品川大井町の雨上がりは坂の小道もすぐ乾く。
我が家は緩やかな坂を登りつめた所にある。
門の前に大きな救急車が停まっていた。ライトは回転させているが、サイレンは鳴らしていない。この狭い路地をよく進入できたと思う。
私は地上に感触もなく降り立った。見慣れた視界が戻る。
我が家はやはり正面から見るに限る。
私の三代前に当たる家主が植えた松が塀から門番代わりに枝葉を広げている。私が自宅へ帰ったことを実感するのは、妻が疲れた顔で玄関に出迎えるときでもなければ、テレビゲームに熱中する息子の丸い背中を目にするときでもなかった。まさに門をくぐる前にこの松を目にするときであった。皮肉である。三度目の主人は短命に終わり、松がまたもや生き延びる。この家の本当の主人は誰であったのか。松の葉は通り過ぎた雨に濡れそぼちたまま、不機嫌そうに救急車のライトを浴びている。
救急車の傍らに、救急隊員らしき白衣の男が二名。手持ち無沙汰に帰宅命令を待っている。
細い眼鏡を掛けた若い男が、退屈紛れに我が家の敷石の角をつま先で蹴っている。敷石一枚の値段を知らない輩の所業である。私が存命してここにいたら、やつの首根っこを掴んでごみ収集所の空瓶入れの中に突っ込んでやるのだが、今となってはできない話である。それに正直なところ、私の持ち家という所有意識も急速に薄れてきている。敷石なんて今更どうでもいいのだ。塀でも郵便受けでも蹴るがいい。名残惜しいものがあるとすれば、引継ぎもののあの黒松くらいである。だから見過ごしてやることにした。
細眼鏡は青白い顔を上げて我が家の門構えを眺めた。
「仏はさ、何してこんなに稼いでたんだ?」
顎の無い男が鼻の穴の下を指で掻く。
「大学教授だってよ」
「大学教授? 大学教授はこんなに儲かるのか?」
「知るか」
鼻の下を掻く彼の指は、明らかに鼻の穴に入っている。願わくばこやつの手で私の遺体が搬出されないことを望む。
「でも儲けてるだろうよ。大学教授ってのは言いたいことしゃべってときどき学生のレポートに不可つけてりゃ一年を暮らしていけるのさ」
これだから無知蒙昧な大衆は困る。私がどれだけの苦労をして学閥闘争の中で生き残ってきたことか。
細眼鏡は顎なしの誤情報を真に受けたらしく、舌打ちをして一際強く敷石を蹴った。そのあとつま先をいたわるようにもう片方の軸足のかかとに撫で付けたところを見ると、自分の想定よりも思い切り蹴り過ぎたらしい。まったく間抜けである。
「一体なに手間取ってんだおやじは?」
細眼鏡は首を伸ばして家の方を見やった。「早いとこずらかろうぜ。死んだ成金に何の用事があんだよ。死にそうな庶民を救うのが俺たちの仕事じゃねえか」
庶民を救うとは、このやさぐれた若者も、案外正義感なるものを持ち合わせているのかも知れない。無知蒙昧は無知蒙昧としても。
顎無しは同僚の愚痴を聞いていない。野次馬の女たちを見遣ったり、救急車の窓の中を見遣ったり、無い顎を撫でたりしている。「腹減ったなあ」
一人間の死という荘厳な場面に立ち会っているというのに、何たる不遜、私はこの男の口に煉瓦を押し込んで東京湾に沈めたくなった。
不届きな小市民たちは放っておいて、私は家の中に入ることにした。気になるのは美咲の反応である。
(つづく)
我が家は緩やかな坂を登りつめた所にある。
門の前に大きな救急車が停まっていた。ライトは回転させているが、サイレンは鳴らしていない。この狭い路地をよく進入できたと思う。
私は地上に感触もなく降り立った。見慣れた視界が戻る。
我が家はやはり正面から見るに限る。
私の三代前に当たる家主が植えた松が塀から門番代わりに枝葉を広げている。私が自宅へ帰ったことを実感するのは、妻が疲れた顔で玄関に出迎えるときでもなければ、テレビゲームに熱中する息子の丸い背中を目にするときでもなかった。まさに門をくぐる前にこの松を目にするときであった。皮肉である。三度目の主人は短命に終わり、松がまたもや生き延びる。この家の本当の主人は誰であったのか。松の葉は通り過ぎた雨に濡れそぼちたまま、不機嫌そうに救急車のライトを浴びている。
救急車の傍らに、救急隊員らしき白衣の男が二名。手持ち無沙汰に帰宅命令を待っている。
細い眼鏡を掛けた若い男が、退屈紛れに我が家の敷石の角をつま先で蹴っている。敷石一枚の値段を知らない輩の所業である。私が存命してここにいたら、やつの首根っこを掴んでごみ収集所の空瓶入れの中に突っ込んでやるのだが、今となってはできない話である。それに正直なところ、私の持ち家という所有意識も急速に薄れてきている。敷石なんて今更どうでもいいのだ。塀でも郵便受けでも蹴るがいい。名残惜しいものがあるとすれば、引継ぎもののあの黒松くらいである。だから見過ごしてやることにした。
細眼鏡は青白い顔を上げて我が家の門構えを眺めた。
「仏はさ、何してこんなに稼いでたんだ?」
顎の無い男が鼻の穴の下を指で掻く。
「大学教授だってよ」
「大学教授? 大学教授はこんなに儲かるのか?」
「知るか」
鼻の下を掻く彼の指は、明らかに鼻の穴に入っている。願わくばこやつの手で私の遺体が搬出されないことを望む。
「でも儲けてるだろうよ。大学教授ってのは言いたいことしゃべってときどき学生のレポートに不可つけてりゃ一年を暮らしていけるのさ」
これだから無知蒙昧な大衆は困る。私がどれだけの苦労をして学閥闘争の中で生き残ってきたことか。
細眼鏡は顎なしの誤情報を真に受けたらしく、舌打ちをして一際強く敷石を蹴った。そのあとつま先をいたわるようにもう片方の軸足のかかとに撫で付けたところを見ると、自分の想定よりも思い切り蹴り過ぎたらしい。まったく間抜けである。
「一体なに手間取ってんだおやじは?」
細眼鏡は首を伸ばして家の方を見やった。「早いとこずらかろうぜ。死んだ成金に何の用事があんだよ。死にそうな庶民を救うのが俺たちの仕事じゃねえか」
庶民を救うとは、このやさぐれた若者も、案外正義感なるものを持ち合わせているのかも知れない。無知蒙昧は無知蒙昧としても。
顎無しは同僚の愚痴を聞いていない。野次馬の女たちを見遣ったり、救急車の窓の中を見遣ったり、無い顎を撫でたりしている。「腹減ったなあ」
一人間の死という荘厳な場面に立ち会っているというのに、何たる不遜、私はこの男の口に煉瓦を押し込んで東京湾に沈めたくなった。
不届きな小市民たちは放っておいて、私は家の中に入ることにした。気になるのは美咲の反応である。
(つづく)
突然ですが質問させてください。
この物語の主人公にはモデルがいますか?
そしてその人物はお元気ですか?
よろしければ教えてください。
主人公のモデルについてのご質問ですが、
それはまあ、最近とみに春めいてきましたね。
モデルですか?今朝の雨は冷えますが。
モデルの有無に関しては、個人情報保護法並びに作品の観点からなにとぞご容赦を。