た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

小雨(六杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 「身も心も奪われた挙句、男に切られました。これから国家試験が控えてるだの、自分はこの先まだどうなるかわからないだの、いろいろ言い訳を並べ立てられて。それを聞かされたのがあの橋の上で、小雨の降る晩だったんです」
 ママさんは私に酒を注いでくれました。ダルマはとうに空になってたから、おごりですよ。私ゃヘネシーってな酒を、あの晩初めて飲みましたよ。それ以降一度も口にしてませんが。
 「男は気づいてたんですよ」
 ママさんは煙草の煙を吐いて続けました。「私のお腹に赤ちゃんができてるってことを。その話がしたくて私がその晩彼を呼んだんですが、さすが医大生ですよね。前から大体気づいていたんです。気づいてたはずです。だって私がその話を切り出す前に、別れ話を持ちかけたんですから。私に何一つ自分の話をさせてくれなかったんですから。
 「男はその橋に私を残して去っていきました。傘だけ残して。その傘は風が吹いてすぐに川面に飛ばされちゃいましたけど。赤ちゃんは」
 ママさんは押し黙りましたね、そこで。言葉を捜してる按配でした。
 「流産しました」
 その辺はママさんのほんとの事実かなあと疑いましたよ、私も。言葉を捜す表情からしてね。ま、よくわかんないですが。
 「すべてを失って、私はそれ以降の二十年間を生きてきました。あの橋で、すべてを失ったんですよ。すべてを。記憶だけは────失いたくても、失えなかったです」
 ママさんは表情を明るくしました。痛々しかったですけどね。
 「ごめんなさいね。暗い話をして。でもね、小雨が降ると、どうしてもあの晩を思い出して、ひょっとしてあの人が帰ってくるかしらと、馬鹿な望みを持ってしまうんですよ」(つづく)
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