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1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6/27・エマ・ゴールドマンの痛烈

2013-06-27 | 歴史と人生
6月27日は、「奇跡の人」ヘレン・ケラーが生まれた日(1880年)だが、女性活動家、エマ・ゴールドマンの誕生日でもある。
自分がエマ・ゴールドマンを知ったのは、伊藤野枝を経由してだった。
自分は一時期、平塚らいてうから雑誌「青鞜」を受け継いだ、あの伊藤野枝の文章をまとめて読んでいて、そのなかにゴールドマンの文章の翻訳があって、それでゴールドマンを知った。調べてみると、この女性は、なかなかはげしい人生を生きた人で、驚いた。

エマ・ゴールドマンは、1869年、リトアニアのカウナスで生まれた。一家はユダヤ系で、エマの父親は、子どもが言うことを聞かないとすぐに暴力をふるう男だった。子どものなかでもとくに反抗的だったエマに対してはムチも使ったという。
一家は、エマが7歳のとき、プロシアへ引っ越し、13歳のとき、ロシアのサンクトペテルブルグへ移った。エマは学校へ行かせてほしいと父親に訴えたが、父親は、女は家庭にいるべきで、教育など必要ないとして、娘を下着屋で働かせ、15歳で結婚させようとした。
15歳のとき、エマは父親から逃れ、異父姉といっしょに米国へ渡った。
縫製工場で働きだしたエマは、しだいに階級闘争に目覚めていった。
20歳のころには、アナキストの活動家として、労働者の集会出で演説するようになっていた。労働争議を応援し、スト破りする者を殺害しようとして未遂に終わり、投獄されたこともあった。また、仲間とともに機関紙を発行し、女性の自由を訴え、社会の矛盾を糾弾する論陣を張った。
その後も、労働運動や反戦運動のために逮捕、投獄されたエマは、50歳のとき、米国から国外追放処分にあった。エマはソビエト連邦へ身を寄せ、その後、英国、仏国、カナダへと渡り、67歳のときには、内戦の勃発したスペインへ渡り、フランコ政権に抵抗するアナキストたちを支援した。
1940年5月、カナダのトロントで脳卒中のため没した。70歳だった。
強烈なアナキスト兼フェミニストの生涯だった。

エマ・ゴールドマンの生涯は、まさに世界をまたにかけた活躍で、痛烈である。
東欧の貧しい境遇に育ったユダヤ人の一少女が、米国と欧州を広く駆けめぐって生きた。その影響は、西洋にとどまらず、日本にも影響を与えた。彼女が米国で開いた、大逆事件(幸徳秋水らを処刑した事件)に対する抗議集会は、日本政府をあわてさせ、彼女が書いた論文は、伊藤野枝に啓示を与え、日本の女性解放運動に刺激を与えた。
エマ・ゴールドマンの生きざまを見ると、あらためて感じる。
「人生は、境遇ではない、当人の意志しだいだなぁ」と。

ゴールドマンの文章は、その生きざまと同様、痛烈である。辛辣で刺激的な表現に富んでいて、自分はとても感心した。
「一般の娘等は大抵幼少から結婚が彼女の最終目的であると語られる。だから彼女の訓練と教育とはその目的に向つて導かれなければならない。口のきけない動物がの為めに肥らせられるやうに、彼女はその為めに用意される」(伊藤野枝訳『結婚と恋愛』)
彼女の文章表現は、思いきりひきしぼった弓を放ち、痛烈に正鵠を射ぬき貫いた鋼鉄の矢、といった感じがする。
(2013年6月27日)


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