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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月4日・ガリバルディの器

2019-07-04 | 歴史と人生
7月4日は、「金髪のジェニー」の作曲家フォスターが生まれた日(1826年)だが、イタリア統一の英雄、ガリバルディの誕生日でもある。

ジュゼッペ・ガリバルディは、1807年、フランス領のニースに生まれた。ガリバルディ一家は海運貿易を生業とする一族で、ジュゼッペも早くから船で働き、25歳のときには商船の船長になっていた。26歳のとき、祖国イタリア解放のための結社に参加した。
当時のイタリアは、国内的には北から、ヴェネチア、トスカナ大公国、ローマ教皇領、両シチリア王国と分裂した状態で、対外的には、北からオーストリアやプロシアが侵略の機会をうかがい、西からはフランスが揺さぶりをかけてきている状況だった。
ガリバルディは27歳のとき、北イタリアの反乱に参加したが、失敗し、南米ブラジルへ逃れた。そこで、ポルトガル系の牧童の娘、アニータ(アナ・リベイロ)と出会い、恋に落ちた。ガリバルディは初対面のアニータにこう言ったという。
「きみは、自分のものにならなくてはならない」
ガリバルディ32歳、アニータ18歳。二人は3年後にウルグアイで結婚した。

ガリバルディは南米で、商人や教師をしていたこともあったが、ウルグアイの独立戦争では、仏伊の義勇軍を率いてゲリラ戦を展開し、その勇名を上げた。彼の部隊は赤シャツを着用して目印としたところから「赤シャツ隊」と呼ばれた。馬術に長けたアニータは、南米の牧童ガウチョについてガリバルディに教え、勇敢に戦った。
ガリバルディは41歳のとき、イタリアへもどり、祖国解放の革命に身を捧げた。圧倒的な兵力で寄せてくるナポレオン三世の軍隊を撃退し、ローマを守って、その名声は世界にとどろいたが、再度襲いかかってきた多国籍軍の前に敗走し、前線でともに戦っていた妻アニータはこのとき戦死した。彼女は28歳になる寸前だった。
敗走したガリバルディは、再起の時期を待ち、53歳のころ、南イタリアで起きた反乱に加勢するべく、彼は赤シャツ隊を率いてシチリア島に上陸。勝利を重ねてシチリアを制し、海峡をわたってナポリに進軍した。南イタリアを配下におさめたガリバルディ陣営は、北イタリア側のサルデーニャ王国と対峙するにいたった。敵は、ガリバルディの故郷ニースを、裏取引でフランスへ譲り渡した仇敵だった。ここにイタリアを真っ二つに割る内戦が勃発するかと思われたが、ガリバルディは、北側の国王に会うと、自分の支配下にある領土をすべて国王に献上する旨を宣言し、配下の軍隊に呼びかけた。
「ここにイタリア国王がおられる」
私怨、私欲を捨てたガリバルディの英断によって、戦乱は回避され、ローマとヴェネチアを除くイタリア統一がひとまずなった。

彼が63歳のとき、プロシアとフランスとの戦争がはじまり、フランス軍がローマから撤退した。これに乗じたイタリアは、ローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ついにイタリア統一はなった。この普仏戦争に際してガリバルディは、かつての敵フランスはいまは第三共和制の国であり、自由フランスを支援するべきだとして、義勇兵を募り、フランスに味方して参戦した。晩年は、すべての叙勲や名誉職を辞退して、カプレーラ島の別荘で引退生活を送り、1882年6月、カプレーラ島の別荘で没した。74歳だった。

米国のリンカーン大統領が、ぜひ北軍の司令官にと誘い、チェ・ゲバラもそのゲリラ戦術を参考にしたガリバルディ。収支とか国益とか、損得を言いだすと、どうしても人間が小さくならざるを得ないが、ガリバルディは人間が大きかった。
(2019年7月4日)



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