チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「シュザンヌ・ヴァラドン生誕150年/ゆとり教育とユトリロ教育」

2015年09月23日 20時01分22秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる
今日は、女流画家
Suzanne Valadon(スュザンヌ・ヴァラドン、本名:Marie、愛称:Biqui、1865-1938)の
生誕150年の日にあたる。画家、
Maurice Utrillo(モリス・ウトリージョ、いわゆるユトリロ、1883-1955)の母でもある。
スュザンヌはいわゆる下層階級出で、父も不詳である。そして、
自身18歳のときに産んだモリスの父も同様に誰だかわかってない。モリス7歳のときに
カタルーニャ人ジャーナリスト・画家のミゲル・ウトリッリョ(ウトリージョ)・イ・モルリウスが父として認知したが、
もちろん実父でないのを承知のうえでのことである。
画家のモデル業もしてたので、男関係も多彩だった。
ルノワール、ロートレック、ドガなどの画家をはじめ(著名な絵でモデルをつとめてる)、
音楽家サティとも関係を持った。そうした環境や血筋で、
息子のユトリロは世間との関係を持てない人格となった。
そんな息子へのヴァラドンの"教育"はデッサンというよりはズサンだった。
幼い子供の精神不安定さを抑えるために酒を与えた。そうして、
ユトリロはアル中となる。そして、ある意味、放任主義だった。
母親からの愛情を欠いたユトリロは、アル中を克服するために
"自ら"絵を描くようになった。とはいえ、
外に出て描くなんてことはアスペルベルガーのユトリロにできるはずもなく、
パリの街の絵葉書を写生することだった。普通だったら、
(なんて幼稚な……)
と捨て置くような話である。が、
私生児で無教養な育ちから曲がりなりにもフランス国家がに
「お買い上げ」されるような画家となった母の才能が遺伝した。
ユトリロが絵葉書を下敷きにして描いたモンマルトルの風景は、
実際のモンアルトルよりもモンマルトルのイメージを人々に伝え、訴えた。いっぽう、
母ヴァラドンの画風はセザンヌやゴーギャン、ピカソの青の時代やバラ色の時代、
といった感じで、しょせん亜流の域は出てない。
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「国立西洋美術館とレーニのルクレツィア/ル・コルビュジエ没後50年」

2015年08月29日 20時50分11秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる
おととい、8月27日は、スイス生まれのフランスの建築家、
Le Corbusier(ル・コルビュズィエ、
本名=Charles-Edouard Jeanneret-Gris、シャルル=エドゥワル・ジャネレ=グリ)の
没後50年の日だった。
コルビュズィエというのはペンネイムで、母方の祖父
Lecorbesierの名からつけたとのことである。ともあれ、
日本でも、1959年に開館した上野の
国立西洋美術館の基本設計を手がけてる。
同美術館所蔵品は松方コレクションを軸にしたものであるが、
フランス政府に押収されてしまったもの以外しかないので、
その作品レヴェルは低いといわざるをえない。そんな中で、
2002年に購入した新しい所蔵である
Guido Reni(グイド・レーニ、1575-1642)の
Lucrezia(ルクレッツィア、1636-38制作)は価値がある。
レーニはルクレッツィアものを数点描いてるが、
私は国立西洋美術館のこのレーニ晩年の作品が好きである。
人妻でありローマ王の倅に犯されたことを恥辱として
自死する直前を描いたもので、右手に短剣を持っている。
この事件がきっかけでローマは共和制になったとされるが、
後生、キリスト教国となったローマでは、
自殺という禁忌に触れた女性としてネガティヴな存在ともみなされたという。
いずれにしても、
このレーニが描いた表情は、恨めしいというよりは
なかなかに艶めかしい。
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「宗教画『落穂拾い(Des glaneuses)』の作為/ジャン・フランソワ・ミレー生誕200年」

2014年10月04日 20時49分45秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

ミレー 落ち穂拾い


今日は、フランス・バルビゾン派の画家
Jean-Francois Millet(ジョン・フランスワ・ミレ、1814-1875)
が生まれて200年の日にあたる。
ミレーといえば「晩鐘」「種蒔く人」「落ち穂拾い」
の3点が有名である。すべて"農民"を題材に採った
"宗教画"である。だから、
牧師の不肖の倅だったゴッホは大いに影響を受けた。また、
ダリは神父の倅でもなく貧しい家の出でもないが(むしろ裕福)、
幼くして死んだ兄と同じ名(サルバドール)を付けられた。
そのことがゴッホ(フィンセント)とまったく一緒だったことから
ゴッホがとらわれたミレーに執着することとなった。

"Des glaneuses(レ・グラヌズ=(邦題)落ち穂拾い)"(1857)は、
そのミレーの"三大農民宗教画"の中でももっとも有名な絵である。
遠景では馬に乗った地主農らしき人物が雇用農らに
刈り入れた穂を積む指図をしてる。そのいっぽうで、
近景には「3人」のみすぼらしい女性がその遠景の労働者らが
取りこぼしてった穂を拾ってる、という図である。
仕事がノロい懲罰として居残りでまだ拾わされてる、というわけではない。

その帽子が「青」「赤」「黄」という「3色」であることから、
「神」と「子」と「精霊」の「三位一体」を示してると推察できる。
キリスト教の「3」をことさら強調してるのである。
(cf;「3というキリスト教の奇妙な数字とLady Gaga」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/e44e23858aa6a9171b903731bfe6440f )

実際、
この絵は「旧約聖書」の「ルツ記」の説話を譬えてるのである。
<刈り入れで取りこぼした麦は、
寡婦・孤児・被差別民などが拾うようにさせよ>
などという内容である。キリスト教はそうした教義を引き継ぎ、
恵まれた者らに"施しの精神"を育ませた。
ご立派である。……が、
他の小作農や雇用者なみの労働力がない彼らを
その労働力に見合った職や報酬で雇ってやることはしない。
恵みを施すのはこの"取りこぼしの目こぼし"だけであり、
日常的に扶助してやってるわけではない。
きわめて偽善的な行為である。

日本人籍でないために働けないので、
(装った)事故で働けないので、
生活保護を申請する者らに税金で養う日本人のほうが
よほど立派である。
インフラを敷いてやり、文字を読めるようにしてやり、
農作業を教えてやっても、それに恩義を感じるどころか、
恨み妬み日本人を猿と蔑む民もいる。

ミレーは若い頃、生活のために裸婦画を描いてたことを
恥じてたらしい。
ジャン・ジャック・ルソーは洋梨が大好物だったのに
その形状が女性器に似てることから
見栄で自分で買うことを躊躇ったという。
こうした"社会主義的思想"の人物に多くみられる
虚勢張りの典型である。

絵で気になることがある。
この恵まれない3女性は地面に落ちてる穂を、
中腰で拾ってることである。
腰にもっとも負担がかかり、
血圧が著しく上がる姿勢である。
膝から腰あたりまでの高さにあるものを拾うのでないのに、
である。
地面のものを拾うのだったら、
もっと腰を落として、
しゃがんだり、地べたに這い蹲っったほうが
楽だし効率もいいのに、である。
中腰の過酷そうな姿勢のほうが絵的にはいいと判じたから
そう描いたのだろうか。いずれにしても、
そこに虚飾やわざとらしさを感じてしまう絵である。
とはいえ、
故ホイットニ・ヒューストンの声と
ワン・ダイレクションのヴォウカル・サウンドの区別がつなかい
拙耳なる私の感想にすぎないが。
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「エドゥアール・マネの右手の第二法則『笛を吹く少年(Le Joueur de fifre)』はどの音を吹いてたのか?」

2014年08月10日 20時26分15秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

マネ 笛を吹く少年


7月から10月まで、
六本木7丁目の国立新美術館で、
「オルセー美術館展(サブタイトル=印象派の誕生 描くことの自由)」
が開催されてる。また「印象派」なのだが、
さすがに客も飽きると察したのか、
"印象派の誕生"として、
"非印象派"であるエドゥアル・マネをフィーチャーした催しとしてる。
モネのような大衆受けネライの安っぽい絵とは違い、
「絵は醜い現実やリアルタイムを描いたっていいじゃないか。
絵画は所詮二次元世界なんだから、対象物を
三次元に見えないように描いたっていいじゃないか。
ど根性ガエルは平面ガエルでいいじゃないか!。芸術は爆発だっ!」
と言ったとかいわなかったとかいうマネの
"革新性"と法務省キャリアの倅で裕福なその"マネー"のもとに群がってきたのが、
のちに「印象派」として成り上がる貧乏画家らだった。

ともあれ、今回の「オルセー美術館展」の目玉が、
Edouard Manet(エドゥアル・マネ、1832-1883)の
「笛を吹く少年(Le Joueur de fifre)」(1866年)
なのである。この油彩画は
縦160cm 横98cmと、そこそこ大きいものである。つまり、
少年の実物大に近いものなのではないかと思われる。

前年、サロンに(審査員らのさまざまな思惑の中で)入選した「オランピア」が
またしても物議の的となって騒動のパリから逃れてスペインに旅立ったマネは、
マドリードでベラスケスの「道化師パブロ・デ・バリャドリードの肖像」の
無背景に浮かぶ像のすばらしさに感嘆した。それは、
当時パリでブレイク中だった日本の浮世絵の人物画の
大判絵の背景が人物をより浮き立たせる効果をマネに
納得させるものだったのである。それがマネに創作意欲をかきたたせた。
帰国したマネはさっそくこの「笛を吹く少年」を描いたのである。

絵の少年のモデルは第二帝政近衛軍鼓笛部隊の鼓笛兵だという。
顔だけはマネの子とされてるレオンだとされてる。それはともあれ、
この絵に関して、モデルの少年が何を吹いてたか、
という話題はいままで一切聞いたことがない。
実際の鼓笛兵だとしたら、本当に何かしらの曲を吹けてたはずである。
絵の少年は、
♪ふえを、ふ~いて、あ~るこ~お~♪
とは吹いてないだろうが、
"Le Joueur de fifre"(ル・ジュウェル・ドゥ・フィフル)
というフランス語のタイトルでもわかるように、
この少年が吹いてる横笛は
fifre(フィフル)である。英語では
fife(ファイフ)という。

fife(ファイフ)という語は
pipe(パイプ)と同源である。小鳥や人間の赤ちゃんの
ピー・ピー・ピーヒャララという囀りや泣きの擬声である。ともあれ、
(少なくともこの絵で描かれてる)ファイフはプリミティヴな横笛である。
キーなどなく、運指は日本の小学校の音楽で用いられる
縦笛と同じである。したがって、
絵では左手の人差し指・中指・薬指の3ホウルと、
右手の人差し指・薬指のホウルが閉じられていて、
右手の中指だけが開けられてる。
左手の人差し指・中指・薬指と右手の人差し指のホウルが閉じられてると、
全開音の5度下=全閉音の4度上
(ハ調の音階だとすると上のドの5度下=下のドの4度上)、つまり、
ファの音になる。これは、
我が愛器のピッコロでも確認したが、
右手の薬指のホウルを押さえてても同じである。

したがって、
この少年が持つファイフがトラヴェルソやピッコロと同じく移調でないD管だったら
ファである。
少年が手にしてるファイフが何管だかは、ヒトの耳の縦長が
成人男性で6.5cm、同女性で6.0cmであることから推測すると、
この少年の耳の縦長を6.0cmと見做して、
管長は約35cmである。するとやはり、
トラヴェルソやピッコロと同じく移調でないD管ではないかと思われる。
すると、
この少年が吹いていた音は、
二点もしくは三点ト(英語でG4)…………だが、
この少年の口もと、唇を見れば一目瞭然…………
口をあててるだけで吹いてない、のである。したがって、
この少年が吹いてた音楽は、ジョン・ケイジ籠の中の鳥のさえずり、
4分33秒、なのである。

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「写楽第二期作品の舞台『二本松陸奥生長』(寛政6年7月河原崎座)」

2014年08月04日 16時59分49秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

写楽 二本松陸奥生長


一般に知られてるように、
写楽の作品とされてるものは、その発表時期にしたがって
全4期に分類することができる(版元はすべて蔦重)。まず、
寛政6年5月(西暦およそ1794年6月)に、すべて
歌舞伎役者の大首絵(黒雲母擂)の大判28枚で出された。
俗に第1期と呼ばれるものである。そして、
同年7、8月(西暦およそ1796年8、9月)に、
楽屋頭口上絵1枚、二人立ちの役者絵7枚、役者細絵30枚、
計38枚(すべて全身)が出された。これが一般に
第2期とされてる。
第3、4期はさておき、この第2期のものもじつは、
第1期のものとは別人が描いたという説がある。
私はその説に肯定的な立場である(理由はまた別の機会に)。
いずれにしても、
写楽が活動したとされる寛政6年春から翌年冬にかけての
10か月間は、松平定信が老中・将軍補佐を事実上罷免された
翌年からのことである。また、相撲では
雷電爲右エ門が優勝を重ねてた時期でもある。国外追放で離日後に
ライデンに住むことになるシーボルトが生まれる前々年のことである。
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