1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6/20・ニコール・キッドマンの開眼

2013-06-20 | 映画
6月20日は、世界難民の日(World Refugee Day)。この日は、007映画の傑作『ロシアより愛をこめて』の監督、テレンス・ヤングが生まれた日(1915年)だが、ハリウッド女優、ニコール・キッドマンの誕生日でもある。
ニコール・キッドマンは、その美しさもさることながら、自分の運命を自分の手にちゃんとにぎり、自分の進む道を自分で切り開く自立した女性という感じがして、そういうところが好きである。

ニコール・メアリー・キッドマンは、1967年、米国ハワイのホノルルで生まれた。両親は、オーストラリア人で、彼女が生まれたとき、学生ビザでハワイに留学していた。父親は臨床心理士で、母親は看護学の教師だった。
4歳のとき、オーストラリアへ渡ったニコール・キッドマンは、恥ずかしがり屋の子どもで、しゃべるとき吃音があった。吃音はしだいに克服したが、成長し、大女優となった現在でも、大勢の人でにぎわう場所へひとりで行くのは苦手だという。
キッドマンは、16歳のときに映画デビュー。21歳のとき公開された映画「デッド・カーム/戦慄の航海」で注目され、これをきっかけに米国のハリウッドへ進出した。
23歳のとき、「デイズ・オブ・サンダー」で共演した映画俳優のトム・クルーズと結婚。結婚後も、巨匠スタンリー・キューブリック監督の映画「アイズ・ワイド・シャット」に夫婦で主演して話題をまいたが、この映画が公開された後、34歳のとき、クルーズとは離婚。
39歳のとき、カントリー・シンガーと結婚した。出演作品はほかに「誘う女」「ある貴婦人の肖像」「ムーラン・ルージュ」「奥さまは魔女」「オーストラリア」など。
映画界での活躍と並行して、彼女は27歳のときからUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)の親善大使として紛争地帯の子どもの救済に従事し、また、39歳のときから4年間、UNIFEM(国際連合婦人開発基金)の親善大使として、女性の地位向上に尽力した。

ニコール・キッドマンが、32歳のときの インタビュー映像を自分は見たことがある。
それは、キューブリック監督の遺作となった「アイズ・ワイド・シャット」についてのインタビューで、質疑応答のなか、彼女はこの映画の撮影を通じて、映画製作に対する考え方が変わったと言い、こういう意味のことを述べていた。
「自分は映画芸術の純粋さに、確信をもてるようになった。キューブリック監督が、自分に教えてくれたのだ。どんなに時間がかかろうと、映画を作ることはとんでもない、すばらしいことなのだと。撮影中は、世界のすべてを忘れて没頭する。そうしてこそ、いい映画が作れるのだ、と」
「アイズ・ワイド・シャット」の撮影は、1年半ほどに及び、史上もっとも撮影期間が長くかかった映画だとギネスブックで認定されているそうだ。同じシーンを三十回も四十回も撮り直すというキューブリック監督ならではの話だが、当時すでに大スターだったクルーズやキッドマンは、このしわよせで、ほかの予定が大幅に狂ってしまった。また、この長い緊張の持続によって、彼らの結婚関係そのものも破壊されてしまった。そして、キューブリック監督は試写会の5日後に没した。彼らがいっしょにすごしたのは、キッドマンが29歳から30歳、クルーズが34歳から35歳にかけてのころだった。

「アイズ・ワイド・シャット」は、キッドマン、クルーズにとって、ほかの出演作とは決定的に異なる、運命の作品でありつづけるのにちがいない。
関わった人の運命を大きく変えてしまう芸術作品というのは、ときどきあるもので、それに出会えるか出会えないかは、また、その人の運なのだろう。
(2013年6月20日)


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