チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「古代東海道の日本橋不透過移動」

2012年07月04日 00時51分52秒 | 歴史ーランド・邪図
原発再稼働に抗議する意思で総理官邸前で徒党を組んだ者らは、
メドヴェージェフがロシアに占領されてる我が国の国後島にやってきても
ロシア大使館前に陣取ったりはしなかった。物の道理を
誤解してる者には何を言っても馬耳東風である。
何とかにつける薬はなし、とか、
何とかは死ななきゃ治らない、とか、
昔の人はよく言ったものである。

「ちい散歩」の後釜番組である「若大将のゆうゆう散歩」では
昨日は「北千住」をやってたが、その番組の冒頭で
「五街道」について触れてた。五街道は
徳川幕府が整備したものである。起点はすべて
日本橋、という説明がよくなされるアレである。が、
元来の「東海道」はそもそも
「江戸は通ってなかった」のである。
現在も朝鮮半島にその名残があるように
「道」というのは唐の統治に倣った「律令時代の行政区分」である。
五畿七道の七道のうちのひとつが「東海道」なのである。すなわち、
伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、
伊豆、甲斐、相模、上総、下総、安房、常陸、
という14の「国」が東海道に組み込まれてた。そして、
畿内(現在の奈良)からこれらの「国」の国府を結んで
常陸国府に至る海沿いの「街道」が「(古代)東海道」だったのである。
ただし、
全令制国のうちで唯一
相模国の国府だけが当時どこに置かれてたか、
実は判ってない。それと、
奈良から伸びてきた東海道は上記の14国に「武蔵がない」とおり、
現在の府中には向かってなかった。なんと、
相模国三浦半島から「海路」で上総国富津(現在の大貫海岸あたり)に
渡ってしまったのである。だから、
相模国国府は現在の平塚あたりだと推定はされるのである。ともあれ、
三浦半島から舟で富津に渡ると、東海道は
上総と統合されたり独立したりしてた安房には向かわず(向かうのは支道)、
下総国の国府(現在の市川市国府台)に向かったのである。そして、
そこから常陸国国府(現在の石岡市)に北上した。

とはいっても、
相模国国府から武蔵国国府(現在の府中市)へ向かう道も存在した。そして、
武蔵国国府から下総国国府へ回る、という案が持ち上がる。むしろ、
そちらの遠回りのほうが浦賀水道を渡る不便よりまだましである。
東海道というよりは都迂回道という感じだが、
やがてはそちらが主流になって、武蔵国も東海道ということになった。
しかし、
なぜ最初からこの道でなかったのかといえば、
現在の東京都心のあたりは葦が生い茂る湿地帯だったからである。
ぬかるんでとても道たりえなかった。現在でも、
江東区から葛飾区や江戸川区あたりは私がガキの頃は
「東京ゼロメートル地帯」といってたように海抜より低い土地である。
地盤も脆弱なそんな土地にムサシ=634mもの鉄塔を建てるのだから、
日本の建築技術はすごい、ということなのである。その中で、
押上という地名は、
地震によってこのあたりだけが周囲の地盤沈下の中で局地的に
地盤隆起した(押し上げられた)のが由来である。
武蔵国国府から下総国国府へという新道は、
府中、上連雀、西荻、鷺宮、中村橋、江古田、
小竹向原、板橋、西ケ原、田端、西日暮里、そして、
押上のやや北である三ノ輪(南千住)から鐘淵(カネボウ発祥の地)、そして、
四つ木、立石、小岩、国府台というルートだったのである。いずれにしても、
現在の東京の中心的存在である日本橋は通ってなかった。
先月の大江戸探検隊はこのルートの一部を辿る趣向だった。
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