チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「興行的失敗映画人による映画史に残る名台詞の数々/オーソン・ウェルズ誕生100年」

2015年05月06日 18時29分42秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
今日は、米映画俳優・監督の
Orson Welles(オースン・ウェルズ、1915-1985)が生まれて
100年の日にあたる。
同人のハリウッド・デビュー作といってもいい
"Citizen Kane(スィタズン・ケイン、邦題=市民ケーン)"は、
現在では「米映画史上のベスト映画」の一、二を争う
名作とされて評価が高いが、1941年の制作公開時には、
製作費68万ドルで(全米での)興行収入が50万ドル、
という不入り映画だった。が、
"Rosebud"という一単語のセリフはこの映画の核心であり、
謎でもある、ということになってるが、いずれにしても、
名セリフではある。

ラスト・スィーンで有名な
"The Third Man(邦題=第三の男)"では、
ウェルズはハリー・ライトという仇役の俳優業だけだったが、ここでも、
グレアム・グリーンの原作にも台本にもなかったセリフ、
"In Italy for 30 years under the Borgias,
they had warfare, terror, murder, bloodshed
-- they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci
and the Renaissance.
In Switzerland they had brotherly love,
they had 500 years of democracy and peace,
and what did that produce? The cuckoo clock."
(簡易な単語ばかりなので拙カタカナ発音は省略)
「(拙大意)イタリアではボルジャ家による30年の支配で、
戦乱、弾圧、殺戮がもたらされた。そのいっぽうで、
ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、そして、
ルネサンスを生みだした。だが、スイスでは
博愛主義、そして500年間も民主主義がはぐくまれ
平和をもたらしはしたが、その結果
何を生みだしたと思う? たかが鳩時計(郭公時計)だけさ」
(30年という年数は史実ではなく、おそらく、
チェーザレの享年で比喩的に表してるのだろう。また、
チェーザレはダ・ヴィンチやミケランジェロを庇護したものの、
ルネサンス自体を生みだしたのはボルジャ家ではない。それから、
スイスは酪農以外に産業がなく貧しく、男は傭兵として
出稼いでたので平和ともいえない。ヴァチカンの衛兵も未だにスイス人)
を入れてこの映画をいっそう印象深いものとした。

チャールズ・チャップリンは現在では驚くほど評価が高い。
私は大嫌いである。ともあれ、その自信作だった
"Monsieur Verdoux(ムッシュ・ヴェルドゥ、邦題=殺人狂時代)"は、
その原案はオースン・ウェルズによるものだった。
この映画の名セリフとして知られる、
"Wars, conflict - it's all business.
One murder makes a villain; millions, a hero.
Numbers sanctify, my good fellow!"
「(拙大意)戦争や対立はすべてビジネスさ。
一人殺せば犯罪者だが、大量殺戮すれば英雄として尊敬される。
多くの人がそうやって正当化するんだよ、なあ、君」
の出典は、17世紀の詩人エドワード・ヤングを
18世紀の主教ビールビー・ポーテアスが引用したもの
(One murder made a villain,
Millions a hero. Princes were privileged
To kill, and numbers sanctified the crime.
「(拙大意)一人殺したのでは犯罪者、大量殺戮なら英雄。
君主はそうして殺す特権を与えられ、
犯罪を正当化されるのだ」)
である。だが、
そんな知識が無学無教養なチャップリンにあるはずもなく、
ウェルズに教えられたものだろう。ともあれ、
無学な者が自身をほんとうは頭がいい人物と思われたくて
インテリぶる者の典型で作ったこの映画に自信を持ってた
チャップリンの思惑ははずれ、
製作費に200万ドルかけたものの
北米での興行収入はたったの60万ドルだけ、
という惨憺たる成績だったのである。
大衆がチャップリンに期待してたのは、あの
キモいメイクにトンチンカンな格好の、滑稽なドタバタだった。
チョビ髭白塗りのキモいオヤジを見下し嘲笑することによって
大衆の鬱憤は発散され淡い優越感に浸れたのである。
とはいえ、それは
布施明とチャップリンの顔の区別が瞬時にはできないこともある
拙脳なる私の推測にすぎないが。ともあれ、
原案が「大損・飢ェルズ」によるものなので、
儲かるべくもなかったのは明らかである(※)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Kiss of Death(死の接吻)/リチャード・ウィドマーク誕生100年」

2014年12月26日 11時29分15秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
今日は米国の映画俳優だった
Richard Widmark(リチャード・ウィドマーク、1914-2008)が
生まれて100年の日にあたる。
ミネソタ生まれのスウェーデン系だが、イリノイ州で育ち、
同州のレイク・フォレスト・カレッジ(シカゴの北、ミシガン湖沿い)で演劇を学んだ。
卒業後は同大で演劇を教えてたが、
23歳のときに舞台俳優をめざしてNYに出た。
しばらくはラジオ劇に出演しててブロードウェイに立ったのは28歳のときだった。
さらに映画デビューは遅く、戦後になってからで、じつに32歳だった。それが、
"Kiss of Death(死の接吻)"(1947年)
である。この映画でウィドマークは
悪漢トミー・ユードウ役を演じた。その
残虐冷酷なギャングっぷりで、この映画デビューから
ウィドマークを典型的な「悪役」と全米に認知させた。が、
じつはこの役のオーディションのとき、監督以下審査役からウィドマークは
「品がよすぎる」「知性的にしか見えない」
とディスられたのである。それで一度は退出したウィドマークだったが、
思い直して引き返し、
審査役の御歴々の前でそれはそれは恐ろしい剣幕で
すごんでみせたのだった。
そうして勝ち取った役だったのである。
主演ヴィクター・マチュアのビアンコへの無学貧困層出身ギャング特有の
嫉妬と敵意と畏怖と卑屈を絶妙に演じた。

私がガキの頃に知ったウィドマークはそうした「暗黒街の悪役」というイメージとは
すでに違ってた時期の、
モンロウと共演したサイコ・スリラーの「ノックは無用」、
「アラモ」「西部開拓史」などの西部劇、それと、
「ニュールンベルグ裁判」だった。
こういったものはほとんどすべてTVで観たもので、
主に吹き替えてた大塚周夫の声のイメージが残ってる。
私がすでに高校生になってた時期の
「オリエンド行殺人事件」は映画館で封切りを観た。

ちなみに、
娘のアンはLA・ドジャーズの豪腕投手だった引退後のサンディ・コウファックスと
結婚し、離婚した。

ウィドマークが出演した映画はほとんど観たが、
TVドラマにもけっこう出てるようである。
そっちは一切観たことがない。その中に、
ベンジャミン・フランクリンの生涯を描いたTVドラマ、
"The Lives of Benjamin Franklin (1974)"
というのがあって、少年期、青年期、外交官時代、
独立戦争時代、政治家時代、と、
5人の俳優がそれぞれの時期のフランクリンを演じてて、
その独立戦争時代をウィドマークが担当してるものがあるらしい。
それがDVDにでもなってくれればいいと願う。

(追記:この記事を投稿した20日後の2015年1月15日に
大塚周夫さんは死去されました)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「フェルセン伯爵が二枚目すぎる米映画『マリー・アントワネットの生涯』/タイロン・パワー生誕100年」

2014年05月05日 19時50分55秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ

タイロン・パワー 生誕100年


[Everything leads me to thee.(すべては汝がため)]

今日は、
戦前戦後の時期に米映画俳優の中で、
二枚目の代表格だった
Tyrone Power(タイロウン・パウア、1914-1958)
の生誕100年の日にあたる。

ガキの頃から頭痛持ちで
小学校から中学校にかけてしばしば休んでた私は、そんな日には
頭痛薬を飲んで家で安静にしながらTVを観て過ごしてた。
テレ東(当時の東京12チャンネル)が昼下がりや深夜に放送してた
モノクロの映画を観るのが私は好きだった。
そうした番組枠で私が知ったのは、
ジェイムズ・キャグニーのギャング映画や、
アラン・ドロンのフランス・ギャング映画、
ビング・クロスビー、フレッド・アステア、ジーン・ケリーのミューズィカル、そして、
米西部劇、ジェリー・ルイスのナンセンス・コメディなどだった。
好きになった女優は、
キャロウル・ロンバード女史、キャサリン・ヘプバーン女史、マリリン・モンロウ女史、
男性俳優は、
上記のジェイムズ・キャグニー、アラン・ドロン、ジェリー・ルイスに、
トウニ・カーティス、ジェイムズ・スチュワート、などだった。が、
このブログでも過去に、

「ジェスィ・ジェイムズ/悪党の最期」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/6038e076093f69feb9681770e5f3f218 )

「映画『愛情物語(1956)』と/ショパン生誕200年記念」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/701a40c5139bfb2ac60e61981e35d5f7 )

「日はまた昇る(The Sun Also Rises)/ヘミングウェイ自殺から50年」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/cfc20beb6af5ce45fbe16d88b8e4cd15 )

と幾度か採りあげてきたように、
とりわけ惹かれたのが、いわゆる
タイロン・パワーだった。20代のときの主演作、
"Jesse James(邦題=地獄への道)"
でのハンサムぶりに、あまりの自分との違いに呆れはてて、
錯綜した劣等感とともに憧憬を抱いた。しかも、
私が生まれた年に44歳で死んでたということも相まって……。

現在はタイロン・パワーの名を知る人は少ないと思われる。が、
戦後まもなくまでの米国でも、色男の代名詞だった。
何の関係もない映画の中のセリフにさえ、
「タイロン・パワーが~~で」
のように名前を挙げられてたほどだった。

ジェスィ・ジェイムズ役の一年前、パワーがまだ24歳だったときの、
"Marie Antoinette(邦題=マリー・アントワネットの生涯)"(1938年制作)
では、フェルセン伯爵を演じた。
ツヴァイクの伝記をもとにした脚本だったらしいが、
半可通、とうより間違いだらけの時代考証と相まって、
王妃と伯爵は同い年だったという現実とは違い、
引退の4年前の36歳のノーマ・シアラー女史のアントワネットと、
まだ25歳のタイロン・パワーという組み合わせも微妙な感じだった。
ただし、
シアラー女史の演技はまるで舞台女優のようでもあり、
そうした見かたをすればそれなりに巧いのかもしれない。実際、
シアラー女史はその数年前にアカデミー主演女優賞を獲得してる大女優である。
この映画でもヴェネッツィア国際映画祭主演女優賞に輝いたし、
オスカーにもノミネイトされたほどである。対して、
パワーはきわめて押さえた演技をしてる。
パワーがハム役者(大根役者)というのは、やはり、
二枚目に対する悪意に満ちた嫉妬心なのである。

映画の前半の終わり頃、
王妃とフェルセンが再会した場面で、
フェルセンに昔から恋してたことを告白された王妃は、
愛のすばらしさを語るフェルセンに、
どこでそんなことを知ったのと訊く。すると、
フェルセンは博物館でだと答える。博物館にはほとんど
退屈な物しか展示されてないが、その中に、
真実の愛に巡り会えた王妃たちの遺品があり、
それらは扇子や手袋にすぎないが、
そうした愛を知りたいと願う観覧者とともに
大切に保管されてるのです、と説く。すると、
マリーは100年後に自分の遺品を博物館で見た人は
微笑んでくれるかしらと言う。たとえば、と、
左薬指から指輪をはずしてこう刻まれてるわと言う。
"Everything leads me to thee."
すると、フェルセンのパワーは目を見開く。
この"英語"の文字のmeは神からみた一人称の目的格であり、
「私が創造したすべてのものは私を汝のもとに導く」
という意味である。がフェルセンにとっては、
"君し踏みてば玉と拾はむ"
つまり、
「あなたのためだけにこの命を捧げる」
という気持ちと合致したのである。マリーの問いにフェルセンは、
「わかりません」
と答える。
"You might make a present of it, perhaps,
to some man who had loved you
and it would be worn on his hand for as long as he lived
and buried with him when he died
because he loved you reverently
and as was fitting from a respectable distance
but with all his heart for all this life."
「(拙大意)あなたはそれを贈り物として与えてしまうかもしれません、
あるいはね……あなたを愛した男に。
(だから博物館には展示されないでしょう)
その男は命あるかぎりそれをずっと指にはめたままで
死んだときにはそのまま埋葬されてしまうことでしょう。
その男はあなたを敬意をもって愛した。
身の程をわきまえて遠くから見守るように、
しかしながら全身全霊をこめて愛した男です」
マリーにはその意味が即座にわかったのである。
ふたりはくちづけをかわす。そして、
フェルセンはそのまま指輪を所持することになるのである。
真実の愛を知った王妃だったが、
ルイ15世が死んで、
フェルセンは独立戦争下のアメリカに行くと暇乞いをする。
このときのフェルセンが立ち去るスィーンはじつに感動的である。

このような
王妃マリー・アントワネット(ノーマ・シアラー女史)と
スウェーデン伯爵フェルセン(タイロン・パワー)との
ツーショットは、この映画の中で5度ほどあるのだが、
フェルセン(タイロン・パワー)が画面左(下手・しもて)で
王妃(ノーマ・シアラー女史)が画面右(上手・かみて)、
という「身分どおり」の配置になってる。が、
王妃が死刑囚という囚人の立場での
コンシェルジュリの独房での最後の対面のスィーンでは、はじめて、
その位置関係が逆転されてるのである。つまり、
王妃(ノーマ・シアラー女史)が画面左(下手・しもて)で
フェルセン(タイロン・パワー)が画面右(上手・かみて)、
という立ち位置である。

髪を刈られ、後手に縛れた屈辱の姿で肥桶の荷車に乗せられて
シテ島のコンシェルジュリから現在のコンコルド広場まで引き回された
マリーが斬首された瞬間にわきあがった民衆の
歓喜の声が聞こえてきたとき、
フェルセン(タイロン・パワー)は目を閉じてうなだれる。そして、
握りしめた右手こぶしを見つめるのだった。その小指には、
マリーから"贈られ"た指輪がはめられてたのである。
カメラがその手にズームアップしてくと……
"EVERYTHING LEADS ME TO THEE"
と刻まれた指輪が画面いっぱいに映し出されて、
"The End"
となる。あなたのためにこの命を捧げる、
と約束したにもかかわらず、すでに自分の力では
マリーを助命することさえできなかった
フェルセン(タイロン・パワー)の忸怩たる思いがそこに込められてた。

この映画では当然に描かれも触れられもしないが、
マリーのギロチン処刑から17年後、史実の
フェルセンにも無惨な死が待ってた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四方赤良の処世術と『ビルマの竪琴』/安井昌二の死にあたって」

2014年03月05日 23時21分10秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
本当の歴史も知りもしないで、
竹島を横取りし、
いい稼ぎな高給取りだった職業売春婦を
強制連行強制労働などという虚構で
日本をゆすりつづける某国では、
国が発表した額の3倍近くの隠し借金がある、
との報道がされてた。また再び
IMFのご厄介になるのだろうか。
そうなると米国ハゲタカのさらなる餌食になるのである。
支援した事業の利権を握り、支援先企業の株主となって
利益をごっそりと吸い上げるのがハゲタカである。
自国の経済を考えもせず、
安重根の碑を建てることだけにやっきになってる
某国の女大統領さまが、その
失政の責任をいよいよ追及されそうになってるらしい。
8月15日には文世光の銅像を、
10月26日には金載圭の銅像を、
それぞれ女大統領自宅前、大統領官邸前に、
寄贈する自国民が出てしまわないともかぎらない。
なにせ常識というものがないお国柄なのだから。

ロシア軍による(ウクライナ領の)クリミア半島制圧で、
オバマ・ホワイトハウスがクレムリンにクレームを入れ、
世界各国へロシアへの経済制裁を呼びかけたらしい。が、
EU諸国のうちドイツ、フランス、イギリス、オランダ、フィンランドなど、
先進国は制裁に乗り気でないという。そりゃそうだ。
ドイツなどは脱原発でロシアからの天然ガスや石油に
依存してるのである。さらに、
ドイツ→オランダ→イギリス、というルートが閉ざされてしまえば、
関係各国はみなお手上げ状態になるのである。また、
フィンランドは反露ながらも、旧"宗主国"で隣国であり、
何かすれば必ず10倍返しされるので、
あまり刺激したくない。
世の中、きれいごとだけでは成り行かぬものである。
それが解らない、米国に押しつけられた"平和憲法"護憲、
などとほざくだけの反日左翼やそのシンパなど、
高い民度の足を引っ張る脳天気なのも幅を利かせてる国もある。

新派出身の俳優だった
安井昌二(やすい・しょうじ、1928-2014)が
3日に死んでたという訃報があった。
チェイン・スモウカー市川昆が監督した映画
「ビルマの竪琴」の主役として知られる。
新派だったので新国劇のようには
殺陣ごとはなかったものの、この映画では
水島上等兵をお見事に演じてる。
竹山道雄(たけやま・みちお、1903-1984)が
戦後に発表した同名の小説が原作で、
よくできた話である。私は
小学校高学年のときにTVで観て感動した。現在の、
アウンサン・スーチーが善でミャンマー軍事政権が悪、
などと紋切り型な米英らの利害による決めつけを
鵜呑みにしてしまうような人々にはクスンとも
ウケない内容かもしれないが……。いっぽう、
小学校低学年のときには
TVスィリーズ「チャコちゃん」を楽しみに観てた。
Home, Sweet Homeという感じのファミリー・ドラマだった。
その第1回は「福はうち鬼はそと」という赤ら顔ふうなタイトルだった。
そのチャコちゃんを演じた四方晴美女史の父(劇中でも父親)が
安井昌二であり(スィリーズによっては佐藤英夫や多々良純が演じた)、
本名は四方正雄(よも・まさお)だった。

四方(よも。よもかた。よかた。よもう。よほう……
以下は志方の表記もあり……しかた。しほう。しほ。など)
は丹波国の現在の綾部市や福知山市に多い名字である。
文字どおり、四方(シホウ)を山に囲まれた盆地である。
ロウケイション的に日本海(若狭湾)寄りの舞鶴市にも広まったが、
亀山市や京都市にも進出してる。現在は洛中には
俳優佐々木蔵之介の生家だけとなってしまってて、
京都の酒といえば伏見だけになってしまってるが、
秦氏の本拠地の洛中にも地下水が豊富にあり、かつては、
造り酒屋も多かった。江戸時代、
建仁寺の近くの造り酒屋が江戸の神田和泉町でも自家製酒を
「滝水(たきすい)」という銘柄で販売した。その店が
「四方酒店」だった。その店舗の所在地である
「いずみ」町という町名にもひっかけて、
[滝水は のめどもつきぬ 和泉町]
などという川柳も詠まれた。ともあれ、
そうしたことから酒好き、飲んべえでぇ、ってな洒落で
「四方赤良(よものあから=四方酒店の酒で赤ら顔)」という
狂名を名乗ってたのが、幕府下級武士の
大田直次郎(南畝)(西暦およそ1749-同1823)である。

[世の中は 色と酒とが 敵なり。どふぞ敵に めぐりあひたい]
([世の中は 金と女が 敵なり。どふぞ敵に めぐりあひたい]
[主税には 河野英吉が 敵なり。どふぞ敵に めぐりあひたい]
などのヴァリアントもある(※))

中国明朝末期に編纂された笑話集「笑府」に載ってる、
落語の「まんじゅうこわい」のタネにもなってる咄である。
この訳本が、明和5年(西暦およそ1768年)から翌年にかけて
3種も出版された。そのうちのひとつは訳者が
大田直次郎だとされてる。

御徒衆という下級幕臣だった直次郎は19歳のときに
「狂詩」集である「寝惚先生文集」が出版され、
それから狂歌、洒落本など、コミカル文学路線の詠い手・書き手として
驀進していく。が、寛政の改革で
松平定信とその配下に睨まれ、もっとも才能を発揮した
狂歌の筆を折った。とはいえ、
「世の中に かほど(蚊ほど)うるさき ものはなし。
ブンブ(文武)と言ふて 夜も寝られず]
は、そのオヤジギャグぶりがつい出てしまい、
"詠み人知らずの落首"としてではあっても市中に出回ってしまった。
そのいっぽうで、自粛の姿勢を示して、定信が定めた登用試験制度
「学問吟味」の実質第一回吟味で、
御目見得以下の部で最優秀で合格し(御目見得以上の首席は、
明智氏の同族遠山氏の遠山の金さんの父親である遠山景晋)、
しょぼい路線ではあったが、ある程度出世してった。

ともあれ、かく言う私は、成績優秀な大田直次郎と違い、
三池崇史と倉本聰と東幹久と浅香光代女史の顔が
どれとどれとどれとどれと判別できない拙脳ゆえ、
現在、職もなく、また、
殖産のあてもない。とはいえ、
酒と食い物には貪欲である。が、
創業以来毎日つぎたしてるなどというタレやソースが苦手である。
[私には 秘伝のつぎたしだれ(ソース)が キモイなり。
そのつど作り直すたれ(ソース)に めぐりあひたい]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「One-Take Temple(一発okのテンプルちゃん)/シャーリー・テンプル女史の死にあたって」

2014年02月12日 18時35分57秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
日本が五輪でメダルを取れないようにと、
執拗にプレッシャーを与え続けるチャイナ・コリア贔屓の国賊マスコミにつぶされる選手を尻目に、
そんな自国を貶すマスコミなど屁でもないタイプの選手層が多い
スノボ(ハーフパイプ)では中学生と高校生が銀・銅両メダルを獲得した。先日の
都知事選は「在日外国人参政権付与推進派」の候補が勝ったが、
30代、20代と投票者が若い世代になるほど田母神候補の得票率が高かった、
と報道されてた。ネット時代にあっては、
「真実」が庶民に知れわたることのほうが多くなってくる、
という証左である。

10日に、
1930年代米国映画の名子役であり、
20世紀フォックス社の救いの神であり、
長じて外交官になり、
南アフリカのアパルトヘイト完全撤廃の功労者の一人でもあった、
Shirley Temple(シャーリー・テンプル、1928-2014)女史が、
カリフォーニア州のサン・フランスィスコウ半島にあるウッドサイドの自宅で死んだ。
ウッドサイドは故スティーヴ・ジョブズの家もあったように、
西海岸の超高級住宅地として知られる。

録画物で「小公女」と「青い鳥」くらいしか私は観たことがなく、
ロリ嫌いなのであまり魅力的とも思わなかったが、
母がリアル・タイムでよく観てたらしい。
同世代の母はテンプルちゃんに似ているとよく言われた、
としょっちゅう自慢してた。そして、
親からはテンプルちゃんが映画で着てた衣裳と同じデザイン・柄の
ワンピースを買ってもらったり、親の知り合いから
テンプルちゃん人形をもらったけど私は人形って嫌いなのよね、
ともさんざん聞かされて私は育った。

愛想もいいが、IQも非常に高い少女だったらしい。
台本は他の役の分もすべて暗記し、時間厳守で、
本番はいつでも一発でokだったという。そこから、
"One-Take Temple"という褒め言葉のニックネイムをつけられた。
ワプスの金持ちに生まれ、自身も
芦田愛菜嬢など霞むほどの莫大なギャラを稼ぎ、
さらに大富豪の息子と再婚し、自身も
外交官、実業家として活躍したアメリカ人女性である。
ヴェトナム戦争撤退や児ポ規制やアパルトヘイト撤廃に
おおきくはたらきかけた。また、
子役の頃は鬼畜フランクリン・ロウズヴェルトとその妻エリナーと親しく、
長じてからは共和党派となってアイゼンハウアーと懇意にした。
ニクスンが中共と国交樹立した路線に乗っかり、親中共となった。

大恐慌からスター俳優の事故死で経営危機だった
フォックス・フィルム社にシャーリー嬢は莫大な興行収益をもたらした。
20世紀映画社との合併で存続できた20世紀フォックスは、
神様仏様テンプル様とばかりに、その黄金像を本社前に建てた。
本社ビルが取り壊されてその像も取り去られたが、2002年に、
フォックス・スタジオの一角に、シャーリー・テンプル・モニュメントが建てられた。
ウソツキジデス史観の新聞社とそれに入れ知恵された
美容整形依存症候群民の虚偽の強制連行強制労働の
いもしなかった売春少女像や、ウソツキオモニの像でもない。
1934年、6歳のテンプル嬢主演の
"Baby Take a Bow(ベイビー・テイカ・バウ=シャーリーちゃん、ご挨拶なさい)"
で、父親役のジェイムズ・ダンと歌って踊りおわったときの、
実物大像である。とはいえ、映画にはない、
左手でスカートを広げて右手の人差し指であごを指してるポウズィングである。
エラも張ってなければ頬骨も突出してない。
ウソツキはドロボウの始まり、とはよく言ったものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする