チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「もうメダルは間違いない!(五輪女子200m平泳ぎの名アナウンス2/1992年バルセロナ岩崎恭子)」

2010年11月03日 01時20分21秒 | 五輪名場面(昔ムサシのお話

オリンピック もうメダルは間違いない


1992年の夏期五輪は当時のIOC会長サマランチの地元、
スペインのバルセロナで開催された。その56年前、
1936年はベルリンだったが、その年の五輪には
バルセロナも立候補して敗れ、スペインはベルリン五輪を
ボイコットした、という因縁があった。当時、
スペインは内戦状態だった。今年亡くなったサマランチは、
内戦時は共和派だったが、終結後はフランコ派となった。
1992年頃の私はものすごい忙しさだったが、
五輪のTV中継だけはできるかぎり見てた。そして、
不振だった日本選手団の中で、興味深い競技をみつけた。
女子200m平泳ぎ予選、である。

当時の世界記録(2:25.35)保持者、米国の
Anita Nall(アニータ・ノール)嬢(1976-)は、
1着でゴールしたものの、
隣の第3コースから追い上げてきて、わずかタッチの差にまで迫った
岩崎(結婚後は斉藤)恭子嬢(1978-)のほうを振り向き見た。
(ほんとにここまで追い込んできたの!? あなたは誰なの!?)
という表情だった。もちろん、
岩崎嬢は無名である。日本のマスコミも
まったく期待してなかった。なにしろ、バルセロナで
14歳の誕生日を向かえたばかりの中学生(沼津市立第五中学)である。
代表選考会でかろうじて2番手に入って、
出場権を得てきた"子供"である。まだまだ、パエージャよりも
お子サマランチのほうが似合いそうな感じだった。ちなみに、
当時の日本の第一人者は、高校生の
粕谷恭子嬢だった。ともあれ、この追い込みが、勝った
世界記録保持者を大きく焦らせたのである。
予選レイス後のインタヴィユーで、岩崎嬢はこう答えてる。
「泳いでてぇー、
隣の人にどんどん追いついちゃうからぁー、
すごいびっくりしてぇー」
岩崎嬢は世界記録保持者の名前すら知らなかった。そして、
それがその「隣の人」だったことも。

1992年7月27日、決勝。
第5コース・岩崎嬢、第4コース・ノール嬢。
ノール嬢は予選での岩崎嬢の驚異の追い込みに脅威を覚え、
「逃げ切り」を決めこんだ。追われるのを恐れた結果、
ハイペイスになりすぎてしまったのである。
最初の50mのターンで岩崎嬢はいつものごとく
5番で折り返す。それが、
100mのターンでは3番に、150では2番にあがってきた。

実況=NHKアナウンサー島村俊治

[向こう側からリン・リも出てきた。
さあノールを捉えるか。
あと25メーターの勝負。
……(解説=高橋繁浩の"合いの手"。以下同)さあ、あと25メートル……
25メーターの勝負。
日本の岩崎にチャンスがある。
チャンスがある。
並んだ、並んだ!
アニタ・ノール、ちょっとくたびれた。ちょっと疲れた。
あと10メーター。
……上がってきました。ピッチが上がってきました……
並んだ、並んだ、並んだ!
ピッチが上がった! ピッチが上がりました。
……こっから!……
さあ、チャンスだ! さあ、チャンスだ!
もうメダルは間違いない! メダルは間違いない!
……こっから行け! こっから行け!……
さあ。さあ、どうだ!
……こっから行け! こっから行け!……
逆転した!
……こっから!……
逆転した! 逆転した! 逆転した!
……やったっ!……
勝った!
……やっ、たぁああああああ!……
岩崎恭子、金メダル!]

この中の「もうメダルは間違いない」という
島村氏の感性から出た言葉に、私は
涙があふれてしまう。メダルの色はともかく、
3着以内は確定だという万感胸に迫る感動である。ともあれ、
岩崎嬢は興奮状態のため、ゴウルしたところでキョトキョトしてた。いっぽう、
エチケットとしてロウプ越しに岩崎嬢の首を右手で抱いて祝福する
世界記録保持者ノール嬢の顔に笑みはなかった。そして、
隣の岩崎嬢に抜かれただけでなく、ノール嬢は第7コースの
林莉(Lin Li/1970-)女史にも先着されてたのである。
2:26.65。五輪記録での、しかも、
14歳と6日、という最年少金メダリストの誕生だった。
2着リン・リ(2:26.85)、3着アニータ・ノール(2:26.88)。
ノール嬢は100mでも銀メダルに終わってた。それにしても、
予選で2着の岩崎嬢を振り返り見たノール嬢の表情を
私は忘れることができない。いっぽうで、
決勝で勝った直後、
「今、どんな気持ちがしますか?」
「今まで生きてた中で、一番幸せです」
と答えた最年少チャンピオンの無邪気さが、
なおいっそうルーザー、ノール嬢の無惨さを際立たせたのである。
敗者には自身の悔いと世間からの辛辣な目が待ち受ける。

岩崎嬢の身長は優勝時157cmだったらしい。
長じてからは159cmだそうだが、新宿の伊勢丹で
偶然間近にしたときはもっと小さく見えた。
昭和53年生まれであるから、戦中戦後のように
ぬまず食わずだったこともないだろが、
当時の世界記録(2:25.35)保持者
Anita Nall(アニータ・ノール/1976-/米国)はすでに、
165cmだった。それでも小さいほうである。ちなみに、
彼女らより2世代前の前畑(兵藤)女史は160cmだったという。
ゴウル手前、水の抵抗に押されて進行方向右によれてしまったほど、
岩崎選手のたった45kgの体重は他の選手らに比して軽かった。
180cm近くもあって地区大会一にもなれないスイマーもいる。
スイマせんとしか言いようがない。その4年後、
岩崎嬢はバルセロナの前と同じく、
日本国内のナンバー2に戻ってた。そして、
アトランタでは決勝にも進めなかった(10位)。
頂点を極めた人が力衰えても精一杯挑戦する姿は、
立派である。
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「前畑、ガンバレ!(五輪女子200m平泳ぎの名アナウンス1/1936年ベルリン前畑秀子)」

2010年11月02日 00時40分58秒 | 五輪名場面(昔ムサシのお話

オリンピック 前畑、ガンバレ


かつて(1936年)、ナーツィス下のベルリンで五輪が開催されたとき、
前回1932年のLA五輪でオーストラリアの
Clare Dennis(クレア・デニス/1916-1971)女史に0.1秒も離された
銀メダルに終わった女子200m平泳ぎの日本代表、
故前畑(結婚後は兵藤)秀子女史(1914-1995)は、
今度負けたら生きて日本には帰れない、と本気で思うほど、
のしかけられたプレッシャーは大きかったようである。
18歳で出場したいわゆるロズ輪で前畑女史は
銀メダルを獲得し、意気揚々と日本に帰った。が、
当時の東京市長永田秀次郎は、次々回の
(幻の)東京五輪招致を熱烈に画策してた。それには、
女子にも金メダリストがいることが有利、というか、
必須だと考えてたのである。
「なぜ、金メダルじゃなかったんだね? 
2歳も年下に負けて君は悔しくないのか?
ベルリンでは必ず金メダルを取ってくれたまえ」
前回のアムステルダムの女子陸上800mの
人見絹枝女史に次いで、競泳では初めての、
銀メダリストとして大歓迎されると思ってた前畑女史は愕然とした。
これで家業の豆腐屋を継いで婿を取って平穏に暮らせる、
と思ってたのである。前畑女史は
銀メダリストになって初めて、自分が
"公人"であることに気づかされたのである。
それからの前畑女史は以前にまして、毎日2万m泳ぎ込んだ。
プールの中にいても自分の体から汗が出てるのが判った、
というほどハードな練習だった。

1936年8月11日、
ベルリン五輪女子200m平泳ぎ決勝。
ドイツ2人、オランダ2人、イギリス、デンマーク、日本、各1人の、
7選手のレイスである。
前回優勝者のデニス女史は諸般の事情で出場してない。
第6コース・前畑、第7コース・ゲネンガー(ドイツ/1911-1995)。
現在のNHKの河西三省(かわにし・さんせい)アナウンサーの実況である。
当初、河西アナは「前畑嬢」と実況してた。が、
残り100mのターンからは、「前畑」と呼び捨てが始まる。そして、
最後のターン(残り50m)に近づくあたりから、あの有名な
「前畑、ガンバレ」の連呼が始まる。

[前畑、ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ!
ゲネンゲルも出ております!
ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ! ガンバレ!
前畑! 前畑、リード! 前畑、リード! 前畑、リードしております!
前畑、リード!
前畑、ガンバレ! 前畑、ガンバレ! リード、リード!
あと5m、あと5m、あと5m、5m、5m!
まぁっ、前畑リード!
勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った!
前畑、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った!
前畑、勝った! 前畑、勝った! 前畑、勝った!
前畑、勝ちました! 前畑、勝ちました! 前畑、勝ちました!
前畑の優勝です! 前畑の優勝です!]

名アナウンスと言えるかどうかは、西本・浅田組パイレーツの
「だっちゅーの!」が「脱中の!」という警鐘に聞こえてしまってた
拙脳なる私には判るはずもないが、
「ガンバレ」や「勝った」を連呼してしまうほど、
当時の日本は必死で世界と戦ってたんだなと感じる。
プロのアナウンサーとしては失格な実況かもしれないが、それでも、
これほど感動する絶叫ならいいではないか。

当時の映像を見ると、コース・ロウプの暖簾をくぐって、
前畑女史がゲネンガーに握手を求めにいってるのが判る。が、
ヒトラーの前で負けたゲネンガー女史は気もそぞろな感である。
6コースに戻った前畑女史に、内側のコースの選手らが
握手を求めてくる。なにしろ、
ゲネンガー女史を除いて、他の5選手は、
はるかに突き放されてた。雲泥の実力差だったからだろう。
当時の世界記録保持者が勝つべくして勝ったのである。ちなみに、
当時の世界記録は、3年前に前畑女史が出した3:00.4だった。
前回ロース・アンジリーズでは16歳に負けた18歳の前畑女史は、
3:06.4という記録だった。それが、ベルリンでは、
自身の世界記録には遠く及びはしなかったものの、
3:03.6の五輪記録だった。さらにちなみに、
56年後のバルセロナで岩崎恭子嬢の優勝タイムは、
2:26.65(当時の五輪記録)。現在の日本記録は、
いちおう金藤理絵選手の
2:20.72。世界記録は、Annamay Pierse(アナメイ・ピアース/カナダ)の
2:20.12、である。隔世の感がある。
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「第1回近代オリンピック・マラソン優勝者スピリドン(スピロス)・ルイスの婚活走」

2009年08月22日 22時52分58秒 | 五輪名場面(昔ムサシのお話

オリンピック マラソン スピドリン(スピロス)・ルイス 婚活


ベルリンの世界陸上では、ウーセイン・ボウルトが
100mにつづいて200mでも世界新で
優勝したらしい。が、そのシューズは、pumaであって
nikeではないようである。ときに、
boltとは、偶然にも、英語ではボルト、閂、
稲妻、逃走、なんていう意味である。副詞は、
だしぬけに、なんて意味だったりする。動詞も、
ふるいにかける、っていう、
ピッタリな意味である。が、
100も200も、という点と、その
センスのない、泥臭い走りかたから、
エヴァリン・アッシュフォード女史とは対極の
故フローレンス・グリフィス=ジョイナー女史を想起してしまう。
かつて、マリオン・ジョウンズ女史を、
マスコミも織田裕二も一般の人たちも、
最大の賛辞で称えてた。が、
私は虫が好かなかった。やはり、
ランニング・フォームにセンスがなかった。すると、
のちにドウピングが発覚した。ところで、
dopingは見つからなければシロ、
という世界である。しかも、
定められてる「禁止薬物」は、7分類143種、
のみ、なのである。そこに指定されてないものなら、
当然にひっかからない。大昔、
ローマ時代に過去の戦闘で使用してた戦車……
といっても、馬車である……を
競技にした見せ物があった。それが、
Chariotである。1981年の映画
"Chariots of Fire(チャリオッツ・オヴ・ファイア)"
(邦題:炎のランナー)は、1924年のパリ五輪での
実在の英国陸上短距離選手を扱ったものである。
100mで1着したユダヤ系エイブラハムズ、その
100mが安息日の日曜にあたるので出走せず、
400mを勝ったスコットランドの宣教師リデル。私も、
安息日の日曜には仕事などせず、jra派の
教会に出向いて、賽銭を奉じ、祈りを捧げる、
という生活を送ってる。それはどうでも、
"Chariots of Fire"の音楽は、ギリシア人の
ヴァンゲリスが担当してた。
***♪●ド・<ファ<ソ<ラ│>ソー・ーー・・●
  >●ド・<ファ<ソ<ラ│>ソー・ーー・・●
  >●ド・<ファ<ソ<ラ│>ソー・ーー・・●
  >●ド・<ファ>ミ>ド│ドー・ーー・・●
  <●ド・>シ>ラ>ソ│
  <シー>ソ・<ラー>ファ・・<ソ●<ド・>シ>ラ>ソ│
  <シー・ーー・・ー●<●ド・>シ>ラ>ソ│
  <シー>ソ・<ラー>ファ・・<ソ●<ド・>シ>ラ>ソ│
  <シー>ソ・<ラー>ファ・・<ソ●>ド・<ファ>ミ>ド│
  ドー・ーー・・♪
みたいな節だったと思う。前半は、
主和音と下属和音の繰り返しだけな、
音符の読み書きができない作曲家の特性を活かした、
ミニマル音楽である。箸が持てなくても
グルメ・リポーターをやってたり、調理師免許がなくても
料理評論をするのとはわけが違う。
聴覚の問題であってシカクの問題ではないのである。
ともあれ、この、
♪ド<ファ<ソ<ラ>ソーー♪という音型は、
ヴァンゲリスがどこかで聴いた
ラフマーニナフ晩年の「交響曲第3番」の第1楽章第2主題、
***♪ソー・・<ドー・<レー│
  <ミー・>ド<レ・・<ミー、<ファ<ラ│
  >ソー・ーー・・●>ド・<ファ<ラ│>ソー♪
の♪ド<ファ<ラ>ソーー♪が海馬に保存されてて、
それが時の経過とともに「他人の作」が「自作」と
いうラベルに取り違えられて経過音を附けて
取り出されてしまった、のだと思われる。
それらはともかくも、
戦車競走の戦車を牽引する馬に、
アルコール発酵させた蜂蜜を舐めさせたのが、
ドウピングの始まり、なんだそうである。
「すべてのビズィネスはローマに通ず」……ちなみに、
焼き鳥は摂取禁止食品ではないらしい。ときに、
映画「みなしごHACHI/約束の犬」は、興行的に
意外とに健闘してるらしい。秋田犬にかぎらす、
日本犬は誰にでも尻尾を振るのではなく、
飼い主だけになつく性質なんだそうである。
チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」のモトネタが
なぜ「白鳥」を選んだか、
ということについての私見は、このブログの
「瓢湖不充分白鳥湖舞イアーリンク泡沫事件」
カテゴリーで書いた。「白鳥」は一度つがったら
一方が死ぬまで相方を替えない動物、
ということが真実であるか否かは知らないが、
「浮気しない生物」の象徴、
として一般に認識されてたのである。
夫の死以降、一切の芸能活動を停止して
公に姿を現さないちあきなおみ女史は、
「貞女は二夫に見えず」の鑑である。さて、
今日明日と、世界陸上では男子女子の
マラソンが行われる。通常は、
30km走るのが限界である。40kmなんて
普通の人には無理なのである。だから、
専門の競技者でも30kmまでは先頭集団にいても、
それ以降は下がってしまうのがほとんど、
なのである。故事のマラソンの伝令がアテナイに着いて
マラトンでの対ペルシア戦勝を伝えて死んだ、
というのもおそらくは本当の話なんだろう。で、
「マラソン」なんていうのは近代オリンピックとともに
誕生した、新たしい競技なのである。
1896年、近代五輪はアテネで開かれた。が、
地元ギリシアは陸上競技で優勝者が一人もなく、
最終日のマラソンを向かえてしまったのである。
いやがおうでもギリシア国民の期待は高まる。なにせ、
出走者17人中13人がギリシャ人なのである。つまり、
当時は40kmも走るなんていう、突拍子もないことは、
マラソンの故事を持ってるギリシャ人以外、あんまり
乗り気がしなかったのである。実際、
800mと1500mっていう中距離に優勝したオーストラリア人、
1500m三位のフランス人、という具合である。だから、
「マラソン」なんて競技は当時はまだ未知なもの、
だったのである。その道のプロ、専門家、
なんていなかったのである。
そんなのに参加するような酔狂なメンバーの中に、
まったくのドシロウトがいた。
スピリドン(スピロス)・ルイス、23歳である。ルイスは、
2回あったギリシア国内予選の2回めに出走した。
そちらのほうが出走権を取りやすい、
とふんだからだろう。初マラソンの結果は、
5着。本戦への出走資格を勝ち取った。ルイスは
アテネ近郊の村の貧しい羊飼いの倅だった。
内職に、アテネまで水を売りに出かけてた。
そんなルイスがなぜマラソンにエントリしたのか。当時、
ルイスは「身分違い」の恋愛中だった。相手の父親は
結婚を許すはずもなかった。が、国をあげての
第1回近代五輪前の盛り上がりムードのさなか、
この父親はつい調子にのって、
「オリンピクのマラソンで優勝でもしたら結婚を認める」
と言ってしまったのである。が、まぁ、
陸上競技なんてやったこともない、
貧しい牧畜農家の小倅である。間違っても
勝てるはずがない。ちょっとした余裕である。
走って勝てなかったら、反対にそれで娘のことを
諦めさせることができる。父親にとっては、
むしろ願ってもないチャンスだったのである。が、
ルイスにとってはダメモトである。そこで、
国内予選に挑んだのである。さて、
オリンピックのマラソン本戦。まず、
1500m三位のフランス人が先頭を走る。
他の選手も飛ばしぎみである。マラソンの
40kmの恐ろしさを知らない。
ルイスはマイペイスである。途中の宿屋に立ち寄り、
ワインを一杯仰ぐ。そして、宿屋の主人に訊ねる。
先頭の人たちがどれくらい先に通過したかを。
ルイスは確信した。このまま自分のペイスでいけば、
望みがみえてくることを。
32km過ぎで、先頭のフランス人が飛ばしすぎがたたって
棄権する。替わって、
オーストラリア人が先頭に立った。が、
同人は長距離など走ったこともない。
40kmのペイス配分など考えてもなかった。案の定、
バテてしまう。そして、マイペイスを守ってきたルイスに、
チャンスが舞い込んでくる。高橋尚子女史のごとく
下り坂で一気に加速すると、ついに、
先頭に立ったのである。やがて、
2004年に野口みずき女史がゴウルした
パナシナイコ競技場にルイスが駆け込んできたとき、
場内は、伝令が伝えて息絶えたという故事の言葉、
nenikekamen(ネニケカメン)=我らは勝てり、
の大合唱となった。ちなみに、この語に含まれる
nike(ニケ=英語的発音はナイキ)は「勝利」の意である。
狂喜した王太子ともうひとりの王子は
トラックに入って伴走し、ルイスとともにゴウルした。
2時間58分50秒。
たった2回めのマラソンにもかかわらず、
このタイムである。でも、
ルイスに野心はなかった。
ギリシャ王ゲオルギオス1世は、
ほしいものはなんでも与える、
と申し出た。が、ルイスは
水売りのための荷車を所望しただけだった。しかも、
婚約者(となった)イリーニがそう勧めたからである。
なんという純朴な男なことか。
王は荷車を牽くロバをつけてやったという。
これからもギリシャのために走ってくれるだろう、
という下心もあって……だから、それは
ルイス仕様のchariotといったところだろう。が、
予選会の5着を除けば、
ルイスの生涯通算マラソン成績は、1戦1勝。
なんと潔い成績なことだろう。
「愛のためだけに駆けた」のである。
命を賭して。その後、選手になることもなく、
水売りを続けた。もっとも、
めでたく結婚してのちは、もはや
有名人であり、「一般人」ではいれなかった。
警察官になったのである。これなら、
町の有力者の娘の相手として
申し分ない。が、50歳を過ぎてから、
政治的な絡みで罪をでっちあげられ
1年以上の牢獄生活も送ることになる。その
10年後にはヒトラーのベルリン五輪に招致され、
広告塔にされるが、先頭で入場する
ギリシャ選手団の中で、あの「ハイル・ヒトラー」の
右手を挙げる姿勢をとらない抗議をした。いっぽう、
アテネ五輪当時の国王は1913年に暗殺される。
王太子が王位を継いだ。
コンスタンティノス1世である。いろいろあったが、
結局、ギリシャの王政は最後は王不在のまま
数年間続くが、1973年に正式に廃止される。
その最後の王はコンスタンティノス1世の孫、
コンスタンティノス2世でまだ存命である。1960年の
ローマ五輪ヨット競技ドラゴン級の金メダリストでもある。
ルイスに伴走した当時の王太子の甥が、
英国エリザベス2世の婿エディンバラ公である。
ルイスにも子孫が残ってる。2004年の
2度めのアテネ五輪のときに、日本のTVが
取材してた。代々、長男が祖父の名を継ぐ、
という伝統がギリシャにはあるらしい。
ルイスの孫はスピリドンだった。そんな、
愛する女性と添い遂げれるDNAをもった
ルイスの対極である負け犬は私である。
小学校4年生当時、調音できなかった私は、
幼稚園のときに初めて遇って初恋に落ち、以来、
ずっと片思いしつづけてきた女性に、
TVアニメソングの節を採譜してもらった。
♪おーもーいーーい、 こーんだーあら、
 しーれんーのー、みーちーーいをーーーー、
 ゆーくがーーーー、おとーこのーーーーー、
 どーこんーーじょーーおーーーー♪
その紙切れを今でも大切に持ってる。
一徹な、当てない片思いである。が、
その子がその後どうなったか、
今どうしてるか、
いっさい知らない。
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