チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「作曲家モドキとは気楽な稼業ときたもんだ/嘘を垂れ流す専門家の醜い姿」

2014年02月19日 01時03分42秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
「週刊新潮」(新潮社刊)のカラント・イシューである
「2014年2月20日梅見月増大号(2014/02/13発売)特別価格390円(税込)」
には、
「ゴーストは芸術の影法師! 袋叩きの『佐村河内守』はそんなに悪いか!」
という記事が載っかってる。
新潮社は創価学会と敵対関係であったはずなのに、
擁護するかのようなタイトルに怪訝な感じがした。
佐村河内守のマネジメントをしてる
「サモンプロモーション」は創価学会系だということである。なるほど、
創価学会大本山の一角である新宿区左門町の「サモン」という名を冠してる。
スミ・ジョー女史、フジ子ヘミング女史、金聖響、西本智実女史、岡本知高らの
プロデュースを手がけてきたのだそうである。
なるほど、というメンツである。

それはともかくも、この記事は、
<"誰が書いたのかは重要ではない"というマーラーの言葉については
先に触れたが、確かに、自分がその曲を良いと思えば、
作者が誰であろうと関係ないのだ。>
と結ばれてる。この醜聞にふれて、ツイッターなどでも
やはりそのような意見が多くみられる。以前、
日本で仏伊のブランドものが人気だったとき、
模造品も横行した。知らずにニセモノをつかまされた女性らは、
自分がいいと思ってるのだから本物でなくても気にしない、
と返答することが多かった。本音では
恥ずかしいと思ったものの虚勢でそう言ったむきも
少なからずだったのかもしれないが。

私の見解は違う。
誰が作ったか、ということは重要である。なぜなら、
芸術の中の史上である音楽だけでなく、
絵も文章も多かれ少なかれ
作者の個性が反映されてしまうものだからである。
その反映度が低いときに、真贋が判らない場合もある、
というだけのことである。その中で、
その真贋が重要なケイスもあればそうでないときもある、
というだけのことである。今回は
"全聾となってしまった不幸な人物が「作曲した」"
ということに、浅いクラ音ファンから音楽のオの字もわからない
一般大衆のみならず、セミクラ音を生業としてる
いわゆるクラ音の作曲家などまでもが"感動し""推奨し"て
大金が動いたわけである。そして、
その「作曲」が虚偽だったことと、さらに、
"全聾者"という看板も詐称だったのである。これは、
刑法犯の詐欺罪にも問われる
(現状に即しては因果関係の証明は難しいが)所業である。
道義的にはまったくもってけしからんことである。
ともあれ、
正規のシャネルと中国で生産された模造品では
"誰が作ったかは重要ではない"ということにはならない。
佐村河内と新垣の件は、
ブランドのほうがニセモノであるという点で、それとは
正反対の性質のものではあるが。

なにしろ、
クラ音界の現状など、プロの"評論家"といったって、
ベルリン・フィルとウィーン・フィルの音の違いを聞き分けることもできない。
フルートが現在のベーム式以前のクラシカル・フルートやトラヴェルソ時代には
D管が主流だったことすら知らないフルート吹きなどざらにいる。
その程度のレヴェルである。まして、
ただただこうした"不幸""不具"ものに食いつきやすいドシロウトなど、
クラ音楽(モドキ)の良し悪しなど判ろうはずもない。佐村河内は
そうした人たちを騙して大金を得てきたのである。

が、
私がここでいいたいのはそうしたことではない。
別の人物についてである。

上記「週刊新潮」の記事が、
"指示書"によって新垣氏に曲想を伝えてたので、
丸投げではなく少なくとも共同制作の姿勢は示していた、
という方向性が展開され、
<過去には、「指示書」すら書いていないのに、
別人が作曲したものを自分の曲として発表するケースが
数多くあったという。>
とする記事に続げられる形で、
……本人のウェブサイトの自己紹介によれば……
<東京藝術大学および大学院修士課程を首席で修了。
東京藝術大学、都留文科大学講師。
日本現代音楽協会、作曲家協議会、東京室内歌劇場会員。>
というご立派な大先生が、
こういうコメントをしてたのである。

<例えば、ドイツの作曲家・メンデルスゾーンの曲の一部は、
ファニーという名の彼の姉が書いたものだと言われています。
マーラーという有名な作曲家も、
奥さんのアルマに多くの曲を書かせていたと言われている。
で、奥さんが自分の名も楽譜に載せて欲しいとお願いしたら、
"誰が代表するかが重要なのであって、
誰が書いたのかは重要ではない"と言ったという逸話も残っています>
<佐村河内さんと新垣さんの関係は、昔で言うパトロンと作曲家の
関係に近かったのでしょう。
このような関係は晩年のモーツァルトにもありました。
彼の最後の作品『レクイエム』は、
1人の灰色ずくめの格好をした召使いの男が
彼のもとを訪れたことがきっかけで作られた、と言われています。
この召使いはモーツァルトに対して高額の報酬を約束し、
『レクイエム』の作曲を依頼するのです>
<この召使いの主人の思惑は、
それを自分が作曲したとして売り出したいというもので、
今回の佐村河内さんに似ていなくもない。
結局、モーツァルトは『レクイエム』を完成させることなく
35歳の若さで死んでしまったので、
その主人の作品にはなりませんでしたが>

この御仁はかねてから、
テレ朝の「題名のない音楽会」や自主公演などで、あるいは、
本の著者としてこれと同様のデタラメ放題を垂れ流し、
故意にか無知からかは知らないが、
事実誤認・虚偽な内容を執筆してる常習犯である。
このコメントの間違いを瑣末なことまですべて挙げると
きりがないほどである。ので、
少しだけかいつまんでみる。

まず、最初の<>内のコメントだが、
挙げられてる作曲家2人はともに「ユダヤ人」である。
この2人は反ユダヤ・憎ユダヤの差別層によってさまざまに歪められてきた。
そのかっこうの材料となった事案である。
メンデルスゾーンの時代には女性が"作曲"などすると非難囂々だった。
そのため、才能ある姉がバッシングされて傷つくことを案じた弟メンデルスゾーンが、
「気遣い」でそうした「方便」を取ってあげただけのことで、
自分でない人の作品を自分のものと偽ることで
自分の名声を得ようとしたわけではない。そもそも、
ファニーには弟ほどどころか、凡百の作曲家ほどの作曲の天分もない。また、
マーラーの咄、というのは、
芸術の才に恵まれた男に靡く多淫な性分の、
自分に芸術の才能があると思いこみたい症候群の、
妻アルマの「嘘咄」がほとんどである。

ふたつめの<>内のコメントは、
瑣末には"召使い"ではない。依頼主の伯爵はたしかに
れっきとした作曲家に曲を依嘱してそれを自分で写譜して自作として演奏する
というさもしい癖があったらしい。が、
この伯爵は"パトロン"ではない。だから、
モーツァルトはそうしたことは知らなかった。つまり、
その伯爵からモーツァルト自身の作としてのレクィエムを依頼されたと思ってたのである。

みっつめの<>内のコメントでは、
完成させることができなかったので
その伯爵の作品にはならなかった旨のことを言ってる。が、
モーツァルトの弟子のジュスマイアーによって補筆されて、結局、
伯爵の手に楽譜は渡り、モーツァルトの遺族である妻コンスタンツェは
残りの報酬を得てる。そして、伯爵は自作として当該
「レクィエム」を"初演"してもいる。

佐村河内は音楽的にはシロウトである。しかも、楽理も知らないレヴェルである。が、
この嘘出放題のコメントをした輩は、国立の音大・院を国民の税金助成で出て、
さらにそこで講師までしてる専門家である。
ただのちんけな詐欺師よりも、学問的・教養的には
非難されるべきはたしかに別のところにあるともいえる。
そもそも「調性音楽」を作るのが「作曲家」なのである。が、
その調性音楽は"出尽くして"しまってからすでに一世紀も経ってる。だから、
真の「作曲家」といえるのは「コンテンポレリ・ミューズィック(現代音楽)」の作曲家しか
現在ではありえない。もっとも[現代音楽」には感動はないので
クラ音以上に相手にされないが。したがって、
歌謡曲とか○○ポップとかロックとかいう「音楽モドキ」を"作曲"してるのは
調性音楽で出尽くした二番煎じや出がらしを自作と称してるにすぎない。
♪作曲家モドキとは気楽な稼業ときたもんだ♪
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「スパゲッティ・ナポリタン大盛り/水道橋の喫茶店フラミンゴの思い出」

2012年03月21日 00時09分29秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
地下鉄サリン・無差別テロ事件から17年。先日、
松本智津夫を讃えてオウム真理教を擁護してた輩どもの一人
吉本隆明が死んだ。まだ健在ぶりを発揮してるのもあるが、
こんな輩どもはいつの時代もどこでも湧いてくる。それより、
こんな輩どもに感化されるほどメンタリティの弱いやつらが絶えない、
ということが問題なのである。
富士山の神々しさからその周辺には
新興宗教がいつきやすい。ところで、
富士山がいまのところ最後に噴火したのは、
宝永4年(現行暦換算おおよそ1707年)であるが、
ヴェズーヴィオは1944年の噴火がもっとも新しい。
"Vedi Napoli e poi Muori"
(ヴェーディ・ナーポリ・エ・ポーイ・ムオーリ)
これはいわゆる「ナポリを見て(から)死ね」という、
ここを見ないで死んでしまうなんてもったいないほど
風光明媚なところだ、という意味の諺である。日本なら、
"Vedi Fuji e poi Muori"
といったとこだろう。
"Mangia Spaghetti Napoletani e poi Morimori-Murimuri"
(マンジャ・スパゲッティ・ナポレターニ・エ・ポーイ・モリモーリ・ムリムーリ)
「(拙大意※)スパゲッティ・ナポリタンを食ってさらにモリモリなんてムリムリ」
冗談はともあれ、
私がガキだった頃には日本には「イタめし」なんてものはなかった。
「ピッツァ」もごく一部で「ピザ」として作られてた程度である。
イタリアもの、としては、わずかに
「スパゲティ」である。それも、
「百貨店の大食堂」とか「学食」あたりに限られてたと思う。もっとも、
ガキの頃には喫茶店には入ったことがなかったので、すでに
喫茶店で出してるとこもあったかもしれない。それから、
簡易調理食品として、
「マ・マー」と「オーマイ」という商品が発売されて、
家庭でも食されるようになった。

さて、
昭和の時代の我が国の「スパゲティ」といえば、
「ミートソース」と「ナポリタン」という二種だった。で、
特にいまでも「ナポリタン」という名のいわれについては、
いくつかの"説"が提示されてて、
横浜「ホテル・ニューグランド」の入江総料理長がおおもとを築いた、
というのが"有力"らしいが、特定はされてない。が、
私が思うに話は単純である。
米国には多くの移民が流れ込んだ。が、欧州に限っていえば、
英国・北部アイルランド(プロテスタント)・オランダが第1波、
ドイツ・北欧諸国・南部アイルランド(カトリック)が第2波、であり、
イタリアはユダヤ人やスラヴ系と並んでそのあとだった。そして、
イタリア人の中でも南部イタリア人はあとのほうだったのである。だから、
「おいしい職業」はすでに"先住白人"に占められてた。
貧しい南部イタリアからやってきた移民は、
靴屋、洗濯屋、そして、飲食業しか選択の余地がなかった。
同じ白人でも主流のプロテスタントの英国やオランダからは、
貧しくて新参者のドイツやカトリック系のアイルランドは差別された。まして、
そのまたあとからやってきたさらに貧しくてカトリックのイタリア人は、
最下層となったのである。そして、その中でも
南部イタリア人はおなじイタリア人にさえ軽蔑されてた。
食文化までが違うのである。
「ボローニャふう」とされてるイタリア北部の
挽肉入りの「ミート・ソース」に対して、
「おもにトマトを煮込んだ肉なしのソース」が
貧しい南部の中心都市である「ナポリ」の名を冠して
「ナポリタン・ソース」と呼ばれてたのである。そして、
この二種類のソースを使ったスパゲッティがそれぞれ、
「スパゲッティ・ミートソース」「スパゲッティ・ナポリタン」と名づけられた、
だけのことである。後者にはせいぜい
安物の加工肉であるソーセージをつけた。だから、
現在の"地元"であるイタリアに「スパゲッティ・ナポリタン」はない、
などと鬼の首をとったかのように言うむきもあるが、
それこそが当然なのである。ナーポリ人が自分を差別する呼称を
自分らの食い物に附けるわけがないし、
そんな「安っぽい」食い物などは
移民しなくて済んだ人々が作って食らうわけがない。
"ミートソース"には曲がりなりにも「挽肉」という肉が入ってるので、
「ボローニャふうソース」と、"自慢げ"にその名を冠してるのである。
時代時代には常識だったことでも
思いのほか文献に残りにくいことは多い。そして、
由来というのはオツムの弱い"研究者"の"推論"によって誤られ、
真実にたどれなくなってしまうのである。

しかしながら、
そのトマトケチャップを使うような"安っぽい"
「スパゲッティ・ナポリタン」が私は大好きである。
若かった時分に競馬場まで出かけない土日には、私は
地元の渋谷ではなく規模が大きい水道橋のウィンズに
馬券を買いに行ってた。そして、
野球を観にいったときに後楽園周辺が混んでたので
少し歩いて探して見つけた外濠の反対側の
三崎町にあった喫茶店で、
昼飯を食いながらTVの競馬中継を観てた。
江戸時代は水戸徳川家の連枝である
高松松平家の中屋敷だったあたりである。
その喫茶店はイケメンオヤジの主人と美人の奥さんが夫婦でやってて、
親に似てイケメンの男の子と美人の女の子が手伝ってた。
店名の由来を訊いたことはなかったが、
後楽園の近くなのでおそらく王貞治選手のファンだったのだろう。
そこの「スパゲッティ・ナポリタン」の大盛りを私はよく食った。
トマトケチャップがたっぷりまぶしてあった。21世紀になって
JRAの馬券がネットで購入できるようになって
Winsに行くこともなくなった。そして、
喫茶店「フラミンゴ」に行くこともなくなった。その「フラミンゴ」は、
三崎町でももっと東側の別の場所に移転して営業してたらしい。
それが先月に閉店したということを数日前に知った。

同店が開店した昭和54年から約100年前の1878年に、チャイコフスキーは
当時7歳の甥ヴラヂーミルに捧げるピアノのための
「子供のアルバム」(全24曲)を作曲した。
2年前に完成させたバレエ「白鳥の湖」で使った「ナーポリの踊り」……
当ブログの「白鳥湖#22ナーポリの踊り」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/f1519b3ea382ae56bac70584bda4201b
を参照されたい……を、
その第18曲「ナーポリの歌」として再使用した。
前者ではニ長調・4/4拍子だったが、後者では変ホ長調・2/4拍子とした。
その他、イントロや終いなどに当然ながら差異がある。もっとも、
フラミンゴと白鳥の外観、それから、ピンクレディとジ・オックスの髪型の
見分けもつかない拙脳なる私には、楽譜を見ないでは
詳らかにはその違いを言い分けれないが……。ともあれ、
「ナーポリの歌」の主要主題、
♪【ソ<ラ・<ド>シ>ラ>ソ】│<シー●●・シーーー│
 ーー、>ラ<シ・<ド>シ>ラ<シ│>ラー●●・>ソーーー│ーー♪
は、米映画"The Way We Were"の中で、
バーブラ・ストライサンド女史によって歌われる
映画のタイトルと同名の"The Way We Were"で、
♪ラー・ー>ソ・・ソー・ーー│●●・【ソ<ラ・・<ド>シ・>ラ>ソ】│
>ミー・ーー・・ーー・ーー│●●・>レ<ミ・・<ソ>ミ・♯ソ>ミ│
<シー・ー<ド・・>ラー・ーー♪
と"追憶"されるのである。
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「オリンパスの果実……社運を案ず」

2011年11月09日 23時54分59秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
胃カメラを開発した内視鏡の世界的メイカーであるオリンパスの
不正経理が、外人CEO解任に端を発して明るみに出た。
ご多分に漏れず、バブル時に手を出した投機で大失敗して、
千数百億円という莫大な含み損を抱えてしまった。
それまで誤魔化してた損失を時価会計では隠せなくなって
海外ファンドに迂回させてたという。いわゆる「飛ばし」である。
M&Aの買収資金を原資として粉飾してたのである。さらに、
M&Aのやりかたを"coach"したという
"企業買収アドヴァイザー"なる者への過大な報酬まで支出したとか。
そんなのがバレないわけがない。子供だましの程度である。
なのに、20年近くも明るみに出なかったのは、
菊川、森、山田をはじめ、歴代経営者や財務担当が、おそらく、
「隠蔽」を「最重要事項」としてきたからだろう。
バブル期の財テクからは、
"杏の実"ひとつも「果実」が生じることはなかった。
隠蔽隠しの首脳陣が将来を"案ずのみ"だった。が、
やはり露見してしまったのである。
"太宰"府に左遷、では済まされない。

[あなたがたは、いったい、欲が好きだったのでしょうか]

田中英光と岩崎弥太郎が同族筋か否か知らない
拙脳なる私にはわかるはずもない。
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「オクトーバーフェスト200周年記念」

2010年09月20日 01時26分27秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
Munchen(ミュンヒェン、ミュンシェンと発音する地元人も多い)で開かれる
Oktoberfestは、200年前の1810年に第1回が催された。今年は、
現地9月18日(日本時間はこの時期では7時間早い)に始まった。
ミュンェンの西Theresienwiese(テレーズィエンヴィーゼ=テレーゼの緑地)が
会場である大規模な祭である。今年は10月4日までの開催で、
600万人の人出が予想されてるらしい。ときに、
若い頃からの知り合いにミュンシェン出身のドイツ人がいる。
世界じゅうを放浪してる男であるが、とくに日本が好きで、
一年に一度は来日してた。最近はどういうわけか
カナダに落ち着いてて、あまり日本には来なくなった。
そんな男だったが、日本にいても、酒は
ビールだった。そして、白いソーセージ(ヴァイスヴアスト)、
ブラートヴアストなどが大好きだった。

さて、
9月19日(日曜)は、池袋の東京芸術劇場に、
ミュンシェン出身のピアニスト、アリス・サラ・オット嬢が弾く
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を聴きに出かけた。
じつに巧い。かわいい。顔がちっちゃい。
チャイコフスキーを弾くとボロが出る演奏家がほとんどな中、
オット嬢は奇をてらわず、真っ当なチャイコフスキーを心得てる。
CDでしか聴いたことがなかったが、
実演にも充分に堪えれる。
暇なときはオケや会場を見渡す。
第1楽章の第2主題や第2楽章の主要主題のような箇所では、
引きながら聴衆のほうに顔を向けて、
(どうよ、こんな音楽、感動的でしょ?)
みたいなアピールをする。そんなこと、
キモいピアニストにやられても迷惑だが、
こんな美人にやられたら、オジサンでも
メロメロなメロディになってしまうというものである。が、
もちろん、イケない箇所もある。
冒頭の和音打鍵を、二度めに音量を抑えてしまうのである。が、
ともあれ、CDでやってたような、第3楽章における
"Alice Sara Otts lustige Spiel"
(アリス・サラ嬢の、おっとどっこい、愉快なイタズラ)
は、やらなかった。

ちなみに、
チャイコンのアンコールにアリス・サラ嬢が弾いたアンコール曲は、
ベートーヴェンのイ短調のバガテル
"Fur Elise(エリーゼのために)"
だった。「Eliseのために」とは、
ベートーヴェンの字が汚いのでThereseと書いてあるのが
そう見えてしまった、つまり、
Therese Malfattiのことだという説から採られた
通称である。ともあれ、
アリス・サラ嬢の「エリーゼのために」は、
あるゆる意味でじつに心地いい演奏だった。というのも、
並の演奏家はアンコールには
"通ぶった"くそおもしろくもないものを弾くことが多い。
まして、有名ピアニストになると、このような
超ポピュラーな小品を演奏することは、まずないといっていい。かつ、
録音してるものでも、耐え難いほどに
フレイズィングやアーティキュレイションやペダリングやテンポを
とんでもなく台無しなものにしてることがほとんどである。が、
アリス・サラ嬢はそんな掃き溜めどもとは違うようである。
あらゆる意味で真っ当なのである。
チャイコフスキーの"patheticism(パテティスィズム)"を理解して、
少なくとも感じて、チャイコフスキーの音楽を演奏してる
演奏家である。

久しぶりの池袋だった。三田屋でステーキを食って帰った。
車だったのでビールは飲まなかった。ビール腹な私であるが。
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「スワンの涙/ハーバード白熱電球下教室/見ずに番組乾燥文」

2010年09月17日 00時17分49秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
男女2対2の食事会だった。といっても、
私よりもっとボンボンで、かつ、私と違って
自身も超エリートな男友達のおごりで、フカヒレをゴチになってきた。
彼には貸しがある。そのお返しである。
律儀な奴である。フカヒレ好きな奴である。
和栗には秋という旬があり、小栗にも旬はあるが、
"乾物"であるフカヒレには、基本的に旬はない。
真夏に冷凍フグを食って自慢するオバカとは、
そのボンボン君はわけが違う。
女性陣はそのボンボン君が連れてきたメンツである。当然に、
顔も整ってるし、たいそうな学歴である。だから、
私は彼ら3人の話題に着いてけず、
当初はひたすら飲み食いに徹してた。が、
女性陣のいっぽうが"気を遣って"くれて、
私が「ボストン」に詳しいと勘違いして
「ハーバード白熱教室」なるものの話の途中で、
こちらに振ってくれてしまった。
原題は"Justice with なんとか"だという。
私が少しは詳しいのはボストン・レッドソックスのことである。
ハーバード(Harvard)とオックスフォード(The Ox Ford)の違いも判らない
拙脳なる私には、哲学などもっとも苦手な話題である。
そんな小難しいことを考えたら、食事が
手つかずになってしまうではないか。
[誰も知らない4人の午餐は、
港が見える教室の小さな円卓でお話しましょう]
私にはもっとも嫌悪する類の話題である。
犠牲になる命は選べるか? だと?
バカも休みやすみ言えというものである。
選べると思う奴には選べるし、
選べないと思う者には選べない、
それだけの話である。
"地球温暖化"なるものの要因とされてる"温室効果ガス"、
とりわけ「CO2」の排出を減らさなければならない、
のだったら、
活動する以上「CO2」を排出することが避けれない人間を減らす
もしくは絶滅させればいい、
のである。
これは"正義"ではないのか? その是非はともかく、では、
誰が優先的に減らされるべきか?
太った者か? 豪奢な暮らしをしてる者か?
懐疑主義批判こそ不毛の論である。
そんなくだらないことをタネにして銭儲けをしてる
そのハーバード大教授なる者の授業など、
ヘンデルの「水上の音楽」というよりは「机上の空論」である。
こんな輩の授業なる代物がモテハヤサレルというのは、
巷の人々の心が病ンデルというよりは荒サンデルという証左である。
Harvardでくだらない講義をしてる暇があったら、農耕に精を出して
Harvestのことでも考えろ。

女性たちが器用なレンゲの持ちかたをしてた。さすがに、
卵白を泡立てるような持ちかたではなかったが、
瑣事なるそんな授業の話は早々に切り上げて、スープ用の
匙(湯匙)のウンチクを語ることにした。
箸に"正しい"持ちかたがあるのと同様、
レンゲにも"正しい"摘みかたがある。ときに、
西洋式スプーンの持ちかたを、はなはだ勘違いしてるむきがある。
「逆手(さかて、と読む」に持つのが"正しい"と。が、
西洋式スプーンは「鉛筆持ち」にするのが"正しい"。同様に、
中華式スプーンである匙(湯匙、日本ではレンゲ)も、
そのような持ちかたが"正しい"のである。すなわち、
人差し指を溝にあてがい、親指と中指で両脇を挟む、
のである。西洋式スプーンと異なるのは、
匙を横にしてすすることである。ちなみに、
和食では横に置くが中華では箸は卓には縦に置く。ともあれ、
レンゲであるが、どうせ横にして口に運ぶのだから私は、
人差し指の中指側を溝に入れ、
中指の人差し指側を溝の裏にあてがって、
親指はほとんどフリーにしてほとんど人差し指と中指だけで
挟んだようにして扱ってる。が、
たまに田代まさしのように指先が小刻みに震えて、
口もとに運んだ瞬間、スープを
吸わんとして慌て、レンゲを落としてしまうことがある。
じつは今宵もやらかしてしまった。照れ隠しに、
「こらー元気が出るわい!」
と、つい、オヤジギャグをかましてしまった。
(Have mercy on me!……)
が、女性陣二人の目配せ。
(このオヤジ、評価は不可ね……)
ちなみに、フカヒレのスープのお味は、
並だった。
食後の茶会はなかった。
***♪しし・し>ら・・>♯そー・<しー│らー・ーー・・ーー・●●♪
チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の第1楽章の第2主題、
****♪ドーーー・>シーーー・・<レ>ド>シ<レ・>ドーーー♪
筒美京平は先覚に学んだすぐれた"歌謡曲作曲家"である。
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