チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「オペラ『スペードの女王』ラストシーン/チャイコフスキー命日」

2014年11月06日 17時03分54秒 | スペードの女王さまの黒槍責め
本日はチャイコフスキーの命日である。
音楽作品を「一曲」ごとに比べるのではなく、
ごく一部分のみで惹かれるものを挙げると、
「悲愴交響曲」の中の数か所を別にすると、
「スペードの女王」のラストシーンが私の中では
最上位にくる。
夢破れたゲルマンが自らの胸をナイフで刺してこときれ、
賭博に立ち会ってた者たちがその死を弔うパニヒーダを唱し、
幕が下がり、オケがチャイコフスキー独特の混合音色と和声で
悲しくせつなく静かに、しかし思いをたぎらせつつ
消えていくあの趣がたまらない。

(音楽作曲ソフト"Sibelius First"で作った
エンディング・スィーンの音楽を
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/tchaikovsky-pique-dame-the-queen-of-spades-the-final-scene
にアップしました)
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「チャイコフスキーのオペラ『マゼッパ』と『スペイドの女王』の開始と終いの調性」

2009年02月05日 00時55分35秒 | スペードの女王さまの黒槍責め
[Opening and ending keys in opera Mazeppa and The Queen of Spades]

「チャゲ&飛鳥」がデビュー30周年の今年、
期限なしの活動休止を発表したらしい。いっぽう、
30年来の薄毛症を患ってる私は、すでに
育毛活動が無期限の停止状態、
♪余計な、毛など、ないよね……素肌には素肌で、感じあおうよ♪
101人の女性にプロポウズしても無駄な、
「ハゲ&僅か」である。

1881年から1883年にかけて作曲されたチャイコフスキーのオペラ
「マゼッパ」の舞台はウクライナである。
「東風ュベイ吹かば、にほひをこせよ、梅花。主なしとて、春を忘るな」
日本では非業の死を遂げたものが神として祀られた例がある。
怨霊となって祟ると畏れられたからである。いっぽう、
コチュベイが処刑されるスィーンでは、金管群と
バンダという名のハケン増強人員らが、首を斬られたコチュベイの
無惨な姿を目にした妻や部下らの嘆きを表すのに、ものすごい
音量の壮烈な音楽を吹奏する。う、暗いな。ところで、
ウクライーナといっても、ロシアとの違いがわからない。
チェルノブィーリ原発事故なんて知らない世代が
すでに成人である。戦史に少しは関心があるかたには、
クリミヤ半島、セヴァストーポリ、ヤールタ、そして、マゼッパ闘争の舞台ポルタヴァ、
チャイコフスキーにちょっとは興味があるかたなら、
グラーンキノ、ハーリコフ、オデッサ、妹の嫁ぎ先のカーメンカ、
などという地名は知られてるかもしれないが、
六本木のロシアン・パブに在籍してるロシア人とウクライナ人どころか、
さらにはポーランド人やチェコ人との区別もつかない拙脳な私には、
マゼッパといっても、動詞の連用形+放し
→動詞の連用形+っぱなし→動詞の連用形+っぱ、
という音便化→短縮化したものではないので、ロシアに
混ぜっぱなし、と言「うくらいな」意味としか認識できない。
ロシアそしてソ連、そしてまたロシアに蹂躙されてきた国である。ちなみに、
マゼッパによる反ロ帝闘争の時代に同盟関係だったスウェーデン王国とは、
国旗のお色使いがオソロイである。ときに、
ロシア近代化の技術や人材はドイツ人によるところが大きく、
帝政時代のロシアの貴族や技術者・教師の多くがドイツ系である。が、
かつてモンゴル人のDNAを注がれ隷従させられた過去を持つ
白人のロシアは、そんな異国遺伝子らの筆頭である
ドイツ人が邪魔にもジャーマニーにもなるのと同様、
天然資源や穀倉地帯に恵まれたウクライナをいつまでも
服従させ、縁故(-エンコ)関係を築いときたいのである。さて、
「マゼッパ」の「イントロドゥクツィーヤ(導入曲)」は、
****♪ミ|<ラーーー・ーーー<ド・・<レーーー・ーーー<ミ|
     >ラーーー・<ラー●●・・ラーーー・ラーーー|
     >ソー>ファー・>ミーーー・・ーーーー・>レー>ドー|
     >シーーー・ーーーー・・>ラーーー・●●●●♪
という動機で始まる。「ロ短調(h moll)」である。そして、
「スペイドの女王」の「導入曲」は、
****♪ミー|>ラーーララー・ラー<シー<ドー・・<レ>ド>シ・<ミーーーー♪
という動機で始まる。「ロ短調(h moll)」である。さらにいずれも、
終拍のさらに末端のミ→強拍のラ(属音→主音)という音型である。いっぽう、
「マゼッパ」の「終曲」は、
*♪ド>シ・>ラ>ソ|<ラー・ー<シ|<ミー・>ソー|♪
というマーリヤによる静的狂乱の「子守歌」である。
「変ニ長調(Des dur)」である。ちなみに、
第4交響曲第3楽章のピッツィカート主題とは似てフィナルものである。そして、
「スペイドの女王」の「終曲」は、
****♪ソーーー|ソーーー・ーーーー・・ーーーー・ソーーー|
  <ドーーー・ーードー・・ドーーー・ーーーー♪
というギェールマンの仲間たちの男声合唱による
「鎮魂歌」、そして、オケによる
3度上って2度下がる動機からなる「愛の主題」の変型である。
「変ニ長調(Des dur)」である。この二つのオペラの
ロ短調→変ニ長調、の関係は、
「2♯」→「5♭」という遠隔な間柄なのである。
「マズェーパ」と「ピーカヴァヤ・ダーマ」はともに、
ツァーリから疎まれ、計略によって決闘死させられた
プーシキンの作品が原作である。オペラでは、
いっぽうは、マーリヤの父コチュベイが処刑され、
ラストスィーンでは深手を負ったアンドレイが息絶え、
すでに気がふれてるマーリヤが子守歌を歌う。
かたほうは、伯爵夫人が恐怖で死に、リーザが運河へ身投げし、
幕が閉じられるのは賭けに敗れたギェールマンの自決によってである。
原作の「エピロウグ」では、ギェールマンは気がふれて精神病院で
「トローイカ(3)、セミョールカ(7)、トゥース(1)」、「トローイカ、セミョールカ、ダーマ(クウィーン)」
とブツブツ言ってるのである。いずれにしても、
「マズェーパ」と「ピーカヴァヤ・ダーマ」の幕閉じの音楽は、
チャイコフスキーの数多くの傑作の中でも群を抜いてる。もちろん、
ひとつの作品としての最上の音楽は「悲愴交響曲」だが、
一部としてなら、それに匹敵するほどのものである。
こういう音楽にひきつけられる、こんな音の世界に魅了される、
このような和声に共鳴する、こうした音の高揚・鎮静に魅惑される、
というむきが、真のチャイコフスキー愛好者であると断言できる。
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「チャイコフスキー『スペイドの女王』導入曲の中の『交響曲第5番』」

2008年12月27日 23時49分01秒 | スペードの女王さまの黒槍責め
["ffff" in Prelude to "THe Queen of Spades"]

明日の阪神競馬の最終競走に、
コレデイイノダ号が出走する。同馬は、2週間前、
18頭立ての17番人気で1着という穴をあけた。
ブルガリから借りたダイア・ジュエリーを
米国の某女優がネコババした疑いがある、
という報道がされた日、のことである。
同女優には万引きの前科がある。製作・主演した
"Girl, Interrupted (邦題:17歳のカルテ)"で、
自らの境界性人格障害をネタにしたが、演技では、
助演女優賞のオスカーを手にしたアンジェリーナ・ジョリーはおろか、
クレア・デュヴァル、さらにはブリタニー・ムーフィーにまで食われ、
興行成績も惨憺たるものだった。が、それが何だ。
コレデウィノナ! である。同女優の本名は
Horowitzである。同女優は手くせが悪いが、
トスカニーニの娘婿のピアニストで手先がよく回った
ヴラヂーミルをはじめ、ユダヤ人にありふれた名である。
プラーハの南西の町ホルジョヴィツェに由来するらしい。
ルーツはボヘミアンである。さて、

流浪といえば、チャイコフスキーの母系である。
フランス(ヴェルサイユ)→ドイツ(ドレースデン)→ロシア(ペテルブルク)、
という移動をしてきた。ところで、
オペラ「スペイドの女王」の「3枚のカードの秘訣」は、
パリのサン=ジェルマン伯爵→伯爵夫人→ゲルマン
(Saint-"Germain"→Old Countess→"Gherman")
と伝えられる。
"Germain"="Gherman"=German
みな、「ドイツ人」という意味である。
「スペイドの女王」の第2幕では、
モーツァルトのスィングシュピールをパロった劇中劇と、
伯爵夫人からカードの秘密を訊き出そうとする
ゲルマンの生々しい場面が並列されてる。
劇中劇の終い、ロシアの武力の誇示を意味する
「ポロネーズ」の場には、なんと、
エカチェリーナ女帝が御臨席される、のである。
同女帝はロシア人のDNAなど一滴も入ってない生粋の
「ドイツ人」である。つまり、
オペラ「スペイドの女王」には、
「ドイツ人」に牛耳られてるロシア、という
寓意が込められてるのである。それらはともかく、

オペラ「スペイドの女王」の導入曲は、やはり、
「3つの部分」から成ってる。その1は、
「交響曲第5番」の第1楽章主部の、
「ポウランド民謡」から採った、とされてる
主主題と似てる節でできてる。
「交響曲第5番」の第2楽章の
再現部と結尾部をつなぐブリッヂを吹奏した
クラリネットとそのオクターヴ下のユニゾンのファゴット、
という混合音色である。その2は、
「3枚のカードの動機」と呼ばれてる節が
展開される。その3は、
ゲルマンとリーザの「愛の主題」である。そして、
その2とその3との「橋渡し」部分では、
「交響曲第5番」の第2楽章の
再現部と結尾部をつなぐブリッヂで使われた
「タタタ・タタタ・・ターター・ターター│ターター」という
「3連・3連・・2連・2連│2連」ストロウクのリズムが、
そっくり再起用されてるのである。もっとも、
「交響曲第5番」のほうが、そのすべてのストロウクで
[g-b-d-e]というTristan Chordが
fffで刻まれる。対して、
「スペイドの女王」の導入曲では、
[d-a-h-f]→[cis-a-h-f]→[d-a-h-f]……
[c-a-c-f]→[h-a-♯c-f]│
→[b-gis-d-f]-[b-gis-d-f]
と変化させてるのである。そして、
最後に刻まれる[b-♯g-d-f]は、
「変ホ長調」の属7であり、また、そこから、
「ニ長調」の主和音に「落とす」のである。
これが「チャイコフスキー節」というものである。
旋律そのものの魅力よりもむしろ、和声、
絶妙な調性転換にこそチャイコフスキーの真髄がある。
おもに木管群とホルンによる物悲しい混合音色の
ニ長調のmfからpに減じられる主和音の上に、
*♪【ドー<レー<ミー│
同調の属7の上に、
ミー>レ・レー・・ー】、【レ<ミー<ファー│
という倚音に始まる小節、そして、
[a-c-dis]という減7の上に被せられる
ファー>ミ・ミー・・ー】、
と、やはり倚音に始まる次の小節、
というように、哀切きわまりない
「愛の主題」が弦群によってpで奏でられる。
それはクレッシェンドしていき、再びクライマックスを迎える。
こうしてみると、「交響曲第5番」は
「スペイドの女王」と共通した意識のもとで
アウトプットされたということがわかるのである。
【】の中は、もちろんバッハの【マタイ・バッション】由来の
ベートーフェンの【悲愴ソナト】の【3度上って2度下りる】
という、チャイコフスキーの脳を支配し続けてきた動機である。
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「スペ-ドの女王#24(結びの一番)」(あがり)

2005年04月29日 20時57分48秒 | スペードの女王さまの黒槍責め

チャイコフスキー スペードの女王


クラのソロがリテヌートかつ息が漏レンドくらい弱まり(「pppp」)、
→アンダーンテ・ソステヌート、5♭。
アカペラの4声部男声合掌が、パニヒーダを厳かに執りおこなう。
「ガスポーチ(主よ)、プラスチー(許し給え)・イェムー(ヤツを)、
イ(そして)、ウパコーィ(永遠の安らぎを与え給え)・
イェヴォー(ヤツの)・ミャチェージュヌユ(悩みぬいた)・
イ(そして)・イズムーチェンヌユ(苦しみぬいた)・ドゥーシュ(魂に)」
(変ニ長)♪ソー|ソーーー・ーーソー|<ドーード・ドーーー|ーー
      ドー・ドードー|<レーー>ド・>ラー
      <ドー|<ファーー>ミ・>レーーー|ーー
      レー・ーーレー|<ミーー>ド・ドードー|
      <レーーー・ーーーー|<ミーーー・ー♪
万感迫り来る、息がつまるほど心揺さぶられる挽歌である。が、
チャイコフスキーの研ぎ澄ませれた感性の凄味は、それで終わらない。
挽歌の終わりの音と同時に幕が静かに降りてくると、
その挽歌とバトンタッチするように、
管弦がこの世のものとは思えぬ9小節の「愛の主題」の残骸を、
奏ではじめるのである。ちなみに、変ニ長の結び、といえば、
「マゼッパ」における、マリーヤの「救いのない子守歌」が参照される。
♪ド>シ>ラ>ソ|<ラーー<シ|<ミー>ソー♪
それはともかくも、この「スペードの女王」の結びは、
ファゴ、バストロ&バスチュー、トレモロのティン、とコンバスが
主音を通奏で支えつづける上で、
「ドルチッスィモ」と指定された弱音器具着け弦(コンバ以外)が、
繊細に、かつ情念を込めて、擦りだすのである。「愛の主題」の残骸は、
ヒトが決して見ることができない世界のヴァージョンにアレンジされてる。
(変ニ長)♪○【♯ファ<ソ<ラ・ラン】>ソソー|
      ○<シ<ド<レ・レン>ドドー|
      ○<レ<♭ミ<ファ・ファン>♭ミ♭ミー|
      ーー<Nミーーー<ファー|
      ○○<ソーーー<♭ラー|
      ーー>ソー>ミー>ドー|
      >ソー>ミー>ドー○○|
      >ドーーー・ーードー|
      ドーーーー(「pppp」)♪
最後の変ニ長の主和音を引き伸ばしてはいけない。が、
指揮者という連中は一様に必ず伸ばすのである。そんな愚挙が平気でできるのは、
チャイコフスキーの音楽をまったく理解してない、という証である。少なくとも、
「2分音符+8分音符の長さ」どおりに切り上げることで生じる
「はかなさ」と「余韻」の妙に対して鈍感である。ところで、
上記の階名【♯ファ<ソ<ラ】部分は、音名でいえば【ト<変イ<変ロ】である。
これは「変ホ長」の♪ミ<ファ<ソ♪とscanすることができる。
モーツァルトの「39番交響曲」の終章、
♪ミ<ファ|<ソ>ファ(>ミ>レ>ドッ○<レッ○|>ソーー♪である。
また、次のオペラ「イョラーンタ」とその同時上演の「ハシバミ割り人形」の
最初の音と最後の音を並べると、「g→as→b→b」。
これは「変ホ長」の♪ミ<ファ<ソ→ソ♪とscanすることができる。
チャイコフスキーの深層に、変ホ長の♪ミ<ファ<ソ<ソ♪が
流れてる、ということもあるかもしれない。
それらはともかくも、大バッハの「受難曲」にまでマタイで遡れる、
ベート-フェンの「悲愴ソナタ」由来の「3度上がって2度下がる」という
「365歩マーチ・コンセプト」の「愛の主題」は、
「ただそれを知るもののみ」が継承できるのである。それは、19世紀後半、
ヴァーグナーの「トリ&イゾ」の「愛の動機」
♪ラ<シン<ド|ドー>レ<【ド<レン<ミ|ミー>レー】<ミン<ファ|
 <ソ>ド<♭シー>ラン>ソ|ソ>ファン>ミ♪
を経由して「スペードの女王」に繋げられた。そして、さらには
「ハシバミ割り人形」「悲愴交響曲」へと伝えられ磨かれた、
チャイコフスキーの天分きらめくものである。ここで、
また「スペードの女王・結び」に立ち返ると、この最後の9小節への、
和声、楽器の音色づかい、アーティキュレイション、抑揚、
どれもが最良なのである。とくに、クラリネットとトランペットの
弱音での「クラリーノ音」の効果。人の死、人の生命の尊厳を、
これほど痛ましく、それでいて深い慈愛で表した音楽はない。
幽玄の世界、白銀の世界、有と無の二面あるいは境界、光速の世界、
どんな言葉も的を射ることはできない。チャイコフスキーが書いた
数多い傑出した音楽の中でも、とくに秀でたものである。
ここを聴いて胸の奥から「熱い感情」がこみ上げてこないむきは、
ヒトが備えててしかるべき情操が欠如してる可能性、
を疑ってみてもけっして無意義ではない。ときに、
世の中で大惨事が起こると、このときとばかりに「心痛む」と表する輩がある。
だが、そいつは被災したかたや被害を受けたかたに、
立場を入れ替わってやっただろうか? 全財産をはたいて義捐しただろうか?
事故や事件、犯罪をナクスような働きをなにかしただろうか?
すべて、否、である。口先だけである。口で言うだけなら、
カネがかからない。タダである。心痛めてる、といいながら、
飯も食えば糞もしてるのである。なんのことはない、通常どおり、
日常生活を送ってるのである。呆れた輩である。もとより、
ヒトビトの幸せ、世の平和を唱えるのは、天皇、ローマ法王のような
やんごとなきかたがたのお役目である。僭越である。不遜である。無礼である。
いっぽうで、石油その他の資源に無関係ゆえに報道されなければ、
そこに存在する悲惨・不幸のことはいっさい口にしないのである。
善人ヅラで近寄ってくる悪党に騙されてはつまらない。といって、
本物を見極める洞察力は鍛錬して身につけれるものでもないのが、
めぐりのよくないむきにはつらいところである。くら音において、
無意味な引用もしくは他人の作品を自作と混同してしまう程度のオツムの弱い
「似非作曲家」の「まがい物」に感動してしまうのとよく似てるのである。
アヘンを吸ってラリってても、「ワルプルギスの夜の夢」を書いた
ベルリオーズは「本物」である。ところで、天皇賞の5月1日は、
ドヴォルジャークの「命日」である。また、間寛平のギャグ、
「カイィ~ノ……ガイィ~ヌ」で知られる「作曲家」の「メイ日」でもある。
ガイィ~ヌに手を噛まれないよう、注意されたい。
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「スペ-ドの女王#24(結びの一番)」(差替え)

2005年04月28日 15時47分38秒 | スペードの女王さまの黒槍責め
→アンダーンテ・ノン・トゥロッポ
 (前のアンダーンテ・ノン・タント・マ・ソステヌートと同じテンポ)。
ゲル:(憔悴しきって)「スタルーハ(ババァ)! ティ(ジブン)!
            ティ(ジブン)・ズヂェーシ(ここにおったんか)!」
ゲルの脳には故伯爵夫人の亡霊が見えてるのである。
♪ソー<ラーーーーー、<ドー<ミーーーーー、
 オォ~レェ~~~~~、亡ォ~霊ェ~~~~~、
 チャチャチャッ、マツケン・サァ~ン婆ァ~~~~~♪
「スペードの女王」は露語では
「пиковая(ピーカヴァェ) дама(ダーマ)」あるいは
「дама пик(ピーク)」である。
仏語では「pique(ピク) dame(ダーム)」であるが、
「dame of pique」という英語にすれば、
(ご立腹のご婦人)という意味である。まぁ、そんな和製英語は「ダメ」、
かもしらんが、とにかく、ゲルマンに教えてあげないといけない。
それはともかく、クラ&ファゴが全音下降。
ゲル:「チェヴォー(なんやそない)・スミヨーシシャ(笑ろうとるんや)?
    ティ(ジブンは)・ミニャー(ワテから)・
    ス・ウマー(理性を)・スヴィラー(奪いよった)。
    プラクリャータヤ(いまいましいババァめ)!
    シュトー(なんや)?
    シュトー(なにが)・ナーダブナ(望みや)・チビャー(キサンの)。
    ジーズニ(命か)? ジーズニ(命か)・マヤー(ワテの)?
    ヴァジミー(持ってったらえぇ)・イヨー(ジーズニを指す代名詞の対格)!」
ゲルは自ら胸を刺す(ピストルでないのはなぜか? ペテルブルクの鉄火場では、
銃はフロントで預かる決まりだったのかどうかは知らないが、まかりまちがっても
即死させないためのドラマ上の方策である。自分でピストルを胸にあてて撃てば、
おそらく、即死である。でなくても、まず口はきけない。が、それでは、
ゲルマンの死ぬ前の大事な台詞が言えずじまいになってしまう。
よけいなことに労力を割くくせに、それくらいのことにも考えを及ばさず、
平気でピストルにしてる無神経な演出家も世の中にはいるから楽しい)。
ちなみに、刃物で心臓をひといきに突こうというときには、
刃が横になるような角度で刺さないと肋骨に当たって失敗する危険大らしい。
いっぽう、米国のドラマなどではチビッコギャングなんかが、
短銃を片手で握って腕を伸ばし、横にして撃ちまくる、というシーンが出てくる。
あれでは的確さを欠く、とツッコむむきがあるが、
あれはわざと撃ちにくい構えをとり、しかも、薬莢が顔に当たりやすい、
という困難をすすんで選択することで「歌舞いてる」のであって、
それを稚拙な撃ちかたと評するのはナンセンスである。それはともかく、
このゲルマンの場合、即死せず、絶命するまでにかなりの台詞を口にするので、
致命傷ではあったが、まかり間違って心臓をザックリとらえたのではないもの、
と推察される。ゴッホの短銃自殺も即死しない場所を狙ったものである。
いずれにしても、ゲルマンが自害の刃を刺すと、お役御免とばかりに、
知盛の亡霊は橋掛かりを渡って失せにけり。イヨ~~~、ポン! である。
→モデラート・モッソ・エ・アジタート、C。
一同:「ニシシャースヌィ(痛いやっちゃなぁ)!
    カーク(なんと)・ウジャースナ(おとろしぃ)・パコーンチル
    (始末をつけたもんや)・オーン(ヤツは)・ス・サボーィ(オノレに)」
〃 :「オーン(アヤツには)・ジープ(息がある)!
    ジープ(生きとる)・イシショー(まだ)!」
ゲルマンの意識がもどる。エレ公のほうを向いて立ち上がろうとする。
ゲル:「クニャース(公爵はん)! クニャース!
    プラスチー(許したってぇな)・ムニェ(ワテのことを)。
→リテヌート・モルト。
   「ムニェ(ワテ)、ボーリナ(シンドイわ)、ボーリナ、
    ウミラーユ(もう、あかん)。
→モデラート・アッサイ。
   「シュトー・エータ(誰や)? リーザ(リーザはんか)?
すると、「ヘ長」の「愛の主題」が1フル&コルアンに現れる。
   「ティ(キミは)・ズヂェーシ(ここにきてくれたんやね)?」
前場でのリーザの台詞をそのまんま返す形になってるのである。つまり、
ここでやっとゲルマンは「正気で」リーザに対話できたのである。
   「ボージェ・モーィ(なんとなんと)!
    ザチェーム(どないしたんや)? ザチェーム?
    ティ(キミは)・プラシシャーィシ
    (死に瀕しとるワテを看取りにわざわざきてくれたんやね)!
    ダー(そうなんやね)!
    ニ・クリャニョーシ(ワテを責めんといてくれるんやね)?
    ダー(そうなんやね)!
    クラサーヴィツァ(なんという麗しいヒトや)!」 
1クラが(ヘ長で)、♪ミーーー>レー>ドー|
>シー>ラー<ドー>ラー|<シーーー>ソーーー|<*♪と吹く。
   「バギーニャ(キミは女神や)!
    アーンゲル(天使や)!」
そう言い終えると、ゲルマンは息絶える。その瞬間、
(ヘ長の「ド」を変ニ長の「ミ」に置換して)
♪*ミーーー>レー>ドー|……♪
「ヘ長→変ニ長」。後幕で亡霊ウィリが暗躍する
アダン「ジゼル」の終い「変ニ長→ヘ長」の真逆である。
第三の死人は、前二人の死で使われた「嬰ヘ短」とは
「別世界」なヒトだったのである。そして、この「ヘ長→変ニ長」はまさしく、
「4番交響曲」の『カンツォネッタ』章中部、
♪(ヘ長)シ<ド>シ>ラ|ラン>♯ファ・♯ファ<ソ|<*
 *(ヘ長の「ド」を変ニ長の「ミ」に置換して)ミー>レ>ド|
 ドン>シ・シ<ド|ー>シー>ラ|ー>♭ラー>ソ♪
である。「伯爵夫人、リーザ、ゲルマン」の「死の3重唱」の中に、
成就される愛は『もはや見られない』、のである。
死は誰にもやってくる。アヴェ・マリア・シェルにも、
薬害あって一理なしの安倍英にも、死も来たざわ、なのである。ちなみに、
安倍大先生には、死の際に、「死ミョールカ、トゥローィカ、トゥース」
なる伯爵夫人の「7、3、1」という舞台の袖からの声が聞こえたであろうか。
(「あがり篇」に続く)
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