1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月21日・升田幸三の華

2014-03-21 | 歴史と人生
3月21日は「音楽の父」ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生まれた日(1685年)だが、将棋棋士の升田幸三(ますだこうぞう)の誕生日でもある。
升田幸三は、おそらく日本でいちばん人気の高い将棋指しである。以前、升田の著書を、自分はたまたま書店で見かけ、買った。おもしろくて、それからしばらく升田の本をたけつづけに読んだ。

升田幸三は、1918年、広島の、現在の三次で生まれた。実家は農家だったが、父親が道楽者で、田畑をつぎつぎと売って、家は大きく傾いていた。幸三は四男で、生まれたとき、釈迦かキリストかソクラテスかという奇相の赤子だと言われた。
小学校に上がる前すでに足し算、引き算、掛け算ができたという幸三は、一面、いたずらばかりする手のつけられない悪童だった。
5歳のとき彼は、7歳か8歳の女の子の眉間に日本刀で斬りつけるという事件を起こした。これはその子に「お前のような貧乏な家に刀などあるはずがない、あったらこの首をやる」と罵倒されたのに逆上し、家から日本刀を持ちだしての暴挙だった。この罰として、幸三は酒の二升樽で頭を延々とぶたれつづけ、発熱し、頭が悪くなった。
彼は小学校へ入ったが、なにも覚えられない無能な状態がずっと続いた。13歳くらいからようやく頭が正常にもどりだした。同じころ、自転車で谷から転げ落ちて左足を骨折した。それまで将来は武芸者になるつもりでいたところ、そのケガであきらめ、幸三は将棋指しになろうと進路を変更した。
14歳のとき、母親の物差しの裏に、こう書きつけて家出した。
「この幸三、名人に香車をひいて勝ったら大阪に行く」
露天の詰め将棋荒らしなどの放浪をへて、大阪の棋士、木見金治郎に入門。召集され6年間の軍隊生活の後、戦後、棋界に復帰し29歳で八段。34歳で王将位を獲得。
38歳のとき、大山康晴名人を相手に、ほんとうに香車落ちで勝利した。
つねに新しい指し手を志す「新手一生」を信条に、名人位、九段位などを獲得し、数々の名勝負を闘った後、1991年4月、心不全のため没した。73歳だった。

終戦直後の占領下、升田幸三はGHQ(連合国総司令部)に召喚され、事情聴取を受けたことがある。出頭した升田に、GHQの係官はこう質問した。日本の将棋は、とった相手の駒を使うが、あれは捕虜虐待ではないか、と。升田はこう答えたという。
「むかし楠木正成は川に落ちた敵兵を救い、救われた敵兵は感激して正成の部下になってともに働いた。これが日本精神だと話してやったんですよ。しかも将棋の場合、軍門に降った銀は銀として使う。捕虜の少尉を伍長に格下げして使うんなら虐待かもしれん
が、あくまで少尉として一視同仁に使うんだから、ちっとも虐待じゃないと。
それでもまだわからん顔をしとったから、チェスでは王様が助かるために、女王を盾にする。女を犠牲にして王様が逃げだすが、あれはどういうわけかといったら、ずいぶん困った顔をしましたよ。」(升田幸三『勝負』成甲書房)

升田は、来日したロバート・ケネディに、あなたは戦勝国の人なのだから、ふんぞり返って歩くのでなく、かがみかげんで歩くがよかろうと注意した。米国へもどったケネディは、日本におもしろい男がいると升田のことを友人に話したそうだ。升田は言っている。
「いま日本人も、東南アジアでいばっとるという話ですが、こりゃ感心せんですな」(同前)
日本人にはめずらしい、華のある、姿の大きな人だったと思う。
(2014年3月21日)


●おすすめの電子書籍!

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』(落合三郎述、金原義明記)
ドキュメント。ごみ収拾現場で働く男たちの壮絶おもしろ実話。

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3月20日・片岡義男の照れつつのキザ

2014-03-20 | 文学
3月20日は、『ウォールデン2』を書いた心理学者、B・F・スキナーが生まれた日(1904年)だが、小説家、片岡義男の誕生日でもある。
自分は学生のころの一時期、片岡義男の小説に熱中した。こんなに改行のはげしい文章ははじめて読んだ。クルマやバイクを乗りまわす若者たちの倦怠感のある青春が描かれていて、登場人物が口にするセリフがキザで、照れがあって、かっこよかった。そのうちに世間で片岡義男ブームが巻き起こり、周囲がこぞって読むようになったので、あまのじゃくな自分は片岡義男を読むのをやめた。

片岡義男は、1940年、東京で生まれた。父親はハワイ生まれの日系二世で、日本へ帰ってきて、義男が生まれた。誕生時は日中戦争中で、翌年に太平洋戦争がはじまった。
4歳で山口の岩国へ疎開。疎開先で、原子爆弾投下によってヒロシマに上がるきのこ雲を目撃したという。10歳のとき広島県の呉に移り、13歳のとき東京へもどった。
法科の大学生だったころからライターとして雑誌に原稿を書き、パロディ本を出していた。
31歳のとき、評論『ぼくはプレスリーが大好き』を発表。若者向けの雑誌「宝島」編集長などをへて、34歳のとき、小説『白い波の荒野へ』を発表。
35歳のとき、小説『スローなブギにしてくれ』で野性時代新人文学賞を受賞。以後、執筆のほか、ラジオDJなどでも活躍し、若者の人気を集めた。小説に『ボビーに首ったけ』『いい旅を、と誰もが言った』、翻訳に『ビートルズ詩集』がある。

『スローなブギにしてくれ』が映画化されたのは1981年だった。南佳孝が歌う同名の主題歌もヒットした。それ以前から片岡義男は人気作家だったと思うけれど、角川書店の派手な宣伝もあって、一時期、日本全国、猫も杓子も片岡義男という大ブームになった。

1980年代前半のころ、片岡義男はカーステレオの「ロンサム・カーボーイ」のテレビCMのナレーションしていたが、当時、自分はオンボロの中古車に、そこだけ新品のロンサム・カーボーイのコンポーネントを積んで走っていた。

片岡義男は才人だと思う。彼の小説はポップで軽く、アメリカくさく、洒落ていた。不良の若者が主人公で、後のケータイ小説にも通じるけれど、片岡作品には羞恥心を含んだ気取りがあって、そこが両者の決定的なちがいだと思う。

『スローなブギにしてくれ』は、ネコ好きの少女と、バイク好きの少年が出会い、恋に落ちる「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語で、ラストがキザですてきだった。最後の場面では、主人公の少年が、スナックでバーテンと二人きりでいる。バーテンは少年の恋について「できすぎた話じゃねえか」と茶化しながらも、
「おまえの人生は、これからだぜ。記念に音楽を贈ってやるよ。なにがいい?」
少年は、声がふるえなければいいがと心配しつつ、こう返事をする。
「スローなブギにしてくれ」
「なにを言いやがる。それでせりふのつもりかよ」
そう言いながらも、バーテンはジョークボックスで曲をかけてくれる。(片岡義男『スローなブギにしてくれ』角川文庫)
言うことと、やることがちがうところがいいと思う。それに「声がふるえなければいいが」「それでせりふのつもりかよ」など、羞恥の含みが効いていて、ただの「くさい話」に落ちることから救っている。自分はこの文庫本をいまだにもちつづけている。
(2014年3月20日)


●おすすめの電子書籍!

『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』(キャスリーン・キンケイド著、金原義明訳)
米国ヴァージニア州にあるコミュニティー「ツイン・オークス」の創成期を、創立者自身が語る苦闘と希望のドキュメント。彼女のたくましい生きざまが伝わってくる好著。原題は『ウォールデン2の実験』。B・F・スキナーの小説『ウォールデン2』に刺激を受けた著者は、仲間を集め、小説中のコミュニティーをを現実に作って見せたのである。

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3月19日・「アラビアンナイト」のバートン

2014-03-19 | 歴史と人生
3月19日は、アフリカを探検したリヴィングストンが生まれた日(1813年)だが、いまひとりの探検家、リチャード・フランシス・バートンの誕生日でもある。リチャード・バートンというと、大女優エリザベス・テーラーと2度結婚して2度離婚した俳優と同名だけれど、こちらのバートンは冒険家、翻訳家で、『バートン版アラビアンナイト』というときの、あのバートンである。

リチャード・フランシス・バートンは、1821年、英国イングランド南西部のトーキーで生まれた。父親は英国軍人で、リチャードには下に妹と弟がいた。
子どものころ、父親の転勤にともなって仏、伊などを転々とし、フランス語、イタリア語、ラテン語、ナポリの方言などを習得した。
19歳でオックスフォード大学に入学したが、反抗的な態度のため退学。軍人となって、英国の植民地だったインドに駐在した。
29歳のとき、英国にもどったが、32歳になると今度は中東へ渡り、イスラム教徒に変装してメッカ巡礼をし、そのころ勃発したクリミア戦争では、英仏が支援したオスマン帝国軍に句わっってロシア軍と戦った。
36歳のとき、友人とアフリカへ渡り、ナイル川の源流をさがす旅に出発。ヴィクトリア湖を発見した。
39歳になると、北米大陸横断の旅に出発。北米の前人未到の地を訪ね、その人文地理を報告した。
45歳のとき、ブラジルの駐サントス領事に任命され、南米へ渡り、奥地を探検。
48歳で、シリアの駐ダマスカス領事に任命され、中東へ渡った。
52歳のとき、現在のイタリアの駐トリエステ領事となり、そこで『アラビアンナイト(千一夜物語)』を英語に翻訳。
1890年12月、心臓発作のため、トリエステで没した。69歳だった。

バートンは、数十カ国語をあやつったという。『アラビアンナイト』のほか、インドの性典『カーマ・スートラ』も訳している。

谷崎潤一郎の『蓼食う虫』に、バートン版の『アラビアンナイト』のことがでてきて、それで自分はバートン版をすこし読んだ。性的なことがらに関し、冷静でくわしい注釈がほどこされていて感心した。自分は『アラビアンナイト』のファンで、文庫本で全巻そろえているが、自分の本棚にあるのはマルドリュス版である。

それにしてもバートンという人は、19世紀の人とはとても信じられないくらいに、地球を自分の庭のように動きまわった人だった。これだけの知力、体力、行動力を兼ね備えた人はめったにいるものではない。爪のアカでもわけてもらって飲みたかった。
(2014年3月19日)



●おすすめの電子書籍!

『いつもあそこを湿らせて』(三井アキラ)
愛を求めてさすらう女探偵・北条冴子は妻の依頼によりその夫を尾行した。浮気現場を押さえた彼女の前に意外な真実が。官能推理小説。

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3月18日・マラルメの価値観

2014-03-18 | 文学
3月18日は、詩人、田村隆一が生まれた日(1923年)だが、フランスの詩人、ステファヌ・マラルメの誕生日でもある。
自分は若いころからマラルメの名は知っていて、弟子筋のポール・ヴァレリーが絶賛しているので、その難解をもって鳴る詩を、何度か読もうと試みた。けれど、読むたびに跳ね返され、わからぬまま何十年もすごしてきた。ただ『骰子一擲(とうしいってき)』のビジュアル的な斬新さは、もちろん一目瞭然だった。

ステファヌ・マラルメは、1842年、パリで生まれた。本名は、エティエンヌ・マラルメ。父親は公務員だった。
5歳で母親を亡くしたエティエンヌは、母方の祖父母のもとで反抗的な子どもとして育った。彼はパリの寄宿学校に入っては追いだされることを繰り返した後、14歳のとき、パリの南東の街サンスのリセ(高校)の寄宿生になった。当時、彼の父親はサンスで登記管理官をしていた。
十代なかばのころ、エティエンヌは詩に目覚め、ヴィクトル・ユーゴー、シャルル・ボードレール、エドガー・アラン・ポーといった詩人たちの詩に傾倒し、詩集を買い求め、入手できない詩集はノートに書き写した。
17歳のとき、バカロレア(大学入学資格試験)に一度落第した後、二度目で合格したが、父親が病に倒れた家庭の経済状況もあって、大学へ進学はせず、彼は18歳のとき、サンスの収税登記場の見習いになった。
詩を書き、乏しいこづかいをはたいて放蕩にふける青年だったマラルメは、19歳のころから、地方紙や文芸誌に書評や劇評を投稿しだした。
英語教師を目指して勉強したマラルメは、22歳のとき、トゥルノンのリセの英語教師に就いた。そうして、29歳ごろからはパリの中学の英語教師になった。
中学校教師として働きながら、彼は、ポーなどの詩を翻訳して紹介し、やがて自分の詩を発表するようになり、詩人としてもしだいに名が知られるようになった。自宅で火曜日ごとに友人を集めて知的な会話を交わす「火曜会」を催し、アンドレ・ジイド、ポール・ヴァレリー、マルセル・プルーストなど一流の文人が集った。
34歳のとき、画家のマネの挿絵付きという豪華本で詩『半獣神の午後』を発表。音楽家のドビュッシーはこの本に刺激を受けて「牧神の午後への前奏曲」を作曲した。
活字が大きさを変えてページに散らばった視覚的な詩『骰子一擲』のほか、難解な象徴詩を発表した後、1898年9月、咽喉痙攣のため窒息して没した。56歳だった。

「小説の神様」横光利一が書いている。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とそうひそかに思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね。」(『夜の靴』講談社文芸文庫)
達意よりも難解なほのめかし、ことばの意味よりも音の響き、というマラルメの詩は、フランス語のできない自分にはわからないのだけれど、人類が滅亡しても一行の詩が残ればいい、とする彼の考えには、とても共感できる。
これは現代日本人一般の価値観とは、かなり遠いところにある価値観だと思う。おそらく人類は、恐竜たちほど長く栄えることなく、遠からず自滅するだろう。そのとき、一行の美しい詩が残れば、人類にも生きた価値があった、と。
(2014年3月18日)



●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。

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3月17日・ボビー・ジョーンズの自分との闘い

2014-03-17 | スポーツ
3月17日は、「小説の神様」横光利一が生まれた日(1898年)だが、ゴルフ界の「球聖」ボビー・ジョーンズの誕生日でもある。
自分も20代のころはゴルフをやっていた。そのころ、マスターズ・トーナメントや、その創始者ボビー・ジョーンズのことを知った。

ボビー・ジョーンズこと、ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニアは1902年、ジョージア州のアトランタで生まれた。父親は弁護士で、幼少時からからだの弱かったボビーにゴルフをすすめ、ボビーはゴルフに早くから親しんだ。6歳で子どもゴルフ大会で優勝し、14歳のとき、ジョージア州のアマチュア大会で優勝した。
彼はジョージア専門技術学校で機械工学を学び、ハーヴァード大学で英文学を修め、24歳のときロースクールに入り、弁護士の資格をとって、父親の事務所で働きはじめた。そうした学業、弁護士業のかたわら、アマチュアのゴルフプレイヤーとしてゴルフ・トーナメントに出場しつづけ、数々の大会で優勝した。
28歳のとき、当時の世界4大タイトルである全米アマチュア、全英アマチュア、全米オープン、全英オープンの各大会で優勝し「年間グランドスラム」の快挙を達成した。グランドスラムを成し遂げたボビー・ジョーンズは、そのまま競技ゴルフから引退した。
その後は、法律の仕事に専心したが、世界的有名人であるジョーンズにはつねに衆目が集まり、ジャーナリズムに追いかけられた。彼は野次馬から逃れ、友人たちとプライベートにゴルフを楽しめるゴルフクラブを作りたいと、ジョージア州オーガスタに土地を購入し、アリスター・マッキンジーとともにゴルフコースを設計した。それがオーガスタ・ナショナル・コースで、ジョーンズが31歳のときオープンし、32歳のときからそこでマスターズ・トーナメントが開催されるようになった。
第二次世界大戦中は、ジョーンズは米国空軍の士官となり、英国で勤務した。仏国ノルマンディーに上陸し、捕虜の尋問にあたった。そのとき、オーガスタのゴルフコースは、家畜たちが草を食べる放牧場として開放されていた。
戦後、46歳のとき、ジョーンズは脊髄空洞症の診断を受けた。彼は痛みと麻痺の症状に苦しめられ、ついには車椅子生活を余儀なくされた。そして、1971年12月、アトランタで没した。69歳だった。

ボビー・ジョーンズはプロにならず、アマチュア・ゴルファーを通した。フェアプレイで有名だった。23歳のときに出場した全英オープンの際、或るパー4のコースで、第一打をラフに打ち込み、第二打でグリーンに乗せ、2パットしてパーをとった。運営側が「ジョーンズ氏、4打」とアナウンスすると、ジョーンズはこう修正申告した。
「それはちがう。ラフで構えたとき、足元のボールがすこし動いた。だから5打だ」
その結果、ジョーンズはべつのゴルファーと同点首位となった。二人のあいだでプレイオフがおこなわれ、ジョーンズはプレイオフに負け、準優勝になった。

ボビー・ジョーンズはこう言っている。
「競技ゴルフは主に5インチ半の幅のコースのなかでおこなわれる……それは耳と耳のあいだである。(Competitive golf is played mainly on a five-and-a-half-inch course... the space between your ears.)」

ゴルフを、自分自身との闘いだと考えていた彼らしいことばだと思う。
(2014年3月17日)


●おすすめの電子書籍!

『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

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3月16日・ベルトリッチ監督の悪魔性

2014-03-16 | 映画
3月16日は、ロシアの作家、ゴーリキーが生まれた日(1868年)だが、映画監督、ベルナルド・ベルトリッチの誕生日でもある。
自分がはじめて観たベルトリッチ作品は、マーロン・ブランド主演の「ラストタンゴ・イン・パリ」だった。露骨なセックスシーンを撮る監督という印象をもった。

ベルナルド・ベルトリッチは1941年、イタリア北部の街パルマで生まれた。母親は教師で、父親は詩人で映画評論家だった。ベルナルドには弟がひとりいて、弟は舞台監督になった。文化的に恵まれた環境で育ったベルナルドは、15歳のころから詩や文章を書きはじめ、父親の影響力もあって、若くして文学賞を受賞した。
ベルナルドは、父親のように詩人志望だったが、大学で文学を専攻していたころ、映画監督のピエル・パオロ・パゾリーニの本の出版を助けたのが縁で、20歳のとき、パゾリーニの「アッカトーネ(乞食)」で助監督を務めた。映画にひかれたベルトリッチは、大学を途中でやめ、22歳のとき、パゾリーニが脚本を書いた映画「殺し」で監督デビュー。以後、「暗殺の森」「ラストタンゴ・イン・パリ」「1900年」「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」「リトル・ブッダ」「ドリーマーズ」などを発表。問題作、大作を撮る世界的巨匠として知られる。

ベルトリッチは、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画「勝手にしやがれ」に刺激されて映画を志したと言われる。そして、師事したのがパゾリーニ監督というのだからすごい。かつて映画評論家の淀川長治が、こう言っていた。
「フェリーニやヴィスコンティは『映画の神様』であり、ゴダールやパゾリーニは『映画の悪魔』である」
だから、ベルトリッチは「悪魔」側の人ということになる。

自分の印象では、ベルトリッチ監督は個性的ではあるけれど、さらに異常性の強いゴダールやパゾリーニに比べれば、まだまともである。ベルトリッチは、観客のことを配慮した商業映画として一定のレベルをはずさない、良識を備えた監督だと思う。だから、出資者やプロデューサーも、ベルトリッチなら任せられる安心感があるのではないか。

はじめてアナル・セックスを描いたと言われる問題作「ラストタンゴ・イン・パリ」をはじめとして「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」「ドリーマーズ」など、ベルトリッチ作品は、性描写に監督の悪魔的な特徴があらわれていると思う。

「ラスト・エンペラー」「シェルタリング・スカイ」で音楽を担当した坂本龍一が、以前テレビで言っていてたが、「ラスト・エンペラー」の際、ベルトリッチはなかなか彼に音楽を依頼してこず、さんざん引っ張って待たせた挙げ句に連絡してきて、
「1週間で作ってくれ」
と無理を言った。坂本はそれを2週間に延ばしてもらい、ほかの仕事をすべてキャンセルし、その仕事に没頭した。数十曲の映画用音楽を作り、編集が加えられて刻々と長さが変わっていくフィルムに合うようにその都度長さを調整して仕上げたという。
ベルトリッチは「悪魔」の助手をしていたような人だから、人間の都合など知ったことか、映画さえよければいいのだ、そういうことなのだろう。そういう強さは、すてきだと思う。
(2014年3月16日)


●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

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3月15日・パウル・ハイゼの太陽の国

2014-03-15 | 文学
3月15日は、合衆国第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンが生まれた日(1767年)だが、作家、パウル・ハイゼの誕生日でもある。
自分は若いころ、ハイゼの小説をすこし読んだことがある。岩波文庫の薄いハイゼの短編集『片意地娘』を買って読んだ。品のいい小説を書く人、という気がした。

パウル・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ハイゼは、1830年、ドイツのベルリンで生まれた。祖父は文法学者、父親は言語学者という学者の家系で、母親はユダヤ系の金融と音楽関係に縁者の多い裕福な家系の出身でメンデルスゾーンの親戚だった。
文学少年だったパウルは、ハイゼは、18歳で短編『春』で文壇にデビュー。ベルリン大学で学んだ後、19歳のとき、歴史学とロマンス語を勉強するためにボンへ移った。そこで、ロマンス語の権威のもとで論文を執筆中、教授夫人との不倫関係が露顕して、彼はベルリンへ追い返された。
19歳のころ、父親が彼の作品を匿名で出版した。学生兼作家だったハイゼは、22歳のとき、大学の奨学金でイタリアへ研究旅行に出かけた。イタリアに古くから伝わる民謡を発掘するのが目的だったが、教会側から図書館の資料を書写することを禁じられたため、研究旅行はイタリアを楽しむ観光旅行にかわった。
ローマ、ナポリをまわったこの旅行中、ナポリの南にあるソレントの街で、黒髪をおさげにした美少女に出会い、ハイゼは強い印象を受けた。
彼はドイツへ帰ると、短編小説を書いた。そのなかの一編が、ソレントの娘を主人公にした短編『片意地娘(ララビアータ)』だった。
24歳のとき、ハイゼは、バイエルン王に招かれてミュンヘンへ移り、文学愛好者だった王から、なんの職業上の義務も負わない芸術家年金を与えられて、創作三昧の生活に没頭した。『高嶺の乙女』『ぶどう園の番人』『復活』『星の覗く人』『カプリ島の婚礼』などの中短編を含む小説、戯曲を量産した。
80歳のとき、ドイツ人作家として初となるノーベル文学賞を受賞し、1914年4月に没した。84歳だった。

ハイゼは若いときに遊んだイタリアの地を舞台にして、いくつもの小説を書いた。『片意地娘』はそうしたイタリアものの一編で、こんな内容だった。
海ばたの街ソレントに、病気の母親を抱えて二人暮らしをしている、貧しいが、気丈夫な若い娘がいた。他人の憐れみを受けたり、借りを作ったりするのを嫌う彼女は、人の好意をよく断るところから「ララビアータ(片意地娘)」と土地の者にからかわれていた。ある日、僧侶を乗せて島へ渡る小舟に、ララビアータはいっしょに乗り込んだ。小舟をこぐ船頭は土地の若者で、無口な彼は心のうちで娘のことをひそかに……という若い二人の恋物語だった。
自分は若いころに読んで、とても感心した。イタリアの海と太陽とオレンジがまぶしくまぶたに浮かんだ。さわやかな読後感を、いまでもよく覚えている。
ゲーテが寒いワイマールを逃げだして「太陽の国」イタリアを訪ね『イタリア紀行』を書いたように、ハイゼもまた、寒い国の作家だからこそ、明るい太陽の国の風物を鮮やかに描けたのかもしれないけれど、それにしても、よその国の人が、こんな風にイタリアの空気を上手に書くのは、なんだか不思議な気持ちがする。おすすめです。
(2014年3月15日)


●おすすめの電子書籍!

『3月生まれについて』(ぱぴろう)
アンドリュー・ジャクソン、ミケランジェロ、ラヴェル、スティーブ・マックイーン、ジョン・アーヴィング、ゴッホ、高村光太郎、芥川龍之介、黒澤明、周恩来など3月誕生の31人の人物論。人気ブログの元となった、より詳しく深いオリジナル原稿版。3月生まれの秘密に迫る。

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3月14日・クインシー・ジョーンズの気づき

2014-03-14 | 音楽
「ホワイトデイ」の3月14日は、円周率のゴロ合わせから「数学の日」。この日は、物理学者、アルベルト・アインシュタインが生まれた日(1879年)だが、音楽プロデューサーのクインシー・ジョーンズの誕生日でもある。
自分がはじめてクインシー・ジョーンズの名を聞いたのは、大島渚監督の映画のタイトル名にかけたディスコ・ミュージック「愛のコリーダ」だった。

クインシー・ディライト・ジョーンズ二世は、1933年、米国イリノイ州のシカゴで生まれた。父親は大工でセミプロの野球選手で、クインシーの祖母は解放奴隷だった。
子どものころから、母親の歌う宗教歌や、となりの娘が弾くジャズピアノといった音楽に囲まれて育ったクインシーは、家族で引っ越した先のワシントン州シアトルの高校に通っていたころからトランペットと編曲を勉強しだした。
14歳のころからバンドで演奏しだし、そのころ、3歳年上の盲目のピアニスメト、レイ・チャールズがクラブで演奏するのを聴き、刺激を受けた。
18歳のとき、マサチューセッツ州ボストンの音楽大学の奨学生の資格を得て入学したが、ライオネル・ハンプトンのジャズバンドから仕事のオファーを受けると、学業を放りだして、トランペッターとしてバンドといっしょに巡業旅行に出た。
クインシーはバンドマンとして米国内や欧州をツアーでまわったが、生活にはつねに困窮していた。彼はミュージシャンから、レコード会社の音楽ディレクターとなり「涙のバースデイ・パーティー」をはじめとするレスリー・ゴーアの4枚のミリオンセラーをプロデュースし、31歳のとき、マーキュリー・レコードの副社長に昇進した。当時、音楽業界ではアフリカ系アメリカ人がそんな高い地位に昇った例はまだなかった。
エグゼクティブとなったクインシーは映画音楽の制作に乗りだし、「質屋」「夜の大捜査線」「冷血」「マッケンナの黄金」「ゲッタウェイ」「カラーパープル」「ウィズ」といった映画音楽を手がけた。
ポップソングのジャンルでは、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラら大物アーティストのプロデュースを手がけ、48歳のときにはアルバム「愛のコリーダ」でみずから世界的ヒットを放った。マイケル・ジャクソンのアルバム「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」をプロデュースし、52歳のとき、米国のスーパースターが一堂に会して歌った「ウィ・アー・ザ・ワールド」をプロデュースしたクインシー・ジョーンズは、米国音楽界に君臨する大御所である。

シドニー・ポワチエ主演の映画「夜の大捜査線」のエンディングは、レイ・チャールズが歌う「夜の熱気の中で(In the Heat of the Night)」が流れ、列車が高速で走り去っていく印象的なシーンだった。あの映画の音楽監督もクインシー・ジョーンズだった。
人種差別の激しかった米国で、黒人の地位向上に功績のあった黒人の功労者は、ジャッキー・ロビンソン、モハメッド・アリ、マイケル・ジャクソンなど、たくさんいるけれど、クインシー・ジョーンズもまちがいなくそのひとりだと思う。彼は言っている。
「われわれは最高のジャズバンドだった。それでもなお、文字通り飢えていた。それで、気づいたのだ。世の中には音楽と、音楽ビジネスがあるのだと。生き残るためには、その二つのちがいについて学ばなくてはならないだろう。」
(2014年3月14日)



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『3月生まれについて』(ぱぴろう)
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3月13日・ローウェルの模範的人生

2014-03-13 | 科学
3月13日は、彫刻家・詩人の高村光太郎が生まれた日(1883年)だが、天文学者、ローウェルの誕生日でもある。
自分は天文学にはうといのだけれど、ずっと昔、西洋占星術をすこしかじったことがあり、その関係から、冥王星(プルトー)の発見に貢献したローウェルの名前を知っていた。

パーシヴァル・ローウェルは、1855年、米国マサチューセッツ州のケンブリッジで生まれた。彼の家は、同州ボストンの富豪ローウェル一族で、パーシヴァルには弟と妹がいた。
数学が優秀だった彼は、21歳でハーヴァード大学を卒業後、綿工場を経営した。
ローウェルは20代後半になると、極東アジアに渡り、韓国や日本ですごした。
28歳のとき、韓国政府の米国派遣使節団の顧問・秘書官となった。
彼は日本にも滞在し、日本の宗教、文化に関する著述を残した。
33歳のとき『極東の魂(The Soul of the Far East)』、
36歳で『日本の未調査分野(An Unexplored Corner of Japan)』を発表した。
37歳のとき、アメリカの学術科学学会のフェローに選ばれたローウェルは、38歳になると米国へもどった。帰国後は天文学に力を注ぎだし、天文観測に適する土地を選び、アリゾナ州フラッグスタッフに白羽の矢を立てた。39歳のとき、そこに私財を投じてローウェル天文台を作った。海抜2200メートルの高地にあるローウェル天文台には、口径が4メートル、1.1メートル、0.6メートルなど数種類の反射望遠鏡が設置され、火星の研究や小惑星アリゾナや冥王星の発見など、天文学上の数々の業績に寄与した。
同じく39歳のとき、彼は著書『日本の神秘、または神の道(Occult Japan, or the Way of the Gods)』を発表した。
平和主義者だったローウェルは、第一次世界大戦の勃発に心を痛め、体調をくずしていった。そうして大戦中、計算により未知の惑星「X」の存在を予測した後、1916年11月、フラッグスタッフの地で脳卒中のため、没した。61歳だった。

ローウェルの没後14年たってから、彼の予測にしたがって観測を続けていたクライド・トンボーにより、冥王星が発見された。冥王星の名「プルトー(Pluto)」は、ギリシア・ローマ神話の冥界の神の名によるが、ローウェルのイニシャル「P.L」もこめられているという。

ローウェルは、まったく模範的な人生を生きた人だと思う。裕福な環境に生まれ育ち、優秀な頭脳をもった者が、どう生きるか? 日々生活のためにはいずりまわっている自分のような者には、想像しづらいけれど、これは案外難問かもしれない。世の中には人生に目的を見出せず、ギャンブルに注ぎ込んで財産を失ったり、放蕩の末に事故死してしまったりする大金持ちの子息もすくなくない。でも、ローウェルは、自分の興味の向く方向へ自分の力を注ぎ込み、国際親善、人文科学、自然科学の進歩に尽くした。人間、こうありたいという見本だった。こんなできた人はなかなかいない。

ローウェルは言っている。
「想像力は、知識や正確さが前提として不可欠であるのと同じくらい、科学の進歩にとって生命線的に重要である。(Imagination is as vital to any advance in science as learning and precision are essential for starting points.)」(Brainy Quote; http://www.brainyquote.com/)
(2014年3月13日)


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3月12日・葉山嘉樹の真実

2014-03-12 | 文学
3月12日は、天才舞踏家、ニジンスキーが生まれた日(1890年)だが、作家、葉山嘉樹(はやまよしき)の誕生日でもある。
葉山嘉樹がすぐれたプロレタリア文学作家だということは、若いころから耳にしていた。でも、自分は左翼運動とか学生運動とかを嫌うノンポリ学生だったので、その作品をながらく読まなかった。社会人になってからようやく葉山嘉樹をいくつか読んだ。まさにすぐれた作家だと思った。

葉山嘉樹は、1894年、福岡県で生まれた。武士の家系の出で、早稲田大学の予科に入学したが、学費を滞納して除籍となった。
除籍後は、外国航路の船の船員をへて、26歳で名古屋のセメント工場の工員になった。名古屋では労働運動に参加し、29歳のとき、検挙されて投獄された。
獄中で小説『淫売婦』を書き、労働運動から離れるという「転向」を誓う陳情書を書いて31歳で出獄。水力発電所の工事現場へ行き『セメント樽の中の手紙』を書いた。
32歳のとき『海に生くる人々』が出版され、葉山は注目作家となった。
工事現場で働きながら小説を書き、50歳のころから満州への開拓団運動にかかわり、満州へ渡った。敗戦直後の1945年10月、日本へ帰国するために乗った列車内で、脳溢血のため没した。51歳だった。

未完の小説『死霊』を書いた埴谷雄高が、自分の文学的態度についてこう書いている。
「『暗夜航路』『都会の憂鬱』『雪国』は吾国の代表作だと思い、横光利一に関心をもち、葉山嘉樹に無条件賛成で、梶井基次郎、牧野信一、北条民雄などの夭逝作家に深い親近感をもったといった具合です。」(『虹と睡蓮』未來社)
自分はこの文章を社会人になってから読んだ。自分の好みも、埴谷雄高の意見にかなり近いので、
「これは、やっぱり、葉山嘉樹を読まなくては」
と思い、『セメント樽の中の手紙』や『海に生くる人々』を読んだ。まったく脱帽するべき傑作で、『セメント樽』の趣向や、『海に生くる人々』に登場する人間の一人ひとりが血が通っている人間だというリアルな感触に感服した。
同じプロレタリア系の文学でも、小林多喜二の作品となると、自分にはちょっとむずかしくて読みづらいのだけれど、葉山嘉樹は読みやすく、かつ、圧倒的な説得力を感じた。

葉山嘉樹はこう書いている。
「馬鹿にはされるが真実を語るものがもっと多くなるといい」
自分を含めて、現代の日本人が耳を傾けるべきことばだという気がする。
(2014年3月12日)


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『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』(キャスリーン・キンケイド著、金原義明訳)
米国ヴァージニア州にあるコミュニティー「ツイン・オークス」の創成期を、創立者自身が語る苦闘と希望のドキュメント。彼女のたくましい生きざまが伝わってくる好著。

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