当のことだったのだろう。

ちなみに、
岡山口でも大野治房隊が秀忠の本陣へブリッツをかけた。
一時は秀忠本陣の手前まで迫ったが、前線の前田隊が戻って
将軍は救われた。ともあれ、
天王寺方面の大御所の絶体絶命のピンチを救ったのは、
立て直した越前松平隊と
横から駆けつけた赤備の井伊直孝隊だった。
信繁は疲弊して休んでたところを
松平忠直隊の鉄砲頭によって討ち取られた、とされてる。

翌日には大阪城も落ちて、豊臣家は滅んだ。戦後、
井伊家は徳川譜代筆頭として、
外様ながら家康の信任厚く大阪の陣でも多大の戦死者を出した藤堂家は
ほとんどことなく幕末まで続くが、
松平忠直はその功労への評価が低いことに不満で行状悪く、
改易され、越前松平家自体も再三の転封・減封を受けることになる。

我が真田本家(信之)も、長男信吉・次男信政が"病気"の信之に代わって参陣し、
信繁と内通してないという証のために首級をごまかすことなく、
あげた首級より取られた首級のほうが上回る、という凄絶な戦いをした。

また、このブリッツによって家康は討たれた、
という俗説がある。首のない家康の死骸は前線から遠く離れた
堺の南宗寺への運び込まれ、家康と容姿が似てたといわれる
小笠原秀政の首をすげつけたという。ために、
秀政は敵に深手を負わされたのではなく、
自ら身代わり(首代わり)になった、という。
戦後8年めの元和9年(西暦およそ1623年)、
秀忠は将軍職を家光に譲り、その将軍宣下のために
秀忠・家光は6月に上洛した。
宣下前の7月に秀忠が、宣下後の8月には家光が、
「おじゃましますっ!」とばかりにそれぞれ
南宗寺に詣でてるのである。
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「新宿副都心道路の立体交差/淀橋浄水場廃止から50年」

2015年03月31日 16時17分56秒 | 歴史ーランド・邪図
新宿の京王プラザで待ち合わせると、
アプロウチを誤る人が少なくないので難儀することがある。
都庁舎も同様である。なぜなら、
新宿駅西側にあたる、いわゆる新宿副都心の一帯は、
道路がおおむね縦横二層の立体交差構造になってるからである。

1965年(昭和40年)3月31日に、
淀橋浄水場が廃止された。今日はその日から
50年にあたる日である。この浄水場の貯水プールの
プールサイドと底の高低差をそのまま
再開発の道路の位置に据えたので、
そのような立体交差となっているのである。
浄水場は南北は現在の
新宿三井ビルからKDDIビル、東西は現在の
京王プラザホテルから新宿中央公園の真ん中あたりまで、
に及んでた。新宿中央公園の
熊野神社から西側が(かつてあった)池を含めた十二社である。

ところで、
件の浄水場は「淀橋」という名がついてたが、それは、
明治時代にこのあたりが
♪丸い緑の山手線、真ん中通るは中央線、
新宿西口、駅の前♪
と歌われてたわけではなく、
この浄水場跡地のもっと北に位置する
青梅街道が神田川に架かってた
橋の名(その由来は不詳である)から付いた村(淀橋村)などと
合併して淀橋町という、本来は関係のない名前となってたからである。

浄水場のあたりは本来は、
「角筈(つのはず)」という村だった。つまり、
現在の新宿駅東口の新宿3丁目の交差点あたりが
「(新宿)追分」といって、青梅街道と甲州街道の分岐点だったことから、
その分岐点から約1kmほどまでの範囲の内側の村を、
Yの字を横にした形、
つまり「筈」「鹿の角の筈形」に喩えた村名だったのである。
これより西側は幡ヶ谷村(「幡」から推察されるとおり八幡太郎縁)だった。
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「Hebon ga tangyō shite kara nihyakunen ga tatsu. (ヘボン生誕200年)」

2015年03月13日 16時19分43秒 | 歴史ーランド・邪図
今日は、幕末から明治にかけて日本で布教活動をした
アメリカ合衆国のキリスト教長老派宣教師・医師
James Curtis Hepburn(ジェイムズ・カーティス・ヘプバーン、1815-1911)
の生誕200年にあたる日である。同人は、
横浜のフェリス女子学院や白金台の明治学院のもとを創った。

ヘボンの祖先はおそらくスコットランド女王メアリの夫だった
スコットランド貴族ボズウェル伯爵家の一族だと思われる。
そのメアリの倅で、テューダー朝断絶によってイングランド王となった
ジェイムズ6世(イングランド王としてはジェイムズ1世)が
対カトリック政策としてアイルランドのアルスターに
プロテスタントのプレズビテリアン(長老派)を入植させた。それが、
スコッティッシュ・アイリッシュと呼ばれることになる。そして、その中に、
ヘボンの祖先は含まれてた。が、
そうした進入を当然ながら快く思わなかったアイルランドのカトリックは
スコッティッシュ・アイリッシュ(プレズビテリアン)を敵対視した。
このアイルランド・カトリックの抵抗はのちにシン・フェインやIRAとなって
対イングランドへの報復テロに発展した。
イングランドの手先として入植させられて対アイルランド・カトリックとの
矢面に立たされたプレズビテリアンはいたたまれなくなって
18世紀になるとアメリカ東海岸へ移住するようになった。その中のひとりが
ベルファストからサスケハナに渡ったヘボンの曾祖父だった。

ヘボンは米国の名門プリンストン大を出てさらにやはり名門の
ペンスィルヴェイニャ大で医学を修めた。
東南アジアへの布教から帰国後NYで開業したが、
開国なった日本に西暦1859年に布教にやってきた。以来、
1892年に離日するまでの33年間を日本で過ごした。その間、
本業の布教活動や医業だけでなく、
ローマ字による日本語表記を体系化した。それが
「ヘボン式」と呼ばれてるものである。

これは戦後の米軍占領政策の効果もあって
現在でも一般的な日本語のローマ字表記だが、
そもそも"五十音"の各段・各行の発音自体が
"混合"されたものであるうえに、日本語の発音が
かならずしも文字づらどおりでないことも併せて、
現状に則さない事案が多いので、たとえば、
「りさ」なんていう外人名由来の女子の場合は
RisaとするよりもLisaのほうが現実的であるし、また、
MatsudaとするよりもMazdaというように
ドイツ語の発音を借用したような表記のほうが
"カッコいい"という認識でそのようにする場合もある。
ともあれ、やはり、
道路標識にヘボン式が使われてることもあって、
慣れ親しんでる表記法ではある。
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「琳派誕生400年? そうだ、京都、行こう/光悦村誕生から400年」

2015年03月08日 14時44分45秒 | 歴史ーランド・邪図
映画"The Sound of Music"が米国で封切られて50年の
先週、得意の日帰り京都旅行をしてきた。今年は、
「舟橋蒔絵硯箱」
(川崎市川崎区観音ではなく台東区上野公園の東京国立博物館に所蔵されてる)
で知られる本阿弥光悦が家康から
鷹峯に土地を賜って
(茶の師古田織部が大阪の陣において
豊臣へのスパイ行為をしてたかどで切腹させられたことの連座で
京の中心地から追放された、とも)から400年の年にあたる。
そこには多種多様ないわゆる芸術家や職人が集まり、
一大文化村になったとされる。少なくとも、
光悦のもとには自らが見いだした俵屋宗達や
光琳の祖父尾形宗伯などが馳せ参じ、
金銀箔を用いる独自の美術様式を形成した。これをもって今年を
「琳派誕生400年」
とする運動があるようである。ともあれ、
光悦に関わりのある(菩提寺でもある)本法寺でも、
特別公開が行われたのでこの機に出かけてきた。

まず、
光悦村における光悦の屋敷の跡であるとされる
「光悦寺」には十数年ぶりに再訪した。
光悦垣の妙を久しぶりに目の当たりにした。

ついでにすぐ近所の源光庵にも立ち寄ってきた。

本法寺へのルート途中にあたる大徳寺にも寄り道して、
今回は非公開塔頭なので立花宗茂関連のものは観れないながら
寺中にある泉仙大慈院店でランチ懐石を摂った。

本法寺では
熱心な法華教徒だった光悦が
「日」という造詣の石と
「蓮」の池を配置して「日蓮」へのオマージュとして
作庭したとされてる「巴の庭」や、
「花唐草螺鈿経箱」などを観た。

それから、
近くの妙顕寺にも足を伸ばして
孟宗竹林の庭を観てきた。

帰りの新幹線まで少し時間があまったので、
虎屋菓寮京都一条店に寄って
葛切りを食してきた。

♪ラ<ミ>レ│ラ<シ>ソ│ソ<レ>ド│>ファーー│
>ミ<ファ<ソ│<ラ<シ<ド│<レ<♯レ<ミ│<ファーー♪
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