チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「萌え出づる春になりにけるかも(天智天皇第七皇子御歌)/菟田のかがり火(12」)」

2014年04月16日 17時08分21秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す

石走る 垂水の上の 早蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも 志貴皇子


昨夜は月食だった。北海道から関東あたりまででは
満月なのに欠けた状態で月が昇る
"月出帯食(げつしゅつたいしょく)"
が見られたらしい。

反乱軍大海人皇子(→天武天皇)が兄天智天皇の子大友皇子を破った
壬申の乱(西暦およそ672年)以降、
孝謙天皇=称徳天皇崩御の
西暦およそ770年までの約1世紀の間、
皇位は9代8人の天武系が独占した。
(ただし、持統帝自身とその妹で天武帝との子草壁皇子妃でもある
元明帝は天智帝の娘ではあるが)
天智天皇の娘であり天武天皇の后だった
持統天皇の希望どおり、その愛息草壁皇子の孫である
聖武天皇までは「男系」を繋げることができた。
聖武天皇は藤原氏によって政治も血筋も簒奪され、
天武系の"長男筋"にあたる(高市皇子の子)長屋王が
陥れられるのも目の当たりにしてきた。そして、
大仏を建立しようが国分寺を設けようが、ついに
聖武天皇は男子の跡継ぎは授からなかった。

天武系最後の天皇である女帝称徳天皇が崩御したとき、
後継者は未定のままだった。持統天皇の意思によって、
他の天武系有力皇子たちを陥れて死罪にしてきたことで、
天武系全体が男系枯渇という事態に陥ってしまったのである。
さらには、臣たちの中の「天智系復古」を望む空気も
大きくはたらいた。その結果、
皇位継承事案についてまったく蚊帳の外に置かれてた
天智天皇の第七皇子である
志貴皇子(生年不詳-西暦およそ716)のそのまた第六皇子である
白壁王(西暦およそ709-同782)を擁立する動きが
急速となったのである。そして、
62歳の白壁王は即位して天皇となったのである(光仁天皇)。
じつに100年ぶりの復古だった。志貴皇子と白壁王は、
"形勢不利なときは相手の自滅を辛抱強く待つ"
という、それしか選択肢のない戦略を守り、
うまく立ち回ったのだった。

[万葉集 巻8-1418](春雜歌 志貴皇子懽御歌一首)
[石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨]
(はるのざふか しきのみこのよろこびのみうたいっしゅ)
(石走る 垂水の上の 早蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも)
(いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも)

「石走る(いはばしる)」は「垂水(=滝のこと)」にかかる「枕詞」。
後世、「石激」を「いはそそぐ」と訓じるむきもある。
私見ではこの万葉仮名遣いでは、
「いはたぎる」である。

「(拙大意)冬は雪で覆われてて見えなかったが……
積雪の下にはこのような生命の息吹が息をひそめてたのだ……
一面の雪が溶け出し、岩場を激しく流れ落ちる滝となってる。
その岩場の上には風雪に耐えた蕨が芽を吹き膨みはじめてる。
長い冬が終わってそんな暖かい春になったことなのだなあ」

まるで、数十年後の我が子の天皇即位を予言したかのような歌である。
光仁天皇は天武系の后とその間に生まれた皇子を廃し、
のちの桓武天皇を皇太子に立てた。
こうして天武系の血脈は完全に閉ざされたのである。ちなみに、
今上陛下も当然ながら天智系である。さらに桓武天皇は、
天智天皇の都だった近江京により近い長岡、そして京都へと都を遷し、
天武系の都だった奈良の地を捨て、離れたのである。つまり、
桓武天皇をもって「奈良時代」は終焉をとげたのだった。

[東野炎 立所見而 反見為者 月西渡]
この柿本人麻呂の歌は、
持統6年(およそ西暦692年)11月17日午前5時50分、
菟田(ウダ)の阿騎野(アキノ)(現在の奈良県宇陀市)での
軽皇子(天武天皇と持統天皇の愛息草壁皇子の嫡男、のちの文武天皇)の
狩の陣での光景を詠ったもの、とされてる。
15夜から2、3日後の月で、右側がやや欠けてる。
夜になって東の空に出て、未明にもっとも高くなり、
日の出前に西の空に移動(=月西渡)して午前中に沈む、
ように見える。

……かへりみすれば 月かたぶきぬ……

志貴皇子は子の白壁王(→光仁天皇)が天皇に即位したことで、
「春日宮天皇」と追尊された。
春になりにけるかも、である。その春日宮御陵が
田原にあることから「田原天皇」とも称される。そして、
光仁天皇は当初、現在の奈良市広岡町に葬られたのだが、
志貴皇子の御陵「田原西陵」に近い「田原東陵」に
桓武天皇が改葬された。その「田原東陵」は、
現在の奈良市「日笠」町にあるのである。
"Higasa"である。
"Higasi no no ni kagirohi no tatu mihete"である。
光仁天皇の先帝、女帝称徳天皇のとき、
皇位が銅鏡によって簒奪されそうになった。
それを救ったのが和気清麻呂である。その縁の地、
備前国和気(現在の岡山県)には「日笠」という村があったのである。
光仁天皇以降、今上陛下にいたるまで、1250年以上、
天智系が皇統をおつなぎになってるのである。
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「またや見む。交野の御野の、桜狩り。花の雪散る、春の曙/藤原俊成生誕900年」

2014年04月04日 16時13分50秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す

またや見む 交野の御野の 桜狩り 花の雪散る 春の曙 藤原俊成生誕900年


今日、2014年4月4日は、明治期の小説家・翻訳家、
二葉亭四迷(ふたばてい・しめい、本名=長谷川辰之助、西暦およそ1864-1909)の
生誕150年にあたる日である。同人は
尾張徳川家家臣の家に生まれた。その墓は、
駒込の(というより北島康介を輩出したスウィミング・センターが隣である巣鴨の)
都立染井霊園にある。現在のJR駒込駅前の
六義園(大和郡山藩柳沢家下屋敷)から西方面に続く通りは、
ExileのATSUSHIや競泳の北島康介が出た本郷高校となってるあたり一帯に
津藩藤堂家の下屋敷があり、その向かい側には大名屋敷の庭園の手入れをする
植木屋が住んでた。だから、私がガキの頃は山手線の駒込駅といえばツツジ、
というほど植木どころとして知られてた。ともあれ、
そうした植木職人が江戸時代後期に交配して作り出したのが
ソメイヨシノである。ちなみに、
この染井霊園のすぐ近くには、今から100年ちょっと前に
現在の文京区から移転してきた本妙寺という寺がある。
そこには講談の作り話の"遠山桜"でおなじみの
遠山の金さんの墓もある。武家の遠山氏は
藤原氏の支流である。

今年は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の公家歌人、
藤原俊成(ふぢはら・の・としなり、養子先では顕広(あきひろ)、
法名は釈阿(しゃくあ)、西暦およそ1114-同1204)
の生誕900年にあたる年である。俊成は
和歌を詠むにあたっては有心とか幽玄とかいった趣を信条としてた。
それらの意味は、
無限大マークとメビウスの帯とアラビア数字の8との違いを判別できない
拙脳なる私には解らないので省略する。ともあれ、
俊成の歌で好きなもののひとつが、

[またや見む。交野の御野の、桜狩り。花の雪散る、春の曙]

である。数え91歳という長寿をまっとうした俊成が死の9年前、
数え82歳のときの2月(現行暦3月下旬)に鎌倉幕府支持者の
九条良経の邸宅で開かれた歌会で詠んだ歌である。その5年前の歌、
[またもなほ、人に見せばや。御狩する、交野の原の、雪の朝を]
を転用したものということである。
冬の朝の雪の中での鷹狩(鷹を狩るわけではない。鷹を使って
ウサギやキジのような食用鳥を獲物にした)に対して、
春の夜明け中での桜鑑賞すずろ歩き、という対比を行ってる。
「(拙大意)この老い先短い私めは
再び見ることがあるだろうか、いや、おそらくないだろう。
「かたの」という名にし負う、訪れることも「難い」
交野の御料地での花見のこの世のものとも思えないほどの光景を。
桜の花びらがまるで雪が舞うように宙を漂って散っていってる、
はかないながらも深い感慨を禁じ得ない光景が、
春の早朝の時々刻々とほのかに夜が明けていく背景とのバランスが
微妙に移り変わっていく幻想的な時間であることよ」

当時の歌は現実を詠むことよりも、
故事を引用して極上の風情を頭の中で描き、
現実以上の美を創造することに重きがおかれてた。
上記の「有心」や「幽玄」といった境地ともいえる。後世、
世阿弥の能に多大な影響を与えた世界観である。
この歌も、「伊勢物語第82段」の在原業平たちの
交野での桜鑑賞に故事つけたものとされてる。

(この俊成の歌の世界を頭の中で思い描きながら、
オーケストラと女声合唱のための幻想曲もどきを作ってみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/cherry-petals-are-fluttering )
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「俊成を巡るタダノリの旅(昔ながらの山桜かな)」

2014年03月21日 19時29分18秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
MLB(大リーグ)で唯一の死亡事故の被害者は
Ray Chapman(レイ・チャップマン、1891-1920)だが、
MLB最速の投球で知られるレッズの左腕
Aroldis Chapman(アロルディス・チャップマン、1988-)は、
20日に行われたロイアルズとのエクサビション・ゲイムで
打球を顔面に受けて左目上と鼻を骨折したらしい。

ところで、
「平家物語」の巻、[薩摩守忠度はいづくよりや帰られたりけん]
に始まる「忠度都落」で、
平忠度(たいら・の・ただのり、西暦およそ1144-同1184、清盛の末弟)は
歌の師である藤原俊成邸を訪ねる。
勅撰和歌集が編まれるはずが、今般の京都での騒ぎのせいで
その撰が延期になってしまいました。が、この騒ぎが鎮まれば、つまり、
私ども平家が滅びればまた勅撰の命が下されると思いますので、
私が生きた証のためにも1首でも撰ばれたいと望んでます。そこで、
拙歌を貴殿に預けますので、よしなに願えれば幸甚です。
撰ばれたあかつきには、遠いところ(死後の世界)からの
貴殿のお守りとなりもうしあげます。
と言って、鎧の引き合わせに挟んでた自作歌が書かれた巻物を取り出して、
俊成に託したのだった。

結局、忠度は一ノ谷で討たれた。
形勢不利な忠度一行は源氏方に紛れようとした。が、
源氏方の将がしてない「お歯黒」をしてたことで平家の公達だとバレて
岡部忠澄(または忠純)と組み合いになった。
岡部の郎党に右腕を断ち落とされたところで観念し、
往生際よく西に向かって坐して念仏を唱えながら首を討たせた。が、
当初は味方と偽ったために名乗りをあげてなかったので
その身分が高そうな将が誰だか判らなかった。
箙に結び付けられた文に記されてた和歌から
その首が名高い忠度だったことが判り、
太刀で刺して高々と掲げた。大声で、
「昨今、この日本の国で鬼神と畏れられた薩摩守殿を、
武蔵国の猪俣党であるこの岡部六弥太忠純が討ち申しあげたところだぞーっ!」
と岡部が勝ち名乗りをあげたところ、
その場に居合わせた者は敵も味方もみな、
「ああ、お気の毒なことだ。武芸にも和歌にも優れた
ご立派な大将であらせられたかたを」と言って
皆、鎧の袖を涙で濡らしたことだった。
という平家物語の涙を誘うエピソードでも知られる。

勅撰和歌集である「千載集」の撰者に任じられた俊成は、
預かった歌の中から1首を採った。

[さざなみや。志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな]
「(拙大意)琵琶湖のさざ波が立つ志賀の大津はかつて
天智天皇の近江京があったところである。その都の跡は
その面影もなくすっかり荒れ果ててしまってることであるのに、
三井寺の長等山(ナガラやま)に咲く桜の花は、まるで
昔ナガラの花が温情こもったかのように
そのままあたたかく咲き誇ってるように映ることであるよ」

これは寂念(藤原為業)が仁安元年(西暦およそ1166年)に開いた
歌合のときに詠まれた。忠度23歳の若き日の歌である。
福原遷都構想や平家没落はその15年ほどのちのことながら、
一族の運命を予感させるかのような歌である。

この歌が忠度のものであることは誰もが知ってた。が、
忠度は"朝敵"平家一門なので、表だっては憚られる。
この歌を"詠み人知らず"の歌という方便で
三井寺(みいでら)というよりは三位(さんみ)の俊成は撰んだ。また、
皆もその俊成の粋に敬意を払ってことなく済ませたのである。

済んだといえば、
受験の季節もそろそろ終わったようなので、今週、
得意の京都一泊プチ旅行にいってきた。
今年は千載には一世紀分足りないが
俊成の生誕900年にあたる年なので、
その関連地を中心に巡った。一日めはまず、
京都に着いてすぐ戻る形で大津に立ち寄った。
定宿ではなく、俊成宅があったといわれてる
烏丸通りから一歩裏に入った跡地に2年少し前に建てられた
格安価格ホテルに泊まってみた。1階には、
名古屋の米屋から全国チェイン展開するコーヒー・ショップにのしあがった
コメダ珈琲店が入ってて、モーニング・サーヴィスなど
ルーム・サーヴィスもどきもしてくれる。それはともあれ、
いつもの宿とは何からなにまで勝手が違ってたが
こういうのもまたけっこう悪くないなと思った。
二日めは東福寺近くにある俊成の墓に詣でた。ついでに、
近隣の東福寺とその塔頭や泉涌寺などにも寄ってきた。
帰りも夕方の新幹線だったが、もちろん、
薩摩守を決め込んだりはしてない(無賃乗車はしてない)。
きっちりとJR東海に引き落とされてる。
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「やすみこえたり……藤原氏と采女/中臣(藤原)鎌足生誕1400年」

2014年03月16日 18時52分15秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
今年は、
中大兄皇子(天智天皇)の側近だった
中臣鎌足(なかとみ・の・かまたり、西暦およそ614-同669)の
生誕1400年にあたる年である。死の前日、
天智帝から「藤原」姓を賜った。中臣氏は、
大和朝廷において、忌部氏とともに
神事祭祀を司る家柄だった。が、
鎌足には政治の中枢に入り込みたいという
野心があった。そこで、
"つかえる"皇子として選んだのは、
年上の軽皇子(のちの孝徳天皇)と
年下の中大兄皇子だった。後者とは、
皇子がポロにいそしんでるときに、
脱げた靴を拾ったことでお近づきになった、
という咄が残ってる。

鎌足はその和歌が2首、万葉集に残ってる。ともに、
天智天皇から賜った女性に関するものである。

[万葉集巻2-0093 内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首]
[玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳]
(たまくしげ おほふをやすみ あけていなば きみがなはあれど わがなしをしも)
(玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 我が名し惜しも)
「(拙大意)容器の中を隠せる蓋がある櫛化粧箱のように、
私たち二人の中を隠すのは簡単だとお思いになって、
その蓋を開けるように夜が明けてからお帰りになるので、
あなたさまのお噂は当然に立ちますけれど、
私の評判まで落ちてしまうのはイヤですったら」
(たまくしげ=枕詞。
櫛などを入れる化粧箱に蓋が附いてることから「ふた」「おほふ」に、
中身(実)があることから「三諸(みもろ)(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、
箱であることから「箱」に、かかる。
「形容詞語幹+み」=~だと思って。
名=評判。噂。
この「鏡王女」は中大兄皇子から下賜された鎌足の正妻で、
額田王の姉とされてる女性である。ただし、
額田王本人であるという説も有力である。

この歌への鎌足の返歌が、

[万葉集巻2-0094 内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首]
[玉匣 将見圓山乃(玉匣 三室戸山乃) 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自]
(たまくしげ みむろのやまの(たまくしげ みむろとやまの) さなかづら さねずはつひに ありかつましじ)
「(拙大意)三室山のサネカヅラが蔦が絡まるようには、
最後まで共寝せずにいるなんて、絶対にありませんよ」

である。次の一首はさらに有名である。

[万葉集巻2-0095 内大臣藤原卿娶采女安見兒時作歌一首]
[吾者毛也 安見兒得有 皆人乃 得難尓為云 安見兒衣多利]
(あはもや。やすみこえたり。みなひとの えかてにすとふ やすみこえたり)
「(拙大意)私だよ、私なんだよ。安見児を自分のものにしたことだよ。
皆がみんな、手に入れることはめったにないことだと言っている、
その安見児を自分のものにしたことだよ」
(初句は字足らずとされてる。
安見児=采女は凶器を隠すことができないような小児のような髪型をしてるが、
その采女の中でも当時もっとも可愛いといわれてたらしい女性とされる。また、
#93の鏡王女と同一人物(つまりは額田王)という説もある)

他にも歌は詠んでただろうに、この撰びかたは、いかにも鎌足が
天智天皇への取り入りだけで出世したとでもいいたげである。
鎌足の次男で藤原摂関政治の基を築いた
不比等(西暦およそ659-同720)は、
一説には"鏡王女"の子といわれてる。さは
そのタネは天智天皇だという説もある。ともあれ、
公には車持(くらもち)氏の娘が母親とされてる。
車持氏は毛の国(のちには上野・下野)の豪族だったので、
この女性が「采女」だったことは充分に考えられる。
現在の「倉持」という名字は、
中原氏と藤原氏が合体した下野豪族宇都宮氏の流れである。
アートネイチャーでも知られる元プロ野球投手倉持明が
その倉持氏かどうかは、
ホラン千秋女史とオードリー若林の顔を瞬時には判別できない
拙脳なる私には知る由もないが、その娘で
AKBの倉持明日香女史は
尻餅アスか
と改名したほうがいいと思われるほどの
エロ尻タレントである。
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「雲ゐにまがふ沖つ白波/藤原忠通没後850年」

2014年03月13日 16時51分25秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
今日は、
あのウェリントン公爵がカトリックへの対応をしくじって選挙に敗れたあとを受けて
1830年乃至1834年に英国の首相を務めた
Charles Grey,2nd Earl Grey(チャールズ・グレイ、第2代グレイ伯爵、1764-1845)
の生誕250年にあたる日である。
紅茶のアール・グレイという銘柄のその名の由来が
この人物が紅茶好きだったことにこじつけた作り話でも知られる。
もっと有名なのは、キーラ・ナイトリー女史主演の映画にもなってるように、
この人物が若いときにハンサムだったので
デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナのツバメだったことである。
同夫人との不倫愛の結晶で女子が生まれたのち、
別の女性と結婚して16人の子をもうけた。

いっぽう、本日は、
平安時代末期の上級公卿で能書家でもあった、
藤原忠通(ふじはら・の・ただみち、西暦およそ1097-同1164)
の没後850年にあたる日でもある。こちらも
"子だくさん"だったのだが、正室に嫡男が生まれなかったことも、
父忠実&弟頼長との確執の一因になった。
藤氏長者の地位を弟頼長に奪われ、その頼長が
保元の乱で戦死してふたたび、藤氏長者に返り咲いた。
父忠実は死罪にせずただ幽閉した。
摂関政治の藤原氏とはいえ、父に折檻はしなかったらしい。が、
崇徳上皇は讃岐配流とされた。

その崇徳上皇が天皇位だった保延元年(西暦およそ1135年)に開いた
内裏歌合で忠通が詠み、詞華集に収録されてる歌が
定家によって百人一首(#76。百人秀歌では#79)に採られてる。ちなみに、
忠通の第11男は、「愚管抄」の作者にして、
「春のやよいの あけぼのに 四方の山辺を 見わたせば
花盛りかも 白雲の かからぬ峰こそ なかりけれ」
に始まる「越天楽今様」の作詞者の慈円(諡号=慈鎮)である。

(新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる)
[わたのはら 漕ぎ出でてみれば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波]
「(拙大意)大海原めざして舟を漕いで出てみると、沖の海は
本来は雲がいる場所である空との境(水平線)が区別できないほどで、
白波も白雲に同化してることだなあ」
(同じく「百人一首」に採られてる小野篁の
[わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ。海人の釣り舟]
を本歌とする本歌取りである。
わたのはら=「わた」は広がりのあるものを指す。ここでは海。
久かたの=枕詞。天・雨・空・月・日・昼・雲・光、また(比喩的に)都、
などにかかる。「ひさかた」とは「日ざす方」、
つまり太陽(とそれがある天や空)に関係する言葉を導く)
父&異母弟との自らの対立と、
鳥羽法皇&同母弟雅仁親王(のちの後白河法皇)との崇徳天皇の対立を、
白雲と白波に喩えたものである。

76という数字は、忠通が摂政をしてた近衛天皇の代数である。ちなみに、
第75代天皇の崇徳帝は百人一首は忠通の次の77番である。
その崇徳天皇の百人一首に採られてる歌は、
[瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ]
である。こちらも、
「われて」→「あふ」
という図式を詠ったものである。忠通の
「空と海」が「水平線でわかたれてる」→「一体となって見える」
という歌の図式と合致するのである。

定家の「百人秀歌」は、「百人一首」の#99後鳥羽院、#100順徳院という、
承久の乱で鎌倉幕府倒幕を図り失敗し、それぞれ
隠岐島、佐渡島に配流された父子天皇の歌2首が除かれてるのである。
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