チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「共産党中国が怒らせたらいけない英国王室を威したツケは」

2014年06月22日 17時34分15秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
もうすぐで、
松本智頭夫率いるオウム真理教が起こした
松本サリン事件から20年である。いっぽう、
「サイトウ・キネン・フェスティヴァル・松本」がその名称を
「オザワ」を冠したものに変更する
という方針であることを発表した。
故人でもないのに記念しちゃうらしい。
きわめて常識的な認識の狭い中でしか
物事を見つめることができない私には
理解しがたい所業である。

サッカーのワールド・カップだって、
日本サッカー界の最大功労者にして現役の
三浦知良をなぜ出場させないのか、
May J.女史と岩下志麻女史の顔を
瞬時には判別できないこともままある
拙脳なる私にはありのままの感想しか言えない。

映画宣伝のために
アンジェリーナ・ジョリーが来日した。
反日映画のメガフォンをとってるらしいが、
どのツラさげて来るのかと思ったら、あんじぇりーのじょう、
エリンギ族みたいに頬骨とエラが張ってる顔を戦々恐々とさせながら
報道やファンの前に現れた。
まるで犬を連れて歩くように
養子らを盾にして出てきたが、
お人好しの日本人ばかりで襲われるようなことはないと
解ると安堵していけしゃあしゃあとファン群に歩る
パフォーマンスをしてみせた。こうした、
学歴のない、イジメにあった者が長じて成功すると、
"知識人"ぶりたがるのが常である。そうして、
自分が他者より優れた者であることを確認したいのである。

他人に力を見せつけたがる者もまた同じ。
チョン・モンジュンは自分にはこんなことまでできる、
ということを知らしめたくて、
2002年のワールド・カップでの審判団買収の噂に関して
肯定的ととれる示唆をしたらしい。

先日、
創立150年を迎えた米国のアーリントン墓地も、
"敵方"の総司令官だったリー将軍の屋敷・所有地に
いやがらせ・仕返しとして戦死者を埋めたもので、
勝った北軍による示威行為そのものである。

共産党中国の李克強首相が訪英にあたって、
エリザベス女王と面会させなければ訪英はなかったことにする、
と威して、英国はその要求に屈したらしい。先日、
ウィンザー城に招かれた李はご満悦だったそうである。
国家主席就任前の習近平が天皇陛下への面会をゴリ押しした
"先例"に倣ったのかもしれないが、
仮にも習は国家元首に決まってた人物であり、
国家元首でない李が英国女王に対して行った恫喝は、
日本の天皇より英国王を下に見た行為だった。

その比較はともかくも、
英国王を威すとは、共産党中国もつけあがりすぎて、
"虎の尾を踏"んでしまった。
英国王家を侮辱するなんて、命知らずなのである。
世界でもっとも金を持ってる一家である。
商売のためには笑顔で出迎えても、けっして共産党中国を許さない。
近い将来、共産党中国がどんな目に遭うか、
あな恐ろしやおそろしや。

都議会で、みんなの党の
塩村文夏が「早く結婚しろ」「まずお前が子供を産め」などと
ヤジられたことが、
"セクハラ"ということでことさら問題視されてる。
ツイッターのようなところでも、
"女性の社会進出意識"が強い女性や
反自民党の反日左翼の間ではとくに
ことさらリツイートされてるようである。
塩村はその"ヤジ"に当初、思わず
ウケて笑ってしまった。あとで
笑ったことへのいいわけをことさらにしてる。
この塩村文夏という人物は、7年前の日テレ
「明石家さんまの恋のから騒ぎ」
にレギュラーで出演してたタレントである。当時、
ミスコン6冠であることを鼻に掛け、
もっとも説教部屋行き回数が多かった、
鼻持ちならない性根の女である。
関根勉やそのまんま東などが、
その気の強さや我が儘さに呆れてた。
男と別れる際には手切れ金をもらうのが当たり前で、
ある男からは1500万円の"慰謝料"を手に入れた、
と自慢してた。それについて、
泉谷しげるは「お前、詐欺師だな!」と憤ってた。
そんなことを言われても塩村は何処吹く風、
不貞不貞しい面構えで平気の平左だった。
これしきのヤジで本当に泣くようなたまではない。

塩村は現広島県福山市出身ということである。
福山出身で塩村という名字なら日本人であると推定される。
幕末の老中阿部正弘で知られる福山藩は塩で収入を得てた。
塩生産に携わった名である塩村がそこで
藩財政に寄与したかもしれない。が、
塩村自身の学歴は誇れるものではないようである。
そうした学歴で自己主張が強いものがどうなるか、
アンジェリーナ・ジョリーやブリジット・バルドの例を挙げるまでもなく、
動物過度愛護や女性の権利・社会進出に異様な執着を見せる。
"セクハラ"ヤジを投げかけられて、塩村は(ヤッタ!)と思ったに違いない。
自分はこれで脚光を浴びる、
被害者として自己主張の檜舞台が与えられる、と。
曲がりきって腐りきった性根が身に染みついてる者にとって、
被害者となることが結局は讃えられ、
「金目」になるということをよく心得てるのである。

ちなみに、
美談は必ず隠したいことを糊塗するために粉飾されたものである。
「敵に塩を送る」
という言葉は、なにも武田を助けるためのものではなかった。
今川・北条との協定を破って、自国の塩商人に武田領である
松本で塩を売らせて莫大な利益を得させたものである。
武田の領民はそれで確かに助かったが、
信玄の権威は配下の諸将に対して薄れ、数年後、
塩分を取りすぎて上洛途上で脳溢血に倒れた。
"協定破り""汚さ"を隠すための方便が"美談への転化"なのである。
「安倍政権を倒すこと」が社是だという貶日朝日新聞が喜び勇んで
本来なら敵のひとつであるみんなの党の
「敵に塩村の被害者問題拡散援護を送り込む」ことだろう。
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「ボクシングと鼻血と花の都フィレンツェ式のキス」

2014年05月13日 17時48分40秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
オトナになってからは漫画の類にまったく興味がない私だが、
このところ「美味しんぼ」とかいう漫画の中で、
前双葉町長が被曝のせいで鼻血が出てる、
という悪意に満ちたウソを撒き散らしてるらしいことは
耳に入ってくる。

美味しんぼといえば、
ネット投票がなかった時代に私は、
土曜開催のJRAの馬券を
"黄色い礼拝堂"と私が名付けた
後楽園の場外馬券場に買いにいってた。
そこにお布施をして、
JRAの詔を正しく理解してるかどうかの
判定を待ったのである。それが
馬券という名の護符の正しい購入である。ともあれ、
自分の理解が間違ってた場合には、結果として
多額の寄附を黄色い礼拝堂にすることになって
昼飯はウィンズの安いカツカレーですませた。対して、
理解が正しく、購入した護符の金額より
多い配当をもらえることがあった場合には、
後楽園飯店で豪勢なランチを食った。

旧後楽園球場の"ジャンボスタンド"のような
最上階の席のことを、アメリカでは、
"nosebleed section(nosebleed seats)"(鼻血席)
という。これは、
"あまりにも地上(床上)から高い位置にある安い席なので、
気圧が低すぎて毛細血管が拡張して
破れやすくなって鼻血が出てしまう"
という、わざと非科学的な論法でその席の人らを
バカにした蔑称である。そうした
"わけ"を知らないでただ
"nosebleed seats"
という言葉に出くわしたら、
大相撲でいう"砂かぶり"のように、
対戦者らの汗や血が飛んでくる
格闘技のリングのリングサイドの席ではないかと
思ってしまうかもしれない。

今日は、
かつて15ラウンドで戦われてた時代の
プロウ・ボクスィングの世界ヘヴィ級チャンピオン、
Joe Louis(ジョウ・ルイス、1914-1981)の
生誕100年にあたる日である。同人は、
11年間25回連続防衛という記録を持つ。が、
引退後、カネのためにふたたびリングにあがって、
10試合ほど対戦した。最後は、
世界王座になる前のロッキー・マルスィアーノウ、
いわゆるロッキー・マルシアノの強烈なパンチに
その37歳の老体がロウプの外に叩き倒されて
二度とリングに戻らなかった。

私が高校生のときに河出書房から
「カサノヴァ回想録」(Giacomo Casanova(ジャーコモ・カザノーヴァ、1725-1798))
の選書判12巻が出た。新刊が出るたびに買って読んだ。
今は倉庫の奥深く眠ってて容易に取り出せないので
確かめようがないのだが、
ヴェネッツィア生まれのカザノヴァはガキの頃に鼻血がよく出てた、
という話が記憶に残ってる。
ムラーノ島の婆の"治療"を受けたけれどまったく利かなかった。結局、
カザノヴァ少年の鼻血の原因は
"God KNOWS(神のみぞ知る=誰にも判らない)"
だったのだが、
福島第一原発事故によるものでないことは確かである。
鼻血は治らなかったが、
カザノヴァ少年はその非科学的な妖術には惹かれた。そして、
長じては錬金術まで試す。ちなみに、
この「カサノヴァ回想録」でもうひとつ印象的だったのが、
"フィレンツェふうキス
(bacio alla fiorentina=バーチョ・アッラ・フィオレンティーナ
→bacio alla francese=バーチョ・アッラ・フランチェ-ゼ)"
である。舌と舌とを絡め合う、tongue to tongueの、
好きな者同士が互いに求め合いむさぼり合うキスである。が、
これは20世紀になってから、頬と頬を合わせる挨拶のキスではなく、
"baiser florentin(ベゼ・フロロンタン=フィレンツェ流のキス)"
とフランス人がイタリア人流のキスを呼んでたものが、
イギリス人がフランス人がしょっちゅうするものと誤解して
"french kiss"と呼んだことで、
日本では軽いキスのことと誤解されてしまってる。ともあれ、
カザノヴァの"フィレンツェ式キス"は、さらに、
女性の顎から頬を手で包んで舌対舌のバーチョに及ぶ、
という、熱いイタリア男(と女)がいかにもやりそうなキスなのである。
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「ロマンティックな人とセンティメンタルな人との対比(スコット・フィッツジェラルド)」

2014年04月02日 23時28分55秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
「映画メリー・ポピンズの誕生秘話」を描いたという映画
「ウォルト・ディズニーの約束(原題=Saving Mr. Banks)」(2013)
(トム・ハンクスが出てるというだけで私は観る気がしないが)
が封切られたのと同時に、
「ディズニー映画の名曲を作った兄弟 シャーマン・ブラザーズ
(原題=The Boys: The Sherman Brothers' Story)」(2009)
というドキュメンタリー映画のDVDが発売された。その中で、
このドキュメントが完成する2年前に死んだ
AJ Carothers(エイ・ジェイ・カラダーズ、1935-2007)が
かなりコメントしてる。この兄弟、
Robert Sherman(ロバート・シャーマン、1925-2012)、
Richard Sherman(リチャード・シャーマン、1928-)
と何度か仕事をした脚本家である。
カラダーズはこの兄弟を、
兄はロマンティストで弟はセンティメンタリストだと評した。
F.Scott Fitzgerald(F・スコット・フィッツジェラルド、1896-1940)の処女作
"This Side of Paradise(楽園のこちらがわ)"(1920)
(この主人公はロマンティック・エゴイスト)
の一節を引用したのである。

"A sentimental person thinks things will last,
a romantic person hopes against hope that they won't."
(ア・センタメントル・パースン・ティンクス・ティングズ・ウィル・ラースト、
ア・ロウマンティク・パースン・ホウプス・アゲンスト・ダット・デイ・ウォウン'ト)
「(拙大意)センティメンタルな人とは同じ状況がずっと続いてしまうと考えるタイプであり、
ロマンティックな人とは同じ状況なんかずっと続いたりしないでくれという
儚い望みを抱くタイプである」

ちなみに、
私の個人的な見解では、
romanticな人=絵空事のような夢見心地が好き→楽観的な現実逃避者
sentimentalな人=涙もろく悲しみにひたるのが好き→悲観的な現実逃避者
である。

チムチムチム・チムチムチム、チムチムチム、ッチェリー!
今年の東京のソメイヨシノは今が盛りである。
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「語意の空騒ぎ(太い篇)/HT(ハタ-ヒタ-フツ-ヘト-ホト)」

2014年02月06日 23時25分28秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
[Much Ado About Meaning Of Words and Wuthering Heights(語意の絶叫部屋)
Fat is this onomatopee?]

無知を売り物にする私は、都知事候補の田母神氏と違って
落語のこともよく知らない。
じゅげむとゲノムの違いも述べられないほどである。
少しは暗唱できる。が、途中で分からなくなる。
「じゅげむ、じゅげむ。ごこうのすりきれ。
かいじゃりすいぎょの、
すいぎょうまつ・うんらいまつ・ふうらいまつ、
くうねるところにすむところ。
さむらごうちのすさむようち……」
と、ここで詰まってしまう。
音大の受験前になると急に難聴になり、
ウソがあばかれると突如として心神耗弱状態となって
口がきけなくなる、という、
実がないのに虚栄心だけは異様に強い輩は
日本にもときどきいるものである。が、
ウソとサギとヌスミとタカリは、
美容整形依存症候群荷駄民の専売特許、
というわけでもないようである。また、
日本人はお人好しだからそういった手合いに
騙されやすい。フィギュア・スケイティングの
高橋大輔も映画"Ghostbusters"の
レイ・パーカー・ジュニアの歌に切り替えたら、
ウケること間違いないのに。

今週の月曜は節分だった。最近では
イワシを焼くより豆をまくのより、
恵方を向いて太巻き鮨を食らうのが
春風亭流行らしい。
「ふと巻き→えほう撒き」
と、時代のMAKIうねりはシフトしてるのである。
踊らせる恵方に踊らされる恵方、
同じ恵方なら乗らなきゃ損、ソン。
今年は、信長に刃向かった
戦国武将荒木村重の子で唯一生き残った
岩佐又兵衛の手になるものとの説がある
「洛中洛外図屏風(舟木本)」が描きはじめられて
400年の年にあたる(大阪の冬と夏の陣の間に作成された)。

さて、以前、
「語意の空騒ぎ(細い篇)/HS(ハシ-ヒサ-フサ-ヘソ-ホソ)」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ecb5031f38bdf84d811e907db0463c7e )
で、「細い」という現代語の形容詞に関連した語や
オノマトペなどについてすこしふれたので、今回は
「太い」にちなんだものを並べてみる。

(ここでは、現在の「はひふへほ」の子音はフだけをFuで表し、
それ以外はHで表す。また、歴史的に
は(H)行の音はP(その濁音B)およびF(その濁音V(B))からの変遷なので、
便宜上PやFを使う場合もある。いっぽう、
現在のた行は「たちつてと」CHやTSの音に変化してるものもあるが
簡便にするためにすべて旧来の音であるT(濁音はD)で表すこととする)

「太い」という状態は、容積が「増え」たことである。数だと、
一つ(Hi-to-tu)が二つ(Fu-ta-tu)になることである。機会だと、
「再び(FuTa)たび(度)」である。このFu(フ)は、
サンスクリットのヴルディ(増える。成長する)→のヴ(清音はf)、あるいは
そこから派生した中国語の「富(フ)」の音が
もとになってるかもしれない。が、私見では、
「経(Fu)る」(時を経る)ことによって物事が変化するさい、
増した場合のほうをそのフに基づいて指したものと思われる。
「隔つ(HeDaつ)」は時間的みならず
空間的な隔離状態を表すようになった。ちなみに、
経年変化の状態を「古(Furu)」と表した。いっぽう、
減じた場合には「Fu→Feる→減る(Heる)という形になってる。

増える(Fuえる)=量・幅・長さ・数が増す。そして、
川の水嵩が増す=「太る(FuToる)」
となった。
川の容量を超えてしまうと、氾濫し、堤防は決壊する。
そうしたさまを、
「迸る(HoToばしる)」という。これが川でなくて、
何かの容器に水が入ってるとしよう。すると、
その容器の容積いっぱいに水を入れると容器から水が溢れる。
水が容器にいっぱいになって
溢れるかあふれないかぎりぎりのところで均衡を保ってる状態を、
「等し(HiToし)と言う。が、
容器などから水がこぼれて地面が濡れるとぬかるむ。それを、
「泥(HiDi)」と言った。また、
水にびっしょりと濡れることを、
「漬つ(HiTu)」と言った。現代語ではやや意味を変えて
「漬る」「浸る」となってるが、元来の意味でも
「水浸し」という形で残ってる。いっぽう、
水の溢れかたがまばらなものを
「斑(Hadaれ)」と言うし、ジャージャーと違って
ポタポタと滲みでるようなさまは、
「はつか(HaTuか)」と言う。これは子音交替によって
「わずか(WaDuか)」という現代語に連なった。また、
水滴や雫が落ちるのは地球の引力(重力)によるものなので、
その進行方向は鉛直で、真っ直ぐ下に落ちる。そのさまを
「直(HiTa)」と言う。それが抽象的な意味あいを帯びて、
「ひたむき」「ひたすら」などという現代語に連なってる。いっぽう、
人間の髪から垂れてるのが、
「額(HiTaひ)」である。いっぽう、
こぼれ落ちたものはもはや
本体ではなくなってしまったものである。それを
「外る(HaDuる)」と言う。

が、
いずれにしても溢れてこぼれるのを防ぐには
→「蓋(FuTa)」が要る。
名古屋名物の「ひつまぶし」の
「櫃(HiTu)」はかぶせるフタがある箱状の食器である。ともあれ、
容器から溢れるのはその口周辺、つまり、
「縁(FuTi)」である。それから、「等し(HiToし)状態で
こぼれない程度の量を程(HoDo)と言う。
器に入れた液体や茶碗に盛った米飯などを数えるのには古くは
「杯(HaTa)」(ひとはた、ふたはた、みはた)と言った。また、
こぼれ落ちるものや漏れ落ちる水などを受ける容器を
「鉢(HaTi)」という。いっぽう、
嵩ぎりぎりまで水を満たすと、その容量はいっぱいになって
それ以上入れる容量は
→「果つ(HaTu)」。果てるのである。
そうした状態はその容器に水を満たすという行為が果たされ、
それ以上はまた新たな別の容器に入れる、
ということが始まる。それを
→「初(HaTu)」という。「始ぢむ(HaDiむ)」のである。

そのいっぽうで、
容器の上部端だけでなく、
底からも水は溢れ漏れてしまう。だから、底の端も
「淵(FuTi)」と言うようになった。そこから派生したのが、
「懐(FuToころ)」である。ともあれ、
漢字の「縁」の字源は、糸に彖(タン)である。
彖は豚の旁に頭部がある形を表し、
頭部よりも腹が垂れ下がってる(デブ)状態を表す。
それに糸偏をつけて、
織物のかがってないへりから垂れ下がってる糸を示す。
それが拡大解釈されて「ふち」「はし」
「垂れてつながってるもの=えにし」
などを表すようになってった。いっぽう、
糸が垂れ下がってるような蔓の植物花を
「藤(FuDi)」と呼ぶ。また糸にもどれば、
撚った糸や織った生地が綻びることを
「はつる(HaTuる)」と言い、現代語では「ほつれる」となった。また、
落っこちないようにつなぎ止めるものを
「絆(HoDaし)」と言う。それから、
絡まった糸を解くように心を溶かして承諾させることを
「ほだ(HoDa)す」という。それから、
本体から離れないようにひっついて垂れ下がってるさまが比喩的に
「諂ふ(HeTuらふ)となった。

ともあれ、
ほつれがそれ以上にならないようにはしっこでとどめるもの、
つまり、水の流出を防ぐものと同値となって、
「ふち(FuTi)」が意味づけられた。そうした、
「こぼれるか、こぼれないか」の境界が転じて、一般的な
範囲の周囲・周辺を「FuTi」と言うようになったのだが、
本道や幹線でない迂回路を
辺路(HeTi)という。
そのフチがやはり母子音交替して、
端っこの付け足しやちょっとしたものを
「ぽち(PoTi)」と言うようになった。現在も、
「ぽち袋」や「これっぽっち」などと使われてる。また、
付け加えということから、別の選択肢を加えるさまを
「はた(HaTa)また」と言う。本筋でない別の考えが生まれるのを、
「はた(HaTa)と」「ふと(FuTo)」思いつく、などと言う。反対に、
もうそれ以上代案が思い浮かばないお手上げ状態を、
「ほとほと(HoToHoTo)」「ほと(HoTo)んど(~ない)」などと言う。
木っ端という意味では、
「榾(HoTaまたはHoDa)は、掘り起こした木の根や枝の切れはしを
囲炉裏や竈の薪にリサイクルしたものである。
布ではなく魚でも、ヒレは生地のフチのようなので
「鰭」を「HaTa」とも言った。黄HaDaマグロはそのヒレが黄色いので
そういう呼称なのである。

ともあれ、
織物は本来そうして両端がかがってない
「縁(FuTi)」がある状態である。そうした織機で織った生地を
「機(HaTa)」と呼んだ。それを戦や他の目印として使用したものが
「旗(HaTa)」である。その木製代用品が「木札」とされ、
「札(FuDa)」となった。ともあれ、この
綿(WaTa)=真綿=絹織物の機織技術を伝えたユダヤ系渡来人が
「秦(HaTa)」氏である。ちなみに、
"半島経由渡来人"というと"イコール朝鮮人""イコール韓国人"
と思ってしまうむきがかなり多いようだが、
飛鳥・奈良・平安時代の朝鮮半島には
現在の朝鮮人・韓国人はいなかったのである。ともあれ、
京都の映画撮影所があるあたりが
秦氏の拠点だったのだが、そこを
「太」秦と書く。ちなみに、
「うづまさ」の「うづ」は、「アメノウヅメ」の「ウヅ」であり、
「渦」の「うず」である。つまりは、陰陽道の
「巴」のことである。

いっぽう、
源氏が崇めたものに八幡(はちまん、はやた)神社がある。
「八(や)」は「たくさん」の意味であり、
「幡(はた)」=「旗」=守(かみ=神)である。つまり、
「八幡」とは「おおくの旗」、すなわち八百万の神ということであり、
それは軍の士気を高めるのに"ピッタり"なのである。ちなみに、
「八=HaTi」、「幡=HaTa」
なのであり、同じ音(HT)を重ねてる=強調、ということなのである。そして、
機織り→旗から生じた動詞が、
戦で武功を上げることを意味する
「働く(HaTaらく)」である。

私が若かった頃のディスコ好きなおねえさんがたは、
ボディコンとかピタコンなどという、超タイトなモードに身をつつんでた。
ボディコンがよく似合う体型というものはあったのだが、
乳房が大きいのではなく、ただ鳩胸なだけ、
という女性も当時は多かった。
「鳩(HaTo)」という鳥は、首から下に比して頭が小さく、
胸骨や胸筋が発達してて、ずんぐりむっくりとしてる。つまり、
鳥のあるべき理想の形・容積からはみだしてしまってるので
そうした名が付けられた。オツムは軽くてルーピーなのに
反日思想に洗脳されて日本の足を引っ張っておいて、
自分の富だけはどんどん膨らむ鳩もいる。さらに、
「鳩」といえば「ぽっぽ」、鳩ポッポである。このポッポも
鳴き声である前にPoTupoなのである。ちなみに、
「鉄道屋」と書いて「ぽっぽや」と読ませるらしいが、
我が国に明治5年に鉄道が開業した当時は汽車だった。
あれも汽笛がポッポという前に、蒸気機関が
PoTupoと燃えて空気が圧縮されてそれが動力となってたのである。

ともあれ、
イケイケなおねえさんがたの服装はまさにダイナマイト・ボディが
「はち(HaTi)」きれんばかりで、私にすれば歩くセックス・マシーンだった。
=弾く(HaDiく)。弾ける(HaDiける)。
スタイルがいいスリムな体型よりも
「豚(BuTa)」のような肉付きの女性が好み、
というむきもあろうが、ともあれ、
そうしたケバい格好がハレンチだという世代や層からしたら、
一般既存常識からはみ出た、
「恥づ(HaDu)」べき身なり・行為である。
「恥(HaDi)」であり恥ず(HaDu)かしいのである。
そうした連中に怒り心頭で、
頭から湯気が煮えたぎるようだ、というのは、
「沸々(ふつふつ(HuTuHuTu)」である。が、
イケイケ・ボディコンピタオンおねえさんがたの下半身も、
フツフツと煮えたぎってて、今で言う「潮吹き」状態、
お○×△こ汁あるいはバルトリン腺液や小水を
「ほと(HoTo)ばしらせ」ながらお立ち台で踊ってたのである。
そのホトバシリを生み出す器、女性器を
「ほと(HoTo)」とも言う。
えてしてそうした興奮励起状態にある性器は、
熱くなってるものである。それを、
「ほと(HoTo)ぼり」「ほて(HoTe)り」と言う。
有村架純女史がCMに出てるのは
HottoMottoであるが、英語のあったかいHotとは語源が異なる。
有村女史が「ホットモット」の最初の促音を省略しちゃって
「ほと、もっと」なんて発音して「売ってるよ」なんて言ったら、
おじさんはちょっと興奮するかもしれない。

その「ホト」は小陰唇が性器の周囲のフチのような形状になってる。
そのような地形に「ホト」という地名がつけられてるものがある。
そのひとつが、横浜市の「ほとがや(現在は、ほどがや)」である。
漢字では「程(ケ)谷」とか「保土(ケ)谷」表記されるが、
地名・人名は漢字を同音異字に換えることがよくあることなので、
漢字自体に意味を限定しても無意味である。
保土ヶ谷バイパス狩場インター近くの温泉付き豪華マンションには、
かの「楽譜が読めない交響曲作曲家」が
身の程知らずにも妻とともにのうのうとクラしてたという。
今はどこかにトンズラしてるようであるが。
そうした詐欺の才能もないし
スケコマシも不可能なブサイクなので結婚もできない私は、当然、
イケイケボディコン・ピタコンおねえさんにも
ハナから相手にされない虫けらのような存在だったが、
「甚だ(はなHaDa)」という副詞は、
ずいぶんと・たいそう・とても・非常に・超、
といった意味合いで使われてる。が、そのもとは、
「端(はな)から端(はた)まで(はじめからおわりまで)」
という意味である。だから、
ディスコで百人ナンパしても一緒に踊ってくれる女性だけでも
1人程度だった。つまり99人の相手には、
「へたを撃ってしまった」のである。
「蔕(HeTa)」は実についている萼のことである。だから、
実を矢で射落とそうとして実でないハシやヘリのほうを撃つ=
しくじる=失敗することを
「ヘタを撃つ」と言うのである。そこから、
腕の悪いことを「下手(ヘタ)」と言うようになった。

話は前後するが、オノマトペでは、
水が本来あるべき容器や器官などから少しずつあふれ落ちるさまや音を、
ポタポタ(PoTaPoTa)と言う。その母音交替がポトポト。いっぽう、
Taを拗音化してポチャポチャ(PoTyaPoaTya)、
ピチャピチャ(PiTyaPiTya)=水が跳ねる音、さらには
ビチョビチョ(BiTyoBiTyo)=はじけたり漏れた水分で濡れたさま、
ペチャペチャ(PeTyaPeTya)=しゃべくり女の唾液音、などに。
落ちる音の感じが少し変わってボタボタ(BoTaBoTa)。さらにはじけて、
パチパチ(PaTiPaTi)=油がはねるさま。
ヒタヒタ(HiTaHiTa)となると本来の水音からさらに意味が抽象化されたてった。
滴った液体に粘性があるとベタベタ(BeTaBeTa)、ベトベト。ペタペタ(PeTaPeTa)。
さらにくっついた感を増すとピタピタ(PiTaPiTa)。
くっついたものをはがそうともがいてくたびれてホトホト(HoToHoTo)。ヘトヘト。
密着感が強くてピタピタ(PiTaPiTa)。ピチピチ。パツパツ。
空という大きい容器から落ちてきた水滴である雨音が
パタパタ(PaTaPaTa)→ハタハタ(HaTaHaTa)。そのハタハタという音は雷の音を表す。
秋田で11月に雷鳴(雷神)とともに海岸に打ち寄せるように
ハタハタの大群が現れることから、「神が使わした魚」ということで、
「鰰」と書いてハタハタ(HaTaHaTa)と呼ばれるようになった。
おおげさな雨音のような音がバタバタ(BaTaBaTa)で、このオノマトペは
多角的な意味に広がってった。

ちなみに、
[蜂(はち)]の語源は、いわゆる「ミツバチのダンス」の習性から
「8の字」踊りをする昆虫だから、というわけではもちろんない。また、
通説の「蓮の形状が蜂巣(はちす=ハニカム構造)に似てるから」というのは
論理が逆である。拙説では、
蜂の巣からは蜜が採れる。その蜜が
巣からにじみ出てくるさまが、ポタポタに代表される
HT(「HaTu」→「HaTi」)なのである。

あと、×なものを2例ほど挙げておく。
・蛍(ほたる)はたしかに、その体の端である尻から光があふれ出す、から、
蛍(HoTaる)とも思いがちだが、
中国語の「火虫」の発音「ハオチョン」が日本語で訛って
→ホーチョン→ほーちょ→ほーと→ほたる、となったものである。
・布袋(ほてい)も、たしかに「大きな袋を背負った太鼓腹の坊さん」だから、
Pottteり→ほってり→ほてい、と思われるかもしれないが、
これも中国語の「布袋」の「プータイ」という発音が
日本語で訛って「ふたい」→「ほてい」となったものである。

あ、それからもうひとつ……リューテナント・コロンボ(鳩)のようだが……
「ホトトギス(HoToとぎす)である。
この鳥は万葉集に収められてる歌にもよく詠まれてる。
主要な撰者である大伴家持が好きだった鳥だから、かもしれないが、
約150首もあるという(そのうち家持自身のは約60首)。その一例を挙げる。
[霍公鳥 飛幡之浦尓 敷浪乃 屡君乎 将見因毛鴨](万葉集巻12ー3165)
(ほととぎす 飛幡の浦に しく浪の しばしく君を 見むよしもがも)
「ほととぎす」というの「5文字」の鳥名は、
「飛幡(とばた。風土記では「鳥旗」。現在の北九州市戸畑)にかかる
「枕詞」としても使われてるということである。
「霍公鳥」は「Hoto+to+gisu」、「飛幡」は「To+HaTa」である。
この枕詞とそれに導かれる地名は、
HT→HT、という図式なのである。もっとも、
他にも「ホトトギス」が「枕詞」として「トハタ」「トバタ」にかけられる例があるのか
ということは私には不知(FuTi)であるが

(passionbbbのゴウストライター小野又兵衛筆)
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「差別語と言い換え語/一節太郎『浪曲子守唄』レコード発売から50年」

2013年12月04日 00時14分12秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
2013年12月は、
一節太郎(ひとふし・たろう、1941-)のデビュー曲でもある
「浪曲子守唄」(作詞作曲=越純平、1932-2006)の
レコードが発売されて半世紀である。

♪ドーーー・ーーーー・・>シーーー・<ドー>シー│
●●ラーー・ーー<シ>ラ・・>ファーーー・>ミーーー│
>ドー>シー・>ラー<シー・・<ドー<ミー・<ミー<ファー│
ーー>ミー・ーーーー・・ーーーー・●●●●♪

この歌謡曲の歌詞には、
「馬鹿」「無学」「土方」「めしたき女」「飯場」
というような、現在は
"差別語"などとして疎外されてる語が
ふんだんに使われてる。だから、
ミリオンセラーにもかかわらず、
NHKからお呼びがかかったためしはない。

「馬鹿」「無学」「土方」「めしたき女」「飯場」は、
使ってはいけない、言ってはいけない語であり、
どうしても表現しなければならないときはそれぞれ、
「知的能力が劣る人」「教育が不足している人」
「建設現場労働者」「女性家事支度人」「工事作業員宿舎」
のように"言い換え"が必要になる、のだそうである。が、
「キャベツ」はサベツではないので使ってよろしいらしい。ともあれ、
そうした背景には、それらの語に
"差別的""侮辱的"な意味が込められてることになってる、
という問題がある。だから、
悪意なく「不治の病」と表現しても、
受け手・聞き手が勝手にそこに差別・侮辱・悪意を感じる
"可能性が高い"ので、
「難病」
と言わなければならないらしい。私の母は、
子供の頃、父親(つまり、私の母方の祖父)に、
家で雇ってる家事手伝い女性たちを
「ねえや」ではなくて「ねえやさん」、
男衆(男性従業員)も名前にさん付けで呼びなさい、
と言われてると学友に話したら、みんな
男衆は名字を、お手伝いさんは名前を、
それぞれ呼び捨てで呼んでる、
別に差別・軽蔑はしてない、
使用人なんだから呼び捨てで当たり前だ、
さん付けなのはあなたのうちだけだと言われた、
と述懐する。

細井和喜蔵の「女工哀史」も、現在は
「女工」が"差別語認定"されてるので、そのタイトルも
「紡績工場就労者哀史」
と変更されるかもしれない。それから、
「才色兼備」「才媛」「才女」「女医」「女子大生」など、
"女性"をことさら明確にする語も使用してはいけないらしい。
「~嬢」も「~女史」「女流~」などもNGなんだそうである。
「長女・次女・三女」に限らず、
「長男・次男・三男」のような、
"序列を感じさせる"語もいけないらしい。だから、
「第一子・第二子・第三子」などのような無粋な言いかたに
替わってきてるのである。
西欧の言語にbrother、sisterの類の語があるが、
それらは長幼の別を分けない。区別しなければならないときは、
elderやyoungerなどで修飾する必要がある。また、
cousinは4親等のいとこだけでなく、遠縁の者まで指す。
そうした背景には、西欧では、
「同じ母から生まれた」ことが兄弟・姉妹の定義意識で
重用されてるので、その
長幼は問わない言葉であることが関係してるのである。

職業的に"差別・侮辱"の意味に取られてNGな語もある。
「漁夫の利」という、中国故事由来の諺がある。が、現在、
「漁夫」は"差別語"認定されてるので、
「漁師の利」あるいは「漁業労働者の利」と言い換えたものでなければ
書いてはならない、言ってはならないのである。

民族・人種などの呼称が"差別・侮辱"となってる例もある。
「ジャップ」「ニップ」のような、あきらかに侮辱した語である。が、
「白人」「エジプト人」が差別語であるなんて、
誰が言い出したのだろうか。
昭和62年に天皇陛下(昭和天皇)が下血されて、翌年の崩御まで
日本じゅうが"自粛"という時期があった。そのとき、
陛下を思って皇居に記帳に訪れてる日本人の光景が報道されてた。
<連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、
自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思って
ゾッとするばかりです>(「文學界」平成元年2月号(文藝春秋社刊))
と言い放った浅田彰というのがいた。
「土人」とは「土に密着した生活・文化水準の民」
というものが原義である。そこには元来悪意はない。が、浅田の言は、
文脈からいってもあきらかに「侮辱」の意味である。ちなみに、
「土=地球」に密接に関わってるということでは、
ラテン語の由来の大地・地球を表すterraは、原義は
海や川や湿地ではなく「乾いた地」である。この、
「乾いた」という意味の「dry」が→「try」と清化して
「3」を意味するようにもなった。ご存じ、
西欧がキリスト教が浸透して崇められた数である。
(cf;「3というキリスト教の奇妙な数字とLady Gaga」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/e44e23858aa6a9171b903731bfe6440f )
それが「畏怖」→「恐怖」となってテロの語源となるのである。
石破自民党幹事長の、(特定秘密保護法反対大音量デモの)
<単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質において
あまり変わらないように思われます>
発言が浅田発言より侮蔑的かどうかはともかくも、
日頃からオヤジギャガーだったら、
「与党でやっテロよ!」
と高圧的に怒鳴られたといいわけできたかもしれない(※)。

石破氏はそのオタクっぷりがキモがられることがあるが、
肉体的・身体的に"差別・侮辱"の対象となった語もある。
「四つ」という、語の由来さえしかと断定できない語も
"差別語認定"されてる。だから、
相撲の「右四つ」「左四つ」「四つ相撲」も当然に禁句である。
「右手差し取り口」「左手差し取り口」「まわしを掴んで組む取り口」
のようにNHKの放送でも言い換えなければならない。
私のような容姿のキモい「醜男 」も、この
「醜男」という語がまた"差別認定"されてるらしい。ところが、
「醜男」の言い換えは「器量の悪い男」なんだそうである。が、
そう言い換えられても私がキモがられ、
いかなる異性からも好かれないのは、世の女性たちの
「器量の悪い男」に対する感情・本能的拒絶反応が
根本的に何ら改善されてないということである。
どんなに表現が変換され美化されようと、
私が女性たちから侮蔑・嫌悪の対象にされることに
変わりはないのである。
"差別語認定""差別語忌避"がいかに
偽善的なものであるかの証左である。たとえ私を公衆の面前で
「器量の悪い男」という言葉で罵っても、
[公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した]
という構成要件の該当性を免れるものではないこともまた事実である。

いっぽう、
実態のない語や虚偽の内容を含む語に対しても
「差別」を忌避しなくては筋がとおらないのだが、
虚偽を口にするような輩には、そんな配慮などあろうはずもない。たとえば、
「従軍慰安婦」などという実態はないのだが、それが
"想像上"の"架空"の"虚偽"のものであっても、
「ことさら女性を明確にしてるような語は「差別語」とされなければおかしい。
シブチンのくせに乱暴な扱いをする男ばかりの貧しい自国で売春するより
日本軍将校の数倍から十数倍の報酬を得れる道を率先して選んだ
売春士らに無礼千万である。
悪意善意を問わず中韓の歴史修正・歴史改竄主義者らは、件の想像上の職業を
「従軍慰安士」と改めるべきである。

ともあれ、
「逃げた女房」がかつてはいて子供を産んでくれただけでも幸せ者である。
稼ぎと頭髪が薄く、脂ぎった肌で粗い息の、
体臭・口臭でむせかえるような、醜い顔の私には、
金銭的対価なく付き合ってくれる女性すら
ひとりたりともいないのである。これを
差別の千切りと言わずして何と称するというのだ。
ミスコンは女性を容姿で優劣を決めるからけしからぬ、
という考えがあった。現在も、その
"人柄""能力"で判ずるのだそうである。
入学試験も"学力"だけが合否基準ではなくなる傾向が
さらに強まってる。が、
"人柄""能力"で決めるのは容姿や学力で決めるより
はるかに差別で問題がある。それはさておき、
昨今の流行り言葉できわめて差別的で残忍なものは、
「戦力外」
である。これを差別語の最たるものと言わずして
何を差別語と色分けしてるのだ。
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