祖母が101歳で亡くなって1年たった。幸い私は亡くなる4時間前くらいに面会できたので、実質死に目に会えたと思っている。
あらためて、祖母の生い立ちをおじ(祖母の長男)から聞いたが、なかなか大変な時代のようだった。しかし、その努力あって自分が今生きているのかと思うと多きな感謝の気持ちでいっぱいである。
生まれは大正12年頃、貧乏な借家で小さいときに父(私の曽祖父)をなくし、母(私の曾祖母)と息子(祖母の兄)と一緒に暮らしていたとか。戸籍の情報も怪しい時代なのか、本人の言う生年月日が戸籍と違うというなかなかの時代。
当時のことは一切喋らなかったとのことだが、かなり生活に困窮していたようだ(だからこそ喋らなかったのか)。
太平洋戦争で祖母は兄を亡くし、母娘の家庭になってしまった。仏壇の前に飾られている軍服姿の人が、オバアの兄だったのかと改めて認識をした。オバアは戦争の話を、ヘルメットに銃弾がはいって一周してハチマキみたいなハゲができたとか笑い飛ばしていた記憶があるが、笑い飛ばすしかないほどのトラウマだったのではないかとも思っている。父母家庭ではなかなか大変だったので、オバアは親戚のうちに預けられて幼少の頃を個々で過ごしていたようだ。死ぬ前にもこの土地のことを喋っていたので人生に大きく影響した時期だったのだろう。
私の祖父を婿に迎えたのが、昭和22年だったか21年頃。私の叔父と母が誕生し、祖父は大工として、祖母は商店を営んでいた。この商店は、私の記憶ではもう閉店していたが、冷蔵庫に並んだアイスと、歩くとピンポーンとなる来客感知センサーを覚えている。叔父も母も大学まで通い(特に当時の女性進学率が30%であることを考えると母はなかなか優秀だったのだろう)無事に卒業。叔父が言うには、貧乏生活からの脱却には学問が必要だと、私立大学であったが進学させたのだろうと。
家族に喋りたくない程の貧乏を経験し、子供を二人共大学に進学させ、ひ孫6人に会い、最後は101歳で人生を閉じた。
叔父は目立たない人生だが、一生懸命生き、子供を育て、老いて死んでいくという、ごく一般的な幸せのある人生だったはずだと言っていた。幸せってなんだろうと思うこともあるが、平凡という幸せの価値を再認識した。オジイは20年前くらいで膵臓がんで亡くなったが、そのあと叔父は近くにいたがずっと一人で生きてきた。
思い出すとやれ、アレを食べろ、残ったら困るから、もっと食べろとか変えるときに色々持っていけとか当時はウルサイなとおもって聞いていたが、食うに困る時代を幼少期に過ごしていたならば、小さな子どもが満腹でもう食べられない、それこそ幸せだと思ってのことだったのかなとも思うと、感慨深いものがある。ウルサイなと反発するとすごく悲しい顔をしていたな。
死んでからでは感謝しようにも感謝もできない。上の世代への恩返しには限界がある。受けてきた優しさ忘れず、死んだ後にもあいつは立派だったと誰かに思われるような人生にしたいなと思った。
マコチのようなお孫さんが持てて幸せだったでしょう。
誰かに思われて人生を終えたいけど、ワタシはどうかな~^^;