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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月25日・クロムウェルの意識

2014-04-25 | 歴史と人生
4月25日は、清教徒革命の立役者、クロムウェルの誕生日でもある。
オリバー・クロムウェルは、1599年、英国イングランドのハンティンドンシャーで生まれた。清教徒(ピューリタン)の 下級地主の家がらだった。
ケンブリッジ大学を出たオリバーは、29歳で庶民院議員となり、治安判事、牧場経営者などをへて、41歳のとき、ふたたび議員になった。
当時の英国王、チャールズ一世は「王の権利は神様がくださったもので、人間がこれを犯すべからず」という王権神授説を振りかざし、お金に困ると勝手に新税を作って税金を集め、反発する者は投獄し耳をそいだ。
当時の英国はすでに、国王のツケは国民にまわせばそれで済むという時世ではなくなっていた。ツケをまわされた国民の半分は崖っぷちの生活だった。社会構造が変化し、絶対王政が世に合わなくなっていた。クロムウェルたちピューリタンで占められた議会派は、チャールズ一世に立憲君主となってくれることを臨んだが、王様の頭はそれを受け入れなかった。王は自分にたてつく議会をすぐに解散し、ピューリタンを迫害した。
国王側と議会側との内戦がはじまり、そのなかで頭角をあらわしたのがクロムウェルだった。クロムウェルは、国王側の職業軍人の軍隊に対抗するため、私財を投じて「鉄騎隊」を作った。そして劣勢だった戦況を挽回して、ついに国王側を追いつめ、勝利した。
チャールズ一世は処刑された。その翌年、クロムウェルが50歳のとき、イングランド共和国が成立し、清教徒革命は成った。
しかし共和制は長く続かなかった。権力を掌握したクロムウェルは議会の反対派を弾圧して、54歳のときに議会を解散させ、終身護国卿となり、軍事独裁政治をはじめた。
国外的には、フランス、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと結び、スペインと敵対した。ジャマイカを占領し、英仏連合軍でスペインに勝利した。
1658年9月、クロムウェルはマラリアのため没した。59歳だった。

クロムウェルの死後、彼の息子が跡を継いで護国卿に就任したが、すぐに退位。英国は外国へ亡命していたチャールズ二世(一世の息子)を王に迎え、王政にもどった。
王の座についた二世は、清教徒革命の報復をはじめた。父親の処刑命令にサインした議員たちを処刑し、すでに亡くなっていたクロムウェルの墓を掘り起こし、クロムウェルの遺体をあらためて国王殺しの罪で絞首刑に処し、その首をさらした。

クロムウェルが生まれたのは、日本の豊臣秀吉が没した翌年である。だから、案外、秀吉の生まれ変わりなのかもしれない。秀吉は一夜城とか水攻めとか智略で知られる軍事の才人で、一方英国のクロムウェルも戦争上手でのし上がった男だった。

クロムウェルの評価は「偉大な指導者」と「軍事力の独裁者」とに真っ二つに分かれる。ただし、その評価はイングランド内でのもので、よそでは異なる。とくに侵略され大勢が虐殺されたアイルランドでは、クロムウェルは悪魔のように忌み嫌われる存在だろう。

ルソーなどが出て、人間は一人ひとり価値があるのだという人権思想が芽をふくのはつぎの世紀のことで、クロムウェルの時代にはそんな考えはなかった。チャールズ一世や二世は自分以外の人間にこれっぽっちでも価値があるなどと考えたことはなかったろう。
自分はときどき、クロムウェルの時代の人間の意識というのは、どういうものだったろうかと想像してみる。政治家や高級官僚の失言を耳にすると、当時の支配階級の意識は、案外、現代日本のエリートたちのそれとあまり変わらないのかもしれない。
(2014年4月25日)


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