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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月26日・ドラクロワが挑んだもの

2014-04-26 | 美術
4月26日は、哲学者、ウィトゲンシュタインが生まれた日(1889年)だが、ロマン派の画家、ドラクロワの誕生日でもある。作品としては「民衆を導く自由の女神」がいちばん有名かもしれない。自分が大好きな画家のひとりである。

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年、仏国の現在のサン=モーリスで生まれた。父親は外交官、母親はルイ王朝御用達の家具屋の娘だった。
文学好きだったドラクロワは、画家の叔父に才能を見出され、17歳のときに学校を退学、当時有名だった新古典主義画家ゲランに弟子入りさせられた。「メデューズ号の筏(いかだ)」を描いたテオドール・ジェリコーはそこの兄弟子だった。
ドラクロワは、24歳のとき「地獄のダンテとヴェルギリウス」を発表。これはダンテの『神曲』の「地獄編」に題材をとった作品で、ダンテが案内役の詩人ヴェルギリウスと並んで小舟に乗っていると、湖に沈んでいた亡者たちが寄ってきて、舟にあがろうとしてくるという壮絶な場面を、荒々しいタッチで描いた力作だった。
26歳のときには「キオス島の虐殺」を発表。この作品は、当時、トルコの支配下にあったギリシャのキオス島で、独立運動に立ち上がった島民を、トルコ軍が大虐殺した事件を描いたものだった。この作品が発表された同じ年、英国の詩人バイロンはギリシャ独立戦争に身を投じ、その戦地で没している。
当時は様式美を重んじる新古典主義の時代であり、ドラクロワの画風はいずれも酷評された。しかし、ドラクロワはドラマティックな激情に満ちた作風を貫き「サルダナパールの死」「民衆を導く自由の女神」を発表。34歳のとき、政府の外交使節のお付きの画家としてモロッコへ旅し、現地でエキゾティックな香り高いデッサンをたくさん描いて帰ってきて「アルジェの女たち」を発表した。
その後、ドラクロワは宮殿、役所の庁舎などの大建築の装飾を数多く手がけた後、1863年8月、パリで没した。65歳だった。

ドラクロワのなかで、自分がいちばん慄然としたのは「サルダナパールの死」だった。広い寝室のいたるところで王の部下たちが半裸の美女たちをとらえ、剣で刺し殺している。ベッドに寝そべった王が、その殺戮風景を冷やかにながめている、という構図である。これは、バイロン作の戯曲「サルダナパール」を題材にしたもので、アッシリアの王サルダナパールが、反乱軍が迫り自分の死が近づいたのを察して、部下に自分の愛妾たちを殺すよう命令した、その場面である。この作品も、発表当時はひどく酷評されたらしい。ただ、詩人のボードレールは賞賛した。

当時、主流だった新古典主義の代表画家は「アルプスを越えるナポレオン」「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドや、「グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)」を描いたドミニク・アングルである。自分はダヴィッドやアングルの整然とした作品もいいと思うけれど、ドラクロワのはげしいタッチに打たれる。もともと新古典主義の師匠のもとで修行をしていたドラクロワが、なぜ写真のように美しく描ける技術を捨て、あえて荒々しい筆づかいで描いたかがわかる気がする。彼の絵を見ていると、既成の芸術観に挑み、乗り越えようとしたドラクロワの気持ちが迫ってくる。

華麗な色使いで知られる画家、ドラクロワはこう言ったそうだ。
「あらゆる絵の敵は、灰色である」
(2014年4月26日)



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